蝶屋敷の薬剤師   作:プロッター

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第2話:蝶屋敷

 『胡蝶しのぶ』という人物については、暁歩も知っている。

 鬼殺隊で九人しかいない最も上の階級・柱に就き、その中で唯一鬼の頸を斬れない剣士。

 だが、薬学に非常に精通しており、鬼を殺す毒の開発にも成功した稀有な人材。蝶屋敷のこともあることから、鬼殺隊でも重要な存在だ。

 それでも知っているのはここまで。性格や、鬼殺隊に入った経緯など、内面に関しては暁歩も知らない。強いて言うなら、鬼のせいで家族を喪った子供たちを受け入れるほどに心が広く、優しい性格だろうか。

 鬼殺隊に属しているのは、大半が鬼によって家族を喪い、復讐を遂げるため、あるいは他の人に悲しい思いをさせないために鬼と戦う決意を抱いた者だ。

 とすれば、しのぶもまた、過去に大切な誰かを喪っているのかもしれない。

 だとしても、そこへ簡単に踏み込むことは許されない。それはまさに、人の心に負った傷を抉るような所業だから、絶対にあってはならないことだ。

 

―――――――――

 

 そんな感じで暁歩は、今日一日で学んだことを日誌にまとめている。

 しのぶやアオイとの顔合わせが終わり、時間も流れて夕刻になった今は割り当てられた私室にいる。調剤室と比べると少し狭いが、それでも一人で生活をするには十分だ。

 まだこの屋敷で挨拶ができていない人はいるが、外へ出ていたり隊士の治療で忙しいので、一堂に会する夕食の時でいいとのことだ。それまでは待機となった結果、調剤室で薬種や資料を確認し、ここで日誌を書いている。

 

「・・・ふぅ」

 

 日誌を書き終えて、息を吐く。

 ここでちゃんとやっていけるかはまだ分からない。今日はまだこの屋敷について説明を受けただけで、実際に治療に携わったり調剤をするのは明日からだから、全てはそこからだ。

 けれど、迷う暇はない。その暇で、知識を身に付けていくべきだ。薬学の知識はあっても、医療行為に関してはまだ知らないことがある。それに失敗しては、ここに身を置いてもらえるようにしてくれた他の人に示しがつかない。

 そんな決意が固まったところで、障子戸が軽く叩かれた。

 

『ごめんください』

「どうぞ」

 

 外から聞こえたのは、しのぶやアオイとは違う幼げな少女の声。だが、部屋が見られて困る有様でもないので、すぐに応えた。

 障子戸を開けて姿を見せたのは、三人の少女。三人とも目が小さくて、髪の色も顔立ちも、ともすれば背丈まで同じではないか思うほど似たり寄ったりだ。しかし髪型は三人とも違い、髪につけている蝶の羽の髪飾りや服の帯の色もまた違う。

 三人の少女は、おかっぱの子が寺内(てらうち)きよ、おさげの子が中原(なかはら)すみ、三つ編みの子が高田(たかだ)なほと名乗った。なまじ顔立ちが似ているので覚えるのに苦労しそうだが、同居人の名前は絶対に覚えようと思う。

 

「何か御用でしょうか?」

「もうすぐ夕食ですので、お呼びしようかと」

 

 きよに言われて、外を見ると既に陽は沈み、星もちらほらと見え始めていた。暁歩は頷いて立ち上がる。

 

「すみません、手伝った方が良かったのかもしれませんけれど・・・」

「いえいえ、そこまで気にしなくて大丈夫ですよ」

 

 食卓に一緒に行く途中で謝ると、すみが笑って手を横に振る。きよとなほも同意見らしく、何て良い子たちなんだろうと暁歩は内心で感動する。それでも、次手伝える時は手伝おうと決めた。

 すると、なほが訊ねてくる。

 

「暁歩さんは薬剤師として来たって聞いたんですけど、お薬に詳しいんですか?」

「ええ、まあ。実家が薬屋だったので、父からも教わっていました」

「すごいですね~!」

 

 屈託のない表情で褒めてくるのが暁歩は微笑ましい反面、胸も痛くなる。

 実家が薬屋だったことも、父から薬について教わっていたのも本当だが、その実家の薬屋はもうなくなっているのだ。

 

「暁歩さんを連れてきました~」

 

 食堂の戸を開けると、料理を作っていたアオイに向けてきよが伝える。

 食堂には、意外にもハイカラな食卓(現代で言うテーブル)が据えられていた。その食卓を囲むように椅子が並べられており、その内の一つには暁歩もまだ挨拶をしていない少女が座っている。

 長い黒髪を、しのぶが着けているものと同じ程度の大きさの蝶の髪飾りで、右の側頭部で束ねている。桃色の袴を着ていて、ゆったりとした微笑を浮かべている。しかし、入ってきた暁歩やきよたちにはこれっぽちも興味を示しておらず、ぼうっと食卓の上を眺めているだけだ。

 

「こんばんは」

 

 だが、この屋敷で世話になる以上、挨拶をしなければならないと思い、少女の下へと歩み寄る。話しかけると、一応は暁歩のことを見てくれたが、口を開こうとはしない。

 

「今日からここでお世話になります、佐薙暁歩と言います。どうぞよろしく」

 

 自己紹介をして、頭を下げる。

 

「・・・」

 

 だが、少女はただの一言も発しない。

 顔を上げて視線を合わせても、一切変わらない笑みを浮かべたままで意思疎通が全くできない。

 

「・・・えーっと」

「暁歩さん、ちょっと・・・」

 

 戸惑っていると、後ろからきよたちに手を引かれ、名乗らない少女との距離が開く。

 

「あの方・・・栗花落(つゆり)カナヲ様は、ああいった感じの方なんです」

「?」

「えっと、大人しい方なんです。すごく」

 

 きよとすみに耳打ちされて、暁歩はカナヲを見返す。先ほどと同じく食卓の上を眺めているが、大人しいにせよ挨拶ぐらいは返してほしかった。けれど、人にはそれぞれ事情があるだろうし、下手に固執せず『分かりました』と納得しておく。

 

「あら、美味しそうな香り」

 

 そして、しのぶが食堂に入ってくる。前もってアオイから、この屋敷には六人が住んでいると聞いていたから、これで全員が揃ったわけだ。

 丁度同じ頃合いで料理も完成したらしく、アオイがテキパキと料理を皿に盛り付け始めている。それを見て暁歩、そしてきよたちも手伝おうと皿を受け取って食卓に並べていく。あっという間に料理も揃えられた。

 食事の準備が整うと、全員が席に着く。暁歩以外の六人はそれぞれ席が決まっているようで迷いなく座り、暁歩は空いていた席―――アオイの正面でなほの隣―――に座る。

 

「それでは、いただきます」

『いただきます』

 

 しのぶが手を合わせると、揃って同じように手を合わせ夕食を食べ始める。

 白いご飯に豆腐の味噌汁、野菜の煮物とだし巻き卵と至って普通で家庭的な献立。申し訳なさが強く中々最初の一口に踏み出せなかったが、美味しそうな香りに負けて味噌汁を一口啜る。美味しかった。

 ふと周りを見ると、しのぶはアオイやきよたちと今日起きた出来事を話しながら食事を楽しんでいる。カナヲも自分から積極的に会話に参加しようとはしていないが、しのぶから話しかけられるとそれには応えている。

 初めてこの場にいる暁歩も、皆の仲が良いことは分かった。しのぶが鬼殺隊で希少かつ優れた存在であるにも関わらず、誰にでも分け隔てなく談笑しているその様は、『仲間』とは違う。さながら『家族』のようだ。

 そんな彼女たちの、微笑ましくもあり、同時に暁歩からすれば懐かしくもある様子を見ていると、自然と昔の記憶が蘇ってくる。自分の本当の家族と夕食を共にして、楽しく話をしていた、もう戻ってこない日々の記憶。

 

「・・・暁歩さん?」

 

 隣に座っていたなほが、心配そうに話しかけてくる。その声に、しのぶたちも暁歩の異変に気付いた。

 茶碗を置いて、暁歩は静かに泣いていた。

 その表情は、悲しげでありながらも、どこか嬉しそうに唇が緩んでいて、多くの感情がない交ぜになっているのが分かる表情。

 

「大丈夫、ですか・・・?」

「・・・ちょっと、昔を思い出して。大丈夫です」

 

 訊いてくるなほに、暁歩は笑って涙を指で拭う。心配を掛けさせまいと、笑みを作る。

 けれど、暁歩が何かに触発されて、悲しい過去を思い出してしまったということに、蝶屋敷の人間は気付いていた。彼女たちもまた同様に、辛く苦しいことを経験していたから。

 

「すみません。心配を掛けてしまって」

 

 心配を掛けてしまい、空気を重くしてしまったことを暁歩は謝る。だが、それでも同情の気持ちが向けられているのは読み取れた。

 

「・・・辛かったら、言ってくださいね」

 

 少しの間を置いて、しのぶが優しく話しかけてくれる。

 そうして、夕食の時間が再開する。

 今度は、悲しい思いをしてほしくないからか、なほたちも積極的に暁歩に話しかけてきてくれた。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 その翌日、暁歩は朝の六時丁度に目が覚めた。実家で暮らしていた時や、修業をしていた時の生活習慣が身についており、体内時計が自然と整えられている。

 まだ眠っているであろう他の人に迷惑を掛けないように、迅速かつ静かに身支度を済ませ、木刀を持って庭へ出る。自分の鍛錬が迷惑にならなそうな場所は既に見付けていた。

 太陽は山間から顔を覗かせてはいるものの、朝の空気は冷たい。しかし、隊服は断熱性が抜群のためそこまで寒くもなかった。

 南側にある、小さな池が設えてある庭に来ると、まずは柔軟体操をし、体の隅々まで酸素が行き渡るように、長く呼吸をして気持ちを整える。

 

「一一三、一一四、一一五・・・」

 

 そうして今度は、木刀の素振りを始める。

 さらにその後は木の枝に脚を引っかけて逆さ吊りになり、精神を統一させる。

 一連の流れは、精神の安定と身体の機能向上を助長する。暁歩に修業を付けてくれた人が教えてくれたことだ。それは今日まで欠かさなかったし、これからも欠かすつもりは無い。後は走り込みでもできたら良いのだが、まだこの付近の地理に詳しくないため、それはおいおい取り入れていくことにしようと思う。

 

「・・・暁歩さん、朝から修業してるんだね」

「・・・うん。やっぱり鬼殺隊になるために頑張ってたのかな」

「・・・もうすぐ朝ごはんだけど、少し多めにする?」

 

 修業をしている時は脇目も振らないので、少し時間が経ってからきよ、すみ、なほの三人が近くでじっと観察しているのに、暁歩は気付かない。

 そして、それより少し離れたところからもしのぶが様子を見ていたことにも、気付かなかった。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 朝食の後は、いよいよ蝶屋敷が医療施設として動き出す。

 まず、隊士たちの問診から始まる。今はそこまで大きな怪我を負った隊士はおらず、皆比較的軽い症状らしい。

 しかし、実際に隊士の容体を見たことで、暁歩の中の『軽い症状』の定義は崩れ去った。

 

「腕の傷はいかがでしょうか?」

「まだ少し痛みますけど・・・最初よりかはマシに・・・」

 

 きよが診ているその隊士は、両腕と右脚に包帯が巻かれており、特に脚は添え木も一緒に巻かれて固定されている。どうやら折れてしまっているらしく、これを『軽い症状』と言ってのける辺り、隊士の怪我がどれだけひどいか窺える。

 鬼は、人間とは比べ物にならないほど基礎的な力が強い。特殊な毒あるいは血鬼術を使う存在もいるから、深い傷を負うことは珍しくなく、病状も多岐に渡る。だから骨折は、()()()軽いのだ。

 

「お熱もありませんし、体調も良くなってきていますね」

「ええ。後は脚ですけど・・・」

「そちらの方はもう少し時間がかかりますね・・・。痛くなったら、すぐ呼んでください」

 

 検温と問診で実際に症状を確認し、薬と水、そして別に用意した食事を用意する。薬は前もって調合しておいたもので、これはアオイが調合していたと言う。

 その間もすみ、なほ、アオイは別の隊士の下へ向かってきよと同じように治療を行っている。

 暁歩は、きよの後ろに付きながら、覚書に診察の流れをまとめつつ彼女たちを見て思う。

 恐らく、今は手慣れた様子のきよたちも、最初は医療の勝手を知らなかったのかもしれない。それでもここで、傷ついた隊士と向き合う覚悟を決めて怪我を診ている。

 身体面、精神面を問わず、傷を負った人に向き合うのには相応の覚悟が必要だ。身体に刻まれた痛々しい傷は、目にするだけでどれだけの痛みや苦しみを味わったかが伝わり、どれほどの敵を相手にしたのかも見て取れる。心に負った傷も、そこに至るまでの辛い過去や仕打ちを知れば知るほど胸が痛み、悲しい気持ちになってしまう。

 どちらの傷も、生半可な気持ちでは向き合えない。

 その覚悟を決めているきよたちのことを、暁歩は心が強いんだと実感した。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 朝の問診が終われば、それを基にして薬の調合が始まる。これこそが暁歩にとっての本題だ。

 元々屋敷にいるアオイはしのぶから薬に関して指導を受けていたため、鎮痛剤や止血剤等の簡単な薬の調合はできるらしい。なのでまずは、その簡単に分類される薬を暁歩は調合することになった。

 言われた通り、棚から薬種を各種適量分だけ取り出して、乳鉢に入れてすり潰す。手順書も見ながら進めているが、使用している薬種などは暁歩も知っているものであり、薬自体も実家の薬屋で調合を手伝っていたことがあるものだ。だから手間取ることなく粉末状にして、後は煎じるだけになった。

 

「手際がいいですね」

「実家で薬を作る手伝いをしていましたし、自分で勉強もしていたんで・・・どうにか」

 

 感心するようにアオイが呟くが、暁歩からすれば褒められたことでもない。

 薬は粉状のまま服用するもの、今作っているもののように煎じて飲む薬もある。どちらにせよ、薬を作る際は分量を間違えると作用しなくなったりするし、最悪の場合は容体を悪化させかねない。薬は配合を変えれば毒にもなりえる代物なのだから、そこには細心の注意を払う。

 

「調合には問題無さそうですね」

「ありがとうございます」

 

 出来上がった薬を見てアオイが頷くと、暁歩もホッとする。自分がここで果たす役割さえ満足にできなければ、それこそここへ来る意味など無いから、それができて本当に良かったと思う。

 

「後は・・・機能回復訓練で薬湯を使いますので、それの準備もしなければなりませんね」

 

 アオイが別の薬の資料を取り出すと、暁歩もそれを教わろうとする。

 薬は二、三種類程度ではなく、多くの種類があるのだ。教わることは数えきれない。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 機能回復訓練は、長期間の治療で寝たきりになり、鈍ってしまった身体の機能を回復するのを手助けする訓練だ。長期間となると、骨折か、あるいはより複雑な症状で回復が遅い症例によるものがある。

 この日訓練を受ける隊士は一人だけだったが。

 

「うわぁ・・・」

 

 その内容に暁歩も少し鳥肌が立つ。

 まず最初は、きよ、すみ、なほの三人が寝たきりで硬くなった身体を解す。と言っても、ただ身体を揉むのではなく、思い切り身体を曲げたり脚を開いたりしているので、見ているだけでも滅茶苦茶痛い。実際訓練を受けている隊士も『ぐあああああ・・・』と呻いていた。

 

「暁歩さん、薬湯を」

「あ、はい」

 

 そんな光景に胸が痛むが、アオイは冷静に暁歩に指示をする。それを受けて、暁歩も十個近い湯飲みに薬湯を注いでお盆に乗せ、訓練場に置かれている机に乗せる。

 この湯飲みを利用した『反射訓練』は、反射神経を鍛える訓練であり、机の上に置かれた湯飲みを取り合う。ただし、湯飲みを動かす前に相手に手を置かれた場合はその湯飲みが動かせない。さらに、湯飲みを取ったらその中の薬湯を相手にぶっかける。

 

「はじめ!」

 

 アオイと隊士が向かい合って座り、なほが審判役として号令をかけると、すぐさま両者の手が動き出す。

 だが、教官役のアオイの方が一枚上手で、数秒立たないうちに相手の隊士の湯飲みを押さえ、もう片方の手で湯飲みを取り、薬湯をぶっかける。

 

「ぶえっ」

 

 アオイには容赦も遠慮もなかった。

 薬湯を顔面にかけられた隊士に暁歩も同情する。作っている最中に分かったが、あの薬湯は結構匂いがきつい。それを顔面に直接だ。心は折れそうになるだろうし、心底気の毒だった。

 そして最後は『全身訓練』。端的に言えば鬼ごっこである。全力で身体を動かして、通常の戦闘時と同じ程度の動きを取り戻せるようにする。

 前二つの訓練と比べれば幾分かマシに思えるが、身体を曲げさせられて、薬湯をぶっかけられた後となれば心身とも疲れている。指導するアオイもまた動きをわざと遅くしたりなどしないため、まさに真剣勝負となり訓練を受ける隊士も全力を出さなければならなかった。

 そして訓練が終わるころには、げっそりとした様子で隊士が帰っていく。

 

「余裕があるようでしたら、暁歩さんもこの訓練の教官役をやってもらいますので」

 

 薬湯を片付ける暁歩の背中にかけられるアオイの言葉。

 見てるだけで心が罪悪感に押し流されそうだが、当然『嫌だ』と断ることはできず頷く。できるかなぁと不安にはなるが。

 

「・・・丁度今、薬湯が残っていますし、予行練習も兼ねてやってみましょうか」

「え?」

 

 片付けようとした手を止めて、アオイを振り向く。

 今回使わなかった薬湯は、そのまま廃棄してしまうという。薬湯の素は、風呂に入れればそのまま入浴剤にもなる優れモノだが、こうして湯に入れてしまってはその効能も薄い。明日に持ち越しもできないため、もったいないが捨ててしまうらしい。

 ならば、予行練習でも使った方が無駄がない。その理論に、暁歩は納得してしまった。

 

「きよ、審判お願い」

「分かりました」

 

 そしてアオイはきよを呼び、机の傍に立たせる。暁歩もやむなく、アオイと向かい合って正座する。

 

「それでは」

 

 きよが合図を言おうとする。

 暁歩は一度深呼吸をして、気持ちを集中させる。

 

「はじめ!」

 

 暁歩はまず手前の湯飲みを右手で取ろうとするが、阻まれた。

 その隙にアオイは自分の手前の湯飲みを持ち上げようとしたが、そこで暁歩は咄嗟に左手で湯飲みを押さえる。

 その間に右手で別の湯飲みを探し当てて持ち上げようとするが、その直前で防がれる。

 目に力を籠めて、広く見渡せるように、アオイの手の動きをよく見るように、目を見開く。

 だが、十秒経とうとしたところで、アオイに先を越されて薬湯を顔に浴びた。

 

「うぇ・・・」

 

 顔を袖で拭いながら、顔を顰める。自分の作った薬湯を自分で被ることになるとは思わなかったが、案の定臭い。

 なほから手拭いを渡されて、それで念入りに拭くが、匂いまでは落ちそうになかった。

 

「訓練の教官役は、慣れてからの方がいいですね」

「是非そうしていただければ・・・」

 

 こぼれた薬湯を拭きながらのアオイの言葉に、暁歩は大きく頷いた。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 一日が終わり、今日経験したことや学んだことを、暁歩は日誌にできる限り詳細に記しておく。

 一日を過ごしてみて、学ぶことは多いと暁歩は思う。薬の調合はともかくとして、治療や機能回復訓練で隊士と向き合うことは大変だと思う。特に、アオイやしのぶの意向でいずれはより正確な診察にも携わることになるだろうし、そうなればもはや薬剤師ではなく医者だ。

 だが、ぐちぐち言っているわけにはいかない。自分はここに厚意で身を置かせてもらっている立場だ。できることは何でもしなければならないし、わがままも言っている場合じゃない。

 日誌を書き終えたところで、ふと思う。

 

(・・・胡蝶様、今日は見なかったな・・・)

 

 今日一日、朝食以外でしのぶの姿を見なかった。

 鬼狩りとして活動する時間は基本的に夜間だけだが、柱となれば日中も多忙なのだろう。あるいは、任務のために長距離移動をしているのかもしれない。

 けれどしのぶは、蝶屋敷では秀でた医者であり、同時に薬の専門家でもある。

 だからこそ、しのぶが不在中に重症の隊士が運び込まれた際に、薬に詳しい方である暁歩も素早く対応できるようにならなければならない。もし、その隊士が毒に侵されていたりしたら、それは間違いなく暁歩が診なければならなくなる。

 アオイはしのぶから指導を受けてはいるが、解毒薬など特殊な知識・技術がいる薬は調合できないと言う。それを補う意味もあって、調剤の経験がある暁歩は薬剤師としてここへ来たのだ。

 自分如きがしのぶの代わりになるか、と問われれば首を素直に縦には振れない。けれど、その代わりとなれるように努力は欠かしたくはない。

 

「・・・頑張らないと」

 

 自分の役割の重大さを、改めて認識する。

 自然と決意が言葉に出て、無意識に拳を握っていた。




≪大正コソコソ噂話≫

蝶屋敷で暮らすにあたり、暁歩はアオイから『無断で女性の部屋に入ったら布団叩きで顔を百回叩く』と注意を受けています。

暁歩「入るつもりは無いですが、俺はそんなに信用できないように見えますか・・・」
アオイ「念のためです」
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