鼻で息を吸って、体内に多くの酸素を取り込むよう意識する。
そして持っていた瓢箪に、ゆっくりと長く息を吐き出す。瓢箪の中を空気で満たすことを意識しながら、息を吹き続ける。途中で息が切れそうになるが、それも気にせずに今はただ、空気を吐き出し続けることだけに集中した。
すると、瓢箪から皹が入るような音が聞こえてくる。それも気にせず、息を吹き続ける。
やがて、『バキッ』という音とともに瓢箪が内側から破裂した。
「・・・はぁ、はぁ・・・」
通常の呼吸に戻す。自分の中に溜め込んでいた酸素を全て注ぎ込んだような感覚で、身体が酸素を求めて呼吸が荒くなる。
「お疲れ様です」
そこへ声を掛けてきたのはしのぶ。手には水の入った竹筒を持っていて、それを差し出すと暁歩は『どうも・・・』とお礼を告げながら受け取った。
「ようやく瓢箪も割れましたね」
暁歩が水を飲む傍ら、しのぶが砕け散った瓢箪の破片を拾い集める。
全集中・常中の修業を始めてからおよそ半年にして、ようやく瓢箪が割れた。日々の治療の合間を縫って修業をしていたため、かなりの時間がかかってしまったが、どうにかここまでこぎつけたのだ。自分の努力が決して無駄ではなかったのを目の当たりにして、込み上げてくるものがある。
「でも、こんな時間もかかりましたし・・・まだ小さい瓢箪しか割れていないので」
だが、それでもまだ足りない。時間がかかったのは事実だし、破裂させたのは両手で持てる大きさの瓢箪だ。炭治郎たちが破裂させた、子供の背丈ほどの瓢箪にはまだ手出しできていない。何より、全集中の呼吸を持続させられる時間もまだ四六時中とはいかなかった。
「たとえ時間がかかっていても、暁歩さんは順調に成長できていますから。焦る必要はありません」
しのぶに優しく言われるが、それでもまだ暁歩の中から焦りは消えない。それでも同時に、自分に甘くするわけではないが、焦りすぎて無理をするのも禁物であるとは理解している。以前、炭治郎が怪我をしているのも顧みず鍛錬しようとしていたのを止めた手前、自分だけが焦るわけにもいかなかった。
「さあ、そろそろ朝ごはんですよ」
「・・・はい」
拾い集めた破片をしのぶから受け取って、しのぶと共に食卓へと向かう。
今日もまた、蝶屋敷の仕事はあるのだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
炭治郎が目覚めてから一週間。彼は、新しい刀を受け取るために刀鍛冶の里へと出発した。そこは鬼殺隊の要である日輪刀を作っている里であり、場所は秘匿扱い。そこまで行くには隠と鎹鴉が導くのだと言う。
彼を見送った後は、暁歩たちもいつも通り蝶屋敷の仕事に戻るが、そんな折に一人の女性が蝶屋敷を訪ねて来た。手には、花束や果物など差し入れらしきものが入った袋を持っている。
「すみません、天元様のお見舞いに来たのですが・・・」
黒く長い髪を後ろで一つに束ね、青鈍色の着物を着ているその女性は、今もまだ療養中の音柱・宇髄天元が最初に運び込まれた際も見た記憶があった。
「あ、はい。それではご案内しますね」
「恐れ入ります・・・」
玄関先の掃除をしていた暁歩は、一度箒を片付けてから案内する。
天元の妻である
そんな疑念を抱きながら、暁歩は二階の特別室に須磨を通す。
「暁歩です。須磨様がお見舞いにいらっしゃいました」
『おう、通してくれ』
了承の声が聞こえると、暁歩は戸を開けて須磨を中に通す。
あれから二か月以上経った今、天元の容体も大分安定している。切断された腕や失明した左目は戻らないが、それでも後の治療のために天元は蝶屋敷で療養を続けている。
「お身体の具合はいかがですか?」
「ああ、もう派手に回復してる。痛いところなんざどこにもねぇよ」
「良かった・・・」
須磨が訊ねると、天元は気丈に元気そうに振舞っている。妻を安心させるためなのかもしれないが、戦いの後普通に意識を保って歩いていたのを見ると、本当に身体は丈夫なのかもしれない。
それにしても、天元と須磨の穏やかな談笑を見るに、二人とも仲が良いらしい。夫婦の仲が良いことはとても素晴らしいことだが、天元の豪放磊落と言うか、若干荒っぽい印象からは少し想像がつかなかった。
「しっかし、いつまでここにいなきゃならねぇんだ?」
「まあ、しのぶさんも宇髄さんの症状には思うところがあるようですし。それと、傍目に見ても大怪我ですからね?」
天元本人はもう問題ないと言っているが、完治したかどうかを判断するのはしのぶである。しのぶの許可が下りない以上は暁歩もそれに従って、天元の治療に当たる。それに暁歩も分かっているが、その怪我は炭治郎や伊之助以上なのだ。
「まあ、そうですね・・・。しのぶさんに掛け合って、介助付きで少し外出できないかどうかも考えます」
「おお、是非ともそうしてくれ」
「では、一旦失礼しますね」
暁歩が頭を下げると、天元は軽く手を振る。
アオイやなほの話では、無理矢理彼女たちを連れて行こうとした点から、暁歩も天元と接する際は少し気を付けようと思っていた。しかし、実際に話してみると、先ほどのように天元からは気のいい兄貴分のような雰囲気がして、存外話しやすかった。
それはともかく、天元もそろそろ薬の時間なので、まず最初に暁歩は調剤室に戻って天元の分の薬を用意する。それから見舞いとはいえ客人である須磨のためにお茶も用意しようと思って、食卓へ向かった。
「しのぶさん」
だが、食卓ではしのぶが机の上で資料を開いて考え事をしているところだった。普段は食卓で資料を読むことなど無かったものだから、つい声を出してしまう。しのぶは暁歩が入って来たことに気付かなかったようで、声を聞くとすぐに顔を上げた。
「ああ、暁歩さん・・・」
「随分考え込んでいたみたいですね・・・何か、問題が?」
「いえ、問題と言うほどでもないのですが・・・」
お湯を沸かしている間、暁歩はしのぶの正面に座って話を聞くことにする。
「知っているかと思いますが、吉原の戦いで炭治郎くんたちは瀕死の重傷を受けています。特に、炭治郎くんと宇髄さんは猛毒を喰らったと記録がありました」
「猛毒?ですが・・・」
しのぶが資料を見せてくれるが、暁歩は『毒』と聞いて首を傾げる。炭治郎の身体を実際に診た暁歩は、毒の症状を確認しておらず、血中からも毒素は確認できなかった。天元を診ていたはずのアオイからも、毒については一言も聞いていない。
「ええ。この屋敷に運び込まれた時点で、あの二人の毒は解毒されていました」
「じゃあどうやって・・・?」
「炭治郎くん曰く、禰豆子さんの血鬼術で体内の毒素を燃やした、らしいんですよ」
しのぶも実際にその場にいて見たわけではない。その場にいた人から聞いた話でしか分からないが、暁歩の疑問も仕方がないとしのぶは思う。何せ、血鬼術で体内の毒素を燃やすとは、聞いたことがないからだ。
「血鬼術の研究は進められていますが、何分鬼ごとに能力に違いがありますので難しい分野です。加えて、禰豆子さんの血鬼術もまた初めて見るものですから」
血鬼術の仕組み自体が謎ではあるが、研究を進めれば鬼との戦いをより有利に進められる。それと、毒という決して捨て置けないものに関するものだからこそ、しのぶは気になっている。だからこそ、天元の治療は続いているのだ。
「同じく毒を受けていた炭治郎くんにも話は聞いたんですが・・・」
―――身体がボワ~ッ!って燃えて、それでぎゅんぎゅんって感じでした!
「と、言った感じで」
「炭治郎くんはそういう子でしたね・・・」
顔を見合わせて苦笑する暁歩としのぶ。以前、全集中・常中について善逸と伊之助にやり方を教えていた時も、同じような感じだった。
そこでお湯が沸き、暁歩は席を立って手際よくお茶を淹れる。
「丁度今、宇髄さんの奥方様が来てますから、話が聞けるかもしれませんよ?」
「あら、そうですか?それでは・・・そうですね。宇髄さんの身体を診るついでに聞いてみましょうか」
暁歩が言うと、しのぶも資料を閉じて立ち上がる。そして、暁歩は持ってきていた薬とお茶を一緒にお盆に載せて、しのぶと共に天元の病室へと向かう。
運び込まれた時はバタバタしていたので、天元を支えてきた須磨たち三人の嫁から話は聞けていない。ただ、実際に天元の毒が禰豆子の血鬼術で燃やされたのを目撃していたので、多かれ少なかれ収穫が期待できる。
「そう言えば宇髄さん、退屈しているそうでした・・・」
「まあ、治療を続けている間は仕方ないんですけどね」
「回復の度合いで、介助付きで外出してもいいのではとは思うんですけど・・・しのぶさんはどう思いますか?」
「そうですねぇ・・・宇髄さんは柱であるのと、身体が丈夫ですから。確かに、快方に向かっているようですし、それも良いですね」
片目の失明に、片腕の切断など、普通の隊士であれば後一か月は安静にしていなければならない怪我だ。が、天元は一か月足らずで快復したように元気に振舞い、現在も食事は普通になっている。その回復力ときたら、治療していた暁歩やアオイも驚いたものだ。
そんなことを思いながら、暁歩としのぶは天元の病室の前に立つ。
「宇髄さん、須磨さん、お薬とお茶をお持ちしました」
暁歩が片手にお盆を載せ、戸を叩くが返事がない。
よく耳を澄ませてみると、中からもぞもぞという音が聞こえてくる。
「「?」」
しのぶと暁歩は顔を見合わせるが、何が起きているのか分からず肩を竦める。
「失礼します・・・」
一先ず戸を開けて部屋に入るが、二人の動きが止まる。
天元も須磨も、意識不明ではなく、確かに起きていた。しかしながら、天元は須磨を抱き寄せていて、しかも何か須磨の着物が若干はだけているし、束ねていた髪は乱れている。
端的に言えば、まぐわおうとしているところだった。
「「・・・・・・」」
しのぶはもちろん、暁歩をはじめとした蝶屋敷の面々は、病室へ入る際は暗い表情をしないようにしている。それは怪我人を心配させないためであり、今もまた努めて笑顔を作り部屋に入ったところだ。
しかし今、夫婦のやり取りを目撃して、暁歩としのぶの笑みは固まっている。持っていたお茶と薬を落とさなかったのは、暁歩自身褒められたものだと思う。
「こほん」
一つ、しのぶが咳払いをすると、ようやく天元と須磨も平静を取り戻して身体を離す。ただ、天元は大して焦っていない様子だが、須磨が慌てて着物を直し、恥ずかしそうにしているあたり、仕掛けたのは天元の方かと暁歩としのぶは理解した。
「ええと。お二人共、何をなさっていたのでしょう?」
「何って、そりゃあナニだが?」
しのぶが普段通りの調子で問うが、天元はしれっと悪びれもせずに答える。須磨は顔を赤らめて俯いてしまい、彼女の方が見ていて気の毒に思えてきた。
「ここは逢引の場ではないのですけれどね?ましてや宇髄さんも、回復してきたとはいえ怪我人なのですから」
「なぁに、地味に心配することは無い。人前でするほどでもないしな」
「今思いっきり続けていましたけど?」
悪気が無いような天元に、須磨も『天元様・・・』と恥ずかしそうにやんわりと注意する。須磨からしても恥ずかしいだろう。
そして、しのぶの方から地味に怒気が伝わってくるような気がするのは、暁歩の気のせいではないと思う。あまりこのままの空気でいるのも辛いので、暁歩は小さく息を吐きながら天元の下へと向かう。
「宇髄さん、お薬です。それと須磨さんにもお茶を」
「おお、すまんな」
「あ、ありがとうございます・・・」
完全に立ち直った天元に対し、須磨はやはり恥ずかしいのかお茶を受け取るとグイっと一呷りする。まあ、夫との夫婦の営みを第三者に見られて恥ずかしい気持ちは分かるので、敢えて何も言わない。
一方で天元は、薬を一気に飲み干したところでしのぶの方を見る。
「で、胡蝶までどうした?」
「ああ、そうでした。宇髄さんが見境もないので忘れるところでしたが、吉原での戦いで少し伺いたいことがございまして」
さらりと毒を吐くしのぶだが、その話は暁歩も気になるところだったので、少し後ろに下がり話を聞くことにする。
「宇髄さんは上弦の陸との戦いで猛毒に侵されたと聞いたんですが」
「ああ、アレか。もうヤバイ、死ぬって思うほど派手な毒で、俺が元忍で毒に耐性がなかったら、あっという間にあの世行きだっただろうな」
毒を使う鬼は、那田蜘蛛山で善逸が戦った鬼など多くいるが、やはり上弦級となると毒の効力も非常に強いものらしい。柱の中でも特に打たれ強い天元がそこまで言うほどだから、それは予断を許さないほどのものなのだろう。
そして、やはり天元も鬼殺隊で元柱だから、鬼に関する話をする時は真面目な雰囲気になる。先ほどの情事のことを除けば、本当に良い兄貴分みたいな性格のいい人なのにな、と暁歩は思う。
「禰豆子さんの血鬼術で、体内の毒を燃やされて回復したそうですが、その時はどういった感じでしたか?」
「あれはすごかったな。俺の中の血だの肉だの細胞だのが、隅から隅まで派手に燃え上がるような感じだった。毒のせいで意識が朦朧としてたが、おかげで完全覚醒したしな。どういう理屈なのかは俺にもわからんが」
なんだか上手く説明できているような、できていないような。炭治郎ほどではないが、いまいち要領を得ていないような気がする。しのぶも苦笑しており、暁歩は傍らにいる須磨に訊ねることにした。
「須磨さんもそこにいたんですよね?見た感じではどうでした?」
「えと・・・見た感じ、と言われても・・・。本当に天元様が燃えていたとしか・・・」
ようやく恥ずかしさから脱した須磨の言葉に、暁歩としのぶは少し考える。
禰豆子の血鬼術が発動する直前まで、天元は毒で意識が朦朧としている状態で、舌も上手く回らないほどだったらしい。まさに、死の間際の状態だったというのだ。その状態から一気に回復させたとなれば、毒で低下した機能もすぐに回復させたということになる。
「あ、毒だけじゃねぇな。俺の傷口も止血された」
「止血・・・焼いたってことですか?」
「おう。傷口を焼いて、止血するってわけだ。しかも、ちっとも痛くなかったんだよな。マジで、派手な力だったぜあれは」
傷口を焼いた、と言う話は伊之助や炭治郎も同じらしい。特に致命傷を負った伊之助は、禰豆子が天元の言った通り傷口を焼いて塞いだことで、一命を取り留めた。それを聞くと、輪をかけてあの血鬼術は応用の幅が広いと思わせられる。
話を聞いたしのぶは、少し考えてから頷き天元に顔を向ける。
「・・・血鬼術の解明が鬼との戦いをより有利に進めると思いましたので、話を聞かせてもらいました。ありがとうございます」
「おう、そういうことならもっと訊いてくれ」
しのぶがお礼を伝えると、天元は快活に笑う。
続けて、暁歩が天元の身体を診る。やはり、左目と左腕に多少の不安があるが、それ以外の機能に関しては問題がない。
「宇髄さんも、機能回復も兼ねて介助付きで外出をしてみましょうか」
「お、いいのか?」
「ええ。流石にこの長い期間寝たきりだと身体が鈍ってしまいますし。暁歩さんから、宇髄さんも外に出たそうにしていた、と聞いていますので」
しのぶに名前を呼ばれて、暁歩も少しだけ笑みを浮かべる。
だが、しのぶが『それに』と付け加えて。
「あまり退屈させると、ウチの他の子も先ほどのような場面に遭遇しかねませんし」
にこりと笑って告げると、須磨が再び俯いてしまう。大分根に持っているなぁ、と暁歩は苦笑した。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
天元たちから話を聞いた後、暁歩としのぶは調剤室に入る。
暁歩は、天元用の薬が変わるのでその調合をし、しのぶは部屋にある資料を見返していた。
「収穫は・・・しのぶさん的にはありましたか?さっきの話で」
「そうですね・・・。血鬼術の点からしても、禰豆子さんは他の鬼とは違うということが分かりました」
乳鉢で薬を混ぜる暁歩の後ろで、しのぶが資料を開きながら話す。暁歩は薬を混ぜる手を止めずにそれを聞いた。
「血鬼術には多くあり、物理的な攻撃をしたり、異空間を生み出したりと分類は多岐に渡ります」
暁歩が思い出すのは、最初に遭遇した土の中を自在に移動する鬼や、力を吸い取る蔓を自在に操る下弦の肆だ。藤襲山にいたのはほとんど雑魚鬼か、あの異形の鬼だから、血鬼術とはまた少し違う類だろう。
「禰豆子さんの血鬼術自体は、血液を燃やすというそれだけ見れば単純な技です。ですが今回、血が付着した対象の内部にまで作用し、毒のみを燃やすという特異な能力を見せました」
資料を閉じて、棚に仕舞うとまた別の資料を取り出して開く。
「桐蔓山の下弦の肆とはまた違って、能力の幅が広いと言うよりも、能力に制限がないんですよね」
下弦の肆は、蔓を使って捕縛と力の吸収、さらには棘を生やして攻撃、防御までこなせる多様性があった。だが、禰豆子の血鬼術はそういう意味での多様性ではない。身体の内外問わず自分の燃やしたいものだけを燃やせるというのは、確かに制限が無いと言える。
「まあ・・・やはり、ここまで自在な能力は過去にもありませんでしたね・・・」
「そうですか・・・」
「ですが、こうした能力を持つ鬼が今後現れるかもしれない、ということだけは留意しておきましょう」
資料を閉じる音が背後から聞こえる。語調からして、きっと笑みを浮かべているのだろう。
そんな言葉を聞きながら、暁歩は『分かりました』と答えつつ、薬種を混ぜる手を止めない。
しのぶの話を聞いている間も、返事をしている時も、暁歩はしのぶの方を向かずに薬種を混ぜることに集中している。
(・・・・・・落ち着けるわけないだろぉぉ・・・)
そんな暁歩の心の中は穏やかではなかった。
それは、先ほど天元と須磨が秘め事に興じていたのを見てしまったことにある。それを自分だけが目撃していたら、あの場でそそくさと部屋を出て『仲が良くて何よりだ』と処理する程度で済んだだろうが、問題なのはあれをしのぶと一緒になって目にしてしまったことだ。
「・・・・・・」
あの時、しのぶには動揺した様子が全くなかった。暁歩も感情を面に出すまいと表情を作っていたが、今は心で叫びまくっている。
それから意識を外すようにこうして薬を調合することに意識を注いでいるが、この調剤室でしのぶと二人きりという状況がそれを邪魔してくる。あれをしのぶと見たことで、良くない妄想が頭に浮かんでしまい、それを消し去るように薬種を潰す手に力を籠める。
「おや、暁歩さん?」
そこで声を掛けられて、気付けばしのぶがすぐ傍にいた。余計なことを意識しないようにしていたのに、しのぶから漂ってくる妙に甘い香りとか、近くにある綺麗な顔立ちなどが暁歩の平常心を砕きにかかってくる。
「薬種はそんなに力を入れてすり潰さなくて大丈夫ですよ?」
「あ、すみません・・・」
暁歩が謝るが、しのぶは優しい笑みを向けるままだ。
「暁歩さんがそんな失敗をするのも珍しいですが・・・何か考え事でも?」
純粋な親切心から来る質問と表情だろうが、それは今の暁歩にとっては強力な毒だった。
「いえ・・・何でもないです」
暁歩は視線を乳鉢に戻して、薬を混ぜる作業に集中する。
その後は、逃げるように煎じ薬を作るための水を汲みに外へ出た。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
その日の夜、任務の無いしのぶは床に就こうとしていた。
布団はアオイが干してくれていたもので、太陽の光を浴びたそれはとても温かい。布団に入ると、心地よい温もりに包まれて自然と欠伸も洩れてしまうほどだ。
明かりを消した天井を見上げ、今日あった出来事をふと思い出す。
中でも一番印象に残ってしまっているのは、偶然にも遭遇してしまったあの天元と須磨の夫婦の営みだった。天元に妻が三人いて、夫婦仲が良好なのは知っていたが、まさか人目がなければ真昼間から興じるほどとは思わなかった。
しかし、それ自体は別に夫婦仲が良い証だから、さして問題ない。
より気にしているのは、あの光景を暁歩と共に見てしまったということだ。
ああいうことをするのは、仲の良い男女であれば何ら不思議ではない。
だが、たまたま見てしまった側からすればたまったものではないし、それがそれなりに親しい異性とであればなおさら気まずくなる。
そんな、親しい異性である暁歩は、あの時大して動揺した様子もなかった。そしてその後も、特に変わりなく平然とした調子で過ごしている。先ほどの夕食時だって、いつも通りきよたちと談笑していたほどだ。強いて言えば、薬種を潰す力が入りすぎていたのが異変だが、それは動揺と決めつけるには至らないだろう。
だが、しのぶはそれにどこか引っかかりというか、不満に似た何かを抱いている。
しのぶでさえ、こうして心が波打つような気分でいるのに、暁歩はそんな様子が全くない。それが何故だか、しのぶは気に食わないのだ。
(別に・・・何とも思ってないはずなんですけどね)
その通りで、しのぶと暁歩の間には信頼関係こそあるが、そう言った色恋の関係は存在しない。
にもかかわらず、こうして意識してしまっている。
布団の中で何度も寝返りを打つ。眠気が息を潜めてしまい、意識が覚醒してくる。自らの気持ちが落ち着いていない証拠だった。
そんな悶々とした気持ちを抱えて、答えの出てこないような自分の疑問と向き合いながら、しのぶの夜は更けていく。
□ □ □ □ □
翌朝、暁歩は寝不足だった。
例の秘め事について考えが離れなくなってしまい、悶々とした気持ちを抱え込んだまま布団に入ってしまい、結局寝付くのが大分遅くなった。おかげで体内時計が狂い、皆よりも早く起きて修業をするはずが、その時間も取れなかったほどだ。
「おはようございます・・・」
食卓の戸を開けて挨拶をするが、その声もどこか張りがない。それには全員が気付いたのか、きよやすみ、なほが心配そうにこちらを見て、カナヲもちらっと暁歩を見た。
「大丈夫ですか?」
「ちょっと寝不足で・・・大事には至らないです」
当直だったアオイは、毎朝鍛錬をしていた暁歩の姿を今朝は見なかった。そこに疑問を抱いていたのだが、それはどうやら寝坊だったらしい。そこについての疑問は晴れたが、また別の問題がある。
「夜更かしは駄目ですよ?何かあった時にすぐ対処できないんですから」
「はい・・・すみません」
アオイの言う通りで、この屋敷の最大の役目は怪我人の受け入れと治療だ。特に暁歩には、薬品の調合というより重要な役割を仰せつかっている。それなのに寝不足でろくに働けない、とはお話にならない。
暁歩は謝りつつ、顔を叩いて意識を覚醒させる。
「おはようございます」
その後ろから、しのぶが姿を見せる。
振り返ってみるが、やはり昨日と変わりない微笑を浮かべていて、あの時のことを全く気にも留めていないようだ。
その様子を見ると、一人で悶々と悩んでいる自分を恥ずかしく思い、暁歩はいい加減にちゃんとしようと心を正す。
「・・・?」
その時暁歩は、しのぶが口元を手で押さえたのを目にする。その仕草は、あくびをしているようにも見えた。
「しのぶ様、寝不足ですか?」
「ええ、ちょっと・・・」
そこで、座っていたなほが訊ねると、しのぶは少し困ったような笑みを返す。心の強いしのぶも寝不足とは、珍しいこともあるなと暁歩は思った。
「暁歩さんも寝不足だったんですよ」
「あら、そうなんですか?」
さらにすみが告げると、しのぶは物珍しそうに暁歩の方を見る。
だが、まさか寝不足の理由を素直に伝えるわけにもいかないので、暁歩は曖昧な笑みを浮かべて席に着くだけにしておく。
同時に暁歩は、しのぶが寝不足というのも珍しいものだと思った。昨夜は任務もなく、特別忙しかったわけでもない。しのぶほどの人が夜更かしという可能性も低く、少し気になる。もしかしたら、何かしらの考え事でもしていたのかもしれない。
それが気になって、暁歩はしのぶのことを見ると。
「・・・・・・」
(あれ!?)
ついっと、視線を逸らされた。
今までそんなことなど無かったものだから、余計に暁歩は動揺する。
―――親しい人が、視線を合わせようとしても逸らしたらどう思う
―――何か、隠したりしているのではないかと思いますよ。あるいは、自分に対して後ろめたいことがあるとか
脳裏に、小芭内と交わした会話が蘇ってくる。あの時小芭内は、蜜璃の異変について相談しに来たが、あの時暁歩はしのぶが同じようだったら、と想定して答えていた。
となれば今は、しのぶも何か暁歩に対して隠し事があるか、後ろめたいことがあると思われる。
それが分かっていても、視線を逸らされるのは相当キツイ。小芭内の気持ちが今なら分かる気がした。
(・・・暁歩さんの顔が見れない)
一方でしのぶも、悪意があって暁歩から視線を逸らしたわけではない。
昨日の夜に、暁歩とのことについて柄にもなく考えこんでしまった結果、逆にその顔を見ると、その『考え事』を思い出してしまうからだ。
そしてそれを深く考えようとすると、どうにもしのぶの顔が熱くなってくる。
(ごめんなさい、暁歩さん・・・)
同時にしのぶは、何も言わずに視線を逸らしたことを、暁歩は気にするだろうと思っている。だからこそ、自分の理解できない感情に振り回された結果の行動を、申し訳なく思った。
(落ち着いて・・・自分の感情を制御できないのは未熟な証・・・)
しのぶは自分にそう言い聞かせながら、席に着く。
「では、いただきます」
『いただきます』
そうして挨拶をして、朝食の時間が始まる。
しかしその間、食卓―――特に暁歩としのぶの間―――には微妙な空気が流れることとなった。
≪おまけ≫
「暁歩さん・・・」
「ん?」
ある日のこと、お茶を飲んで休憩していた暁歩の下に、きよ、すみ、なほの三人がやって来た。何かを聞きたげなその様子に、もしや怪我人のことで何かあったのかもしれない。
そう思って訊く姿勢を取ると。
「宇髄さんや善逸さんが言ってたんですけど・・・」
「?」
「『遊郭』ってどんなところなんですか?」
興味ありげなきよたちの質問。
炭治郎たちが吉原へ任務に行ったのは知っているが、まだ年端もいかない彼女たちはそれがどんな場所かを知らなかった。
「・・・・・・」
だが、暁歩は『遊郭』がどういう場所かを『知識として』知っている。
だからこそ、この無垢な瞳を向けてくる三人にどう説明をするべきか、この場をどう切り抜けるべきかに、ひどく悩むことになってしまった。