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「産屋敷邸襲撃ィ!産屋敷邸襲撃ィィ!」
夜の静けさを貫く鎹鴉の鋭い通達。
それを聞いた瞬間、調剤室にいた暁歩はハッとして、傍らに置いてあった日輪刀を掴み南側の庭へと出る。
すると丁度、しのぶが屋敷を文字通り飛び出して、産屋敷邸があるらしき方角へと向かうところだった。
産屋敷邸は、鬼殺隊の当主・輝哉が生活をしている居宅。そこを襲撃されたとなれば大事だし、同時にそこを襲った相手もまた大物だと分かる。
(・・・始まったのか)
これは間違いなく、鬼殺隊と鬼の総力戦の始まりを知らせるものだろう。暁歩もこれまでに、何人もの人からそう聞かされていた。
もしかしたら、産屋敷邸を襲ったのは、禰豆子を狙っている鬼舞辻無惨かもしれない。鬼の祖の強さがどれほどかは分からないが、自分なんかでは相手にならないことは目に見えている。
ならば今は、自分のやるべきことをやろう。そう思い、暁歩は調剤室へ戻る。
机の上には、調べ物をするのに取り出した資料と、試験管などの実験器具、そして紫色のとろみがある液体が入った瓶がある。暁歩はその小瓶と、針と縫合糸、包帯、止血剤などの応急処置用の道具や薬を腰袋に入れて、戦いの準備を整える。
それからもう一度、庭に出る。夜空には月が浮かんでおり、ここにしのぶがいたら『月がきれいですね』とでも言っていただろう。それぐらいには、今夜の月も綺麗だった。
その時。
「え?」
自分の足の裏にある地面の感覚がなくなった。
下を見ると、何故かそこには障子戸が開いていて、そのさらに下には無限に続くかのような空間が広がっている。
「―――――っ!?」
何かを叫ぶこともできず、重力に逆らえずに落下する。
落下する中で、暁歩は身体を捻り、壁を蹴って渡り廊下らしき場所へ着地し、どうにか助かった。
「何だ、ここ・・・」
周囲を見渡すが、そこは異様な空間だった。果てしないほど広く、階段や渡り廊下、障子戸や襖が上下左右を問わずに点在し、平衡感覚が狂いそうになる。すぐに血鬼術の類であると判断できたが、なぜ自分がこんなところに落とされたのか分からない。
その直後、背後に気配を感じて即座に抜刀し、振り向きざまに横に斬る。
「・・・・・・」
魚のように、妙にしっとりとした形状と質感の鬼が、こちらに向けて牙を向けているところだった。運よく頸らしき部分を斬り落とせたので、謎の鬼は塵芥と化して消えてしまった。
眼前に不気味な鬼が迫り、自分が死の一歩手前にいたのを今になって再認識し、背中に悪寒が走る。しかし、気配を察知してすぐに対処できたのは、自分でも成長していると思えた。
「痛っ・・・!」
だがその時、雷が落ちるような鋭い痛みが、暁歩の脳に走る。
これは間違いなく、『予感』だ。
だが、これほど強い痛みを伴う『予感』は初めてだ。つまりは、それだけ暁歩にとって何かとても辛く、悲しいことが起きる前兆。
ここは間違いなく血鬼術で生み出された場所であり、、産屋敷邸が襲撃されたことも考えると、自分は恐らく総力戦に巻き込まれてしまったと考えられる。
だとすれば、他の隊士や柱までもこの空間に引き込まれたのだろう。暁歩一人がこんな広大な異空間に引き込まれたとは考えにくい。
そうなれば、しのぶも同じようにこの空間に落ちたはずだ。
そして、先ほど働いた『嫌な予感』。もしかしたら・・・
「!」
その可能性に気付いた直後、考えるのを止めて一気に駆け出す。
しかしこの空間は、構造が複雑すぎて誰がどこにいるのかを認識するのが非常に困難だ。こんな場所でしらみつぶしに探すのも時間の無駄だろう。
そんな中で暁歩は、先ほどから頭の中の予感に伴う痛みが、移動するにつれて強くなっているのを感じた。もしかしたら、この予感の出所に近づくにつれて、この痛みは強くなってきているのかもしれない。
それを頼りに暁歩は、謎の空間を駆ける。
(間に合え・・・間に合え・・・!)
途中でよく分からない鬼が出現するが、恐れも怯えも抱かずにただ刀で斬って、斃したかも確認せず進み続ける。今重要なのはこんな鬼ではない。
階段を下り、渡り廊下を駆け抜け、時には一つ下の階層へ飛び降りて、自分の中で主張する嫌な予感を頼りに突き進んでいく。
やがて、扉が開いている一つの部屋を見つけた。その反対側には、蓮の花が浮いた溜池がある。
その部屋を見た瞬間、右目が引き抜かれるような激痛が走った。
脇目も振らずに部屋の中へと飛び込む。
一見すると、戦闘の跡は見られるが誰もいない部屋だ。
ふと天井を見上げると、しのぶがいた。だが、天井にめり込んでいる鬼らしきものに抱き留められていて、逃げられないのか何の抵抗もしていない。
それを見た瞬間、声を上げるよりも前に、呼吸を整えて跳躍した。
―――樹の呼吸・伍ノ型
―――柳枝抱擁
◆ ◆
「いやぁ、気付かなかったよ。何せ音もしなかったからさ」
暁歩がしのぶをゆっくりと床に横にさせる後ろから、天井から降りた童磨が感心したように声をかける。
暁歩の使った『柳枝抱擁』は、軽い身のこなしと繊細な太刀筋によって、狭い範囲の細かい部分を器用に斬る技だ。これで、しのぶを抱き留めていた童磨の腕だけを斬って、しのぶを救出したのだ。
「なん、で・・・こ、こが・・・?」
「
暁歩がここまで辿り着いたのが疑問なのか、しのぶがおぼつかない喋り方で訊ねる。だが、暁歩は手短に答えてしのぶの怪我を診る。
その時、暁歩たちの後ろにふわっと別の誰かが立ったような気配を感じた。少し振り返ると、カナヲが刀を構えて童磨と対峙している。
「・・・カナヲさん。少しでいいので、時間を稼いでもらえますか」
「・・・・・・」
カナヲは応えないが、今は時間が惜しい。その沈黙を了承と受け取った暁歩は、腰に提げていた袋から包帯や止血剤、縫合糸と針を取り出す。
一目見ただけで、しのぶの怪我はひどいと分かる。特殊な繊維でできている隊服を裂くほどの攻撃を受け、出血も少なくない。肺に異常をきたしているのか、呼吸も不規則でおかしい。
「・・・失礼しますね」
断りを入れて暁歩は、しのぶの隊服の前を開く。出血が多く、下に着ていたシャツまで赤く滲んでしまっていて、それを見ると胸が痛くなる。だが、少しでも助かる可能性を上げるために、そのシャツも脱がせる。本当なら白磁のような綺麗な肌だっただろうに、今は傷口から流れた血で赤く染まっていた。
胸が張り裂けそうな思いになるが、今はしのぶだ。清潔な手ぬぐいで傷周りの血を拭き取り、さらに縫合糸と針で傷口を縫う。ただ、傷の範囲が広いために、手持ちの縫合糸を全て使い切ってしまった。
「・・・師範は、あいつに毒を盛るつもりだった」
カナヲが、童磨と対峙しながら暁歩に話しかける。
だが、そのカナヲの言い方は、しのぶがいつものように毒を打ち込んで戦うのとは少し意味合いが違うと、暁歩には分かる。
「・・・・・・」
しのぶのことを見ると、視線を横に逸らす。
それで暁歩も、察しがついた。きっとしのぶは、自分の命を投げ出そうとしていたのだと。しかも今来たカナヲが知っていたということは、それはずっと前から決めていたことなのだろう。
それが、暁歩がここ最近でずっと抱いていた妙な引っ掛かり、違和感、『嫌な予感』の正体だ。
「けど・・・これで・・・」
カナヲの言いたいことは分かる。
暁歩がしのぶを助けたことで、その作戦も失敗に終わった。
しのぶの覚悟を聞き届けて、カナヲ自身も納得できない自分の心を押し込んで納得させ覚悟をした。だからこそ、事情を知らなかったとはいえ、暁歩がお釈迦にしたこと対して複雑な気持ちでいる。
暁歩だって、自分で命を懸けること、それに従うことの覚悟の重さは分からなくもないし、そんなカナヲの気持ちも今だけは分かる。
「・・・俺が戦いの邪魔をしたことは謝ります」
しのぶの怪我を診ながら、暁歩はカナヲに話しかける。
この場でできる応急処置と言えば、傷口を縫って塞ぎ、止血剤を塗って少しでも血の流れを抑えることぐらいだ。だが、傷が深いせいで、出血を完全に止めることができない。
「でも、カナヲさんは・・・しのぶさんが死んでも本当に良かったんですか?」
「・・・・・・」
問われて、カナヲは俯く。
カナヲにとってのしのぶは、今日まで育ててくれた実の姉のような存在。その姉が覚悟を決めたのなら、自分もそれに応えるべきだと、カナヲは自らに言い聞かせていた。
だが、そのしのぶが死んでしまったら?
改めて訊かれると、カナヲは答えに詰まる。
復讐を果たしたところで、しのぶはもうこの世界からいなくなる。この戦いで生き残り、蝶屋敷に戻り、またアオイたちと一緒に暮らせるようになっても、そこに自分が慕うしのぶはもういない。
言葉を交わすことはおろか、姿を見ることさえ二度とない。
それでもカナヲは、本当に良いのか。
「・・・・・・」
改めてそれを考えさせられると、怖くなった。
唇が震え、瞳が揺れる。
自分の中に押し込んでいた、『生きてほしい』という気持ちが再び浮かび上がってくる。
「・・・嫌だ」
自分の震えを押さえるように、自らの腕を掴む。
「嫌だ・・・」
「それで、十分です」
明確に自分の意思を示してくれたカナヲに、暁歩は頷き返す。しのぶに死んでほしくないと思うのであれば、暁歩はそれに全力で応えるのみだ。
急ごしらえとはいえ、できる限りの処置を終わらせる。さらに暁歩は、自分の羽織を脱いでしのぶの身体に掛けた。
「・・・しのぶさん」
静かに暁歩は話しかける。しのぶは声を発さず、視線を暁歩に向けるだけだ。
「あなたがいなくなったら悲しむ人はいると、俺は言ったはずです・・・アオイさんやきよちゃんたち、そしてカナヲさんも」
「・・・・・・」
「もちろん俺だって、悲しいです。だから、もう二度と・・・自分から犠牲になろうとはしないでください」
肩にそっと手を添えて、暁歩は優しく言い聞かせるように告げる。
そして、傍に立っているカナヲもまた、しのぶのことを見つめている。先ほどの本音は、しのぶにも聞こえていただろう。
しのぶは、静かに目を閉じた。
「・・・アイツ、の、冷気・・・吸わな、いで」
「・・・はい。しのぶさんも、無理に動かないようにしてください」
能力を少しだけでも教えてもらい、暁歩は立ち上がる。
「手当ては終わったかい?」
童磨が鉄扇をひらひらと手の中で動かしながら、問いかけてくる。
上弦の弐。
しのぶが好きだった姉・カナエの仇であり、しのぶにあれほどひどい怪我を負わせた張本人。それでもなお嗤っているこの童磨に対し、暁歩の中でふつふつと怒りが込み上げてくる。
「無駄だと思うけどねえ。その子の傷、深いもの」
傷を負わせた張本人のくせして、困ったような笑みを浮かべる童磨。
しのぶの処置をしている間、童磨は攻撃をしなかった。
それはカナヲが護衛をしていたからでもあるだろうが、同時にしのぶが助からないだろうから、『無駄』だからと思っていたからか。
「だから俺が救ってあげようと思ったのにさ。これじゃあの子は、この先苦しみ続けることになっちゃうよ?」
「救う?自分で傷つけておいて?」
ここで感情に任せて突っ込んでも、返り討ちに遭うだけだ。
暁歩は、今にも暴れ出しそうになっている自分の心を押さえつけて、冷静になれと言い聞かせる。
「俺はね、悩みや苦しみを抱えている可哀想な人たちを救っているんだよ。万世極楽教ってところでね」
「ああ・・・たまに帰ってこない信者がいるって噂のあの胡散臭い宗教ですか」
「お、知ってるんだ。いやぁ、俺の宗教も大分有名になっているんだなぁ」
まだ暁歩の両親が存命で、実家の薬屋にいたころ。客の老人たちが噂しているのを覚えているが、まさかその教祖がこいつとは。
「苦しんでいる信者の想い、そして血肉を受け継ぎ、魂を救い更なる高みへと導く。それが俺の役目なのさ」
「・・・・・・」
「もちろん信者じゃなくても救おうと思っているよ。その子もね」
横たわるしのぶを鉄扇で指す童磨。
気取ったように語るこの鬼に、暁歩もカナヲも不快感を募らせているが、暁歩は目元をひくつかせながら言葉を紡ぎ出す。
「死ねば救われるってことですか。気色悪い、正気の沙汰じゃないですね」
「あらら・・・初対面なのにひどいなあ。っていうか、あの子と言ってること同じだね」
全く傷ついていないような調子で童磨がしのぶを見る。
「その子は可哀想な子なんだ。俺が大勢の人の魂を救っているのを理解できないうえに、復讐なんて無意味なことまでしようとしてたんだから」
可哀想。
復讐なんて無意味。
その言葉に、カナヲと暁歩は目を見開いた。
「あの子のお姉さんの仇が俺だって知って怒ってたけど、復讐なんて本当に意味のない、憐れなことだよ」
「・・・・・・」
「死んだ人の無念を晴らしたって、何の足しにもならないんだから。死んだ人は蘇らないし、どう思うのかも分からない。人は死んだらそこで終わりなんだから、結局はただの自己満足、空しいだけだよ」
「黙れ!!」
激昂したのはカナヲ。
カナエが亡くなった後、しのぶは唯一の肉親さえも喪って悲しんでいたことは覚えているし、それ以来復讐心を胸に一人で戦い続けてきたのも知っている。
感情を表に出せなかった時のことだから、その時カナヲは涙を流せなかった。
しかし、感情を取り戻してきた今は、その時涙を流せなかったことを悔いている。
そして、しのぶがどれほどの思いでここまで来たのかを何も知らないこいつが、復讐される側にある童磨が『憐れ』『空しい』と切り捨てることに激しい憤りを感じる。
「だから俺は決めたんだ、あの子を喰べて救おうって。俺の血肉となって、深い傷の痛みと、空しい復讐心から解放してあげようってね」
薄ら寒いほどの爽やかな笑みで、しのぶの決意を侮辱する童磨に対し、カナヲの怒りが沸点を越える。
その怒りに耐えかねて、前に駆け出そうとすると。
「ふざけるのも大概にしろよ、この糞野郎」
背中に悪寒が走り、動きを止めるカナヲ。
静かに隣を見ると、暁歩がいる。ゆっくりと刀を鞘から抜き、淡い花萌葱の刀身が姿を見せていた。
そんな彼からは、目に見えないはずの殺気や怒気が纏わりついているかのように見える。その表情は怒りで歪んでいるのではなく、一切の余計な感情を捨てているようで、鋭い目つきで童磨を睨んでいる。
「人を喰うことが救うこと?苦しみから解放すること?まったく度し難い、吐き気がする」
小刻みに、日輪刀を握る暁歩の手は震えている。だが、それは決して恐怖から来るものではないと、カナヲは分かった。そして、こんなにどす黒い感情を露わにする暁歩も、カナヲは初めて見る気がする。
「人を『救う』のは・・・身体に刻まれた傷を治して、命を繫ぎとめることだ」
暁歩が思い浮かべるのは、蝶屋敷で治療に尽力するアオイやきよ、すみとなほ、そしてしのぶ。彼女たちは、鬼と戦って傷ついた隊士の皆の傷を治し、命を救おうと、それぞれにできることを一生懸命頑張っていた。
そんな彼女たちの姿勢こそが、『救う』と言うにふさわしい。
「そして、心の傷に寄り添って、苦しんでいる人を癒して、重荷を一緒に背負うことだ」
身寄りのないきよたちを引き取って、暁歩の過去の話を聞いて言葉まで掛けてくれたしのぶ。そんなしのぶの身を案じていた蜜璃。鬼になった禰豆子を見捨てず、アオイやカナヲの中の蟠りを解いた炭治郎。傷ついた隊士を見舞い、言葉を掛ける輝哉。
そして、しのぶの姉であり、今は亡きカナエ。暁歩の隣にいるカナヲを幼少期に窮地から救い出し、さらに憎いであろう鬼さえも救おうとした。結果としてこの童磨に殺され、暁歩も実際に会ったことはないが、それでも暁歩はそんなカナエのことも尊敬していた。
そんな皆の行動こそ、暁歩にとっては『救う』と言えるべきものだ。
「だがお前は、高みへ導くだのなんだのと御大層な理由をつけて救っているつもりだろうが、その実やってることはただの人殺しだ」
苦しみから解放するために殺すなど、幾度となく命を救い、心の傷から救う場を何度も見てきた暁歩からすればあり得ない。
理由は何であれ、苦しみを背負って万世極楽教の戸を叩いた者も、最初から死ぬつもりで来たわけではないはずだ。誰もが苦しみを自分だけで背負い、それに耐えきれず、その背負うものを軽くするために、あるいは一緒に背負ってくれるものを求めていたはずだ。
だがこの童磨は、『死こそが苦しみからの救済』と信じてやまない、歪んでいる奴だ。暁歩にとっては対極の存在であり、相容れない。
だが童磨は、暁歩の言葉を聞いて『やれやれ』と手を広げて首を横に振る。
「俺の行いを理解できないなんて・・・君も可哀想な子だなあ」
「・・・・・・」
「何か辛いことでもあったのかな?よければ聞いてあげよう」
そして、憐れなものを見る目で暁歩を見る。
こいつには何を言っても無駄だと、暁歩は理解した。
「・・・俺の辛いことは」
だが、そんな童磨に一つ言っておきたいことがある。
柄を強く握り、力と怒りを籠めて。
「しのぶさんがお前に傷つけられたことだ」
臨戦態勢に入ったのを見て、カナヲも構える。
そうして二人が構えたのを見た童磨は、同じように鉄扇を広げて構えようとする。
―――樹の呼吸・肆ノ型
―――落葉一閃
だが、次の瞬間には暁歩がそこにおらず、気付けば童磨の後方に立っていた。そして、童磨の右肩から脇腹の辺りが浅く切れる。
暁歩の隣に立っていたカナヲは、動体視力が非常に優れているため、暁歩が一瞬で童磨との距離を詰めて斬ったのは見えていた。だが、その動きの速さは呼吸法によるものもあるだろうが、決して素人のそれではない。
「やるねぇ。速いうえに音もしないから、危うく頸を斬られるところだった」
しかし童磨は気にせず、けらけら笑って暁歩を振り返る。傷はすぐに再生していた。
暁歩はもちろん、頸を斬るつもりだった。だが、童磨は樹の呼吸法の中でも動きが速い『落葉一閃』を見切り、回避した。となれば、童磨の動体視力も非常に優れたものであると窺える。
(なら、次の技で・・・)
そして童磨が暁歩に気を取られている間に、カナヲが攻撃を仕掛ける。こちらも頸を斬ろうと狙うが、今度は童磨の左手に持つ鉄扇で防がれる。さらに右手に持った鉄扇を振って逆に斬り返そうとするが、その前にカナヲは後ろへ飛び退いて攻撃を躱す。
(反応が早いなあ)
童磨が鉄扇を振ろうとする前に、カナヲは回避行動をとった。何かしらの攻撃を予知できる力を持っているのかもしれない。
だがその間にも、暁歩は床を蹴って壁に飛び移り、さらには壁を伝って天井まで上がり、童磨の上から斬りにかかる。
「わあ、速いし身軽!猿みたいだね!」
感心したように言いながら、童磨は鉄扇を構える。
―――樹の呼吸・玖ノ型・・・
―――血鬼術・
呼吸を整え技をぶつけようとした直後、童磨が鉄扇を振るう。次の瞬間には童磨の脇に氷でできた二輪の蓮の花が出現し、花びらから霧のような冷気が発生する。
それを認識した瞬間、しのぶの忠告を思い出し、左手で口と鼻を押さえ呼吸を止め、刀を振るい攻撃を仕掛ける。童磨には避けられてしまうが、冷気は吸わないで済んだ。
(冷たい・・・!)
だが、冷気を完全に振りほどくことはできなかった。纏わりつく冷気で皮膚が固まるような感覚に顔を顰める。
そして、しのぶがあんな忠告をしたということは、冷気を吸ってしまったのだろう。そうであれば、呼吸が妙な感じだったのも恐らく呼吸器が凍ってしまっていると理由がつくし、尚更時間はかけられないと思う。
「っ!」
一方でカナヲは、童磨が跳んで避けたところへ先回りし、呼吸を伴わない刀裁きだけで童磨と対等に渡り合っている。
カナヲはしのぶが直々に修業を付けており、全集中・常中まで身に付けているから柱に及ぶほどの実力を持っているのだ。
しかし、実際に柱であるしのぶは童磨には敵わなかった。暁歩はその事実に足がすくみそうになるが、自分はしのぶを助けるためにここへ来たのだ。怯えている暇はないと自分に言い聞かせて、加勢しにかかる。
「君、動きがいいね。もしかしたらさっきの子より強いかも」
斬り合いながらも童磨はカナヲの動きを称賛する。
カナヲは、優れた視力を活かして、童磨の身体の四肢だけでなく関節の初期動作を冷静に見切り、攻撃を仕掛けてくる前にそれを防ぐ戦い方をしている。人並み外れた視力がなければできない芸当だ。
だが、斬り合いの中で童磨はカナヲの視力が優れていることに気付き、手っ取り早く目を潰そうと扇子で斬りかかる。
それをカナヲは、上体を後ろに逸らして鉄扇を避けた。少し目元が斬れてしまったが、さして支障は無い。
―――樹の呼吸・壱ノ型
―――大樹倒斬
そして、カナヲが上体を逸らしたところを見計らって、暁歩が童磨の背後から頸を斬ろうと呼吸法で刀を振るう。それを察知した童磨は、上体を前に屈めてそれを躱し、暁歩はやむなく童磨の背中を蹴ってそのまま前へ出て、カナヲの横に立つ。
「二人ともいいね。それじゃ、俺も少し頑張ろうかな」
鉄扇を開く童磨に、何か仕掛けてくると暁歩とカナヲは身構える。
そして次の瞬間に童磨が距離を詰めたのは、暁歩の方だった。
「!」
―――血鬼術・
鉄扇を近距離で連続で振るってくるが、暁歩は瞼が裏返りそうになるほど目を見開き、必死で刀を振り鉄扇を防ぐ。見る限りこの鉄扇は殺傷性が高く、当たると怪我は免れないし、冷気を纏った斬撃なので迂闊に呼吸もできない。
『予感』が働かなければ、最初の攻撃で暁歩の首も飛んでいただろう。
暁歩は、上弦の弐である童磨に啖呵を切ってはいたが、実戦経験は少ない。全集中・常中も完全にものにはできていないから、戦闘力は決して高くなかった。それは暁歩自身も分かっている。
(それでも・・・しのぶさんを死なせるわけにはいかない)
今までは、自分が死ぬことに対する恐怖で戦えなかった。
しかし暁歩の脳裏には、弱ったしのぶの姿が克明に刻み付けられている。そして、蝶屋敷で優しい笑みを浮かべていた姿を同時に思い出し、胸がひどく痛む。
そして、そうさせたのは目の前にいる童磨。しのぶに強い復讐心を植え付け苦しめて、自分から死ぬ覚悟を背負わせるまでに至らせた存在。さらに、こうして戦う今も、しのぶは童磨に身体を傷つけられて、命の灯は消えかかっている。
(よくも・・・しのぶさんを・・・!)
しのぶのことを好きでいる暁歩からすれば、しのぶを心身共に大きく傷つけ、人の命を弄ぶこの童磨が憎くてたまらない。今すぐにでも頸を斬り落として地獄へ叩き落したい。自分の死など、それと比べれば関係ない。
血液が沸騰しそうになるほどの強い怒りが、今の暁歩の原動力だ。
「っ!」
暁歩は刀を上に振り上げて、鉄扇を弾いた。
「おっ」
意外な反撃だったのか、童磨はぽかんと口を開ける。
だが、すぐに弾かれた鉄扇を振り下ろした。
―――血鬼術・
すると今度は、数えきれないほどの氷の粒が暁歩へ襲い掛かってくる。
直後に暁歩は、後ろへ下がって距離を取ろうとする。だが、迫りくる大量の氷の粒を避け切れず、腕や脚の一部に喰らってしまう。痛みが走るが、どうにか上へと跳び上がって避け切ることには成功した。
そこでカナヲが、横合いから童磨に斬りかかる。それも童磨は冷静に見切り鉄扇で防いだ。
―――樹の呼吸・捌ノ型
一方、上へと跳んだ暁歩は、自分の周りに冷気がないことを肌で感じ取り、呼吸を整えて技を構える。
―――松絡旋刃
天井を蹴って、身体を捻りながら童磨へと突進する。
カナヲは先に暁歩の攻撃に気付いてさりげなく距離を取るが、童磨もそれより少し遅れて攻撃に気付く。後ろに飛び退いたために攻撃は交わされてしまい、着地の瞬間に暁歩は氷の粒を喰らった足が痛んだ。
「危ない危ない」
対して危機感を抱いていなさそうな童磨の声だが、冷気が払われた今なら仕掛けられる。
カナヲは暁歩と視線を合わせて頷き、お互い呼吸を整えて刀を構える。
そして小さく頷くと。
―――樹の呼吸・参ノ型
―――樅葉尖突
その直後、暁歩は童磨との距離を一気に詰め、胸の中心に刀を突き刺す。
「だから突き技じゃ鬼は斃せないんだってば」
刺されてもなお陽気な童磨。
だが、暁歩の背後からカナヲが飛び掛かり、低い体勢の暁歩を越えるようにして童磨に斬りかかろうとするのに気付く。すると童磨は、暁歩の腹を蹴り上げて、斬りかかってくるカナヲに暁歩をぶつけて動きを止めさせた。
「すみません・・・」
童磨から引きはがされても日輪刀は手放さず、起き上がりながらカナヲに謝る暁歩。カナヲはそれには応えないが、立ち上がって再び童磨を見る。
「どんどん行くよー」
だが、童磨との距離は離されてしまい、血鬼術を発動する準備までできてしまっていた。
―――血鬼術・
童磨の足元に、氷でできた二輪の蓮の花が咲き、その花弁から女性の顔のような氷の塊が出現する。
そして、その女性の氷像が息を吹くように冷気を発生させた。広範囲に広がるそれを避けようと、暁歩とカナヲはそれぞれ左右に別れる。
だが、着地すると足元にいくつもの丸い影が浮かび上がってきた。
―――血鬼術・
頭上から何かが落下してくると気づき、影を避けるように前後左右へ移動する。
直後、人の背丈以上の大きさの氷柱が降ってきた。直撃したらまず間違いなく絶命していただろう。そして、どうにか避けても氷柱の数が多く、脇腹や肩を掠めて熱と痛みが伝わってくる。カナヲの様子をちらっと見るが、まだ無事なようだ。
「おーい、こっちはいいのかい?」
そこで童磨が声を掛けてきた。何のつもりだと思ってそちらを見たら、しのぶに近づいているところだった。
その直後、暁歩は痛みも忘れて童磨に向かって突進する。
それを見ても動じない童磨は、暁歩の額に当たる位置に鉄扇を横に構える。しかし暁歩は、上体を逸らして鉄扇の下を潜るようにし、刀を右に振る。
「面白いなぁ。そんな死にかけの子を守るなんて」
童磨はその場におらず既に移動していて、刀は空を切るだけだった。
そしていつの間にか、暁歩の腕や足に切り傷がついている。それから遅れてくる痛みに意識が揺らぐが、頭を振って痛みに耐える。
その時ふと、横たわるしのぶと視線が合った。しのぶは、呼吸は細くても一応はできているが、苦しそうな表情を浮かべている。
そして、案じるような視線を暁歩に向けてくれていた。その視線に暁歩は、気丈に笑って応えて見せる。
「そんなに見つめても怪我は治らないし、何にもならないよ」
―――花の呼吸・弐ノ型
―――
人の命を踏み躙って煽る童磨に、カナヲが呼吸法を使った技で斬りかかる。暁歩から見れば無数の連撃に見えるそれも、童磨には掠りもしなかった。
童磨の血鬼術は氷・冷気を扱うと身をもって分かった。しのぶの言葉から、恐らく冷気を吸うと肺が凍り付き呼吸が難しくなるのは分かるし、それは確かに厄介だ。
けれど、禰豆子の血鬼術のように燃やしたいものを燃やせる、というほどの自由度の高さでもなさそうだ。冷気に気を付ければ問題ないのを考えればまだ戦いやすいと思う。それほどの実力が暁歩にないのが難点だが。
「けど二人共、不思議だねぇ。肉感とかからして君たちはあの子と兄妹って感じでもないし、しかも虫の息じゃない。どうしてそんな子のために命を張るのかな?」
小首を傾げて訊いてくる童磨に対して苛立ちは止まらない暁歩とカナヲだが、その視線が合う。
「俺たちにとってしのぶさんは・・・大切な人だから」
暁歩とカナヲが、しのぶに向けている感情はそれぞれ若干違う。それでもしのぶを大切に想っていることに変わりはなく、だからこそ守る為に自分の命を迷いなく張れる。
「へえ、面白いね!大切な人だから、そんな理由で戦えるなんて。素晴らしい!」
「あなた、そんなこと思ってないんでしょ?」
パチパチと笑って拍手をする童磨に、冷淡な言葉を投げたのはカナヲだった。
今度は暁歩が、妙な寒気を感じてカナヲの方を見る。いつもとはまた違う、感情が籠っていないというか、感情が読めないその言葉に、言い知れない恐ろしさを感じた。
「・・・どういうことかな?」
「嬉しい、楽しい、面白い、悲しい・・・感情が動く時、普通なら血の流れや肌の色も変わるの。けどあなた、口では色々言って表情もコロコロ変わってるのに、それが全然変わってない」
「それは、俺が鬼だからだよ」
「鬼でも血は流れているし、筋肉だってある。回復速度とかを除けば、鬼は基本的に人間と同じ。だから表情の変化も、人間と同じはずなのよ」
感情は、表情に変化をもたらすだけでなく、血液の流れ、体温や肌の色の変化も伴って表れるものだ。そして表情こそ自分で取り繕うことはできるが、流石に体温や血液までは自分で完全に掌握できない。
視力の良いカナヲは、童磨が本当に表情
「あなた、何も感じないんでしょ?」
童磨の表情が凍る。
対照的に、カナヲは笑っていた。それも、普段浮かべているゆったりとした笑みではなく、いっそ恐ろしさすら抱くほどの獰猛とでもいうべき笑み。それを横から見た暁歩は、ぞくっと背中が凍り付くような感覚になった。
「・・・この世の色々な出来事に心が動かされるのは、色んな感情を持っていて、それを表現できる人間にとって当たり前のことで、同時に素晴らしいことなの」
「・・・・・・」
「それが理解できないなんて、可哀想」
実の親からも暴力を振るわれて、心を閉ざし、感情を失った時期があるカナヲ。そんな彼女の口から、感情を抱くことの素晴らしさを聞かされた暁歩は、物悲しい気持ちになる。
しかしカナヲも、多くの人と接して感情を取り戻した。自らを拾ってくれたしのぶとカナエ、想いを寄せる炭治郎。そして、彼女と一緒にいてくれる蝶屋敷の皆。
その中でカナヲは、本来の感情を取り戻し、だからこそ感情を持つことの素晴らしさを理解できた。言うなれば、皆との出逢いが、カナヲの心を救ってくれたのだ。
「あなた、何のために生まれてきたの?」
だからこそ、感情を持たない、感情を理解できないこの童磨が、心底憐れだった。
感情を持つことの素晴らしさを理解できず、ただ鬼となって人を喰らうことしかできない童磨が。
―――血鬼術・蓮葉氷
突然、童磨が血鬼術を発動してきた。蓮の花から吹き出る冷気を吸わないよう口と鼻を押さえ、さらに届かない範囲まで避ける。
―――血鬼術・
さらにその蓮から無数の氷の触手が伸びてくる。今度は刀を振って蔓を切り刻み、これを退ける。
「・・・そんなこと言われたの、初めてだよ」
そこへ、童磨の声が響く。先ほどのようにちゃらちゃらと陽気な感じはせず、感情の起伏を感じさせないような声。そして、表情。
「どうしてそんなことを言うのかな?」
全くの無感情。それにもかかわらず、伝わってくる威圧感。空気が震えるようなそれに、カナヲと暁歩も唇が引き締まる。だが、挑発されて琴線に触れるような感情はあったんだなと、二人は内心で少し面白く思った。
「どうして?そんなの、あなたのことが大嫌いだからに決まってるでしょ?」
だが、童磨の威圧感に動じた様子も見せず、カナヲは続ける。
「私の大切な人を傷つけたあなたを、すぐにでも頸を斬って地獄へ叩き落したいから」
その言葉に、暁歩は日輪刀を強く握る。
ここまで感情を露にし、童磨を侮辱したのは、今暁歩が怒っている理由と同じ。しのぶを傷つけられたからだ。
カナヲが同じ気持ちでいると分かると、暁歩も少しだけ『安心』できた。
カナヲは前へと駆け出して童磨に肉薄する。
―――花の呼吸・伍ノ型
―――
距離を詰めると素早い連撃を仕掛けるが、童磨は焦る様子もなくそれに鉄扇を振って対応する。
「九連撃はやるねえ。それじゃ、俺もやってみようかな」
だが、連撃が途切れたところで童磨が血鬼術を発動させようと鉄扇を構える。
そこで、カナヲが攻撃を仕掛けている間に背後に回った暁歩が、呼吸を整えて技を構える。
―――樹の呼吸・玖ノ型
―――
それに童磨が気付いて背後を見るが、そこに暁歩の姿はない。
そして次の瞬間には、暁歩はカナヲの横に着地しており、童磨の腕や腹部、肩や顔に傷が刻まれて血が噴き出した。
(頸を斬り損ねた・・・!)
暁歩は歯ぎしりをしながら立ち上がる。
『桜樹繚乱』は、身軽さと技の静かさを利用して一瞬で相手に突き技や斬り技を喰らわせ、移動する技だ。しかし、自分自身で動きを把握しきれないと、こうして斬り損ねることになる。やはりここでも、実戦経験の少なさが仇となった。
(しのぶ姉さんの『戯れ』に似てる・・・)
一方で、技を見切っていたカナヲは、一瞬で相手に攻撃を幾重にも叩き込む暁歩の技が、しのぶの『蝶ノ舞・戯れ』と似ている点があると、ふと思った。
そして童磨は、並んで立つ暁歩とカナヲを見て考える。
(この二人、お互いの攻撃を上手く陽動にして俺の隙を突こうとしてくるな。男の方は動きにむらっけがあるけど、音のしない攻撃ってのはなかなか厄介だ。それに女の子の方も、柱並みの実力があるか・・・)
考えて童磨は鉄扇を構える。
「いいや、これで二人まとめてやっちゃおう」
―――血鬼術・
童磨の背後に氷の蓮の花が咲き、煙のようなものが花びらから生じる。先ほどの『蓮葉氷』よりも密度が高い。
同じ冷気だ、と思って暁歩は口と鼻を左手で覆うが。
「目を瞑って!」
カナヲが叫ぶと、暁歩はさらに目を閉じ後ろに飛び退く。手や髪の毛に冷気を浴び、冷たさのあまり目を開けそうになるが、必死に堪える。それでも煙のような冷気は広範囲にまで広がっているようで、身体全体が冷気に包まれるかのようだ。
そしてカナヲが目を瞑るように言った理由は、恐らくここで目を開くと眼球が凍りかねないからだろう。尚更目を開けるわけにはいかない。
だが、童磨からどんどん離れてしまっているのが分かる。
そして、暁歩の中で『予感』が働き、考えるよりも前に横へ動くと、何かが空を切って床に落ちるのを感じ取る。先ほどと同じ氷柱のようだ。それが分かっても、未だ自分の周りには冷気が纏わりついていて目を開けず、周囲の状況が掴めない。
このままでは攻撃も避け切れない、と思っていると。
「どおりゃああああああ!!!」
突然、メキメキと天井を突き破るような音と共に誰かの声が上から聞こえてきた。童磨とも違う男の声で、とても威勢がいい。
―――獣の呼吸・伍ノ牙
―――
その誰かが刀を振ったような動きをすると、直後に暁歩の周りの冷気が消え去った。氷柱も砕いたのか、落ちてくる音もない。
「え?」
周りから冷気がなくなったのを感じ取り、ゆっくりと目を開ける。
少し離れた場所にはカナヲが立っていた。状況が見えなかったが、無事だったらしいのでひとまず安心する。そんな彼女も、闖入者を見てぽかんと口を開けていた。
そして、暁歩とカナヲの間には、一人の少年が立っていた。その少年は上半身裸で、頭には猪の生皮を被っている。そんな容姿の人は、暁歩の知っている限りでは一人しかいない。
「・・・伊之助くん?」
「おうよ!嘴平伊之助様だ!」
突然天井から現れた伊之助は、あっけにとられる暁歩やカナヲを置いて、童磨を指差して『上弦の弐!テメェを斃せば俺は柱だァ!』と意気込んでいる。流石の童磨も、この伊之助の参戦には驚いているらしく、キョトンとしている。
「って、そうだ!暁介!」
「暁歩です」
「何で普段戦わねえお前までここにいるんだ?」
「知りませんよ。俺だって気付いたらここにいました」
普段は蝶屋敷にいて戦闘に参加しない暁歩がここにいるのには、伊之助も驚いているらしい。それに関しては暁歩自身も思っていたことだ。
すると童磨は、『あれ?』と声を上げた。
「君、戦闘要員じゃなかったの?でもそっか。そっちの女の子より動きにムラがあると思ったらそういうことか」
自然と煽ってくる童磨に、暁歩も舌打ちをする。
「っていうか、無茶してそんな怪我したらしのぶに怒られんぞ!お前も!あいつすっげえ怖いんだからな!」
怪我を負った暁歩とカナヲを見て、伊之助が叫ぶ。伊之助は、病み上がりで勝手に病室を飛び出して動き回った結果しのぶに怒られており、その時の怖さを忘れてはいない。
だが、しのぶの名前が出た途端に、暁歩とカナヲの表情が翳った。それに伊之助は気付く。
「・・・まさか、死んだのか?」
「生きてます。ですが、あいつにやられて・・・やれるだけの応急処置は済ませていますが重体です」
暁歩は伊之助の言葉を即座に否定して、離れたところに横たわるしのぶを見る。
伊之助も同じようにしのぶを見て、自分が蝶屋敷で治療を受けた時のことを思い出す。しのぶは、優しい言葉を掛けて治療をしてくれた。時々怒る時は怖かったが、その優しい笑みと言葉遣いも覚えている。
そんな彼女は今、苦しそうに横たわっているのだ。
「無駄なことなのにね。そのせいであの子はずっと苦しんでるんだからさ」
「・・・・・・」
「復讐なんて悲しいことから、俺が喰べて救ってあげようとしたのに。ああ可哀想」
「黙れ、この屑!」
性懲りもなく宣う童磨を暁歩は睨み、カナヲは激怒して叫ぶ。
そして伊之助もまた、暁歩とカナヲが傷だらけになって戦い、優しかったしのぶが弱り、この童磨が人の命を踏み躙っているのを目の当たりにして。
「・・・咬み殺してやる、塵が」
敵意と殺意に満ちた声。隣でそれを聞いた暁歩は、剥き出しの感情に口が引き締まる。
「・・・しのぶさんを助けるため、なるべく早めにケリをつけたい。それと、あいつの撒き散らす冷気は吸わないように」
「よっしゃ来たァ!!」
手短に状況を伝えると、伊之助は勇んで前に飛び出す。
「俺はチンタラ戦うのが嫌いだァ!」
―――獣の呼吸・肆ノ牙
―――
刃毀れした刀を前に向かって勢いよく振り、連撃を仕掛ける。
伊之助の速度は暁歩やカナヲ以上だったが、それも童磨は鉄扇で防ぎつつ、伊之助の首を斬ろうと鉄扇を振るう。だが、伊之助は右脚で童磨の腕を蹴り上げて弾き、攻撃を躱した。
蝶屋敷で治療をしていた際、伊之助と手合わせをしていた暁歩には分かるが、伊之助は動きが不規則で攻撃が読みにくい。童磨にそれが通じるかは分からなかったが、それは強力な武器にもなる。
「伊之助くんを援護しましょう」
「うん」
伊之助の攻撃は、童磨に血鬼術を発動する隙を与えないほどの速さだ。これは暁歩とカナヲが奇襲を仕掛ける機会となっているし、冷気が無いから呼吸法も使える。
暁歩とカナヲは頷き合い、童磨の両脇から飛び掛かる。
―――樹の呼吸・壱ノ型
―――大樹倒斬
―――花の呼吸・肆ノ型
―――
お互いに童磨の頸を狙うが、童磨は伊之助と鉄扇で斬り合いをしながら、視線を背後に向ける。
「大丈夫だって。君たちのことも忘れちゃいないからさ」
空いた手に握っていた鉄扇を軽く振ると、背後に氷の蓮の葉を咲かせる。
―――血鬼術・蓮葉氷
(またそれか!)
蓮の花から発する冷気に、暁歩とカナヲは呼吸を止めるが、さらに蓮の花の根元から氷の蔦が伸び、暁歩とカナヲを弾き飛ばす。
暁歩の左腕が冷気を受けてしまい、二の腕から先が凍り付くようになってしまう。
「くっ・・・」
池に落ち、少しでも氷を水で浮かそうと腕を動かす。どうにか腕は氷漬けにされず済んだが、起き上がったところで自分の身体の異変に気付く。
(肺が痛む・・・)
呼吸しようとしても、肺の一部が固まっているようにうまく動かず呼吸も乱れる。
微量とはいえ冷気を吸い、肺が凍ってしまっているらしい。氷の蔓に弾き飛ばされたせいで、息を止めるのをほんのわずかな間忘れてしまったからか。
その痛みは、物理的に胸が締め付けられているかのようだった。同じように肺が凍ってしまったであろうしのぶは、こんな痛みを負っていたのかと同時に理解する。
「俺のことも忘れてんじゃねぇ!」
だが、伊之助は童磨が暁歩とカナヲに意識を向けていたところで、伊之助が童磨の腹に蹴りを入れる。童磨は鉄扇でその脚を斬ろうとするが、伊之助はもう片方の足で鉄扇を蹴り上げて弾き、後ろへ下がる。
「わー、身体柔らかいんだね!しかもあんな滅茶苦茶な刀の振り方で戦えるんだから、ホントすごい!」
暁歩が池から上がると、全く動じていない童磨が伊之助を褒めている。
すると、それに応じない伊之助は、間合いの外にいるにも関わらず刀を振りかぶっていた。
(何する気だ?)
態勢を立て直すために暁歩は一度童磨と距離を取る。カナヲもまた同じように、暁歩の隣で様子を見ていた。
「おーい、そんな外からじゃ刀は届かないぞー?」
童磨も同じような疑問を抱いたようで、丁寧に忠告してくる。それも聞かずに伊之助は刀を振るが、やはり刀は届かないように見えた。
ところが。
「え?」
童磨が驚いたように声を洩らす。
目の部分に、横に切れ目が入ったのだ。自分の顔に手をやるが、何故間合いの外から刀を振ったのに届いたのか分からないらしい。
一方で暁歩とカナヲは、伊之助の後ろから何をしていたのかに気付く。
―――獣の呼吸・玖ノ牙
―――
刀を握っている伊之助の右腕が大きく歪んでいて、通常の倍程度に伸びていた。どうやら、腕の関節を全て外しているようだ。
(腕の関節全部外してる・・・?)
(その後どうするんだ・・・?)
カナヲと暁歩があっけにとられる中で、伊之助は『ふんっ』と軽く力を籠めると、右腕がまるで意思を持っているように蠢き、次の瞬間には関節が元通りに治っていた。
「チッ、新技は精度がイマイチだった!チクショウ!」
しかも伊之助自身、全く気にもしないでピンピンしてる。
((いやっ・・・え?いやいやいや、ええっ!?))
暁歩とカナヲの困惑の心の声が重なる。伊之助の身体の構造は、しのぶでも理解できていないらしく、人間離れした業に暁歩とカナヲも驚くしかない。だが、伊之助にとっては、関節を自在に外したりできるのは伊之助にとっては造作もないのだろう。
「あはは、本当に滅茶苦茶だなあ、君」
顔の傷も治った童磨は、面白そうに見せかけて笑っている。
それに対して伊之助は、『フンッ』と得意げに鼻息を荒く吐く。
「そりゃあそうだろうぜ。この伊之助様は、そんじょそこらの有象無象とは」「わけが違うからな!」
暁歩もカナヲも、伊之助本人でさえも気付かないほどの一瞬で、伊之助の被っていた猪の生皮がなくなってしまった。一瞬遅れて伊之助も気付き、慌てて自分の頭を触る。
「んー、かなり年季入ってるね、この猪の皮」
そして童磨は、一瞬で奪った猪の生皮を興味深そうに眺めている。伊之助が怒りを露にするが、気にもしない童磨は伊之助の顔を見て指差す。
「あれー、何か見覚えあるぞ?君の顔。どこかで会ったことあったかな」
その瞬間、伊之助は声を張り上げた。
「テメェみたいな蛆虫なんざ俺は知らねぇ!汚ねぇ手で俺の毛皮に触るな!!」
「そうカリカリしないでって、俺は記憶力が良いんだ。人間だった頃の記憶もあるし、君と会った記憶もあるよ・・・あ、違うか。君の
伊之助は蝶屋敷でも、『自分には親兄弟はいない』『猪に山で育てられた』と言っていて、暁歩やアオイたちも若干引いていたのは覚えている。
しかし童磨が言うには、伊之助と似た顔立ちの女性―――
手当てした後の琴葉の顔は、表情こそ若干違えど伊之助とよく似ているという。
「これ、君のお母さんでしょ?」
「・・・・・・」
童磨は、琴葉の姿を思い浮かべながら伊之助に問う。その伊之助は、先ほどの怒りも忘れて黙っていた。暁歩もカナヲも、驚きの顔を浮かべ、声も発せなかった。
最初は童磨も、心の綺麗な琴葉だけは最後まで喰わないでおこうとしたらしい。だが、信者を喰べていることがバレてしまい、琴葉はまだ赤ん坊だった伊之助を連れて逃げ出した。しかし逃げ切れず、琴葉は伊之助を谷に落として救おうとし、代わりに琴葉は童磨に殺されてしまったのだ。
「琴葉は本当に頭の回らない子でね。あんな崖から落としたところで助からないのにって思ったよ。まさか、あの時の赤ん坊が生きていて、しかも君だったなんてね」
伊之助は、信じられないような童磨との接点、そして自分にはなかった親のことを知らされているのか、茫然としていた。
「琴葉のことは、泣くほど可哀想だったから喰べて救ってあげたよ。帰っても酷い目に遭っていたし、本当に不幸だった・・・生きてる意味なんてあったのかな?」
「いい加減にしろ!下衆が!!」
刀を向けてカナヲが激昂する。本当の母親からも暴力を振るわれていたカナヲからすれば、何の罪もない伊之助の母を殺し侮辱するこの童磨が本当に憎らしかった。
そして、親を鬼に喰われて深い悲しみを抱いた暁歩も同じだ。喰った挙句に生きてる意味すらないなどと抜かす童磨への怒りが、止まることを知らない。
―――樹の呼吸・肆ノ型
―――落葉一閃
肺が少しとはいえ凍っているのも忘れて、呼吸を整えると刹那で童磨と距離を詰める。
「一度見ちゃったからなあ、その技」
だが、今度は技を見切られ弾かれてしまい、やむなく童磨の後ろに着地した。
やはり肺の不調のせいか、最初よりも動きが遅くなってしまっていると暁歩も自覚している。けらけら笑う童磨を見て、暁歩も舌打ちをした。
「・・・信じられねぇ奇跡だぜ」
ようやく聞こえた、伊之助の声。だが、その声が震え、頭の血管が浮き出るほどに怒りに満ちている。
「こんなところで、俺の親を殺した奴と再会するなんてな!!」
叫んだ直後、伊之助の姿が消える。
暁歩が瞬きをした直後に、伊之助は童磨の前に姿を現す。両腕で二本の刀を振りかぶるが、がら空きの胸を童磨は鉄扇で斬る。すると、伊之助の胸に交差する傷が入るが、伊之助は気にせず童磨を本気で斬ろうとする。
「えっ、まだ動いちゃうの?大丈夫?」
それでも余裕の態度を崩さない童磨だが、その態度は余計伊之助の神経を逆なでした。
―――獣の呼吸・参ノ牙
―――
矢鱈目鱈に刀を振って童磨と斬り合う伊之助だが、そこへカナヲと暁歩も加勢しにかかる。
「おっと」
だが、三方向を固められた童磨は、上に跳んで攻撃を躱す。
―――血鬼術・蔓蓮華
氷の花を咲かせて蔓を三人へと伸ばすが、それぞれが刀を振って蔓を切断する。
―――血鬼術・蓮葉氷
さらに蓮の花から冷気を出すが、暁歩とカナヲは呼吸を止める。
―――獣の呼吸・拾ノ牙
―――
そこで伊之助は二本の刀を回して冷気を弾き飛ばす。それを好機と見たカナヲと暁歩は、冷気が消えた伊之助の背後へと回り、その背中を飛び越えるように童磨に攻撃を仕掛ける。
―――花の呼吸・陸ノ型
―――
カナヲが大きく身体を捻って斬り込もうとする。童磨はその刀を流すように曲線を描きながら鉄扇を振り、攻撃を躱す。さらにもう一つの鉄扇で、カナヲの身体を斬ろうとしてきた。
―――樹の呼吸・弐ノ型
―――樫幹返し
そこへ暁歩が前へと出て、刀で鉄扇を弾きつつ腕を斬ろうとする。結果的に腕を斬ることはできなかったが、それでも鉄扇を弾くことには成功し、無防備な前を曝け出させた。
―――獣の呼吸・陸ノ牙
―――
そしてカナヲと暁歩の間を縫うように、伊之助が二本の日輪刀を交差して構え、童磨の頸を挟み込もうとする。
「ん?」
と、その時。何の前触れもなく、童磨がピクッと身体を揺らす。
そこを狙って伊之助が突進するが、童磨は後ろへ避けるだけだった。距離を取られたが、その間にカナヲと暁歩も体を起こして体勢を立て直す。
「え・・・
虚空を見上げて呟く童磨だが、そんなことはどうでもよかった。暁歩たちは一斉に童磨へと斬りかかるが、刀が当たる直前で童磨の姿は消えてしまっていた。
「ごめんね?猗窩座殿がやられちゃって俺たちも余裕が無いし、君たちの相手はこの子にやらせるよ」
そして童磨は、鉄扇を広げる。
―――血鬼術・
そして童磨が生み出したのは、腰の高さほどの背丈しかない、氷の人形だった。それも三体。
「ハッ!何だそのちんちくりんは!」
それを見た伊之助は高笑いをする。
―――血鬼術・蓮葉氷
だが、その三体の人形が血鬼術を発動させたのを見て、三人は一斉に人形から距離を取る。
―――血鬼術・寒烈の白姫
さらに蓮から女性の顔を象った氷像が出現し、冷気を吐き出してくる。その威力や範囲は、先ほど童磨本体が仕掛けたものと同じだった。
「何だこれふざっけんな!」
伊之助は全速力で冷気から逃げている。暁歩もカナヲも人形を相手にしながら冷気を避けているが、歯が立たない。
「頑張れ~。その子たちは俺と同じ力が出せるから、三人の相手を存分にしてやれると思うよ」
童磨が手を振ってくるのを見て、暁歩は虫唾が走る。
だが、童磨は扉に向かい部屋を出ようとしていた。このままでは、童磨は他のところに行ってしまうし、とどめを刺すことができない。
(どうする・・・)
冷気を避け、人形と斬り合いながら暁歩は考える。
寒烈の白姫のせいで部屋全体が冷気に覆われつつある。このままではいずれ無理矢理冷気を吸わされてしまい、肺が凍って死んでしまう。
この状況を打破する技が、暁歩には一つある。その技は身体に大きな負担を掛けるものであり、修業中に使った際は脚の腱が切れたほどだ。それでも、カナヲや伊之助、そしてしのぶの命が危ない今使うことに躊躇はない。
―――樹の呼吸・拾ノ型
床を蹴って跳び上がり、少しでも冷気を吸わないようにする。
すると童磨もその様子に気付き、暁歩の方を見ていた。
―――
だが、すぐに暁歩の姿はそこから消え、次の瞬間には、離れたところに横たわるしのぶの傍に立っていた。
そして、部屋に立ち込めていた冷気や、『寒烈の白姫』の氷像、そして童磨の生み出した人形も全てが消えている。
「あれー?」
童磨が呆けたように声を洩らす。
『深緑の樹海』は、樹の呼吸の奥義とも言える技。脚力を最大限まで引っ張り出し、広範囲を高速かつ無音で斬りながら移動する技だ。音がしないのもあって、一瞬で全ての術が無くなったように錯覚するほどのものだ。
ただし、無限に移動できるわけでもない。だから暁歩は、しのぶ、カナヲ、伊之助の三人を助けるために、皆の周りにある冷気と氷像を斬ることしかできなかった。
「・・・ぜ・・・・・・は・・・ぁ」
そして、呼吸を使いながら冷気の中に突っ込んだことで、冷気を嫌でも吸ってしまっている。普通の呼吸の仕方を忘れそうになるほどで、息をするのが難しい。脚も強引に使ったせいで、腱と靭帯が悲鳴を上げている。切れてはいないが、あと少しでも強引に力を入れれば切れると断言できる。
「な、何だ今のは!俺もやってみてぇ!!」
『深緑の樹海』を目の当たりにした伊之助は触発されたのか、刀を振りながら童磨の下へと再び駆け出す。カナヲも厄介な人形と冷気がなくなったことで、再び童磨を相手にする事ができるようになり、刀を振って肉薄する。
(まさか、あんな技を使うなんてね・・・)
そんな二人を相手にしながら、童磨は鉄扇を振るいつつ暁歩の様子をちらっと見る。
(でも、冷気を大分吸ったみたいだし、放っておいても死にそうだからもういいか)
まともに動けそうにないとみて、暁歩は無視することにした。
そして相手にしている伊之助も、先ほどの胸の傷の出血が少なくないために、だんだんと動きに衰えが見え始めている。カナヲもまた疲労が増してきているからか、少しずつ動きが見切れるようになってきた。血鬼術を発動する機会も先ほどと比べればそこまで制限されていない。余裕で勝てると思えた。
(ちくしょう・・・ちくしょう・・・)
床に手をつき、暁歩は心の中で毒づく。
肺が凍って呼吸がおぼつかない。脚には断続的に鋭い痛みが走っている。立ち上がることさえも難しい。
自分が恐怖していた死が、間近にある。
「暁歩、さん・・・」
その時、すぐ傍で、か細い声が聞こえた。
横になっているしのぶの声だ。
「・・・大、丈夫・・・です、か?」
力なく、しのぶの右手が暁歩に伸ばされる。自分だって痛いだろうに、苦しいだろうに、辛いだろうに、心配してくれている。
暁歩は、その右手を優しく握り返して、笑顔を作って見せる。まだその手に温もりが残っているし、脈も通常より弱いが確かにある。まだ生きている。
その時、しのぶを治療する時に外していた腰袋から、紫の液体が入った瓶が姿を見せているのに気付いた。
(まだやれる・・・)
瓶を手に取り、自分の心に言い聞かせる。
肺は凍っているから、技はもう数発が限界だろう。それに脚の腱も限界に近いから、力を入れて移動するのも難しい。つまり、今は距離が離された童磨に技を喰らわせられるのはあと一度だけだ。
「しのぶさん」
「?」
「これ、お借りしますね」
そのために暁歩は、傍らにあったしのぶの日輪刀を拾い上げる。刀身が大きく削られたそれは、突き技に特化した一振り。
暁歩は脚に負担を掛けないようにゆっくりと立ち上がり、しのぶの最愛の姉であるカナエの仇・童磨を見据える。
◆ ◆
「よいしょっと」
童磨が腕を振るうと、カナヲの腕にスパッと傷が入る。入れ違うように伊之助が前に出て刀を振るうが、最初の時のような勢いはもうない。片手で対処できる程度だ。
「二人ともよく頑張ったねぇ。偉い偉い」
労うような言葉を童磨はかけるが、二人の瞳からは怒りと憎しみの色が消えない。たとえ体力と気力を削がれようとも『仇敵を討つ』という純粋な復讐心が、二人を衝き動かしていた。
「けどゴメンね。俺たちにも時間がないんだ」
―――血鬼術・結晶ノ御子
再び氷の人形を生み出してカナヲと伊之助の相手をさせる。『またかこの野郎!』と伊之助が叫びながら相手をし、カナヲも歯ぎしりをして刀を振る。
「猗窩座殿がやられちゃったからね~」
だが、そんな余裕を持って二人を見ていたせいで、後ろに気付くのが遅れてしまった。
―――樹の呼吸
まともに動けないと思った暁歩が、すぐ後ろに迫っていた。
童磨は鉄扇を構えて血鬼術を発動しようとする。
―――
その瞬間、そこにいた暁歩の姿がブレる。
そして風が動いたのを感じ取ると、童磨の後ろに暁歩が着地している。
―――
次の瞬間、童磨の腕、脚、胴体から血が噴き出し、頸にも切り込みが入っている。
見れば、暁歩の右手には花萌葱の日輪刀、左手にはしのぶの日輪刀が握られていた。
「ボロボロだったのに、よく頑張ったね」
その暁歩を見て、童磨が笑う。
暁歩の右脚から、『ぷつっ』と何かが切れる感覚。途端右脚に力が入らなくなり、腱が切れてしまったと気づいた。
「だからかな。攻撃が粗いし、最初より動きが見やすかったよ」
暁歩の腹部が一文字に切れて、血が流れ出る。口から血を吐き出し、思わず蹲る。素早く移動する直前に、童磨の攻撃が当たったのだ。
「あの子もそうだけどさ、深い怪我までしてるのに最後まであがいて」
「・・・・・・」
「本当、無駄なことを分かっていても最後までやり抜くのが人間の素晴らしさだよね!俺は大いに感動した!面白かったよ!」
ゆっくりと振り向くと、童磨は泣いていた。それも嘘泣きだと、泣いて見せているだけだと、暁歩には分かっていたが。
「楽しませてくれたお礼に、今ここで君は、俺が殺してあげよう!」
鉄扇を広げる童磨。
暁歩の脚は腱が切れ、すぐに動けない。腹部が大きく切られ、下手に動くと失血する。肺は凍っていて、すぐに呼吸法の技も使えない。カナヲと伊之助も、氷の人形を相手にして手一杯。
(早く、早く・・・!)
心の中で何かを祈る暁歩。
そして童磨が、広げた鉄扇を暁歩の首に向かって横に構える。
その瞬間、持っていたはずの鉄扇が童磨の手から落ちた。
「あれ?」
呆けたように自分の腕を見る童磨。なぜか自分の腕が、痺れているような感覚がする。自分の腕や首など、先ほど暁歩の攻撃を受けた個所が治らない。
よく見たら、暁歩の握っていた二本の日輪刀には紫色の液体が付着している。
毒だ、と童磨は直感で悟ると、分解しようと試みる。先ほどのしのぶとの戦いで、
(なんだ、これ?)
だが、分解はできているような感覚はするが、その速度が通常よりも遥かに遅い。先ほどのしのぶの毒のように、上手く分解できない。
そして分解するにつれて身体が重くなり、視界が歪み始める。
(よし・・・)
あの瓶の中身は、確かに基はしのぶからもらった、珠代と協力して作っていた毒だ。
その毒は、非常に純度の高い藤の花の毒を基礎とし、さらに有害である毒素を配合したものである。
だが暁歩は、その毒に細工をした。
それは、珠代たちと開発していた『鬼を人間に戻す薬』の一部を配合したこと。
そして、強力な副作用を持つ
鬼の身体構造は人間とほぼ同じであり、病には罹らず、傷の回復速度が人間よりも遥かに速いのは既にしのぶの研究で分かっている。また、その回復速度の異常な速さは、未だ解明されていない『鬼の力』によって、人間の回復速度を格段に速めていることも判明していた。
だが、そこで暁歩は珠代たちと共同開発した、『鬼を人間に戻す薬』の効果の一つにある、再生能力を低下させる成分を暁歩は配合したのだ。
そして、薬種の副作用は毒、病とは性質が異なるものであり、作用が強い薬種ほど副作用も強く、これは完全に押さえつけることがほぼできない。
そして薬種自体もまた、調合次第で身体に害を与えるようになる。
だから暁歩は、共同開発した毒を分析し直し、薬に関する資料を読み返した。そして、『毒』『鬼を人間に戻す薬』『強力な副作用を持っている薬種』を、毒素を破壊しないような精密な比率で調合した。
そして、自分としのぶの日輪刀の二本に毒を塗り、童磨の身体の至る所から毒を注入し、少しでも早く、多く全身に巡らせるようにした。その量は、しのぶが普段日輪刀で打ち込む致死量のおよそ二~三倍ほど。
結果として、童磨は純粋な『毒』とは違う複雑な作用を持つ『薬』を上手く分解できずに、回復速度・毒の分解速度が通常よりも遅く、上手くいかなくなっている。
(しのぶさんと、珠代さんに、感謝しないと・・・)
ここまでのことができるようになったのも、しのぶの下で毒と薬についての指導を受け、鬼を人間に戻す薬の共同開発に携わることができたからだ。さらに、彼女が研究してきた鬼や薬に関する資料もあってこそ、実現できた。そして自分が前もって知っていた、薬種も配合次第で害を及ぼす毒となる、という知識にも助けられた。
ただ無論、そんなことをすれば毒としての殺傷性は落ちるし、これが初めての試みであるゆえに、ある意味賭けだ。
だが、暁歩は自分の実力が低いことを自分で知っている。十二鬼月、それも上弦と一対一になれば、まず間違いなく自分が死ぬであろうことも分かっていた。だからもし、これを使う機会があるとすれば、それは他の誰かと戦っている時だけだ。その時に、この自分の作った『劇薬』で動きを止めるなりして、後は自分以外の誰かにとどめを刺してもらう。
自分だけでは勝てないと分かっていたから、これを使った。
「・・・くっ」
暁歩は、左脚に力を籠めてわずかに立ち上がり、振り向きざまに童磨の頸目がけて自分の日輪刀を振る。童磨は左腕に持っていた鉄扇で防ごうとしたが、薬で身体が重く感じてしまい防げず頸に日輪刀を受けてしまう。
だが、硬い。普通の鬼なら、このひと振りで斬れただろうが、上弦となれば頸の硬さも相当だ。刃がとても遅くしか進まない。
するとその時、カナヲと伊之助が相手にしていた氷の人形が突如動きを止めて、砕け散った。二人は驚いて童磨の方を見ると、童磨の頸に暁歩が刀を押し込もうとしているところだった。
「「!!」」
すぐに、カナヲと伊之助は、加勢すれば行けると察して駆け出す。
―――血鬼術・
だがその直前、床が大きく盛り上がり、冷気を帯びた何かが出現する。
それは、氷でできた巨大な菩薩像だった。
(コイツ、まだ・・・)
この土壇場で発動させた童磨の大技に、暁歩も舌打ちする。
童磨だけが氷でできた蓮の花の上に載り、上へと伸びていく。だが暁歩は、日輪刀も頸から外れてしまい、下へと落下する。
菩薩の後ろからはいくつもの蓮の花が伸びていて、その中の一輪の上に童磨はいる。
そして菩薩像は、巨大な手で暁歩を掴んだ。
「ちっくしょう!」
同じように伊之助も別の手に掴まれてしまいもがく。
最後に残ったカナヲだが、菩薩像の胸の部分から現れたもう一つの手がカナヲを叩き潰そうとしてくる。この大きさでは質量も相当なものだろうし、潰されればひとたまりもない。
そこでカナヲは、一度目を閉じる。
―――花の呼吸・
―――
そして次に目を開いた時には、眼球が赤く染まっていた。
その目で見る物は、全てが寫眞を並べているかのように遅く感じる。血液を眼球に送り込み、視力を極限まで高めるその技は、カナヲにとっての隠し玉であり最後の切り札だ。
(あれは・・・)
だが、それを見た暁歩は、その技が瞬時に危ない技だと分かった。その尋常じゃない目の色は、もしかしたら失明する代償もあるのかもしれない。
けれど暁歩は、それが分かっていても思うように動けない。
この氷の菩薩像は、童磨が万全の状態でないからか、出現した時から解け始めている。だが、暁歩を握る手の力は徐々に強まっており、このままでは解け切る前に握り潰される。
その一方でカナヲは跳び上がり、迫ってくる氷の蔓や粒を避け、毒が回って回避行動もまともにとれない童磨の頸を刀で薙ごうとする。
そこでカナヲは、先の暁歩の攻撃で童磨の頸に刻んでいた切れ目が治っていないのを捉えると、そこへ自分の刀を重ねるように振り込む。さらに呼吸を使って腕の力を最大限まで引き出した。童磨も身体を上手く動かせないからか、抵抗しようとしない。
だが、その頸に刃がかかったところで、菩薩像の顔がカナヲの方を向き、腕と身体を凍らせてくる。
(駄目だ・・・)
ここまでか、と手の中で暁歩が諦めかけたところで。
「諦めんじゃねぇ!」
もう片方の手に掴まれている伊之助の声が、暁歩の耳に入り込む。
「暁歩がここで死んだら、それこそしのぶは死んじまうぞ!」
その言葉を聞いて、閉じかけていた意識を、無理やりにでも暁歩は覚醒させる。
今は手に掴まれていて宙に浮いているから軸足はいらない。腱が切れていても今だけは問題なかった。
弱った肺に鞭うって動かして、呼吸を整えて自分の血管一本一本にまで意識を集中し、切れた腹部を止血するよう意識する。
「!」
そして、自分の血管を塞いだ感覚を得ると同時に、刀を振る。
―――樹の呼吸・捌ノ型
―――松絡旋刃
体を捻り、右手に握った自分の日輪刀で氷の巨大な手を細切れにする。解けかかっていたからか、片手の力だけで斬ることができた。
「このデカブツの頸も切れ!」
伊之助が叫ぶ。暁歩は考える前に、限界を迎えつつある肺を動かしてもう一度呼吸を整え、さらに刀を振る。
―――樹の呼吸・壱ノ型
―――大樹倒斬・
菩薩像の頸は太く、一振りでは斬れない。だから暁歩は、刀を素早く一往復させて、菩薩像の頸を斬る。
そして、カナヲに吹き掛けていた冷気が止まる。
童磨の頸に掛かった刃は、ゆっくりとだが確実に進んでいる。暁歩の打ち込んだ薬が上手く効いたのか、カナヲの身体も凍り付いてまだ斬れていない。
「獣の呼吸思い付きの、投げ裂きぃぃ!!」
すると、菩薩像の頸を落としたことで、伊之助からカナヲの位置まで遮蔽物がなくなり、伊之助はそれを利用してカナヲの刀目がけて自分の二本の日輪刀を投げつける。それは見事にカナヲの刀に当たり、刃毀れした部分が引っかかってカナヲの刀を押し込む。
「―――ッ!!」
最後にカナヲが駄目押しとばかりに渾身の力を籠めて、刀を振るう。
すると、ついに童磨の頸が飛んだ。
「・・・・・・」
それを見た瞬間、暁歩の中の緊張が緩んだ。
氷の菩薩像は目に見える速さで解け始め、伊之助も解放される。カナヲの身体を凍らせていた冷気もなくなり、身体を動かせるようになった。そして、頸を斬られた童磨の身体はぼとっと床に落ちる。
「ぐっ・・・」
ただ暁歩は、痛みでまともに受け身を取れず、背中から落ちてしまった。しかし、骨は折れていない。右脚はもう動かせないが、左脚と腕はまだ動く。
そして、肺がろくに動かせなかったにもかかわらず全集中の呼吸で技を使ったせいで、反動がすごい。心臓が肋骨を破って突き出そうだ。
それでも腕を使って上体を起こし、周囲の状況を見る。
カナヲは、腕や脚に切り傷をいくつも負っているが、二本の足で立てている。そして、手で目元を押さえていた。やはり先ほどの技は相応の代償もあるらしい。
伊之助は、塵芥と化して消えつつある童磨の身体を踏んづけて『口ほどにもねぇ奴だぜ!』とすっかり得意げだった。しかし、戦闘の疲労と出血で足元がふらつき、尻餅をついて肩で息をしだす。
とにかく二人共、無事だった。
(斃した・・・上弦・・・仇を・・・)
そして、自分たちが炭治郎たちと同じように、上弦の鬼を斃したという事実に、傷ついた身体が打ち震える。自分の身体はボロボロで、しのぶもまた重傷を負い、カナヲと伊之助も傷ついているが、協力して斃せた。
そして、しのぶをずっと苦しめていた存在を葬ったことで、暁歩もまた自分の中の蟠りが晴れたような気持ちになる。
(えー・・・嘘・・・斬られちゃった・・・)
頸を斬られた童磨は、床に転がりながら呑気に考える。
カナヲに指摘された通りで、童磨は感情が欠如していた。だから、頸を斬られても自分が死ぬことに対する恐怖心や悲しさなどは感じなかった。
強いて言えば、自分があんな女の子、無茶苦茶な戦い方の少年、まともに戦えないような青年に斃されるなんて、と考えるくらいだ。
「・・・・・・」
そんな童磨の頸に、暁歩は右脚を引きずりながら近づく。
腹部が切れ、右脚の腱が切れた暁歩を見上げて、童磨が話しかける。
「俺に何をしたの?」
「・・・お前に、教える義理はない」
「そんなー、教えておくれよ」
頸も、身体も灰になりかけているのに、童磨は陽気な様を崩さない。
人は死ぬ間際、悲しんだり、怖くなったり、苦しんだりするだろう。しのぶの目の前で殺された家族や、夜道を鬼に喰い殺された暁歩の親も、誰でも、そうだったはずだ。
だが、この童磨は死を前にしても、そんな様子が無い。こいつが殺した数えきれない人は、そういう気持ちを抱いていたのに。
その事実に、虫唾が走った。
「とっととくたばれ、糞野郎」
そう言って暁歩は、童磨の頭に自分としのぶの日輪刀を突き刺す。
すると、童磨の頸は消滅した。
「・・・暁歩」
カナヲが歩み寄ってくる。彼女も肩で息をして、左目を押さえているが、どこか肩の荷が下りたような表情だ。
「・・・カナヲさん・・・。伊之助くんを連れて・・・ここから離れてください」
そんな彼女を見ながら、暁歩は腹部を押さえて告げる。
「俺はもう、ろくに動けません・・・。まだ、動けるのなら・・・他の増援に・・・」
自分を置いていくように伝えた。
利き脚の腱が切れて、腹部には大きな傷がある。これ以上の戦闘は不可能だし、こんな状態では足手まといになる。
それに、カナエの仇を討ったからと言って、すべて終わりではない。恐らくまだ他の場所でも十二鬼月かそれ以上の存在と戦っている隊士はいるだろう。戦えるのなら、少しでも犠牲者を減らすためにそちらへ行った方がいい。
「・・・分かった」
カナヲは頷き、伊之助を見る。
伊之助は、床に胡坐をかいて肩を震わせていた。きっと、泣いているのだろう。
「暁歩」
「?」
「しのぶ姉さんを・・・お願い」
今初めて、暁歩はカナヲから『頼み事』をされた。
しのぶのことを思うカナヲの言葉に、暁歩は怪我も気にせず力強く頷く。
「・・・分かりました」
暁歩が返すと、カナヲは伊之助に肩を貸し、童磨が奪った猪の生皮も回収して、部屋を後にする。
「く・・・ぅ」
右脚の腱が切れて、普段のように歩けない。だが、それでもどうにかして、鞘に納めた自分の日輪刀を杖代わりにしてゆっくりと二本の足で立つ。右脚には力を入れないよう、重心を左側にずらす。
そして、横たわるしのぶの下へ、少しでも早くと自分自身を急かして足を動かす。
(呼吸が元通りできる・・・まだ間に合う・・・!)
童磨を斃したからか、肺の中が凍っているような感覚もなくなった。呼吸をする事が苦ではないが、腹の傷が痛むせいで呼吸をする度に少し痛みが伴う。
だが、しのぶも同じなら、呼吸ができるようになったなら、少しでも全集中の呼吸で止血をすることができる。まだ助かる確率は上がる。
「しのぶ、さん」
辿りつくと、しのぶの傍に膝をつく。
横たわるしのぶは、暁歩の顔を見て、少しだけ泣きそうな笑みを浮かべている。
「・・・勝ちました・・・あいつを、斃しました・・・」
「・・・はい」
「仇を、討てました」
どれだけ自分が痛くても、笑顔を作って伝える。しのぶも少しだけ、笑みを深くした。
「後は・・・しのぶさんです」
「・・・暁歩、さん」
「肺は、元に戻ってるはずです・・・。呼吸で、止血できるはずです・・・」
だが、しのぶはそうしようとしない。
そして、床についていた暁歩の手に、そっと自分の手を載せる。
「・・・いいんです、もう」
「え?」
「・・・身体を、斬られて。左の、肺も・・・傷ついて。痛、みで・・・。自分で、呼吸をす・・・るのも、難しい、んです」
勝利したことによる身体の熱が、一気に冷えた。
しのぶが何を悟ったのかに気付いて、暁歩の意識が再び引き締められる。
「・・・だから、もう・・・。私の、ことは―――」
「見捨てません」
暁歩は自分の隊服の上を脱ぎ、腹の部分できつく締める。足しになるか分からないほどの止血だが、やらないよりはずっとマシだ。
「ここで死んだら・・・カナヲさんと、伊之助くんの・・・戦いも無駄になります」
「・・・童磨を、斃せ、たから・・・」
「それ以前に、あなたを・・・助けようとしてました」
上弦の弐を打ち破り、鬼側の戦力を大きく削いだ点では無駄ではない。
だが、カナヲも伊之助も、傷ついたしのぶを見て己を奮い立たせ、絶対に死なせないと心に誓い戦った。ここでしのぶが死ねば、本当にそれが無駄になる。
「・・・死なせません。絶対」
疲労と痛みで鈍った思考を動かして、どうすればいいかを考える。
しのぶは肺が傷つき、呼吸がろくにできない。だが、傷ついた臓器をこの場で治す術はない。傷口を縫って、止血剤も塗っているが、それも万全ではない。呼吸を使って血管に意識を向けて止血すれば、まだ生存する確率も上がる。それ以前に呼吸がまともにできなければ、生命活動そのものができなくなる。
だが、しのぶは
「・・・・・・」
一つの手段を考えた。
それしか、今この場で出来る方法がない。
「・・・暁、歩さん?」
「今は、喋らないでください」
手拭いを取り出して、しのぶの口元についている血を拭う。暁歩自身は、シャツの袖口で自分の口元にある血を拭く。
「しのぶさん、聞いてください」
「?」
「俺が・・・しのぶさんに空気を送り込みます。なので・・・しのぶさんは、全集中の呼吸で、止血すること・・・酸素を行き渡らせることだけを、考えてください」
それでしのぶも、暁歩が何をするつもりかを理解したらしく、目で了解の意思を伝えた。
まず暁歩は、しのぶの額にそっと左手を置き、右手の指で顎を上げて気道を確保する。
次に、左手の指でしのぶの鼻をつまみ、右手の親指で口を開ける。
「・・・いきますよ」
そして、口を重ね合わせ、空気をしのぶの体内へと送り込む。胸の辺りが膨らむのを横目に確認して、息を吸う。
それを繰り返して、しのぶの呼吸を助ける。
だが、それも長時間連続でできるわけではない。暁歩自身が呼吸する必要もあり、時折口を離して自分の呼吸もする。
そして、自分が十分に呼吸できたら、しのぶの番だ。
(・・・死なせない。死なせない・・・)
人工呼吸をしながら、暁歩は必死に願う。
目の前でわずかな命の灯を宿しているしのぶに対して、死なないでほしいと強く願う。
(俺はまだ・・・あなたに伝えていないことがあるんですから)
途中で、涙があふれてくる。
自分自身も怪我をしていて、弱気になってしまっているからか、しなくてもいい想像までしてしまう。
頭を振って嫌な考えを振り払い、ただしのぶを死なせるものかと自分に強く言い聞かせる。
絶対に救って見せると、空気を送り続ける。
それは、暁歩が失血で気を失うまで続いた。