とてもうれしく思います。
刀鍛冶の里が、上弦の伍及び上弦の肆の急襲を受けた。
これを迎え撃ったのは、たまたま里を訪れていた炭治郎とその同期である不死川玄弥、霞柱・時透無一郎と、里の近くの地域を担当していた恋柱・甘露寺蜜璃だ。ただ、今回もまた激しい戦いだったらしく、炭治郎は意識不明の状態で蝶屋敷に運び込まれた。
そして、それ以上に蝶屋敷の面々の度肝を抜くものがある。
「た、た・・・ただいま」
たどたどしい喋り方をするその人物は、禰豆子だ。最初にここへ来た時に見た竹の猿轡は外していて、それ以前に今は太陽が上がっている真昼だ。にもかかわらず、禰豆子は苦しむ様子もなく普通に立っている。
「ちょっと、どういうことですか!?」
「何、どうして・・・ええ!?」
鬼は日光の下で行動できない。それは鬼の共通の特徴であるはずだ。
しかし、鋭い犬歯や縦に長い瞳孔の眼をした禰豆子は鬼のままだから、驚かないはずはない。暁歩とアオイは取り乱すように声を上げており、しのぶだって表情が驚愕に染まっている。きよたちは驚きが振り切ってキョトンとしていた。
「いやー、なんでだろうね?」
そんなしのぶたちの疑問に、担架に載せられていた蜜璃は、あまり深く考えようとはしないで笑っていた。彼女は彼女で重傷で、頭に包帯を巻いたりガーゼを張ったり、手にも包帯を巻いたりと一先ずの応急処置は済んでいるらしい。
「・・・・・・」
そして、ぼーっとした様子で担架に載せられている無一郎。彼もまた身体中に刺し傷を負っており、止血は済んでいるらしいがそれでもやはり痛々しい状態だ。
ただ、炭治郎は胴体に深い切り傷を負い、片足も折れている。玄弥も至る所に刺し傷や切り傷を負っていて、一時も気が緩められない状況だった。
なので、日光を克服した禰豆子に驚くのもほどほどにして、蝶屋敷の皆は炭治郎たちの治療に取り掛かった。
□ □ □ □ □
禰豆子の身体の変異の他にも、不可解な状況になっている。
刀鍛冶の里で上弦二体が撃破されて以来、鬼の出没情報がなくなったのだ。
鬼との戦いが無くなること自体は、喜ばしいことだ。それだけ犠牲となる一般人や、戦って傷つく隊士もいなくなるのだから。
しかし油断はできない。まだ諸悪の根源である鬼舞辻無惨は生きており、禰豆子という日光を克服した特殊な鬼まで現れたから、近い内に総力戦が始まるだろうと言うのが鬼殺隊当主・産屋敷輝哉の見解だ。つまり今は、『嵐の前の静けさ』ともいえる状況だ。
そこで、鬼との戦いが一時的とはいえ無くなったこの機会に、『柱稽古』と呼ばれる大規模な訓練が行われることになった。それは柱直々に一般隊士に稽古をつけ、鬼殺隊の戦力の底上げを図るものだ。
しかし、その内容は過酷そのもので、基礎体力の向上から太刀筋の矯正、無限打ち込みに至るまで、鬼殺隊の質を高めるためとはいえとても辛いものらしい。蝶屋敷にいる暁歩やアオイたちも、その過酷さは聞いていた。
ただし。
「私は今回の柱稽古には参加しません」
しのぶは、柱稽古が始まるという話をしたうえで、暁歩にそう告げた。
「それは・・・何か理由があるんですよね」
「ええ。そして、暁歩さんにもぜひ手伝ってもらいたいのです」
それから暁歩は、しのぶからその参加しない理由について、そして自分に手伝ってほしいことについての説明を聞いた。
「す、すみません・・・治療を・・・」
「あ、はい!すぐに!」
そして、しのぶの頼み事を理解した暁歩は、蝶屋敷に運び込まれてくる怪我人の治療に専念する。暁歩も、しのぶ直々に与えられた役目があるため、柱稽古には『本格的には』参加していなかった。
そんな中でも蝶屋敷に怪我人が運び込まれているのは、稽古が厳しすぎて、度々重傷者が発生するからだ。しのぶや運び込まれた隊士によれば、風柱・不死川実弥の無限打ち込み稽古が最も辛いらしく、まさに地獄らしい。
「・・・・・・」
治療を続けている間、怪我をした隊士から『なんでテメェは訓練出ねぇんだよこの野郎』と恨みがましい視線を向けられるが、それに対して暁歩は心の中で謝りながら治療を続ける。決して楽をしようとサボっているわけではないのだが、自分の役目はしのぶから『他言無用』とされているので、説明できない。
「あ、あそ、ぼ!」
「はぁい」
一方できよたちは、怪我人が比較的少なくなったために大分時間に余裕が生まれ、禰豆子の相手をすることが多くなっている。ことろことろや手毬遊びなど、庭で楽しそうに禰豆子と遊んでいた。
「禰豆子さんも、ああして日光の下を歩けるようになったのは良かったですね・・・まだどういうわけかは分からないですが、人間に戻りつつあるのでしょうか」
「それは、分からないです」
空いた時間に、縁側からその様子を眺めていた暁歩はそう話す。すると、隣にいたしのぶは首を横に振った。鬼について研究を進めているしのぶでも、禰豆子の異変は分からないらしい。
「でも、炭治郎くんは禰豆子さんを人間に戻したいと願っていましたから・・・。少し、彼の目標にも近づけたかと思いますよ」
暁歩は、炭治郎が禰豆子を人間に戻すという決意をしていたことを思い出す。まだ禰豆子は鬼のままだが、彼の願いに一歩近づけたと考えれば喜ばしいことなのだ。
「・・・けれど、禰豆子さんにも変化が起きたということは、お館様の言う通り、今後鬼との戦いが激しくなることでしょう」
「・・・・・・」
「本当に、鬼殺隊の歴史が大きく動いているのかもしれません」
しかしながら、しのぶは柱として、全てを楽観的に捉えることはできない。長年斃せなかった上弦の鬼を三体も葬ったのは確かにすごいことだが、同時にこれがまた新たな戦いの火種になっていると考えている。そう思うほどには、しのぶも考えが真面目だ。
それを聞かされて、暁歩も神妙に頷く。
遊んでいる禰豆子たちの様子を見ると、微笑ましく思う。
同時に、やはり禰豆子が鬼殺隊と鬼の戦いの中心となるのを思うと、手放しには喜べない。ただ何事もない今だけは、せめて楽しく、年頃の少女のように過ごしてほしいと、暁歩はただ思った。
□ □ □ □ □
柱稽古が続くある日、暁歩は薬の入った袋を背負って歩いていた。手には、実弥が稽古をしている屋敷の簡単な地図がある。
これも暁歩が柱稽古に参加しない理由の一つだが、暁歩には各柱の稽古場へ薬を運ぶ役目があった。話に聞いている厳しい柱の訓練では、捻挫や筋肉痛、擦過傷などの怪我が頻発しており、薬も必要とされている。ただ、その程度の怪我で態々蝶屋敷まで治療に来るのも手間なので、柱から頼まれるとこうして薬を届けているのだ。
今回に限らず、暁歩はこれまでに天元、蜜璃、小芭内の稽古場まで赴いている。天元の訓練は長距離の走り込み(苛烈な指導)、蜜璃は身体の可動域を増やすための柔軟(やや力押し)、小芭内の訓練は太刀筋の矯正(さながら処刑場)と、いずれも厳しそうだった。薬が必要になるのも頷ける。
―――――
ちなみに、これまで薬を届けに行った中で、一番面倒だったのは小芭内の時だ。
「甘露寺の所へ行ったそうだが、何もなかっただろうな」
「ないですって、伊黒さんの心配するようなことは何も」
「信用しない信用しない。甘露寺ほどの女の家へ行って何もないなんてことはないだろう。しかも貴様は甘露寺と仲が良いようだからなおさら信用できないな」
「俺に質問した意味ありました?」
位置的な面もあり、暁歩は小芭内の屋敷へ行く前に蜜璃の屋敷へ薬を届けている。
そして、小芭内は蜜璃に密かに(?)想いを寄せており、互いに文通をする仲にある。だから、暁歩が蜜璃の屋敷へ行って薬を届けたのも知っており、元々疑り深い性格もあって、嫉妬の視線を暁歩に向けられたのだ。
そしてそんな性格だからこそ、暁歩がどう言っても信じようとせず、結局半刻ほど詰問される結果になってしまった。
―――――
それはさておき、今向かっている実弥の屋敷で行われている稽古は、木刀を使った無限打ち込み。蝶屋敷に重傷者を送り出すほど過酷で、運び込まれた隊士も『地獄』と評するほどなので、どういうものかは想像するだけでも少し恐ろしい。
「こっちか・・・」
角をいくつか曲がって、かなりしっかりした門戸の屋敷にたどり着く。蝶屋敷よりも少し大きめの印象があった。
「ごめんくださ―――」
門戸を叩いて人を呼ぼうとしたところで、突然戸が開き、中から上半身裸の男が吹っ飛んできた。
「ぐえっ」
避けきれず、暁歩はもろにぶつかってしまい後ろに倒れこむ。だが、薬を傷つけないようにするために受け身の姿勢は考えていたため、背中の袋は無事だった。
「おォ、新しいヤツか・・・って、テメェは確か胡蝶んトコの」
「佐薙です・・・お薬をお届けに参りました」
「あァ、悪ィなァ」
起き上がったところで、木刀を持った実弥が姿を見せる。
実弥は『稀血』という鬼にとっても馳走と言える特殊な血の持ち主であり、蝶屋敷にも診断で何度か訪れている。そのため、暁歩とも面識があった。
「ついでで悪ィが、そいつ中に運んでくれねェか」
「あ、はい」
くいっと首で運ぶよう指示する実弥。暁歩は気を失っている名前も知らない隊士をせっせと担ぎ、屋敷の中へと運び入れる。
実弥は、定期診断でしのぶの下を訪れている玄弥の兄で、その鋭い顔つきはやはり兄弟だと思うほど似ているし、怖い。特に実弥は、身体中に傷痕があるのもあって、事情を知らなければ堅気の人間とは思えないほどだ。
そんな実弥の後を、暁歩は隊士を担ぎながら付いていく。その外見とは裏腹に、屋敷は結構綺麗に整えられている印象があるが、一歩一歩と前へ進むたびに、妙な予感が頭の中で主張し始めた。
「テメェは訓練には出ねェのか」
「俺は治療要員ですし・・・蝶屋敷で役目もあるので」
「けど隊服は着てるんだよなァ」
「ええ、まあ・・・」
後ろを振り返った実弥が、不敵な笑みを浮かべる。言葉を交わして、その笑みを見て、暁歩はまたしても嫌な予感が強まるのを感じた。
やがて進んでいくと、広い庭にたどり着いた。だが、そこには何十人もの隊士が死屍累々とばかりに横たわっており、しかもほとんどの隊士の身体や顔に腫れや内出血などが見える。あまりの光景に、暁歩も表情が固まってしまった。
「せっかくだし、テメェもやってけェ。胡蝶には伝えといてやるからよォ」
答える間もなく、実弥から木刀をポイっと渡される。担いでいた隊士はそこら辺に放り投げておけと言われたので、ひとまず邪魔にならない塀の傍に横にさせる。
さて、木刀まで渡されて、暁歩はいよいよ逃げられなくなった。
ただ、薬を届けてこうなることは、他の柱の下へ薬を届けに行った時も経験した。その際は、『ついでだしやっていけ』みたいなノリで言われて、なし崩し的ではあるものの一時的に参加している(小芭内に至っては命令形だった)。
だが暁歩は、『役目』があるため長期間屋敷を空けられず、一日で蝶屋敷まで戻っている。そのため移動距離がとてつもなく長く、そんな日の夜は疲労のあまり眠りこけていた。
「暁歩さぁん・・・」
そんな中で、黄色い髪が目立つ善逸がよろよろとやってきた。彼もまた他の例に漏れず、体中に傷を負っていて、顔も少し腫れている。ここが蝶屋敷だったらすぐにでも治療したい衝動に駆られた。
「善逸くん・・・相当扱かれてるようですね」
「相当どころじゃねぇんだよォ!あのオッサン本気で殺すつもりで来てるんだよォ!気ィ抜いたらマジで死んじゃうから!禰豆子ちゃんの可愛さで死んじゃう方が億万倍マシだからァ!!」
涙ながらに訴えてくる善逸から、どれだけ過酷かを感じる。
そんな善逸だが、禰豆子が日光を克服し、言語能力も多少復活したのを目の当たりにして、衝撃のあまり超音波に届くほど叫んだほどだ。その騒がしさときたら、禰豆子の近くにいたきよが一時的に耳が聞こえなくなるほどである。善逸が禰豆子に惚れ込んでいるのは蝶屋敷の全員が知っているが、苦笑気味だった。
「なぁなぁ禰豆子ちゃんは元気なんだろうなぁ!?禰豆子ちゃんがいるから今まで頑張ってきたんだよぉ!禰豆子ちゃんごはんとかちゃんと食べてる!?夜ちゃんと眠ってる!?俺がいなくて寂しがったりしてない!?」
「いや、流石にそこまでは俺も・・・」
矢継ぎ早に訊かれて戸惑う暁歩。
しかし、周りの隊士はそんな善逸を憐れなものを見る目で眺めていた。恐らく、実弥の訓練の厳しさに善逸が壊れて彼女がいると思い込んでしまったと思われているらしい。
「オラァ!休憩終わりだテメェらァ!次行くぞ次ィ!!」
『ひぃぃ・・・』
そこで実弥が木刀を振り回しながら叫ぶと、疲労困憊の隊士は怯えたような声を洩らしながら起き上がり、傍に置いてあった木刀を構える。暁歩に泣きついていた善逸も、実弥の掛け声を聞いて震えあがるように木刀を握った。暁歩も仕方ないと構える。
「かかってこいやァ!!」
『うおおおおおおお!!!』
次の瞬間、隊士たちは一斉に実弥の下へと飛び掛かった。
暁歩はこれが打ち込み稽古なのは分かっていたが、周りの人の必死さに圧されて置いてけぼりになる。そこへ善逸が説明をしてくれた。
「ここでの訓練は、あのオッサンに殺す気で木刀で斬りかかるんです。それで、木刀を掠めたり当てたりすればここでの訓練は終わりです」
「あ、それならこの人数で行けば・・・」
誰か一人は確実に当たるのではないか、と思ったが、善逸は何故か達観したような笑みで首を横に振る。
「ウラァ!!」
実弥が掛け声とともに木刀をぶん回す。次の瞬間、飛び掛かろうとしていた隊士は揃って弾き飛ばされ、水飛沫のように地面に落ちる。なるほど、善逸が泣き叫ぶのや、怪我人が多い理由がよく分かった。
「ちなみに俺ら、ゲボ吐いて気絶するまで休憩貰えません」
「・・・鬼」
顔が青くなる。他の稽古も見てきた暁歩だが、これは一番きつい。隊士たちが地獄と評した理由を理解した。
「オラァ、ぼさっとしてんじゃねェぞォ!!」
そして、突っ立って話をしていた暁歩と善逸を見つけた実弥は、突っ込んでくる。その動きの速さは、まさに光速と言わんばかりのほどで、瞬きの次には実弥が眼前に迫ってきていた。
(・・・今日の夕飯は何かな)
木刀で思いっきりぶん殴られて宙を舞った暁歩は、頭から地面に落ちるまで現実逃避をすることにした。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
暁歩は日が落ちるまで、実弥の稽古に参加することとなった。
だが、あの後も何度も木刀でボコボコにされてしまい、ついぞ木刀を実弥に掠らせることはできなかった。気絶したり吐いたりしなかっただけ、上出来だとは思う。
「戻ったらちゃんと治さないと・・・」
参加していた他の隊士同様、暁歩も顔が少し腫れてしまっていた。今は隊服で隠れているが、恐らく身体中に傷や内出血もあるだろうことが痛みで分かる。ここまでになるとは思わなかったので、自分用の薬を持っていなかった。
(やっぱり柱の稽古って厳しいんだよな・・・)
夜道を歩きながらぽやっと思う。
自分でも全集中・常中の修業を続けていて、瓢箪も標準的な大きさのものであれば破裂させることができるようになった。だが、改めて柱直々に付ける稽古を経験して、自分もまだまだだと改めて実感させられる。
「!!」
その瞬間、嫌な予感がして後ろを振り返る。何かに見られているような、奇妙な視線を感じ取った。
だが、振り返ってみても、目線の先にあるのは明かりの消えた道だけで、他には何も見えない。人影や、獣の気配も感じない。
(・・・誰かに見られていたような・・・)
しかも、敵意や悪意に満ちた視線。そうでなければ、『嫌な予感』は作用しない。
だが、本当に何も見えないので、暁歩はまた蝶屋敷へと向かう道を進んでいく。その後もその悪意ある視線は感じなかったので、多分気のせいかと思った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
蝶屋敷へ戻ると、案の定アオイやきよたちに顔の傷を心配された。だが、実弥の稽古によるものと説明すると『ああ・・・仕方ないですね・・・』と納得されてしまう。運び込まれる怪我人の様を見て伝わってしまい、暁歩もため息を吐く。
「だ、だいじょ、ぶ?」
同じく出迎えたのは禰豆子で、同じように心配してくれる。その背丈に似合わず舌足らずで、仕草もどこか子供っぽいところがあるが、暁歩は大丈夫と笑みを作る。少しだけ善逸の気持ちが分かる気がした
そんな玄関先でのやり取りもほどほどに、暁歩は屋敷に上がってしのぶを探す。帰り際に郵便受けを見たところ、しのぶ宛の手紙があったのだ。
「・・・あの」
「?」
そうしてしのぶの姿を探して屋敷の中を歩いていると、カナヲに声を掛けられる。
「師範・・・見た?」
「いえ・・・今俺も探してるところです。多分食卓か仏間の方だと思いますので、一緒に探しましょうか」
「・・・うん」
そうしてカナヲを連れてしのぶを探す。
カナヲもここ最近は口数が増えてきて、長話とはいかずとも暁歩と言葉を交わすことも多くなった。加えて表情も豊かになってきた気がするし、そのきっかけが炭治郎に対する慕情と来たものだから、実に喜ばしい。
そんなカナヲは、暁歩と違い連日柱稽古に参加しているはずなのに疲れている様子が全くない。全集中・常中を完全にものにしているからだろうが、その姿を見ると少なからず劣等感を抱いてしまう。短期間とはいえ柱稽古に参加してボロボロになった自分の実力不足を、嫌でも実感させられた。
「ふ――――・・・ふうううう・・・」
しのぶは仏間にいた。
しかし、仏壇の前に座ってはいるが、黙祷を捧げていたわけではなく、じっと仏壇を見つめているような様子。加えて、何か気持ちを落ち着かせるように、息を吐いていた。
「しのぶさん、よろしいですか?」
「暁歩さん、カナヲ・・・どうしました?」
その背中に遠慮がちに声をかけると、しのぶは振り向いてくれた。その表情は、いつもと変わらない蝶屋敷の皆に向ける微笑みだ。
だが、そんな振り向いたしのぶを見た瞬間、暁歩は小さな違和感を抱く。しのぶの心の中にある復讐心や怒りを隠すものとは違う、もっと別の何かを隠しているような、そんな笑みに見えた。
何か重大なことを隠している、そんな予感がした。
「お手紙が届いています」
「ああ、どうも」
「それと、カナヲさんが少し御用があるようで」
だが、その抱いた予感はひとまず置いておき、暁歩は手紙を渡して用件を伝える。しのぶは、手紙の内容を流し読みした後でカナヲに目を向ける。
「・・・すみませんが、暁歩さんは席を外していただいてもよろしいですか?」
「あ、はい。分かりました」
離席を求めるしのぶに、暁歩は素直に頷いてそこを離れる。
だが、それでも暁歩の中に不安は募る。カナヲと個人的な話をするために暁歩を外したのは分かるが、どうにも嫌な予感というか、胸騒ぎがしてならない。
右目の奥が焼けるように痛む。こういう時は、大抵自分にとって嫌なことが起きる前兆だ。それが何なのかは分からなくて、どうにももどかしい気持ちになってしまう。
腹に石が詰まっているような感覚を抱きながら、暁歩は一先ず自分の怪我を治すために調剤室へと向かった。
□ □ □ □ □
その数日後の夜、蝶屋敷に訪問者がやって来た。
「夜分に恐れ入ります」
奇妙な二人組だった。一人は、着物を着た妙齢の女性。もう一人は、暁歩と同い年ほどに見える書生のような出で立ちの青年。しかし、青年の方は暁歩を少し不機嫌そうな眼付きで見ていた。
出迎えた暁歩は、予めこの二人の素性をしのぶから聞いている。
「
この二人もまた、鬼だ。
禰豆子と違って陽の光の下には出られないが、鬼舞辻無惨の支配から逃れている特殊な存在。また、人間を喰らわずとも、少量の血を摂取するだけで事足りるようになっているらしい。
「こちらへどうぞ」
この二人を招くにあたって、暁歩は何点かしのぶに気を付けるように言われている点がいくつかある。
その一つが、蝶屋敷の他の人間に悟られないようにすること。
鬼である禰豆子と仲良くなっているアオイたちだが、珠代と愈史郎はまた少し事情が違う。変に不安を抱かせないために、この二人のことは話さないでおくようにと、しのぶからのお達しがあった。
なのでアオイたちには、この二人が来ることは伝えていないし、もし客人が来ても応対は暁歩かしのぶに引き継ぐように言ってある。
「しのぶさんをお呼びしますので、少しお待ちください」
二人を客間に通すと、私室にいるしのぶを呼んで来ようとその場を離れる。
珠代は、その暁歩の言葉に素直に頷いてくれたが。
「さっさとしろよ。珠代様はお忙しい中態々お前たちのために時間を割いてくださったのだからな」
愈史郎がつっけんどんな物言いをしてきた。小芭内のように粘着質ではなく、こちらは随分と直接的だ。
「愈史郎」
「冗談です!」
暁歩はイラっとしかけたが、珠代が低い声で名前を呼ぶと、愈史郎は態度をコロッと変えて撤回した。聞こえないように、暁歩は鼻で息を吐きながら客間を後にする。
「・・・しのぶさん。いらっしゃいました」
『分かりました』
しのぶの私室の障子戸を叩き、他の人に万が一気取られないように名前を言わずに伝える。しのぶもそれで察したか、多くを訊ねずに障子戸を開けて姿を見せる。いつもの笑みは、浮かべていなかった。
それから客間へ向かい、珠代たちと向かいあい顔合わせとなったが、やはりしのぶの表情は優れない。隣に座る暁歩には、しのぶの雰囲気が乱れているというか、少し怒りや憎しみが滲み出ているようにも感じた。
(しのぶさん、落ち着いて・・・)
横から暁歩が声を潜めて伝えるが、しのぶの雰囲気はそれでも軟化しない。
珠代と愈史郎は、輝哉から直々にしのぶに協力するように言われているため、事実上は鬼殺隊に認められている鬼である。それでもしのぶは、禰豆子と違ってこの二人から漂う雰囲気が普通の鬼に近いことから、鬼そのものに対する憎しみや怒りを抑えるのが難しいのだ。
「何だ貴様、珠代様に向かってその目つきは」
運悪く、愈史郎がしのぶの敵意に気付いてしまった。そう言われたしのぶは、取り繕うように笑おうと表情筋を動かすが、どうにもうまくいかない。
「そんな
だが、続く愈史郎の言葉にカチンときたのは暁歩だった。
暁歩からすれば、しのぶの顔立ちは自分がこれまで出逢った女性の中で一番綺麗だと思っており、不細工などと思ったことは一瞬たりともない。
先の言葉は、愈史郎の美感が『珠代以外は全員醜女』と非常に偏ったものだからだが、暁歩はそんな事情など知ったことではなく、自分の好いている女性を侮辱されたことに対して憤る。ただ、流石に露骨に表情に出そうとはせず、恨みの念を飛ばすだけだ。
「・・・・・・」
そして、そんなことを言われて平然としていられないのはしのぶも同じだ。
人の趣味嗜好はそれぞれで、それをとやかく言うつもりは無い。だが、真っ向から自分のことを悪く言われると腹が立つし、しかもそれが鬼となればなおさらだ。収まりかけていた敵意が再び熱を帯び始めた。
「・・・ふぅ」
そんな三人の無言の戦いに、珠代は一人静かに息を吐くのだった。
□ □ □ □ □
散々な顔合わせとなってしまったが、珠代と愈史郎が蝶屋敷を訪れたのは、しのぶと協力して鬼を人間に戻す薬、そしてより強力な鬼を殺す毒を開発するためだ。
禰豆子が日光を克服した今、鬼側も目の色を変えて禰豆子を探しているだろう。 日光下を歩けない鬼たちにとって、それさえも克服した禰豆子はまさに喉から手が出るほど欲しい存在だから。
だが、兼ねてより珠代は鬼を人間に戻す薬を研究しており、協力関係にあった炭治郎からも多くの鬼の血液を採取し提供してもらっていた。炭治郎が以前言っていた『協力者』とは、珠代と愈史郎のことだったのだ。
そこでしのぶと協力して薬を開発し、禰豆子を人間に戻すことができれば、鬼側の野望も潰える。珠代の存在を認知していた輝哉が鎹鴉を通して連絡を取り、共同開発が実現したのだ。
また同時に、鬼を殺す毒も、鬼である珠代の知識を借りてしのぶが開発している。
しのぶが開発していた毒は、十二鬼月の下弦程度には通用していたが、上弦に通用するかは遭遇していないから分からない。だからこそ、来る戦いで上弦と戦った時のために、より強力な毒を作っているのだ。
その中で暁歩は、そうして薬と毒を開発するしのぶと珠代の手伝いをする。これが、しのぶからの頼まれ事だ。
暁歩は、蝶屋敷に来た当初と比べれば、遥かに薬や毒に関する知識が深まっている。それはしのぶや珠代には敵わないものだが、調合する技術に関してはしのぶも一目置いている。その点を買い、しのぶは暁歩に協力を求めたのだ。
(・・・どうも、それだけじゃない気がするんだよな・・・)
しかし暁歩は、未だ納得できていないところがある。
確かに鬼を人間に戻す薬を作るのは素晴らしいことだし、それが完成すれば禰豆子は助かり、鬼との戦いも大きく変わる。鬼を殺す毒に関しても、しのぶの力となれるのであれば本望だ。何よりも、しのぶから頼まれたのであれば断らないわけにはいかない。
だが、どうにもそれだけではない、もっと別の何かが並行して起こっているような感じがする。ずっと自分のすぐ傍で、何か嫌な予感というか、不吉なことが起きる前触れが姿をちらつかせているような気がしてならなかった。
「・・・おや、もうこんな時間ですね」
そんな中で、しのぶが時計を見上げて呟く。そこで、暁歩の中での嫌な予感は霧散し、しのぶと同じように時計を見上げる。時刻は日付が変わろうとしているところだった。
「暁歩さんは、もう休んでもらって構いませんよ」
そう笑って告げるしのぶの表情には、疲れが見える。
鬼である珠代と愈史郎が日光に当たれないため、作業はしのぶの私室で、日中は外部からの明かりが届かないように窓掛けを引き、昼夜を問わず行われている。
だが、あくまで手伝いである暁歩は、夜になったら休むようにしのぶから言われていた。当のしのぶは、昼夜兼行で続けているというのに。
「胡蝶さんも休んでください」
だが暁歩が何かを言う前に、珠代の方がしのぶに声を掛けた。
共同開発が始まってから一週間。最初はしのぶも珠代に対して敵意を持っていたが、珠代自身には人間を襲う気が毛頭なく、そして人間であるしのぶと暁歩に対しても普通に接しているので、二人は珠代とは少し打ち解けてきている。しのぶも、今は珠代に対して微笑み(感情を隠すものだが)を向けられているぐらいだ。ちなみに愈史郎は、未だに打ち解けられる様子がない。
「大丈夫ですよ。私は柱で伊達に鍛えてはいませんから」
「ですが、もう何日も十分な睡眠を摂ってはいないでしょう。少しでも休める時に休まなければ、近い内に始まるであろう戦いには万全の状態で臨めませんよ」
珠代の言葉には、確かに一理あると暁歩は内心で思う。
アオイやカナヲ、きよたちを心配させないように、食事は皆と一緒に摂っているしのぶは、周りから心配されるほどには疲れの色が見えている。傍で作業をする暁歩もそれは分かっていて、十分な睡眠が摂れていないことは明らかだ。
珠代の言う通りで、これから起きるであろう戦いに寝不足の状態で挑んでは、柱であっても命の危険に晒されかねない。今休めるうちに休んでおかなければならないだろう。
「・・・それでもこれは、私にしかできませんから」
だがしのぶはなおも拒む。
「珠代様の厚意を無駄にするんじゃないぞ」
さらには愈史郎も―――やはり少し棘があるが―――休むように言ってきた。
それを受けて暁歩は、しのぶの方を見て口を開く。
「しのぶさん、ここはお言葉に甘えて少し休みましょう。見る限り、しのぶさんも大分疲れているようですし」
暁歩が伝えると、しのぶも少しだけ息を吐いて、珠代に向かって『では少し、休みますね』と言って一度部屋を後にする。暁歩もお辞儀をして部屋を出た。
それから二人で、何の気なしに南側の庭までやって来た。
「鬼を人間に戻す薬も、作るのが大変なんですね・・・」
「そうですねぇ・・・。私も知らない材料があったので、少し驚きました」
庭に立って、隣にいるしのぶに暁歩は話しかける。
そこでまたも、暁歩の中で妙な予感が燻り始める。他意もなく普通に話しかけたはずなのに、なぜこんなことになるのか。
「けれど、暁歩さんが手伝ってくれて安心していますよ」
そんなしのぶは、疲れていても笑みを暁歩に向けてくれる。その笑みは、珠代たちを前にして浮かべていた笑みとは違う、暁歩と接する内に見せてくれるようになったものだ。それでも、暁歩の不安な気持ちは止まらない。
「暁歩さんも、この屋敷に来た時と比べたら、薬にはとても詳しくなりましたよね。だからこうして、今回暁歩さんにも手伝ってもらっていますし」
「・・・ありがとうございます」
どこか過去を懐かしむかのようなしのぶの言葉に、暁歩の中で不安が膨らんでくる。その口ぶりは、暁歩の成長を喜んでいるようで、普通であれば自分でも嬉しく思う。だけど、今は全く喜べない。
「怪我をした方の治療も、もう問題ないですしね。全集中・常中も完全に会得はできていませんが、それでも瓢箪を割るぐらいには身になっています」
「・・・・・・」
「今はもう、暁歩さんもこの屋敷で立派になりました。要と言っていいほどです」
今の暁歩は屋敷にとってとても大切だと、しのぶは言ってくれている。
それなのに、自分の中でチリチリと焼けるように発している嫌な予感が、それを素直に喜ぶことを妨げている。
その言葉は、一体何を思って言っているのだろう。
しのぶは今、どんな気持ちなのだろう。
「もう私がいなくても、大丈夫ですね」
その言葉に、不安が、恐怖が、不吉な予感が、頂点に達した。
「・・・暁歩さん?もしもし?」
何も返事をしなくなった暁歩を不審に思ったのか、しのぶが顔を覗き込んでくる。
だが、暁歩はその呼びかけに応じない。
「え・・・っ」
そして暁歩は、自分の中で肥大化する不安と恐怖に耐えかねて、そっとしのぶを抱き寄せた。
「・・・暁歩、さん?」
腕の中で、突然の行動に困惑した様子のしのぶ。
けれど暁歩は、その腕を決して解こうとはしなかった。
「言わないでください」
「え?」
ようやく声を発したかと思えば、その言葉に主語はない。
しのぶが問い返すと、暁歩は一層しのぶを抱き締める力を強くする。
「いなくても、なんて悲しいこと・・・言わないでください」
しのぶが、ハッとしたような顔を浮かべる。腕の中にいるので、暁歩にはその表情が見えないが、それでも続ける。
「俺にとってしのぶさんは・・・失っていた自信を取り戻させてくれた、そして見守ってくれたとても大切な人です」
「・・・・・・」
「だからこそ、ある日突然いなくなってしまったら、と考えると悲しいですし、そうなってほしくないとも思っています」
暁歩の中にある、しのぶに対する大きな気持ち。
それを伝えようとして、思い留まった。
この気持ちを伝えたら、しのぶの強さを揺るがしてしまうと理性が警告をしてしまったから。
「それに俺だけじゃなくて、アオイさんやカナヲさん、きよちゃんたちも、しのぶさんがいなくなってしまったら悲しむでしょう」
「・・・・・・」
「しのぶさんは、皆にとっても大切で・・・かけがえのない人なんですから」
そこでようやく、暁歩はしのぶを離した。
ハッキリと見えた暁歩の表情は、悲しそうに眦が下がっている。これまで見せたこともないような、とても悲しげな表情だった。
「・・・すみませんね。悲しませるようなことを言ってしまって」
しのぶは、その表情を見て胸がとても痛んだ。身体を斬られるように心が痛み、謝ってしまう。そんな顔をしてほしくないと、切望してしまう。
「少し、気弱になってしまってました」
「・・・?」
「これから・・・大きな戦いが始まる、と思うと」
しのぶもまた、何かを言いかけるような兆候があった。だが、視線を僅かに下に向け、次に暁歩を見る時には何事もないように笑みを浮かべる。
「・・・暁歩さん」
「?」
「これを」
それからしのぶは、懐から小さな瓶を取り出して、それを暁歩に差し出す。中に入っているのは、紫色のとろみのある液体。毒だと、暁歩は直感で理解した。
「・・・近い内に起こるであろう戦いに向けての、護身用です」
暁歩は基本蝶屋敷にいるので、戦いに巻き込まれる可能性は低い。だが、戦いとは命の選別なく誰かを巻き込み、時として無関係な人まで巻き込む。それに備えて、しのぶは毒を渡した。
「珠代さんと調合して、より強力なものになっています。これを渡しておきますよ」
暁歩はそれを受け取り、手のひらの上に載せてじっと眺める。
「私も、暁歩さんにはいなくなってほしくないですから」
先ほどの暁歩と同じ願い。それを考えて、この毒を託す。
「・・・ありがとうございます」
暁歩は小瓶を受け取って懐に仕舞う。それを見届けたしのぶは、一度頷いてから星空を見上げる。
「・・・さて、それでは少し休みましょうか。せっかく珠代さんが気を利かせてくれたんですから」
そうしてしのぶは、『おやすみなさい』と言って屋敷へと戻る。
一方で暁歩は、それを見送りながら、懐から毒の小瓶を取り出した。
自分の中で渦巻いている、得体の知れない嫌な予感。それはしのぶと接している中で大きくなり、とても気のせいと思うことはできない。
来る大きな戦いで、もし自分が戦うことになったら。
その相手が強大な存在だとしたら。
自分にはまだ何か、できるのではないか。
そう思った暁歩は、申し訳ない気持ちを抱きながら調剤室へと向かった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
私室が調合に使われているため、しのぶが休む部屋は二階の特別室だ。普段自分はここで治療を受けることがないので、ここで寝るのも新鮮な気持ちである。
その寝台の上で、しのぶは先ほどまでの出来事を思い出す。
―――いなくても、なんて悲しいこと・・・言わないでください
これから起きることと、自分の背負った覚悟を思い、柄にもなく弱気なことを言ってしまった。
そして、暁歩が自分を抱き締めてくれた。
しのぶにとって、男に抱き締められるなんてことは初めてだ。
けれど、暁歩の腕の中は、とても温かくて、優しい匂いがして、全てを吐露してしまいそうになるような安らぎを与えてくれた。
(・・・・・・)
布団の中で自分の胸に手を置く。
あの時、自分の心臓の鼓動が少し早まったのを、しのぶ自身は感じ取っていた。だが、それが初めての出来事に緊張していたから、とは少し違う気がする。
しのぶはすぐに首を横に振った。
「・・・もう遅いんですよね」
未だしのぶは、自分の中に宿っている新しい感情がどういうものか、分からない。
だが、仮にこの気持ちが『そう』だったとしても、自分で言った通りで遅かった。
そして、今の自分の全てを伝えることなんてできない。この気持ちと、カナヲにしか明かしていない事実を言えば、それこそ暁歩は悲しい顔をするだろう。
本当に罪悪感が強くなる。しかし、引き返せないところにしのぶはいた。
全ては自分の大きな願いのためであり、悲しい目標に向かうためでもあるのだから。