『カナヲが忘れてしまって・・・届けてもらえますか?』
暁歩はしのぶに頼まれて、水の入った瓢箪と手拭いを持って、蝶屋敷の敷地にある裏山を登っていた。
今、この裏山で鍛錬をしているカナヲだが、普段持って行っているこの二つを今日は忘れてしまったらしい。今の時期はそれほど暑くもないから、脱水症状に陥ることはないだろう。しかし、鍛錬で疲れている身体にはいずれも必要なものだ。
それを届けるために、暁歩は裏山でカナヲの姿を探す。やがて、青竹が生い茂る一帯にカナヲの姿を見つけた。
カナヲは、軽い足取りで地面を蹴り、さらに竹を足掛かりにして上へ上へと跳んでいく。その時、カナヲが踏み台にした竹がしなると、竹の葉がひらひらと舞い落ちてくる。やがて青竹の頂点まで跳んだカナヲは、地面へと下りながら刀を振り、舞い落ちる竹の葉を斬っていく。そして、カナヲが地に足を付けた時には、竹の葉はすべて両断されていた。
(すごいな・・・)
そう思わずにはいられない。
カナヲは視力が優れていると聞いている。先ほど舞っていた竹の葉は百に近かっただろうに、それらすべてを余すことなく両断しているのは、その動体視力の賜物であろう。
また、しなる竹を蹴って上へ上へと向かうその身軽さは、文字通り見上げたものだ。暁歩も木から木へと飛び移り上を目指す修業はしていたが、竹はしなりやすいため力加減が難しく、難易度がより高い。それを涼しい顔でやってのけるカナヲが、暁歩は本当にすごいと思った。
「カナヲさん」
そんな感動もほどほどに、暁歩が声を掛ける。ゆっくりとカナヲは暁歩の方を向いた。
「しのぶさんから、お忘れ物だそうです。どうぞ」
そう言って手拭いと瓢箪を渡すと、カナヲはそれを手に取る。
それで暁歩の用事も済んだので、長居は不要と思い暁歩は踵を返して山を下りようとする。
「あの・・・」
「?」
だが、すぐにカナヲに呼び止められて、暁歩は足を止める。
振り返ってみると、何かを言い淀むのように視線を左右に巡らせて、やがて俯いてしまう。
「・・・何でもない」
「そうですか・・・では」
結局カナヲが何を言おうとしたかは分からなかったが、暁歩は下山することにした。
しかしこれは、蝶屋敷に来たばかりの時と比べれば大きな進歩でもある。話しかけてもにっこり笑うだけで返事をしなかったのに、最近では呼びかけには最低限の言葉だけでも応じ、その上自分から話しかけてきたのだ。
そんなここ最近での変わり具合を見ると、何かがあったんだろうとは思う。
思い当たるのは、炭治郎たちが無限列車の任務へ発った日。暁歩がカナヲに話しかけてずっこけた時だ。あれ以来、カナヲに少しずつ変化がみられるような気がした。しのぶはその変化の内容を知っているらしいが、それを深くは訊けない。
何にせよ、カナヲがこうして言葉を掛けてくれたり表情に変化が生まれたりすることは、喜ばしいことだ。具体的にどんな経緯があったのかは知らないが、それは今すぐ知るべきことではない。焦らずゆっくり知っていこうと、暁歩はカナヲについてはゆったり構えることにした。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
その日の昼食の後、カナヲは食休みをするようしのぶから言われ、庭でシャボン玉を吹いていた。ぷくっと膨らんだ泡沫は、風に乗って空へと舞い上がり、屋根まで飛んでやがて弾ける。
「・・・・・・」
儚い印象のあるシャボン玉を、カナヲは静かに微笑みながら見届けて、また息を吹いてシャボン玉を飛ばす。
暁歩は調剤室へ戻ろうと縁側を歩いていたが、その様子が気になってふと足を止めた。
シャボン玉は、自分が幼い頃に遊んでいた記憶があるが、最近は全く吹いていない。それでも、シャボン玉がふわふわと空に浮かんでいく様は、なぜだか気になるし、面白く感じる。
そして少し気になったのが、カナヲの笑みが以前と少し変わったようなところだ。感情が読めないような笑みだったが、今は笑みの中に感情が宿っているように、彩りを感じ取れるような気がした。
「カナヲに何か用事が?」
そこで横合いから、しのぶに声を掛けられた。どうもカナヲの方を見ていることを不審に思ったらしい。
「いえ、用事というわけではないですが・・・」
「?」
「ただ、少しカナヲさんが気になっていたと言いますか・・・」
暁歩が告げると、ふわっとしのぶの空気が少し変わったような気がした。
「以前も気になっていたようですけど、もしかして気があるんですか?」
「そう言うわけじゃないです」
からかうような口ぶりに暁歩は首を振る。ぶっちゃけ暁歩が本当に気がある人は今目の前にいるのだが、そんなことは口が裂けても言えない。
「ここ最近、カナヲさんは表情に彩りがついてきたと言いますか、何だかいい方向に変わったと思いまして」
「暁歩さんもそう思いますか?」
しのぶは、暁歩に対して何か親近感を抱くかのような口ぶりを見せる。
気になったのでしのぶを見ると、シャボン玉を吹くカナヲを愛しむかのように眺めていた。
「そうですね・・・確かにあの子は、最近になって随分と変わったと私も思います」
幼少期からカナヲを見てきたしのぶからすれば、確かに大きく変わっていると思う。
最初は人から指示をされなければ何もできない子だったのに、今や(無断とはいえ)自ら鬼殺隊の道へ進み、さらには表情や言葉にまで大分変化が表れてきている。実に良い兆候だ。
「もっと、ちゃんとした家庭に生まれていれば・・・正しく成長できたのかもしれないのですけどね・・・」
カナヲの生い立ちは、聞くだけで胸が痛くなるほどに辛い。
だが、しのぶの言う通りで、もっとまともな親の下に生まれていれば、心を閉ざしたり、鬼狩りの任について命懸けの戦場に出張ることもなかっただろう。そして今頃は、可愛らしい乙女のまま青春を謳歌していたのかもしれない。
「今更そんなことを言っても、どうにもならないんですけどね」
自嘲気味に言うしのぶに申し訳ないが、その通りだと暁歩は思う。誰がどこに生まれるかなんて誰にも決められないし、それを後から悔やんだところでどうしようもない。
「だからこそ、しのぶさんはカナヲさんを受け入れたのでは?」
出自はどうしようもないからこそ、その後で苦しんでいるカナヲに、しのぶと今は亡きカナエは手を差し伸べた。
暁歩が訊ねると、しのぶも頷く。
「ええ。あのままでは、カナヲはより辛い人生になってしまうだろうと思いましたから・・・」
あの橋で縛られたカナヲを見かけた時、ただ事じゃないことはすぐわかった。その時真っ先に動いたのはカナエの方で、しのぶは『優しい姉らしい』と思いながら大人しく続いたのだ。
「今までが辛かったのなら、この先愛情を注げばいいんです。カナヲさんの辛い過去は消えませんが、だからこれからは、一緒にいて大切にしてあげれば十分ですよ」
幼い時分に家族を喪った、きよたちを支えたいと思うように。同じようにカナヲを見守り、愛情を注ぐのが一番だ。特に、目の前で家族を喪ったしのぶには、その大切さが分かっていた。
暁歩がそう告げると、しのぶは少しだけ間を開けた後にぽつりと告げる。
「・・・そうですね。できる限り、大切にしますよ」
その時、暁歩はしのぶの語調が少しだけ暗いものになったのを敏く感じ取った。だが、その顔を見てもいつもと同じ微笑みで、心の底が窺い知れない。
そしてその表情を見た瞬間、暁歩の頭の中で、火花が散るような『予感』が働いた。
「ところで、カナヲが最近になって変わった理由なんですけどね」
そこでしのぶは、話題を戻すように暁歩の方を向いた。まるで、それまでの話題から逸らすかのように暁歩は感じたが、暁歩はひとまず話を聞く。
「以前、その理由は暁歩さんにもお伝えしたかと思うんですけれど?」
「・・・あの、『らしくなった』って話ですか?」
「ええ。それです」
最初にカナヲの様子がおかしいと気づいた日、カナヲに話を聞いたしのぶは首尾をそう伝えた。しかしながら、それだけでは暁歩も何があったのかは分からない。
「あの意味、分かりました?」
「・・・ようやく女の子らしくなった、といった感じですか?」
「中らずと雖も遠からず、ですね」
中々もったいぶるようなしのぶの言い方。
暁歩も頭をひねるが、確かにカナヲはここ最近で変わってきている。それが女の子らしくなったという意味で間違ってはいないだろうが、まだ他の要因があるということ。それが何なのかを頭を働かせて突き詰めるが、どうにも思いつかない。
「思い当たりませんか?」
「・・・ええ、まあ」
しのぶに問われるが、やはりこれといった結論が見えてこない。
曖昧に笑って首を振ると、何故かしのぶは呆れたような息を吐いた。
「暁歩さんって、意外と抜けているところがあるんですね」
「え、何で急に俺が悪いようになってるんですか・・・?」
「・・・暁歩さんも、まだまだですね」
急に評価が下がってしまって困惑する暁歩だが、しのぶは相変わらず微笑んでいて全く考えが読めない。
このままでは自分の評価もいずれ地に落ちてしまうのでは、と焦りを覚えた暁歩はいよいよ知恵熱が出そうになるほど考え抜くが、その様子にしのぶはクスクスと可笑しそうにする。悩んでいる様子を楽しんでいるようだった。
「あの、すみません・・・」
そこへ声を掛けてきたのはきよだった。暁歩としのぶが振り向くと、きよは暁歩に話しかけてくる。
「ちょっとだけ手伝ってほしいことがあるんですが、いいですか?」
「よし、分かった」
暁歩が頷くと、少しだけきよは急ぐように暁歩の手を引いて病室の方へと向かう。
その様子を見たしのぶは、少しだけ寂しげな気持ちになる。
きよから頼られるということは、それだけ暁歩も力や知識を身に付けているということであり、成長しているという意味でもある。
だが、なぜかその様子を見ていると少しだけ、しのぶは寂しくなってしまう。
カナヲもそうだが、暁歩が成長した時は嬉しく思ったものなのに、どうしてか暁歩が成長する姿には寂しさを覚えてしまう。
同時に、先ほどきよに手を引かれていたのを見た時は、なぜか心の中でもやっとした気持ちが少しだけ生まれた。
「・・・師範?」
そこで、先ほどまでシャボン玉を吹いていたカナヲが話しかけてきた。
話しかけられて、しのぶは一旦気持ちを切り替えてカナヲの方を向く。
「何、カナヲ?」
「これからまた、裏山で鍛錬をしてきますので・・・」
「ええ、分かったわ」
そうしてカナヲは、日輪刀を持って屋敷を出る。
それを見送りながらしのぶは、深く長く息を吐いて、自分の中に一瞬過ぎった奇妙な感情を吐き出そうとする。けれどその気持ちは、薄れはしたものの、完全に心の中からは消えはしなかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「炭治郎くん、熱が高いって?」
きよに連れられて来たのは、炭治郎たちがいる病室。今は善逸と伊之助は用があって外へ出ているらしく、いるのは炭治郎だけだった。
ここに来るまでに事の顛末を聞いた暁歩は、寝台の傍に腰掛けてそう訊ねる。
「すみませんが、どうかこのことはしのぶさんには・・・」
「いや、でもそれが続いてるってなるとね・・・」
病床の上で炭治郎は頭を下げるが、暁歩は素直に『分かった』と答えられない。
聞けば、検温していたきよが、炭治郎がここ数日三八度の高熱が続いているというのだ。しかし、当の炭治郎本人は全く不調を感じず、むしろ調子が良いとまで言う。それでもきよは炭治郎が心配で、しのぶに相談しようとしたのだが炭治郎が止めた。
「しのぶさんにはこれ以上心配をさせたくなくて・・・」
「なので、暁歩さん・・・炭治郎さんのことを診てもらえませんか」
「・・・分かった」
そうは言っても心配だったきよは、まずは暁歩に診てもらおうと思ったらしい。
炭治郎も、本当に異常がないことを伝えるためなのか、暁歩の診察には応じてくれた。だが、触診の結果異常はなく、血圧や脈拍にも問題はない。だが、体温はやはり三八度と高く、改めて症状を聞いてみたがやはり異常はないとのことだ。
「・・・確かに基礎体温が高いだけですね・・・」
本当に体温以外問題がないことを確認して、一先ず暁歩は安心する。きよと炭治郎もホッとしていた。
だが、なぜ急に炭治郎の基礎体温が上がったのか、という疑問は残る。
「何か特別なことをしたようなことはありますか?」
「いえ、特には・・・でも、一つ」
炭治郎が何か思い当たるように言うと、暁歩ときよは炭治郎の顔を見る。
「ヒノカミ神楽って言う、ウチに代々伝わる舞があるんですけど、それで使う呼吸を使い始めたことですね」
「「ヒノカミ神楽・・・?」」
暁歩ときよは知らなかったが、炭治郎が言うには、その呼吸とはどれだけ動いても疲れにくく、また寒くならない呼吸法だと言う。それは鬼殺隊で使う全集中の呼吸と似通っている点があるが、寒くならない呼吸をするだけで基礎体温がそこまで上がるかと疑問はあった。
「『ヒノカミ神楽』は分からないですが・・・まあ、こちらでも少し調べてみます」
「分かりました・・・」
ヒノカミ神楽を知らないことに、炭治郎は地味に凹んでいるらしい。それは聞いたこともなかったが、暁歩は逆に申し訳なくなる。
「しのぶさんにも伝えないでおきますが、少しでも身体の調子が悪くなったら言ってください」
「はい。ありがとうございます」
炭治郎が頭を下げると、暁歩は軽く手を振って病室を出る。きよも後に続いた。そして病室を出ると、きよに話しかける。
「俺はちょっと資料を読み直して、炭治郎くんみたいな症状がないかを確かめるよ」
「お願いしますね・・・」
きよはまだ心配が止まらないのか、不安そうな表情と声をする。きよだけでなく、すみとなほが兄のように懐いている炭治郎の身体に異変とあって、気が落ち着かないようだ。
「一番いいのはしのぶさんに相談することなんだけどね・・・あの人の知識は俺以上だし」
「でも、しのぶ様には迷惑を掛けたくないって・・・」
柱であるしのぶに、症状が『体温が高すぎる』というだけの異変を相談して手を煩わせるのも嫌だったのだろう。一先ず暁歩が診て何もないことだけは分かったが、この先炭治郎の体調には気を付けておくようにしなければならない。
それをきよに伝えて、暁歩は調剤室へと向かった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
その日の夕飯時。
しのぶが食卓にやってくると、暁歩の姿が無かった。
「あら、暁歩さんは?」
「まだ来ていないですね・・・」
なほに訊くが、首を横に振る。大体自分が来る頃には暁歩も食卓にいて、手伝っているはずだ。それがほとんど毎日だったから、逆にいないのを不思議に思う。
そこでしのぶに話しかけたのは、きよだった。
「暁歩さん、資料を読み直してるって言ってました」
「資料?」
「えっと・・・お薬についての」
しのぶに問われて、きよは極力嘘が見えないように誤魔化す。炭治郎からは、しのぶには言わないようにと口止めされているのをすんでのところで思い出した。
結局暁歩は、食卓に料理が並ぶまで姿を見せなかった。夕食が要らないという話は、作っていたアオイも聞いていなかったらしく、暁歩の分も用意されている。
「勉強熱心なのは良いですけど、時間はちゃんと守ってもらわないとですね」
そう言ってしのぶは、暁歩を呼びに行くことにした。アオイたちには先に食べておくように言っておく。
そして、調剤室に暁歩を呼びに行くしのぶは、胸の奥が少しざわついていた。
(心配ですね・・・)
何かに打ち込むのは良いが、寝食を忘れてまで没頭するのは少しいただけない。医療に携わるしのぶだから言えるし、自分もまた任務や研究が続いて徹夜をしてしまうこともあるが、それでも睡眠と食事はちゃんと摂らなければと思っている。それが一番の回復手段だと分かっているからだ。
だから、暁歩が今も資料を見返すことに集中しているのが、身体を壊してしまわないかと不安だ。
「・・・・・・」
足を止めて、陽が落ち暗くなった外を見る。
暁歩を心配していることに変わりはないが、その心配の度合いが変わっているように自分では思う。
蝶屋敷で暮らしている人を、しのぶは本当の家族のように思っている。だから、家族同然である暁歩を不安に思うのは当然だが、暁歩に対するその気持ちは、どこか家族に向ける物とは少し違うようにも感じた。
自分でもどういうことか分からないが、暁歩に対する気持ちの意味というより深さが、変わりつつあった。
しかし今は、そんな自分の中での心境の変化よりも暁歩を呼びに行くことだ。再び歩き出して、調剤室へと向かう。
「暁歩さん?」
部屋の戸を叩く。
『はい』と返事がしたので、少なくとも意識不明ではないらしい。しのぶが戸を開けると、暁歩は窓際の机で資料を読んでいるところだった。随分と多くの資料を読んでいたらしく、机にはいくつもの書籍が積まれていた。
「何ですか?」
「もう夕食の時間ですよ?」
振り向いて暁歩が訊ねたので、しのぶは壁に掛かった時計を指差す。そう言われて暁歩が時計を見ると、時刻は既に夕食の時刻を過ぎているのに気付いた。直後、暁歩は思わず声を上げる。
「すみませんでした、すぐ行きます」
「随分、熱心に資料を読んでいたようですね?」
資料をせっせと片付け始める暁歩に話しかけると、暁歩は頷く。
「ちょっと自分には分からないことだったもので、西洋の文献まで探してしまいました」
「あら。それは・・・きよも言っていましたが、何かあったのかしら?」
「ええ。ちょっと炭治郎くんが・・・あ」
片付けながらしのぶに訊かれて、暁歩は秘密にしなければならないということを失念し、正直に答えかける。これは炭治郎から口止めされていたのだった。
「・・・いえ、何でもないです」
「炭治郎くんがどうしたんですか? ん?」
咄嗟に隠そうとしたが、しのぶは何でもないことにしてくれなかった。
心なしか、しのぶの言葉に若干の苛立ちというか不満げな感情が乗せられているような気がした。いつも浮かべている微笑みに恐ろしさを感じるようになってしまい、暁歩の背中から汗が噴き出す。
「暁歩さん?」
歩み寄ってきて、笑顔でもう一度名前を告げるしのぶ。
猛烈に嫌な予感がして視線を逸らしてしまう。
病人の炭治郎、さらに薬剤を調合する暁歩が文献を調べているとなれば、何らかの症状に関するものである可能性は明らかだ。
それは屋敷の主であるしのぶにとっても他人事ではないし、それを暁歩は隠そうとしている。
「何か隠していませんか~?」
◆ ◆
暁歩を呼びに行ったしのぶまで戻ってこない。
残っていたアオイたちは言われた通り夕飯を先に食べているが、二人して帰ってこなくなると不安になってくる。
「しのぶ様まで、どうしたんでしょうか・・・」
「もしかして急に任務でもあったのかもしれません・・・」
鬼殺隊に勤めていると、唐突に任務が入ることが多々ある。柱となればなおさらで、緊急招集がかかる場合もしばしば、夕食の最中に指令が来ることもあった。
だが、急な任務が入るにしろ、しのぶはそう言う時は必ず皆に一言言ってくれる。それもないとなれば誰もが気になった。
「・・・少し見てくる」
そんな疑問を抱いたアオイは、立ち上がって食卓を出る。向かうは、しのぶが行ったであろう暁歩がいる調剤室だ。そこへいなければ任務の可能性が高い。
「――――?」
「―――、――――――」
二人分の話し声が聞こえてくる。どうやらしのぶも屋敷にいるようだ。
しかし、どうもあまり平穏ではないような感じの声だ。その声に疑問を抱きつつ、少し用心しながらアオイが廊下の角を曲がると。
「本当にすみません・・・」
「私は怒っているわけではないのですよー?ただ理由を説明してほしいだけなんですよねー」
調剤室の前で土下座する暁歩と、その前に仁王立ちするしのぶの姿があった。
その平穏ならぬ異様な光景に、思わず掛けようとした声を飲み込み、身体を引っ込めて物陰から様子を窺うアオイ。
(え、なんでこんなことに・・・しのぶ様と暁歩さんが喧嘩してる・・・!?)
そして困惑。二人は仲が悪そうな様子もなかったのに、突然喧嘩など始めたものだから驚きだ。状況を見る限り、暁歩が何かしのぶにとって落ち度のあることをしてしまったらしいが、いまいち状況が掴めない。
もっとよく聞いてみようと、アオイは耳を澄ます。
「どうして私に言ってくれなかったんですか?」
「それは・・・本人に口止めされて・・・」
「それでもそういう大事なことは私に言ってくださいと言ったはずなんですけどねー?」
話を途中から聞いているので、アオイは断片的に聞こえてくる言葉でしか詳細が掴めない。それでもしのぶが怒っているのだけは分かった。
「私は悲しいですよ。暁歩さんがそういう人だったなんて」
「それは・・・すみませんとしか・・・」
悲しい、という言葉にアオイは『ん?』と眉を顰める。
「暁歩さんだけの問題ではないですし、そういうことは私に伝えてほしかったです」
「はい、仰る通りで・・・」
「それとも、暁歩さんはそんなに私が信用できないと?」
「いえ、そんなことは・・・」
事の顛末がはっきりと見えないが、アオイは自分なりに考えようとする。
何らかの過ちを犯したのは暁歩の方だ。それでいて、それはしのぶにとっても大切なことであり、暁歩一人の問題ではないということ。特にしのぶがそれなりに傷つくようなこととなると、アオイは少し首を傾げる。
そしてアオイから見るに、しのぶと暁歩は蝶屋敷では結構一緒にいるところを見かけている。それはしのぶはもちろん、暁歩も大分医療に詳しくなってきたから、同じ段階にいる者同士、というだけでない男女の仲のようなところもある。
そんな二人の諍いごととなれば、おのずと答えは見えてきた。
(まさか・・・?)
あらぬところで作用するアオイの勘違い。頭の中に『う』から始まる三文字が浮かんできた。
二人に気付かれないようにその場を離れ、食卓へと戻る。
「あ、アオイさん。どうでした?」
食事を続けていたすみが訊ねるが、アオイは息を整えて、神妙な面持ちで告げた。
「・・・修羅場よ」
『!?』
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「つまり炭治郎くんの体温が高いことは、二人は知っていて、それで私には言わないようになっていたと?」
「「はい」」
場所を移して、居間のしのぶの前には、暁歩ときよが正座をしていた。口止めが利かなくなってしまい、暁歩は心の中で炭治郎に謝る。
アオイの発言に驚いた一同は慌ててしのぶと暁歩の下へと行き、状況をいち早く察したきよが止めに入った。その際、アオイはなぜか猛烈に恥ずかしそうに顔を覆っていたが、暁歩としのぶはその真意に気付いていない。
「で?」
「私が検温で最初に気付いたんですけど、炭治郎さんはしのぶ様には内緒にしてほしいって言ってたので・・・でも放っておけないと思って暁歩さんに頼んだんです・・・」
「俺もそう言われて診察したんですが、確かに体温が高いだけで、他には問題がありませんでした・・・」
先ほどとは違い、落ち着いて説明をする暁歩ときよ。だが、しのぶは笑みを保ったまま追及してくるので、二人は心の中で委縮している。
「患者にどこか問題があるならすぐに言うようにと、そう教えたはずなんですけど?」
「「おっしゃる通りです」」
「いくら本人が良いと言って、身体に問題がなくても、些細な疑問でもあれば私に報告するようにと、言ったはずなんですけどねー?」
「「返す言葉もございません」」
怒られて、頭が上がらない暁歩ときよ。
最後にしのぶは、短く浅く息を吐く。
「・・・まあ、炭治郎くんも自分のせいであなたたちが怒られたと知ったら落ち込むでしょうし、本人には聞かないでおきます」
しのぶの怒っている様子が無くなったが、それでも油断はせず暁歩ときよは顔を上げる。
するとしのぶは、暁歩に顔を向けた。
「炭治郎くんの身体、本当に問題はなかったのですか?」
「はい・・・血圧や心音、脈なども。触診にも異常はなかったです。基礎体温が上がっているということだけで」
「なるほど・・・それで暁歩さんは資料を読んでいたと」
すべてに納得がいった、という様子でしのぶが頷く。
「・・・次からは、このようなことが無いようにしてくださいね」
「「分かりました」」
しのぶが締めくくると、暁歩ときよは深く頷く。そこでしのぶは二人を解放し、夕食にすることにした。特にしのぶと暁歩は、まだ料理に手を付けていないので少し空腹を覚えている。
(まさか私に秘密とは・・・)
前を行く暁歩ときよを見ながら、しのぶはふと思う。
炭治郎の件は分かったし、『体温が高い』というだけで柱であるしのぶに心配を掛けるのを避けただろうことも窺える。さらにしのぶも信頼している暁歩が診た結果問題ないとのことだったから、これに関しては既に納得をしていた。
だが、それでも、暁歩ときよがこのことを自分に秘密にしていた点に少しだけむっとしてしまう。それはしのぶが先ほど言った、怪我人にちょっとした違和感があればすぐに報告するように、と言っていたのもある。それとは別の要因で、しのぶの心には蟠りが生まれていた。
(・・・自分の心が分からなくなる日が来るなんて)
その蟠りが生まれる理由が、しのぶ自身で分からない。
信じていた暁歩に裏切られた、という気持ちはない。暁歩も露見した際は必死で謝っていたし、診察をして何も問題は無いという結果の上だから、根拠のない判断とは違うのでその点に関して文句はない。
では自分は、一体何に対して蟠りを感じているのだろう。
分かることと言えば、その蟠りは、今日の昼過ぎにきよに手を引かれている暁歩を見た時と同じような感じがするという点。
自分が除け者にされているような感じだからか。いや、それとは少し違う気がする。
ここ最近になって、どうにも自分の中で、抱いたことのない感情が芽生えつつあるように自分では思う。
「しのぶさん、どうかしましたか?」
「・・・いえ、何でもないですよ」
表情がまた少し思い詰めたような感じになっていたところを心配し、暁歩が声を掛けてくる。
さっき感じていた蟠りも、こうして暁歩から声を掛けられると感じなくなる。
この奇妙な性質を見せる蟠りは、一体何なのだろう。
しのぶは、自分で自分の気持ちを把握しきれずに、食卓へと足を踏み入れた。
≪おまけ≫
暁歩(しのぶさんに隠し事は危険だし、これからはもうしないがいいね・・・)
きよ(そうですね・・・)
しのぶ「何か言いましたか?」
暁歩「いえ、何でもないです!」
きよ(計画倒れです・・・)