俺は多分間違えてない   作:まっuk

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第6話

短剣を振るいながら森の中を進んで行く。

時折、生い茂る葉が切られたお返しとばかりに頬を掠めた。

道なき片に道をつけ…帝国の軍歌にそんな一説があった。

だが、この道なき道を往く、アイグルニヴを目指す行軍は帝国の兵士達による物ではない。

エルフの生き残りが一斉に龍の地を目指して移動する、総勢百人規模の大行列だ。

これだけの大人数が移動すれば、突出する集団と遅れる集団とが出てしまう。

それを休憩の都度調整し何とか全体の足並みを揃えていた。

ここにいるエルフは皆、鍛えられた軍人などではない。

ついこの間までブドウの栽培に従事していた農奴達である。

長距離の移動など今まで経験した事はないだろう。

歩き始めてから数時間。

俺の頭は焦りで一杯になっていた。

 

(遅すぎる…!話が違うじゃないかっ!)

 

エルフ達の行軍は俺が予想していたよりもずっとずっとゆっくりだった。

昨日、あれだけ森の民だから大丈夫だと連呼していた癖に人間の歩みよりも遅い。

これでは短時間で準備できた時間的貯金をすぐに食い潰してしまう。

平原の経路を選択した方が良かったと、後悔しても後の祭りで先に立たない。

もう遅い…八つ当たり気味に短剣を振り回して草を薙ぐ。

俺の二つの耳には先程からありもしない軍馬の鉄蹄の音が聞こえていた。

 

「そんなに険しい顔をしないで下さい。」

 

宥める様な声を上げたのは相変わらず俺に付き纏うアンセヴァ。

後ろを振り返り、後方集団を睨む俺を見て彼女は青い瞳を曇らせた。

彼女だけではない。

回りにいた他のエルフ達も苛立つ俺の事を不安な目で見つめている。

 

「ちょっと不安になっただけだ…。」

 

エルフ達を心配させてはいけない。

そう考え、努めて平静を装うが完璧には焦燥感を消す事ができなかった。

 

「大丈夫ですよあれだけ朝早くに出発したのです。」

 

「…これじゃあ、先が思いやられるけどな。」

 

「ナルア…」

 

アンセヴァのせいではないのに、そんな悪態を突く自分が嫌になってしまう。

エルフ達のゆっくりとした歩みが俺の心を苛立たせる。

昨日の内に余裕をもって準備を終わらせた。

その時間を無駄にしない為にも、日が上ってすぐ出発したのだが俺達をとりまく現実は厳しい。

というのも、集団の速度は長老の家で見積もった物よりも大分遅い動きだったからだ。

原因は明白。

体力が無い子供と足腰が弱っている老人のエルフ達が全体の足取りを乱しているのだ。

子供の方はまだ母親や兄弟が背負ったり、手を引っ張って補助してはいるが、長老位の年齢層にはそんな事をしてくれるエルフはいない。

だからだろうか、遅れている後方集団は老人が多く見受けられる。

青年期のエルフが残っていれば老人達を介護する事もできるのだが、生憎この群れには殆ど青年は残ってない。

そんなどうしようもない状況が俺の心を焦らせる。

 

「今日の移動も終わりです。少し落ち着きましょう。」

 

俺の背中を撫でる少女の優しい声音。

まるで興奮した馬を落ち着かせる様な手付きに、沸騰した頭はいくらか冷静さを取り戻す。

彼女の声に反応し空を仰ぎ見ると森に差し込む溢れ日の先の太陽は地平線に近い。

間もなく空の支配者は太陽から星に変わる頃合いだ。

つまり、今日の移動もこれまでという事。

結局、予定の半分も進めなかった。

 

「夕飯にもなります、何か物をお腹に入れれば心が穏やかになりますよ?」

 

「そうだな…すまない、心配させて。」

 

力なくそう返事をする。

彼女の言う通り、少し休憩すればこの焦りも幾らかは和らぐ筈だ。

…それが現実逃避だとしても。

 

「休憩!」

 

丁度その時、先頭のエルフがそう大声を上げて休憩の合図を出してくれた。

俺はその声を何とも言えない気分で聞くと、ゆっくりと地面に腰を下ろした。

 

───

 

休憩ついでに夕食の時間になる。

そろそろ日も沈むので、まだ明るい内に食べ物を詰め込まなくてはならない。

エルフ達は各々、配られた保存食を食べ始めた。

山林に生える豆か何かを挽いて粉にした物を水に溶かし、薄く焼いて乾燥させた保存食だ。

本当は火をかけて食べる物らしいが、帝国の追跡を考え痕跡を残さない様に火を焚く事を制限している。

だから皆、薄いパン生地モドキを素のまま口に運んでいた。

俺も彼等からもらった薄いでんぷん質を口に頬張る。

…やはりというか味は良くない。

形容するなら、薄く伸ばしたパイの皮からバターの風味を取り除いた食感。

おまけに少し湿っている。

そんな食べ物だ。

人間だからエルフの食事が口に合わないのかとも考えたが、この食べ物の評判は森の民にとっても同じらしく、その内、何人かのエルフが薮の中に入っていき、食べられる木の実なんかを摘んできては森の恵みを堪能していた。

森の中で食べられる物を採集できる。

これは移動経路に森を選んだ数少ない恩恵の一つかもしれない。

その内この不味い保存食が尽きれば、嫌でも現地調達しなければならなくなる。

その時は森の民の知識無しではこの旅の食料問題は解決しえない。

俺はそんな風に考えながら背嚢から持っていた干し肉を取り出し齧り始める。

この大きな干し肉は帝国軍の保存食の一つだ。

そのまま食べても、鍋で茹でてスープとしても利用できる。

口の中で唾液に溶けだした乾燥肉の塩辛さは歩いて大量の汗をかいた体には心地よい味であった。

 

「ナルア、何ですかそれ?」

 

俺が一心不乱に干し肉に歯を立てているとアンセヴァが物珍しそうに赤茶色の加工肉に視線を注いできた。

興味があるらしい。

そう言えばエルフは陸棲生物の肉はあまり食べないと聞いた事がある。

 

「干し肉だよ、鹿だったかな?食べてみる?」

 

「いいでんすか?」

 

「もちろん、ほら」

 

食べれば思わぬカルチャーショックがあるかもしれない。

そう思い、木版の如き肉の一枚板を短剣で削いでアンセヴァの手の平に落としてやった。

 

「ありがとうございます」

 

彼女はそう謝辞を述べると手の平に落とされた小さな肉片をしばし観察する。

 

「はむっ」

 

そして、口を開けて放り込んだ。

 

「ぷっ…!」

 

だが、口に入れた直後、彼女…というかエルフの口には合わなかった様ですぐ干し肉を吐き出した。

 

「なぁんですかっ!これぇっ!獣臭いっ!」

 

半分涙目になりながらアンセヴァは俺に抗議する。

口腔内に入っていた時間はほんの数瞬だったにもかかわらず、彼女の舌は干し肉を拒絶した。

アンセヴァが物欲しそうにこちらを見ていたからあげたんだが…

余計な事をしてしまったらしい。

 

「確かにちょっと生臭いけど、そこまでか?」

 

改めて手元の加工肉を齧る。

人間の俺でも臭くは感じるがこういうのが好きな奴もいるのだ。

エルフと人間では舌の作りが違うのだろうか?

 

「えーっ、無理ですこれっ!人間は良くこんなの食べれますねっ!」

 

顔を歪めるアンセヴァ。

彼女の口から丁寧な言葉使いは消えていた。

 

「ハハッ、エルフに干し肉は無理か」

 

過剰なまでの少女の反応に思わず俺は笑ってしまう。

 

「何で笑うんですかナルアッ!こうなったら、えいっ!」

 

口角を曲げる俺にアンセヴァはそう叫ぶと、手にあった干し肉を奪い取る。

 

「あっおいっ!」

 

すると、一気に肉にかぶりついた。

 

「んぐぅ…ンムゥ…ンンッ…」

 

エルフの少女は左手で鼻を摘まみ臭いを堪え、ゆっくりと干し肉を口の中に詰め込み始めた。

俺が大袈裟に笑った事が対抗心に火を着けてしまった様だ。

 

「何もそんな無理しなくても…」

 

「ンヌッ…ウッ!ウンッ…!」

 

心配する俺を余所に二つの碧眼を潤ませながら、喉の奥へと肉を押し込む。

 

「ん……ちゅ…んちゅ………!」

 

硬い肉の板を柔らかくする為、時折、唾液を染み込ませる様に唇をすぼめた。

意地でも食べてみせるつもりだろうか?

 

「なぁ、笑ったのは謝るから」

 

「んんのはぬまっていへふだはいっ!」

 

謝る俺だが、アンセヴァは口に干し肉を入れたまま唸る。

ナルアは黙っていて下さい。

多分そう言ったのだろう。

涙目ながらキリッとした青い眼に睨まれ、俺はこれ以上何か言うのをやめる事にした。

 

そうやって、格闘する事数分。

 

「どうですかぁ…ナルア、ハァッ、完全に、ハァ…食しましたよ?」

 

息も絶え絶えに干し肉を完食したアンセヴァがそこにはいた。

 

「あぁ、良くやったよ、すごいよ…だから水飲も?」

 

取りあえず、喉を痛めたであろうアンセヴァに水筒を差し出す。

 

「ハァッ…あ、ありがとうございます…」

 

彼女は水筒をひったくると、まるで命の水にありついた様にゴクゴクと水を流し込んだ。

塩と香草をふんだんに使った干し肉はとてつもなく塩辛い。

そんなの一気食いすればこうなるのは火を見るより明らかだ。

これでエルフに干し肉は無理だと学習したに違いない。

だが…そう言えば…

 

「なぁ、アンセヴァ、エルフ達は普段何を食って生活してるんだ?」

 

「え?」

 

「動物性の物は全く摂らないのか?」

 

そんな疑問がふと沸き上がった。

エルフの食性は草食寄りと言えど、人間にこれ程似た生物。

全く動物を食べないという事は無い筈だ。

神征にいたエルフの弓兵達は鳥の餌の様な下等な雑穀を帝国から宛がわれていたから、本来の彼等がどんなものを食べているのか俺は知らない。

だから干し肉を拒絶するアンセヴァを見て、森の民の本来の常食が気になった。

 

「それはですねぇ…」

 

「私から説明しましょう!ナルア・アズナン!」

 

アンセヴァが口を開くよりも早く、男のエルフの声が割りむ。

視線を声の主へと送ると、いつの間にか俺とアンセヴァの二人の側に群で貴重な存在となった青年エルフが近づいていた。

昨日の有力者の中にもいた青年だ。

お互い軽くだが自己紹介もしたが、名前は確かぁ…

 

思い出せない。

 

「キミは…え~と…」

 

「パンテルです。パンテル・キンネムズィです。」

 

名前を言い淀む俺に嫌な顔一つせず青年はパンテル・キンネムズィと名乗る。

 

「あぁ、そうだ、パンテルだ。すまない、名前を忘れてしまって」

 

「いえ、良いんですよ、昨日の話し合いでは私は殆ど何も喋っていませんでしたから。」

 

そう言いながらパンテルはエルフとしては当たり前の容姿端麗な顔をはにかませた。

もし帝都で舞台に立てば数多の人間の役者を追い越して演劇会の天下人になれるだろう。

だが、そんな美青年パンテルを前にアンセヴァは急に黙ってしまう。

彼女の暗い態度は群の中で他のエルフ達との間に深い溝がある事を示していた。

パンテルもそれを理解しているのか、アンセヴァの事など気にも止めず、俺にだけ目を合わせて口を動かし始める。

 

「我々が普段食べる物ですが、豆や山菜、種実類が主です。ですが、貴方が考えているように動物性の食事もします。川で取れた魚や貝、そして…これです!」

 

パンテルは仰々しく、そのタイミングで懐から何かを取り出した。

手に握られた小さな白い丸。

こんなに小さいのは初めて見たが見覚えはある。

 

「これは…卵?」

 

それは小ぶりだが、間違いなく鳥の卵だった。

 

「その通り!人間も卵は食べるでしょう?まぁこれは鶏ではなく鳩の卵ですけどね。私は人間の養鶏を参考に、鳩の飼育繁殖に成功しました。そして、エルフのこの群れに貴重なタンパク源を安定して供給する事に貢献しています。だから神征にも徴兵されずに済んだのですよ。」

 

自慢気に語る好青年。

成る程、人間に支配される中で彼等もまた人間の技術を吸収していったらしい。

眼前のパンテルはエルフに無かった養鳩という文化を開花させ、群に貢献している様だ。

それくらい頭が良いからこそ、徴兵を回避でき、群れの有力者の一人に選ばれたのだろう。

 

「ナルア、私からのお近づきの記しです。差し上げましょう、これも貴重なタンパク源です。」

 

パンテルは感心する俺の心を知ってか知らずか軍服のポケットに鳩の卵を4つ程度忍ばせた。

 

「いいのか、こんな貴重なタンパク源を?」

 

気前良く卵を弾ませる彼に少し悪い気持ちになってしまう。

皆が口当たりの悪いでんぷんの塊を食べる中、俺だけ卵を食すのは気が引けた。

 

「いいんですよ、どうやらそこのアンセヴァが貴方の食事を食べてしまった様ですし、エルフの保存食は味がないでしょう?それに卵はまだあるんです。ほらっ!」

 

そう言うとパンテルは遠くの、皆が荷物を集めて置いてある場所を指差す。

その中には小さなエルフの草の弦を編んだ背嚢に混じって一際丈の大きい木の篭の様な物があった。

 

…中で何かが蠢いている。

まさか…

 

「あれ、鳩の鳥籠かぁっ!」

 

篭の中で羽を懸命に動かしていたのは白と黒の入り交じった鳩であった。

 

「ええ、今朝から私が背負って運んでます。移動中も鳩は卵を産むので食料になりますし、新天地でも鳩の養殖をするつもりです。食料も水も住みかも短剣でさえあるか解らない未知の地では、先立つ物が必要ですからね。だから、この卵については心配ありません。どうぞ手に取り食べて下さい。昨日の内に塩茹でしてありますよ!」

 

「そうか、じゃあ有り難く。」

 

俺はそう言って卵の殻を剥いて口に放り込む。

豊潤な黄身の甘さが俺の味蕾を刺激する。

…美味い。

 

「鳩の卵も結構いけるなっ!」

 

「でしょう?また欲しくなったら声をかけて下さい。すぐにとはいきませんがナルアなら早めに融通しますよ!貴重なタンパク源ですからねっ!ではっ!」

 

パンテルはそう言うと、鳩の世話の為にか木の篭の方へと去っていった。

多少芝居がかってはいたが人当たりの良さそうな青年。

それが、青年パンテルに抱いた第一印象だ。

 

「私、あの人の事が嫌いです。」

 

だが、パンテルが居なくなってボソリとアンセヴァはそう呟く。

 

「パンテルは今みたいに色んな人に媚を売るんです。エルフの皆は勿論、人間の駐在員にも…だから徴兵を免れたんです。きっと…父さんは行ったのに…」

 

恨み言を吐き、遠くのパンテルを睨むアンセヴァ。

彼が徴兵されなかった所に思う所がある様だ。

 

「まぁ、気持ちは解らんでもないが、そういうのは世辺りが良いとも言うんだろ?」

 

卵を貰った恩があるので一応、パンテルをフォローしてみる。

 

「世辺りが良いですか、そうかもしれませんね…」

 

俺の擁護に彼女は否定も肯定もしない。

 

「アンセヴァ…」

 

元気の無い声になった彼女に黙って鳩の卵を差し出す。

彼女は躊躇いがちに卵を受け取り、殻ごと噛み砕いて飲み込んだ。

 

あぁ、エルフはそうやって食べるのね…。

 

───

 

日が完全に沈むとエルフ達はすぐに寝支度に入る。

焚き火を使えればまだまだ起きていられるが、跡を残さない為にも火は焚く事ができず、明かりで闇夜を照らす事は不可能だ。

皆、次の移動に備えて体力を養う必要もあるので夜になれば眠るしかない。

まだ一日が終わったばかりだ。

この旅は先が長い。

明日も日の出と共に行動を開始する予定である。

何時間も歩き疲れたのか、どのエルフも毛布にくるまるとすぐに寝息を立て始めた。

 

「ふぅ…これでいいかな?」

 

俺も寝床を整えると、仰向けになって空を見た。

森の葉の間からチラリと覗く星の輝きはどれも神秘的で美しい。

真っ黒な布の下地に白い石英を散りばめた様な景色。

こういう景色が見えるのも辺境の地ならではだ。

帝都では夜も絶える事なくどこかしらで火が焚かれ、街全体が人工の輝きで充ちている。

住人達は星を見ることを忘れて、眠らない夜を過ごしているのだ。

俺は暫しの間、毛布をかける事も忘れてその幻想的な明かりに魅了されていた。

…そんな時だった。

 

「ナルア、お隣いいですか?」

 

「アンセヴァ…!」

 

アンセヴァがそう言って、返事を待たず俺のすぐそばに横たわった。

ご丁寧に向かい合うように寝そべってくる。

 

「まだ、返事してないんだけど。」

 

「いいじゃないですか、森の夜は冷えます。火も焚けませんから誰かと寄り添って朝を待たないといけません。」

 

「それは、そうだが…。」

 

顔を合わせて隣に佇むエルフの美少女。

お互いの息遣いの感じられる至近距離。

脳は必然的にアンセヴァの存在を意識してしまう。

俺は自然とアンセヴァから距離を取る様に寝床を確保したが、まさか彼女の方からやって来るとは思わなかった。

 

「どうして来たんだ?」

 

「いいじゃないですか、別に…」

 

アンセヴァのやって来た理由を尋ねるも、彼女はその訳を明かさない。

もしかしたら、本当に理由などないのかもしれない。

 

「知ってますか?エルフの風習では三夜、寝床を共にするとその二人は公然の中になるんですよ?」

 

だが、次にアンセヴァの放った言葉に俺は両眉をひそめる。

 

「…アンセヴァ、その話は前に無かった事にした筈だ。また、蒸し返すのか?」

 

少し低く喉を震わせた。

この話が彼女の口から語られるのは二度目、長老のを含めれば三度目。

何故こんなにも執着するのだ、俺に。

 

「ナルアが嫌がるのも解ります。誰も好きでもない人とは一緒にはなりたくないですもんね?私もナルアの事は異性として好きではありません。まだ出会って三日目です。お互いの事もよく知りません。でも、時には妥協も必要だと思います。」

 

「妥協?」

 

「はい、妥協です。ナルアには好きな人はいますか?」

 

…好きな人。

その言葉で真っ先に長い銀髪を持った黒い瞳の少女の姿が連想された。

やはり俺は心のどこかでまだアミズの事を想っている。

聡明でいて、どこか垢抜けているアミズの笑顔。

それがナルア・アズナンの持つ一番の思い出だ。

 

「想い人、いらっしゃる様ですね?では、そこから一歩進んで考えて見て下さい。」

 

アンセヴァは俺の表情から心中を察した様で、歌う様にその美声を響かせた。

 

「想像して…その人の隣にナルアはいますか?」

 

「隣に…?」

 

「えぇ…暖かい家庭を…一家の団欒を想像して、その人は貴方の隣にいますか?」

 

アンセヴァの物言いに俺は虚を突かれた。

 

アミズの隣にいるのは誰だ?

 

少なくとも俺ではない。

彼女を裏切った時からそんな資格はない。

いや、アミズを裏切るずっと前から彼女の隣に俺は居なかった。

少年の時に別れて以来、彼女の隣にいるのはいつも帝国の権力者達。

皇帝、皇子、皇女、法王、政治家、貴族、高級軍人…。

アミズの隣にナルアの入る隙はなく、聖女と俺の関係はどこまで行っても上司と部下。

幼なじみの関係なんてとっくのとうに消えていたし、幼い頃に誓ったアミズの騎士になるという約束も遂に叶う事はなかった。

その席は俺よりも優秀な…文字通りの騎士家系であるリアーツブルの物だった。

釣り合う合わないという論議の前に属する階級が違った。

そんな彼女と俺は一緒になる事ができるか?

考えるまでもない。

答えは否だ。

 

「…いない」

 

だから自然と言葉は漏れていた。

俺の呟きにアンセヴァはニコリと口角を吊り上げる。

 

「私も想いを馳せる人が隣に居る未来を、残念ながら想像する事ができません。でも、今、ナルアの隣には誰がいますか?そして、私の隣には誰がいますか?」

 

暗闇の中に輝く青い瞳。

何故かアンセヴァの碧眼が暗く、深く、濁っている様に見えた。

 

「ねぇ、妥協しましょう?」

 

アンセヴァは透き通った声を吐く。

 

「私も妥協します。」

 

歌う様に声を吐き出す。

 

「いつかはお互い両思いになる筈です。何年かかるか解りませんが、良き妻になってみせましょう。」

 

鳥の音の様な声が耳の奥へと染み込んでくる。

 

「ね、ナル…」

 

「アンセヴァ、それは駄目だ。」

 

だから俺は、彼女の声に溺れる前にハッキリと言葉を発した。

 

「そのキミの思考は誰かに依存したいだけだ。妥協なんかじゃない、逃げているだけだ。妥協と逃避は違うぞアンセヴァ。」

 

森の中に響く俺の声は自分でも驚く位に闇夜の木々に反響する。

 

「何を言っ…」

 

彼女が言い返そうとするが、俺はそんな隙を与えない。

 

「そんなんじゃ、戦場で散った父さんも、熱病で逝った恋人も、神征で死んだ想い人も報われないっ!目を覚ませアンセヴァ!」

 

更に語気を強めて言葉を紡ぐ。

 

「どっどうして、その事を…」

 

彼女の過去を知っている。

その事をアンセヴァは知らない。

俺の発した言葉に彼女は目に見えて動揺した。

 

「悪いが長老から全て聞いた。アンセヴァの過去も、お父さんとの関係も、この群れでの立ち位置も…だから言わせてもらう。逃げる事を止めるんだ!」

 

暗闇に言葉が迸る。

アンセヴァがこの群れで孤立した理由。

それは、父親と禁断の関係にあったからだけではない。

彼女はこうやって依存できる対象を探しては声をかけていたのだろう。

それが三度も悲惨な別れを経験した彼女なりの逃避行動。

だから、孤独になってしまった。

そして、塞ぎ込んでしまった。

そうであるからこそ、他者の温もりに執着する。

執着するから孤立する。

彼女は只、癒されたいだけなのに…。

 

「そうですか…父の事も…昔の事も全部…?」

 

「昨日の小屋で長老から話を聞いた。キミが待っていたあの時間に。」

 

「…だからあの時謝ったんですね?」

 

合点がいった様にアンセヴァは目を細める。

 

「あぁ、すまない。キミにあんな事を言ってしまって…その事を謝りたかったんだ。」

 

「本当にナルアは紳士ですね…じゃあ、懺悔ついでに私の話を聞いてくれますか?」

 

両者横になったまま、星空の下でアンセヴァの独白が始まった。

 

「実は私、嘘ついてました。純潔じゃないんです。」

 

彼女は目を伏せがちに告白する。

 

「…そうか」

 

何となく予想はついていた。

生活を共にする実の父とそういう関係で、純潔を保っていられる筈もないだろう。

おそらく、長老はアンセヴァと彼女の父の話を真に受けていたか、アンセヴァを未亡人にしない為にも敢えて気付かない振りをしていたのだ。

また残酷な真実を一つ多く知ってしまった。

 

「ええ、初めての相手は父さんでした。それも無理矢理です。夜、違和感に気付いたら父さんが私にのしかかっていました。」

 

「えっ?」

 

だが、続くアンセヴァの真実に俺は衝撃を受ける。

長老の話ではアンセヴァと彼女の父は相思相愛の関係だった。

実の子を無理矢理?

それでは話が違う、そんなの虐待だ。

絶句する俺を前にアンセヴァは視線を逸らしながら、真相を暴露する。

 

「父は私の上に跨がりながら何て言ってたと思います?アネージェ、アネージェ…って叫んでました。母の名前です…母さんの名前を叫んでました。」

 

耳を塞ぎたくなる彼女の過去。

聞いていても痛々しいが、この段になってアンセヴァは一点、まるで楽しかった昔の事を思い出す様に声のトーンを変えた。

 

「その日は私は最悪な気分でした。実の父に汚されて、まるで自分まで気持ち悪い物になってしまった感じがしました。でも、その日から父さんは以前の明るさを取り戻していったんです。百年前、母さんを失って以来、父さんはずっと塞ぎ込んでました。でも、私を犯す度に前の明るさを取り戻して…それが、とっても良い事に思えたんです。そしたら気持ち悪さも絶ち消えました。」

 

アンセヴァは泣き始める。

だけど、それと同時に頬は盛り上がって彼女の顔に笑顔を形作った。

彼女は笑いながら泣いていた。

 

「それから、私は母さんに…アネージェに成りきりました。そしてアネージェを演じていく内にまるで最初から私が父さんの恋人だった様に思えてきて、いつの間にか実の父と愛を語る事が幸せな時間に変わっていったんです…でも…」

 

「お父さんが死んだ。そうだな?」

 

そんな親子の爛れた虚像の幸福すら人間は奪い去っていった。

 

「…はい、そうです。人間は私の想い人を二人奪っただけでなく最後に父さんまで奪っていきました。」

 

アンセヴァの口元から笑みが完全に消えた。

人間のせいで彼女の人生はここまで歪んでしまったのだ。

 

「だから私は考えたんです。私も死ねばあっちの世界で父さんと母さんとまた一緒に暮らせるかもしれないって…だからあの日、夜襲に参加する事にしまた。父さんも母さんも戦いの中で死にました。だからきっと戦争神セムレグに導かれあの世にいったのでしょう。ならば、私も戦いで死ななければ両親と同じ所にいけません。その為に参加したんです。でもっ…それを貴方が邪魔をした!」

 

涙を湛えた相貌を改めてこちらに向ける。

初めてアンセヴァから向けられる明確な敵意。

 

「だから…責任を取って下さい!ナルアッ!貴方のせいで私はまだこうして生きています!貴方はこの責任をとる必要があるんです!」

 

睨んでいるのか、祈っているのか、嘆願しているのか…。

そんなよく解らない視線を俺の顔へと射抜く様にぶつけてくるアンセヴァ。

 

…かけるべき言葉は決まっていた。

 

「アンセヴァ…俺はキミの夫になる事はできない。だが、優しくする事はできる。それで責任をとろう。」

 

一拍おいて、アンセヴァを包むように抱擁する。

アンセヴァはすんなりと俺の体温を受け入れる。

 

「汗臭いです…ナルア…」

 

そう言って俺の胸の中で泣きじゃくる141歳の少女。

闇夜の中で聞こえるのは二人の心音だけだった。

 

 

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