5
授業の終わりを示すチャイムが校舎内に響いた。それは昼休みを告げる合図だった。クラスメイト達はそれぞれ好きな場所に散らばり、一日の内で最も賑やかな時間が始まった。
学生鞄を手に教室を離れようとした僕を担任が引き留めた。
「帰る前に森野に伝えてきてくれんか」
日直日誌という名の黒いファイルノートがある。クラス人数の関係で月に一度名前順に日直をすることになるのだが、この日当番の森野は朝から取りに来ていない。どうやら昼休みが始まるや否や、教室を出てどこかへ行ったらしい。そこで時間の惜しい先生は比較的森野と親しげな僕にその役割を押し付けたことになる。
僕は仕方なく引き受けることにした。
広い校舎のどこかにいる森野の居場所を探さなくてはならない。だがおおよその見当はつけていた。
そこは昼休みの騒々しい校舎内において特にひとけのない静かな場所だった。活発さを嫌い、仄暗さを求める森野ならばきっとそこを選ぶだろう。
かつて、ある先生がこう言っていたのを思い出す。
「女の子がいたでしょう。彼女、昼休みになるとほぼ毎日、化学講義室に来るんだ」
扉を開けると明かりのついていない空間の片隅に森野はいた。動きはなかった。
秋の薄明りの日差しが室内を柔らかく照らし、彼女のすぐわきの少し開いた窓の側面を強い風が小刻みに打ち付ける。風はまだ温もりを残していた。
僕は彼女のかたわらに寄った。森野は静かに寝息を立てて机の上に伏していた。その長く黒い髪が彼女の前に垂れ下がって寝顔を覆い隠している。深く眠りこけているためか僕が近づいても気づかない。
見ると、首元にあの赤いひもはなかった。どうやら彼女の不眠症はすっかり回復したらしい。
両方の腕は机の上で組まれ、制服の間から白く細い手首が目に入る。淡い日の光を受けて、リストカットの傷跡がくっきりと浮かび上がる。
僕は少し迷いを抱いた。
なぜなら、この状況は森野を殺すのに都合が良いからだ。
この時間、化学講義室に人は来ない。人の多い場所を避けたがる森野が安全地帯に選ぶほどだ。今僕たちがここにいることすら誰も知らない。
僕はかつて森野の手を欲して動いたことがあった。しかし彼女の首は紐を巻くのもナイフを突き立てるのも丁度良い細さだ。それゆえに、手か首か、僕は少し選択に迷った。
持っていた鞄を下ろし、おもむろに一本のナイフを取り出した。
気まぐれに家から持ってきたそれを、彼女の首元にあてた。尚も寝息を立てて安らぐ彼女に目覚める気配はない。
ナイフは磁石のように森野の頸動脈へと吸い付き、微動だにしない。
あとはほんの少しナイフを動かすだけで事は済む。
極限まで集中し、僕はゆっくりと力を込めた。
そして失敗に終わった。
衝撃音が静寂を打ち破り、僕たちの不意を突いたからだ。
音に気付いた森野が目を開ける。
僕はとっさにナイフを彼女の首元から離した。いつのまにか机に置いてあった僕の鞄が床に落ち、いくつかのノートとプリントが飛び出しかけていた。窓から流れ込む風の煽りを受けたらしい。僕はそれらを元に戻しナイフを中に収めた。そうして緩慢な動作で身を起こしたばかりの森野と向き合った。
「今日きみが日直の当番だということを忘れていただろう?」
先生からの伝言を伝えた僕に、森野は大きく息をした後、気だるげにこくりとうなずいた。
「聞こえているなら構わない。とにかく、僕はちゃんと伝えたよ。あとはきみの仕事だ」
「おかしな夢を見たわ」
用事を済まして帰ろうとした僕を引き留めるように彼女の小さな口はそう呟いた。
「どんな夢?」
「私とあなたが殺人事件の被害者を探しに山の奥深くへ行く夢よ……」
森野の言葉に僕は耳を傾けることにした。彼女が自分から話を切り出すのは珍しいことだからだ。
「暗い森を進んでいくと川に行きついたの。そこはちょうど被害者の死体が横たわっていた場所で、私はあなたに言われるまま川の中に横たわった……まるで映画のワンシーンのようにね」
「とても興味深いね」
それは、ひょっとしたらあり得たかもしれない世界の話。なぜだか僕はそう思った。僕は続きを催促した。
「私は川の中であおむけになっていて、傍らにあなたが立っていた。私をただじっと眺めていたの。すると私の体が川底に吸い込まれていったわ……とても息が苦しくなって、暗い闇の中に溺れていったの」
うつむき加減でしゃべる森野の表情は長い髪に隠れて見えない。声のトーンは少し緊張しているようだった。
「気が付くと私は小さなお墓の前に立っていたわ。よく見ると墓には名前が刻まれてあって……」
そこで一旦言葉が止まった。少しためらうかのようだった。
「……そこには『森野夜』と刻まれていたの」
「きみの名前が?」
「そう。変でしょう? 私はこうして生きているのに、自分の名前のついた墓を見ていたなんて。なんの冗談なのかしら」
僕はしばらく考えて言った。
「多分、その墓に眠るのはきみとよく似た別人だよ」
「どうして?」
「感じたままに言っただけだ。深い意味はない」
再び鞄を手にした僕に森野は首を傾げた。
「……もう帰るの? 午後の授業もあるのに」
「今日は珍しくおしゃべりだね。少々やるべき事があるんだ。先生にはもう伝えてある」
森野にそう言い残して僕は講義室を離れた。彼女は僕が首元にナイフを当てていたことを知らない。
廊下を歩きながら僕は自省した。
もちろん最初から森野を殺すつもりはなかった。あのまま頸動脈を切ると僕は大量の返り血を浴びてしまう。急いでこの場から逃げ切ろうとしても学校は昼休みの最中だ。校舎中に散らばった生徒たちと出くわさずに外へ出る自信はない。そんなことは僕もわかりきっていた。
それでも、あの瞬間だけ、僕は一線を踏み越えても構わないと思っていた。魔が差したとも言えるだろう。理由はわからない。ナイフが僕の意思を支配したのかもしれない。あるいは、彼女をまとう雰囲気が僕にそうさせるのかもしれない。
いずれにせよ、人間は時として理性を超えて動く、ということだろう。
僕はそれ以上の思索をやめることにした。もちろん家に帰るつもりはなかった。