蝶屋敷の薬剤師   作:プロッター

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ご無沙汰しております。
多くの感想、評価をいただきとても嬉しく思います。ありがとうございます。

完結までもう少々お付き合いいただけると幸いですので、
どうぞよろしくお願いいたします。


後日譚
前編:夢想


 墓参りが晴れやかな気持ちになる天気などないだろうと、暁歩は思う。

 晴れていようが雨だろうが、亡くなった人が眠る墓の前に立てば、どうしたって気持ちは下がってしまう。その相手が、自分にとっても親しい人であればなおさらだ。

 だから恐らく、暁歩の隣を歩くしのぶも、今はうら悲しい気持ちだろうことは窺えた。

 今のしのぶの顔には、普段浮かべる穏やかな笑みがない。心の中で、悲痛な思いが大きくなりつつあるからだ。あるいは、今の状況で笑みは不釣り合いと理解しているからだろう。

 

「・・・さぁ、着きました」

 

 石畳を歩き進める中で、しのぶが足を止める。心なしか、その声にも明るさがあまりない。

 立ち止まり、視線を向けたのは、一基の墓石だ。ここが墓地であることを考えれば、墓石が置いてあるのは何もおかしくない。

 しかしこの墓は、しのぶだけではなく、後ろにいるカナヲやアオイ、きよ、すみ、なほにとっても大切な人のもの。

 しのぶの実姉、胡蝶カナエの墓だ。

 

「では、始めましょう」

『はい』

 

 しのぶが仕切ると、掃除道具が入った桶を暁歩は静かに置く。それから、各々掃除道具を取り出して、墓石や周囲の掃除に取り掛かる。

 それが終われば、しのぶが持っていた生花を供え、アオイが持ってきたお供え物を置き、カナヲが線香に火を灯す。

 

『・・・・・・』

 

 最後にきよたちで墓石に水をかけて清めると、跪いて手を合わせる。

 その中で暁歩は、唯一カナエと実際に会ったことがない。幼い頃に引き取られたカナヲ達と違い、暁歩が屋敷に来た時期が遅いから、それは仕方のないことだ。

 それでも、叶わないと分かっていても、暁歩はカナエに一度でいいから会ってみたかった。柱の一角であるほど強く、しのぶが心から愛した家族で、カナヲやアオイたちを引き取り面倒を見るほどの器量の深さ。どれを取っても、気になるところだ。

 けれど現実は、既にカナエはこの世にはいない。だからそんな願いは、所詮絵空事だ。今の暁歩にできることは、カナエが静かに眠りに就くことを、黙って祈ることしかない。

 

(カナエさん・・・あなたの仇は討ち、鬼との戦いも終わりました)

 

 祈りを捧げ、心の中でカナエに伝える。

 カナエの墓参りは、暁歩もこれが初めてではない。蝶屋敷に来てから一年後に、ここを訪れたことがある。今回の墓参りはその時以来、最終決戦が終わってから初めてのことだ。

 

(あなたが仇討ちを望んでいたかどうかは、今は分かりませんが・・・それでも俺たちは、出来る限りのことをやり遂げました)

 

 偶然とはいえ、戦闘要員ではなかった暁歩も、カナヲや伊之助らと共に上弦の弐・童磨に立ち向かい、死の淵に立たされても勝利をもぎ取った。そして、多大な犠牲の上に、鬼との戦いは終わりを告げた。

 鬼によって家族を喪い、誰かの幸せを願い壊さないために戦っていたカナエも、戦いが終わったことは喜ぶだろうか。

 

(その戦いで、あなたが守ろうとしたしのぶさんも傷つきましたが・・・俺なりにできることをやり尽くしました)

 

 自分も傷ついたが、童磨に負わせられたしのぶの傷はそれ以上だった。しっかりとした治療を施しても、目覚めるまでに二か月かかったのだ。どれだけ深刻な怪我だったかが、そこから窺える。

 それでも、暁歩をはじめ蝶屋敷の皆は、決してしのぶを見捨てようとしなかった。その治療と看病の甲斐あって、しのぶも今は快復している。カナエにとって最後にして最愛の家族で、守ろうとしていたしのぶを、助けることはできたのだ。

 

(・・・そして、俺はこの先、しのぶさんの傍に居続けます)

 

 さらに暁歩は、自分が決めたことを、しのぶを見守っていたカナエに伝える。

 今や、しのぶと血の繋がっている本当の『家族』はもういない。そんな彼女を、もう二度と不安な思いをさせず、幸せに生きられるように支えると暁歩は心に決めている。

 

(どうか、安らかにお眠り下さい)

 

 最後に、カナエの安らかな眠りを祈る。

 そうして目を開くと、同じくしてしのぶたちも祈りを終えて立ち上がる。

 

「それでは・・・戻りましょうか」

 

 しのぶが皆を振り向くと、その顔にはいつもの微笑みが浮かんでいた。それを見て暁歩たちは頷き、アオイが置いたお供え物を回収して、屋敷へと戻ろうとする。

 それでも暁歩だけは、立ち去る前に一度だけカナエの墓を立ち止まって振り返る。

 けれどすぐ、暁歩は足を速めてしのぶたちの後に続いた。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 異空間・無限城での最終決戦から三か月が経つ。

 多くの犠牲を出した戦いにより、蝶屋敷にも多くの負傷者が運び込まれた。しかし、重傷だった炭治郎、善逸、伊之助をはじめ、怪我をした隊士は皆完治し屋敷を出ている。今はもう、治療で滞在する隊士はいなかった。

 また、この屋敷の主にして、深い傷を負ったしのぶの怪我も治っている。外傷はもちろん、体内に溜め込んでいた藤の花の毒も、暁歩が調合した解毒薬で分解されていた。

 しかしながら、カナヲの左目は快復していない。最終決戦で使った花の呼吸の奥義『彼岸朱眼』の代償として、左目の視力が大分弱まった。それも、暁歩の調合した薬でどうにか回復させようと試みたものの、完全に元通りとまでは至らずにいる。

 それでもカナヲは、暁歩を責めはしなかった。カナヲにとっての『姉』であるしのぶが生きていて、そのしのぶを助けるために自分でこの力を使ったのだから、責められないとカナヲ本人は言っていた。そして、暁歩があの戦いでしのぶの命を繋いでくれことにも感謝をしていると言う。

 

「二人とも、忘れ物は無いかしら?」

「うん」

「着替えと地図、それに道中の昼食もあります。問題ありません」

 

 そんなある朝、蝶屋敷の門戸の前で出立の準備をするカナヲとアオイに、しのぶは優しく声をかける。その隣には、暁歩やきよたちもいた。

 カナヲとアオイは、これから炭治郎たちの暮らす家へと向かう。彼らが蝶屋敷を出てから少し時間が経って、カナヲが皆に会いたくなったのだ。その旨を炭治郎に手紙で伝えたところ、ぜひ遊びに来てほしいとのことだったので、日取りが決まり今日行くことになった。ただし、カナヲを一人で行かせるのが不安だから、また自分も炭治郎たちの顔を見たくなったからと、アオイも自ら同行を買って出た。

 

「アオイさん。これ、炭治郎くんたちへのお土産ですので、渡してください」

「あ、はい。分かりました」

 

 暁歩が紙袋を差し出す。中にあるのは、街で買ったお菓子だ。

 因みに、この場にいる蝶屋敷の面々は、全員が私服である。今までしのぶたち隊員は漆黒の詰襟、きよたちは白衣だったが、鬼殺隊が解隊され蝶屋敷も医療施設ではなくなった今は、服装も自由となっている。最初にしのぶやアオイの着物姿を見た時は、暁歩も新鮮さを抱いたものだ。

 

「それでは、行って参ります」

「気を付けてね」

「炭治郎くんたちに、よろしくお願いします」

「分かった」

 

 準備が整うと、見送りもほどほどにカナヲとアオイは出発する。彼女たちも元鬼殺隊の一員、余程のことがない限りは心配ないだろうが、それでも気がかりだ。

 二人の背中が見えなくなるまでその場で見送ると、しのぶたちは踵を返して屋敷へと戻る。

 

「それじゃ、なほちゃん。準備ができたら行こうか」

「はぁい」

 

 屋敷へ戻りつつ、暁歩はなほに話しかける。今日は、暁歩となほで裏山に山菜を採りに行く。きよとすみ、そしてしのぶの三人は屋敷で家事を行う予定だ。

 少し前までは、病み上がりのしのぶに負担をかけさせまいと、家事はアオイや暁歩たちで分担していたが、ここ最近ではしのぶ自ら洗濯をしたり台所に立つ機会が増えた。前に一度、その理由をそれとなく訊いたところ、『どうも落ち着く』らしい。周りに気遣われ何もしないより、何かに集中していた方が気楽な気持ちはわかる気もした。

 

「昨日は雨でしたから、足元に気を付けてくださいね」

「分かりました」

 

 案ずるしのぶの言葉に、暁歩は笑みを返す。

 暁歩としのぶの関係も、最初の頃のような堅苦しい間柄ではなく、今となっては親しい関係だ。かと言って、逆に砕けすぎたりもせず、傍から見れば二人の距離感は変わらないようにも見える。

 ただし、きよ、すみ、なほの三人は分かっている。以前に暁歩としのぶが、縁側で寄り添うように抱き合っていたのを目撃したから、二人はきっと男女の関係なのだと。その辺りのあれこれが分かるぐらいには、彼女たちも子供ではない。

 

「それじゃあ、きよちゃんとすみちゃんは掃除をお願いね。休み休みで大丈夫だから」

「分かりました~」

「頑張りますね!」

 

 暁歩は屈んで、きよとすみと視線の高さを合わせて話すと、二人とも頷く。

 しのぶとの関係が変わっても、暁歩はきよたちに対する態度がぞんざいになったりはしない。皆のこれまでの境遇を考えれば、近しい場所にいる自分もしっかりと接さなければならないと思う。それに、この屋敷で長い期間過ごす内に、暁歩も彼女たちには妹のような情を抱いていた。

 

「・・・・・・」

 

 そうしてきよたちと話す暁歩を、しのぶは微笑ましい笑みで眺める。

 その心には、もやっとした気持ちがほんのわずかに生じているのも事実だが。

 

(暁歩さんは優しい方ですから・・・ああして接するのも仕方のないこと・・・。そうですとも)

 

 自分に言い聞かせるしのぶ。

 それが『嫉妬』であることには、流石に気付いている。よくよく自己を分析してみれば、過去にも同じような気持ちを抱いたことが度々あった。もしかしたら自分は、案外嫉妬深いのかもしれない。

 一方で、自分がそうした感情を抱き自分で気付けるのは、心に余裕ができているからだと分かっているし、それに安心している。復讐心に囚われていた時は、自分の中で育っていた暁歩への好意でさえ、死の間際まで気付けなかったほどだ。どころか、そうした感情を抱きはしないと諦めてまでいた。

 だからこそ、心が穏やかになっている今に、安らかな気持ちになっている。

 

「それでは、そこまで時間はかからないとは思いますが、遅くならない内に戻りますよ」

「行ってきます~」

「はい、気を付けてくださいね」

 

 山菜採りの準備が整った暁歩となほが出発するのを、しのぶは笑って見送る。それから自分も、きよたちと一緒に洗濯に取り掛かるのだ。

 

 鬼との戦いが終わり、前と比べて平和になった今は、しのぶも落ち着いて暮らすことができている。

 以前暁歩と話をしたが、自分のこれまで見ていたものが、全て前とは違うように見える。それは、無意識の内に自分にのしかかっていた多くの負担が、軽減されたからだ。

 けれど、自分が愛し、大切に思う人と暮らせるのが、しのぶはとても嬉しかった。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 何かが、家の中に入ってきた。

 お父さんが、私と姉さんを部屋の隅へ行かせるように手を払う。姉さんはその考えが分かったのか、小さな私の身体を抱きかかえて、部屋の隅にしゃがんだ。

 私には、何が起きているのか分からない。ただ姉さんの腕の中で、困り果てるしかない。

 けれど私の耳には、乱暴に障子戸が破られる音、誰かの怒っているような声が入り込んでくる。

 

 誰?誰がいるの?

 

 お父さんと、お母さん。そして、誰か別の人の声。

 てっきり、動物か何かが間違って家に入って来たのかと思ったけど、そうじゃないみたい。

 そしてお父さんは、怒った声を上げている。優しくて、頼りになるお父さんのあんな声、聞いたことがない。

 お母さんも、すごく怒っているみたい。前にいたずらをして怒られた時とは、全然違うぐらい怒ってる。

 だけど、その『誰か』は話を聞いていないのか、それとも喋れないのか、返事もしないで唸るような声を上げるだけ。

 そして次の瞬間、叫び声が響いた。

 

「っ!!」

 

 姉さんが私を抱き締める力が強くなる。私を守るように。そして、今私たちのそばで起きていることを、私に見せないように。

 けれど私の耳には、途切れ途切れの叫び声と、何かが千切れて、何かが砕ける音が嫌でも流れ込んでくる。

 それに、鼻を突くような嫌な匂いまでしてきた。

 鉄みたいなそれは、血の匂い。

 そしたら今度は、苦しそうなうめき声が聞こえてくる。

 どうしてか、幼い私でも、その声はお父さんとお母さんのものだって分かった。

 

「お父さん!お母さん!」

 

 たまらず私は、姉さんの腕をどかして、お父さんたちがいた方を見て、呼ぶ。

 部屋の明かりは消えていて、よく見えない。

 だけど、さっきまでお父さんとお母さんがいたはずの場所には、変な()()()()()()()があった。

 そのそばに、『誰か』がいる。

 『誰か』の赤く血走った目が、私の目と合う。

 そして、まるで笑うように、その目が細く歪んだ。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

「・・・っ」

 

 瞬間、しのぶの目が覚める。

 そこは、暗闇でも、血の匂いが漂ってもいない、蝶屋敷の私室だ。

 

(夢・・・)

 

 自分の胸に手をやると、心臓がひどく跳ねているのが分かる。

 起き上がれば、身体を無意識に動かしていたのか、布団が乱れているのが目に入る。それに寝間着も、自分の汗で身体に張り付いているかのようだ。

 

(何で今になって・・・)

 

 大好きだった両親が、自分の目の前で鬼に喰われた夜のこと。

 それをしのぶは、まだ幼い頃は何度も夢に見て思いだしていた。毎夜のように見る悪夢に、泣き叫び、隣で一緒に寝ていたカナエがそれを宥めてくれていた。

 それも時間が経ち、成長するにつれて夢に見ることは少なくなった。

 吹っ切れたわけではない。あの時のことをただ恐れるだけでなく、それを自分の成長の糧とするように、心が成長したからだ。それはしのぶ自身も自覚し、気持ちの整理はできてきたとも思っていた。

 けれど、随分と久方ぶりに、その夢を見てしまった。

 それは一体なぜなのか。

 

(・・・考えても、仕方ないですね)

 

 寝起きから悪夢を見た理由を深く考えては、気持ちも沈む一方だ。寝覚めが悪いとはまさにこのことだろう。早く着替えて気持ちを入れ替えようと思い、汗でやや湿った寝間着を脱ぐ。

 すると、部屋の姿見に自分の姿が映り、鎖骨から脇腹に掛けての傷痕が目につく。それは、無限城での戦いで童磨から受けたものだ。

 

 ―――死なせません。絶対

 

 そして、その傷を治そうとし、命を救おうとした暁歩の言葉を思い出す。瀕死の重傷を負い、意識が混濁とした中でも確かに響いた言葉。

 胸がとくんと小さく波打つ。それは、寝起きの不快感とは正反対で、とても温かく感じる。

 あの時、初めて気付いた暁歩への想いは、今なお絶えることなく自分の中に宿り続けている。そんな彼と、鬼との死闘が終わり、共に穏やかに暮らせる今は、しのぶからすればとても充実していた。

 

(・・・もしかして)

 

 その時、自分があの夢を見た理由に触れそうになる。

 だが、それと同時に障子戸が軽く叩かれた。

 

『しのぶ様~?』

 

 すみの声が聞こえてきた。着替えながら、しのぶは答える。

 

「どうしました?」

『もうすぐ朝ごはんですけど・・・どうかなさいましたか?』

「あぁ、ごめんなさい。少し寝坊してしまいまして」

 

 気が付けば、普段なら既に食卓にいる時刻だった。ただ、起きる時間は言った通り少し遅かったので、『寝坊』と言うのも嘘ではない。すみも、しのぶの言葉に『そうですか・・・』と納得した様子だ。

 身支度を整えて部屋を出ると、朝食の香りが微かに漂ってくる。きっと作っているのは、暁歩やきよたちだろう。

 

「おはようございます」

 

 すみと共に食卓の戸を開けると、案の定暁歩ときよ、なほが朝食の準備をしていた。三人に挨拶をすると、きよとなほが『おはようございます~』と笑みを浮かべて返事をする。

 

「・・・おはようございます」

 

 ところが暁歩の返した挨拶は、一拍遅れてのものだった。まるで、何かに引っかかりを抱いたかのように。

 どうにもそれがしのぶも腑に落ちないが、たまにはそう言うこともある、と言えばそれまででもある程度の違和感でしかない。

 

「どうかしました?」

「いえ、何も・・・」

 

 席にも着かず悩んでいると、逆に暁歩から心配されてしまった。しのぶは何でもない風を装い、席に座る。

 その後の朝食でも、特段暁歩に変わったところは見られなかった。なので結局、気のせいかとしのぶは処理することにした。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 この日は、街へ買い出しに出掛ける日だった。

 蝶屋敷では、買い出しに行く人数は特に決まっていないものの、行く場合はきよ、すみ、なほだけでは行かないようにしている。街までは距離が遠く、道中や出先で何かしらの面倒事に巻き込まれないようにするためだ。

 そして今日、買い出しに出掛けるのは暁歩としのぶの二人だった。

 

「いってらっしゃーい!」

 

 玄関先できよたちに見送られながら、暁歩としのぶは街へと向かう。

 

「随分久しぶりな気がしますね、しのぶさんと二人で行くのって」

「そうですねぇ。前行ったのは、薬種のお店を教えた時でしょうか」

 

 歩きながら言葉を交わすが、こうして二人で行くことになったのは、きよたちから『しのぶ様と暁歩さんが行ってきてください』と言われてのことだ。

 三人の性格からして、面倒くさいとか楽がしたいとか、そんな不純な理由で言い出したのではないだろう。それに、暁歩としのぶも、なぜ彼女たちがそう言ったのか薄々理由は気付いている。

 

「恐らくあの子たちも、私と暁歩さんを二人にさせたかったのでしょうね」

「きよちゃんたちなりの気遣い、ですか」

 

 しのぶの言葉に、暁歩は苦笑する。

 蝶屋敷の中で、暁歩としのぶの関係を知っているのは、きよとすみ、なほの三人だ。カナヲとアオイも薄々気付いているものの、明確にその現場を目撃したのは三人だけである。

 そして暁歩としのぶは、縁側でお互いに抱擁を交わしていたところを見られて以来、ああした過度な接触はしていない。二人とも、時と場所を弁えずにベタベタする性格ではないし、ただお互いが穏やかに暮らせることを今は望んでいるから、それほど苦でもなかった。

 しかしきよたちは、自分たちの目があるから、暁歩たちはあまり仲良くできないのだと勘違いしたらしい。結果、こうして二人きりにする機会を作ったのだろう。

 最初は暁歩たちも、三人にあの広い屋敷で留守番をさせるのは少々心許なくて、断ろうとした。けれど、『任せてください!』と胸を叩いてそう言われ黙殺されたのだ。

 

「色々な意味で、逞しくなりましたね・・・あの子たちも」

「ええ、確かに」

 

 そんな成長ぶりに暁歩が感慨深く呟くと、しのぶも同意する。気遣ってくれるのは嬉しいが、こうしてお膳立てをされるのも気恥ずかしいが。

 そんな恥を傍らに、暁歩としのぶは街に辿り着いた。大きな街道が交わる地点にあるこの街は、相変わらず賑わいを見せている。

 

「ここも、最初に来た時とは違うように見えますね」

 

 雑踏の中で暁歩は小さくこぼす。

 蝶屋敷で見る景色もそうだったが、前と変わらないはずの景色でさえも違うように見えてしまう。しのぶと話した通り、無意識に心に掛けていた負担が取り除かれたからだろう。

 

「皆さんは気付かないでしょうね・・・私たちが、命懸けの戦いをしていたなんて」

「そうですね・・・」

 

 しのぶが少しだけ声を潜めて告げ、暁歩も頷く。

 鬼殺隊と鬼の存在を知っているのは、民間人の中ではごく一部でしかない。それ以外は、鬼も鬼殺隊も全ては御伽噺としか認識しておらず、鬼のせいで人がいなくなることも『人攫い』としか思っていない。

 かと言って、皆が皆、人を喰らう鬼の存在を知っていたら、この街もここまでの賑わいを見せなかったかもしれない。鬼を恐れた人々はあまり出歩かず、静かにひっそりと暮らしていただろう。

 だから今、以前と同じようにこの街が賑わっているのも、鬼殺隊と鬼の戦いが続いていた頃から、何事もなく街の人々が平和に過ごせていることの証でもある。

 

「・・・・・・」

 

 そう思い至ったしのぶは、不意に足を止めた。隣を歩いていた暁歩は、思わず少し追い抜いてしまう形になる。

 

「しのぶさん?」

 

 振り返って暁歩はしのぶを見るが、その目は街を往く人々や商店を見ている。

 けれど何故か、その瞳は目の前に広がる光景ではなく、別のものを映しているかのように見えた。

 

「・・・すみません、少し考え事をしていました」

 

 するとしのぶは、取り繕った笑みを浮かべて首を横に振る。

 そして、先ほどのように歩き出す。暁歩も『そうですか』と掘り下げようとはしなかった。引っ掛かりは残っているが。

 

「さて、きよたちが気を遣ってくれたのはありがたいですが、あの子たちを屋敷に長時間残すのも心配ですからね」

 

 確かにその通りなので、買い物はあまり時間を掛けない方がいい。暁歩もしのぶと並ぶように足を進めた。

 しかし、頭には先のしのぶの遠い表情が残ったまま。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 買い出しから戻ったのは昼過ぎだ。きよたちは、思いのほか暁歩たちが早く帰って来たことに驚いたようだったが、おやつ用に買ったお菓子を見せると表情を綻ばせた。

 それから五人で昼食を摂った後、暁歩は自室で医学の勉強を進める。

 鬼殺隊が解隊され、新たに立てた暁歩の目標は、正式な医者となること。蝶屋敷で積んだ経験と知識を無駄にしたくないからこそ選んだ道だ。さらにしのぶは、将来的にこの屋敷を民間の診療所とするつもりでいて、暁歩もここで働くと決めている。

 一度交わしたその約束は、何としても守りたい。だからこそ、研鑽を惜しまないでいる。

 

『暁歩さん・・・。今、よろしいですか?』

 

 だが、勉強を始めて数刻ほど経つと、障子戸が叩かれると共にきよの声が聞こえてきた。心配の色が混じるその声に、暁歩は一度医学書を読むのを止める。

 

「どうかしたの?」

 

 戸を開けると、きよとすみ、なほの三人が不安そうな顔を浮かべていた。何か喜ばしくないことが起きていると、暁歩の勘が訴えかける。

 

「しのぶ様の、ことなんですけど・・・」

「しのぶさんに何か?」

 

 すみがしのぶの名前を出し、暁歩の勘は的中した。自然と意識が絞られる。

 

「何か、普段と様子が違うと言うか・・・」

 

 彼女たちが言うには、どうもしのぶが何か考え事をして、上の空な状態になっているらしい。

 先ほどきよたちが庭で鞠遊びをしていた時、しのぶは縁側からその様子を静かに眺めていた。しかし彼女は、どこか遠い目を浮かべているように見えたという。その目はきよたちに向けられているが、見ているものはまた違うようだと。それを不思議に思いきよたちが声をかけても、しのぶの反応は少し遅かった。

 

「暁歩さんは・・・何か心当たりとかありますか?」

「・・・同じようなことはあったけど・・・どうしてかは」

 

 買い出しに出掛けた時、街で見せたあの違和感。それと似ていると思うが、すみに問われても理由は思い浮かばなかった。この違和感だけは、勉強をしている間まだ分からず、頭の中に居座ったままだ。

 四人で腕を組み、うーんと唸って考えるが、一向に答えは思い浮かばない。

 

「・・・分かった、俺から訊いてみるよ」

「いいんですか?」

「うん。だから、きよちゃんたちは心配しないで」

 

 暁歩が笑みを浮かべると、きよたちも少し安心したらしい。

 そこで、彼女たちの後ろからしのぶが姿を見せた。

 

「皆揃ってどうしたのかしら?」

「あ、えっと・・・そろそろお茶にしようかと思いまして、暁歩さんを呼びに来たんです」

 

 しのぶに訊ねられて、なほが誤魔化す。まさか、しのぶのことで話をしていたとは、今この場では言えるはずもない。しのぶは特に疑うことなく、小さく頷いた。

 

「そうですね。先ほど街で買ったお菓子もありますし、暁歩さんも根を詰めすぎないようにしないと」

「・・・ええ、そうですね」

 

 しのぶに微笑みを向けられる。

 その笑みは一見、普段とは変わらないようにも見えた。

 しかし、きよたちの話を聞いた今となっては、それも無理しているようにしか暁歩は見えなかった。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 その日の夕食の後、暁歩から『月が綺麗ですし、お月見でもいかがですか?』と誘われた。それをしのぶは、二つ返事で承諾した。

 夜空に燦然と輝く月が、しのぶは嫌いではなかった。太陽と違い、月の光は穏やかに包み込むような優しさを秘めているようだし、暗い夜空にひっそりと浮かぶ様も乙なものだ。

 

「お待たせしました」

 

 南の縁側で月を眺めていると、暁歩がお盆を持ってやって来た。そこには、二つの湯飲みと金平糖が小さく盛られた皿が載っている。

 

「用意してもらって・・・ありがとうございます」

「お気になさらないでください。俺から誘ったんですから」

 

 湯飲みと金平糖の皿を下ろし、暁歩はしのぶの隣に腰掛ける。湯飲みをしのぶが手に取ると、温かい緑茶の香りが漂ってきた。

 

「綺麗な月ですね・・・」

「そうですねぇ」

 

 暁歩が静かに洩らすと、しのぶも同意する。

 お互い既に想いを確かめ合っているが、二人ともこうして静かな時間を過ごすのが好きだった。例えそこに多くの言葉や行動がなくとも、ただ自分にとって最愛の人が隣にいてくれるだけで、心は満たされている。

 

(さて・・・)

 

 しかしこの日、暁歩が月見にしのぶを誘ったのも、半分は本当に月見を楽しむためだが、もう半分の理由はしのぶの異変について訊くためでもある。

 時間と場所を改めて一対一で訊くのは、その異変の理由が少なからずしのぶの凄惨な過去に関係すると、暁歩が判断したからだ。そこから齎されたであろう不調も、そうなる理由も、まだ年端もいかないきよたちに聞かせるのは少々残酷に思えた。なのでまずは自分が聞き、それからかいつまんで事情を彼女たちに教えればいい。

 

「しのぶさん」

「はい?」

 

 お茶を啜ってから湯飲みを傍らに置き、暁歩はしのぶを見る。それだけで、何か真剣な話があると悟ったか、しのぶも同様に湯飲みを置いた。

 

「今朝から少し、気になっていたことがありまして」

「?」

「何か気持ちが乱れているように見えたのですが・・・何かありましたか?」

 

 しのぶの表情から笑みが消えた。

 

「・・・そう、見えましたか」

「はい・・・」

 

 しのぶは、今朝の食卓で感じた、小さな違和感の正体に気づいた。どうやらあの時点で、暁歩はしのぶの心が少しぐらついているのに感づいていたらしい。よく考えてみれば、暁歩はそういう嫌な予感に敏い体質だ。

 それと、暁歩と街へ出向いた時や、きよたちが庭で遊んでいる様子を眺めていた時も、自分が別の『もの』に気を取られている自覚はあった。そこについても気取られていたのだろう。なんとなく、昼間きよたちが暁歩の下に集まっていた理由が掴めた。

 

「では少し・・・話してもいいですか?」

「もちろん」

 

 暁歩は当然のように頷く。そのために訊いたのだから。

 その返事に安心し、しのぶはゆっくりと話し出す。

 

「夢を見たんですよ」

「夢・・・ですか」

「ええ。両親が、目の前で鬼に喰い殺された時の夢を」

 

 その場の空気が重くなるのを感じ取る。図ったように、月に雲がかかり光が弱まる。

 だが、暁歩は決して聞く姿勢を崩さず、続きを話すよう静かに頷いて促す。

 

「その夢は、まだ幼い頃は毎晩のように見て、魘され・・・泣き叫んでいました」

「・・・・・・」

「それぐらい、あの頃の私にとっては辛い思い出でしたから」

 

 無理もないと思う。聞いた話では、しのぶが両親と死別したのは歳が十にも満たない時分。目の前で大好きな家族が喰い殺された、なんて悲しい記憶は、夢に見るほどに心に傷を負わせただろう。

 

「けれど、成長するにつれて、その夢を見ることは少なくなりました。時間が解決した、と言うより・・・鬼殺隊で心が成長したからでしょうね」

 

 鬼狩りをしていく中で、自分と同じように理不尽に家族を喪い悲しみに暮れる人を、しのぶは幾度となく見てきた。その度に、『他人に自分と同じ思いをさせない』と願う気持ちが強くなり、研鑽を重ねて柱にまで至った。

 その過程で、心に鬼に対する怒りや憎しみが蓄積されている内に、過去の辛い記憶に対する感情は『怯え』や『恐怖』ではなくなった。その時の出来事は不退転の覚悟へと変わり、強くなったからこそ夢に見なくなったのだ。

 

「そんな鬼との戦いが終わった今は、とても穏やかに・・・そう、幸せに過ごせています」

 

 しのぶの言葉に、暁歩の頬も緩む。

 だが、話している中でしのぶは確信した。

 なぜ今になって、あの時の夢を見てしまったのかを。

 

「・・・今が幸せだからこそ、あの時の夢を見てしまったのでしょうか」

「え?」

「私は、恐れているんですよ。私にとっての幸せを、突然失ってしまうことを」

 

 しのぶの表情に、明確な翳りが生まれた。

 まだ身も心も幼く、幸せはずっと続くと思っていたあの頃、現実は残酷なものだと思い知らされた。目の前で両親が喰い散らかされ、幸せとはほんの一瞬で簡単に崩れてしまうものと、理解してしまったのだ。

 

「今は、カナヲもアオイも穏やかに過ごせているようですし、きよたちも鬼に怯えることはない。暁歩さんだって、新しい目標を掲げてそれに向かい努力をしている。そして私は、皆が今を平和に過ごせているのを見ていると、幸せだと思えるのです」

「・・・・・・」

「だからこそ、もしもこの幸せがまた、突然失われてしまったら・・・と不安を抱いてしまう。それが結果として、あの夢を見てしまったのかもしれません」

 

 凄惨な過去を経験したからこそ、今感じる幸せに一抹の不安を抱いてしまう。街で何も知らず平和に暮らす人々を見ていた時や、庭できよたちが楽しげに遊ぶ様子を眺めていた時、遠い目になったのはそのせいだ。目の前にある幸せが突然無くなったら、と思ってしまったから。

 しのぶの過去を考えれば、そうなるもの仕方ないのだろう、と暁歩は表情を暗くする。同時に、そこまでの考えに至らなかった自分が情けなく思う。

 

「そして、今の自分が幸せだと実感すると、同時に思うこともあるんです」

 

 そう言ってしのぶは、自分の腹部に手をやる。そこは丁度、童磨から傷を受けた場所だ。

 

「私は・・・この先、普通の人として幸せに生きてもいいのか、と」

 

 続く言葉に、暁歩の表情が驚愕の一色に染まった。しのぶもそれは見えていたし、『何故そう思うのか』と雄弁に表情で語っているのも分かる。

 

「鬼との戦いで喪われた命は、決して少なくありません。無限城の戦いでも、多くの隊員が命を落としました」

 

 暁歩やしのぶは直接対峙しなかったが、無惨の強さは破格と言えるほどで、並大抵の隊士は文字通り瞬殺されてしまったらしい。自分などその場にいても何にもならなかっただろうと、暁歩は思う。

 

「それだけでなく、童磨との戦いでは、カナヲも、伊之助くんも、そして暁歩さんだって・・・一歩間違えば・・・」

 

 その先を言い淀むしのぶ。言葉にする前に、そうなった時のことを考えて、恐ろしくなってしまったのだろう。暁歩だって、あの時ほど自分の死を目前に感じたことはない。

 

「それまでも、多くの隊士や市井の方が命を落としています。私自身でさえ、助けられなかった命もある・・・」

「・・・・・・」

「多くの人が命を落とし、私の命さえも投げ出そうとして・・・死を間近に見続けていた私が、この先人並みの幸せを掴んで生きることはできるのか・・・」

 

 しのぶの視線は、庭の地面に向けられる。

 

「私は、この先幸せに生きてもいいのか・・・そう思わずにはいられません」

 

 しのぶの中には、鬼との戦いで命を落とした人々の絶望や叫びが蓄積されている。桐蔓山の惨状を傍で見て、帰り際にしのぶから心中を聞いた暁歩も、それを実感している。

 さらに、蝶屋敷で傷ついた隊士を何度も見てきたからこそ、しのぶにとって死、ひいては命の危機とは身近なものだった。

 そしてしのぶは、柱として高い実力を誇っていても、そこに至るまでに救えなかった命が、残念なことにある。その悔しさも、自分が力をつけるための糧として飲み下してきたが、その救えなかった人たちの嘆きも同時に積もっていた。

 そんな自分が、果たしてこの先普通の人のように暮らし、願う幸せを手にして生きることはできるのか。

 多くの人々の絶望や悲しみを見、時には助けられなかった自分は、本当に幸せになってもいいのか。

 そうした自分に対する疑念と不安が、表に出てきてしまった。

 

「・・・・・・」

 

 しのぶの視線が地面に向く一方、暁歩の視線は雲がまだらに浮かぶ夜空へと向く。月はまだ隠れている。

 

「少なくとも・・・」

「・・・?」

「今のしのぶさんの周りいる皆さんは、あなたの幸せを願っていると思いますよ」

 

 言葉を慎重に選びながら、話し出す。夜風に吹かれて、緑茶から立つ湯気が流れていく。

 

「しのぶさんが二か月の時間を挟んで起きた時、蝶屋敷の皆は泣いて喜んでました。甘露寺さんや炭治郎くんたちも、とても安心していましたよね」

「・・・ええ」

「それだけ皆さん、しのぶさんが無事でいてくれたことが嬉しくて・・・そして、生きていてほしかったんですよ」

 

 無事を願っていなければ、生死の瀬戸際から脱し、長い時間をかけて回復したことを喜びはしない。すなわち、それだけ周囲の人間にとって、しのぶとは大きな存在でもある。

 それに蝶屋敷の面々にとって、しのぶは家族同然の存在だ。引き取られた経緯には鬼のせいで家族を喪ったという悲しい事実があるが、それでもしのぶがより大切な人であることに変わりはない。そんな人が助かったことに、安堵しないはずはなかった。

 

「俺だって、しのぶさんが起きた時はとても安心して、嬉しかったです。それにずっと前から、しのぶさんには永く生きてほしいと思っています」

「・・・・・・」

「過去に何度も辛い経験をしたからこそ・・・しのぶさんにはこの先、ずっと幸せでいてほしい。そう願わずにはいられません」

 

 最愛の両親を喪い、姉を喪い、最後には自分の命さえも喪いかけた。それに加え、多くの人の死を間近に見てきたからこそ、この先はそれを上書きできるほどに幸せになってほしい。暁歩は、そう切に願っていた。それはずっと変わらない。

 そう思うのは、暁歩だけではないと『自信』がある。それは、同じく泣いて喜んでいたカナヲやアオイたち蝶屋敷の皆だって、やはり幸せを願っていると信じている。彼女たちはしのぶの『家族』であり、それぞれが真っ当な心の持ち主なのだから。

 

「それでも、幸せをある日突然失ってしまうのを恐れるのは、無理もないのかもしれません。あなたの悲痛な過去を思うと、俺も胸が痛みますから・・・」

 

 二度も家族の死を目の当たりにしたしのぶの辛さは、暁歩は本当の意味で理解することは一生かかっても難しいと思っている。暁歩はその場にいたわけではなく、記憶の共有もできない。家族を鬼によって喪ったのは同じだが、状況も全然違うからこそ、しのぶの悲しみを全て理解しきることはできない。それが歯痒かった。

 

「鬼との戦いが終わって、何の前触れもなく理不尽に命を喪う可能性も低くなりましたが、それでもやはり、幸せを失くす可能性も皆無とは言い切れないです」

 

 鬼殺隊は、常に命の危険と隣り合わせの場所だった。手足の一本や二本を失うことは珍しくなく、下手をすれば命だって落としかねない。命の保障が聞いて呆れる。

 だが、今は状況が変わり、よほどのことがない限りは身の安全は守られていた。

 それでもなお、しのぶはまだ心から安心できていない。背負っている過去、心に刻まれた傷を考えれば、突然幸せを喪うのを恐れるのも仕方がなかった。

 だから、『絶対に大丈夫』なんて根拠のないことは言えない。

 

「それでも、俺は・・・しのぶさんにとっての幸せを失わないように、最大限の努力をします」

 

 代わりに暁歩は、隣に座るしのぶとの距離を少しだけ詰める。

 

「この屋敷の皆さんが何事もなく暮らせていることがしのぶさんにとっての幸せなら、俺はこの暮らしを守れるようになります」

「・・・・・・」

「あなたの幸せを守りたい。あなたを二度と、悲しませたくはない」

 

 しのぶが、誰かの幸福を守るために戦うという意思を掲げていたように、暁歩もまたしのぶの幸せを守りたい。これまで何度も悲しい思いをしてきたしのぶに、同じ思いをさせたくはない。それは確固たる決意だ。

 

「それでもこの先、不安になったり、悲しい思いを抱いたりしたら、俺はそれを一緒に背負います。少しでも、しのぶさんの負担を軽くし、穏やかになれるように」

 

 自然と暁歩は、しのぶの空いている手に自分の手を重ねる。

 その言葉にしのぶは、暁歩との今までのことを思い出す。これまでも確かに暁歩は、しのぶが心の重荷を口にした時はそれを聞き、少しでも負担を減らそうとしてくれていた。そして、寄り添って自分を支えてきてくれた。

 それを思うと、先の暁歩の言葉にも重みを感じる。本当にそうあってくれると思わせる、安心感も抱かせてくれるようだ。

 

「不思議と・・・」

 

 くすっと、しのぶは笑みを浮かべて、口を開く。

 

「暁歩さんの言葉を聞くと、父のことを思い出すんですよ」

「しのぶさんの・・・お父さんを?」

「ええ。とても優しくて、逞しい人でした」

 

 寫眞もないので、暁歩はしのぶの父がどんな人なのかは分からない。けれど、これまでしのぶから聞いてきた話の中で、どんな人物像なのかは想像できる気もする。

 

「最初に暁歩さんに、私の生い立ちのことを話した時、私に何と言ってくれたかは覚えていますか?」

 

 暁歩は記憶を掘り起こす。それは確か、蝶屋敷に来て間もない頃、仏壇に黙祷を捧げた日のことだ。

 

 ―――何か悲しい気持ちや辛い思いがあるようでしたら、自分が聞いて受け止め、支えます

 ―――どうか・・・頼ってください

 

「あの時の言葉は、父の言葉を思い起こさせました。『重い荷に苦しんでいる人がいたら半分背負い、悩んでいる人がいれば一緒に考え、悲しんでいる人がいたらその心に寄り添ってあげなさい』、と」

「・・・・・・」

「思えば、あの話をした時から、暁歩さんには何か別の気持ちを抱くようになったのかもしれませんね」

 

 手を重ねられたしのぶは、その暁歩の手を握り返す。

 いつの間にか、月にかかっていた雲は晴れて、再び穏やかな月明かりに照らされていた。

 

「どうしてか、暁歩さんの言葉を聞くと気持ちが落ち着くんですよね」

「・・・そうなんですか」

 

 さらりと嬉しいことを言ってくれる。言葉だけで平然を装うのが精いっぱいだ。そうして照れているのが見通されているのか、笑みを深めて続ける。

 

「ずっと私のことを、考えてくれていたからでしょうか。言葉だけでも私を気遣ってくれているのが分かりますし・・・」

 

 月明かりがあるとはいえ、今は夜だ。間近に見ない限りは顔色もはっきりとは分からないだろう。

 けれど、今の暁歩の顔は照れ臭さと恥ずかしさで真っ赤に染まっているだろうと自覚はしている。咄嗟に脇に置いた緑茶を飲んで逃げても、効果は特になかった。

 

「・・・すみません。分かりきったような口を利いてました」

「咄嗟に謝るのは良くありませんよ?私は責めているのではないですし、むしろ逆。感謝したいほどです」

 

 暁歩の肩に、しのぶはそっと手を添える。

 

「やはり私は、どうしても心が脆いのかもしれません。幼い頃に悪夢を何度も見たことも、鬼との戦いが終わった今になって幸せを失うことを恐れてしまうのも」

「・・・・・・」

「だからこそ、暁歩さんが支えてくれるのは、とても嬉しくて、安心します」

 

 しかし暁歩は、まだしのぶの言葉に首を縦に振ることはできない。

 

「俺だって、そこまで強くはないですよ。藤襲山で鬼が怖くなった弱虫ですし」

「では、お互いに足りないところは支え合っていく、としましょうか」

 

 しのぶが指を立てて、笑みを浮かべて提案する。

 暁歩もしのぶも、心は鋼の如く強いと言うほどでもない。しのぶの方がまだ強いだろうが、心の中にどす黒い気持ちを秘め続け、今はそれに代わって恐怖が宿っている。そんなしのぶを、しのぶの心を暁歩はこの先支えていくつもりだ。

 けれど暁歩もまた、心は完璧と言うわけでもない。やはり藤襲山で多くの鬼を前に恐怖し、一度は戦いから退いた未熟者なのに変わりはないから、絶対の自信も持てない。その事情をしのぶは知っているし、それでもなお暁歩はしのぶの心と身体の傷を癒してくれた。だからこそしのぶも、暁歩のことを支えるつもりでいる。

 

「・・・そうですね」

 

 暁歩は笑みを浮かべて、そう返した。しのぶも満足したのか、緑茶を一口啜って夜空を見上げる。月は変らず、穏やかな光を地上に向けて輝かせていた。

 

「さて」

 

 すると、しのぶは再び暁歩に話しかける。その語調には、先ほどのように悲し気な雰囲気が無かった。

 

「暁歩さんは先刻私に、悲しい思いをしないように一緒に背負い、穏やかになれるよう努めると言ってくれましたよね?」

 

 その中でしのぶは、おもむろに暁歩にそう語りかける。

 金平糖を飲み込んだ暁歩は、どうしたんだろうと思いつつも頷いた。

 

「・・・では、その言葉に甘えて・・・お願いを聞いてもらってもよろしいですか?」

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 『お願い事』を聞いた後は、また少しの間月見を楽しんだ。

 

「はぁ・・・」

 

 問題はその後で、風呂から出た暁歩は、しのぶの部屋に自分の布団を敷いていた。それはしのぶからの頼みである、『隣で眠ってほしい』を履行するためだ。

 お互い親密な関係になったとはいえ、同じ部屋で眠ったことは一度もない。なので、唐突な申し出に多少驚きはした。それでも、頼んでくるしのぶの気持ちは、昨夜悪夢を見たことを考えれば分からなくもなかったが。

 だからと言って、二つ返事で快諾するのは流石に理性が待ったをかけた。何せ女性と同じ部屋で眠るのは初めて(怪我で眠っていた時はともかく)だし、その相手がしのぶとなれば、理性が朝まで持つかも微妙なところだ。暁歩だって年頃の男であり、()()()()()()に興味がないわけでもないから。

 しかし結局、渋っても押し通された。『最大限努力する』という自分の発言を掘り返され、結果として自分の発言が仇となったのだ。

 それだけならまだしも。

 

『お互いに()()ですから、何も問題ないのではないでしょうか?』

 

 その『家族』をどういう意味で言ったのかは分からない。けれど、自分のことを家族と思ってくれているのであれば、それを無下にしたくもなかった。家族を喪った悲しみをよく知っているしのぶの言葉ならなおさら。

 

(落ち着け、冷静になるんだ・・・)

 

 されど、それはそれ。いざしのぶの部屋に布団を敷くと、否が応でも自分の心がざわつく。蝶屋敷に来て初めてのしのぶの誕生日や、今はいない珠代や愈史郎と薬を作った時にも部屋に入ったが、今は状況が明らかに違うから感性もまた違う。

 部屋は女性特有のほのかな甘い香りがし、平常心を崩そうとしてくる。初めて部屋に入った時も考えた、普段ここでしのぶが生活しているという事実に意識が持って行かれそうになる。やむを得ず、全集中の呼吸で何とか心の平穏を保つことにした。

 

(・・・これは・・・)

 

 そんな中で、棚の上の円筒形の金魚鉢の横に、花瓶が置かれているのに気付いた。

 蝶の意匠が施された白い陶器は、暁歩が誕生日祝いに買ったものだ。

 挿してあるのは百合の花。流石に月日が流れたので、最初に暁歩が買った雛罌粟ではなかったが、それでもこの花瓶をずっと使ってくれていると知り、嬉しくなる。

 

「何か珍しいものでもありましたか?」

 

 そこで横合いから、急に声を掛けられた。

 びくっと震えそちらを見ると、風呂上がりで寝間着に着替えたしのぶがいた。髪を下ろし、無地の白い浴衣を着た姿は初めて見る。それだけで心臓が痛いくらい跳ねた。

 

「・・・この花瓶、使ってくれてるんですね」

「もちろんですよ。大切な贈り物ですし、意匠も気に入っていますから」

 

 緊張を隠して会話の続行には成功したが、しのぶの答えに思わず唇が緩みそうだ。意匠云々よりも、暁歩から贈られたという事実を先に言ってくれたのがさり気に嬉しい。

 

「あ、布団はここで良かったですか?」

「ええ、大丈夫です」

 

 自分の布団を敷くついでに、しのぶの布団も敷いておいたのだが、一応は問題ないらしい。要望通り、暁歩の布団はしのぶのすぐ隣だ。

 それを改めて見ると、自分が後戻りできない場所まで来ていると嫌でも自覚させられるし、何より自分の心が熱を帯びてきているのを感じる。

 ちらっと、隣にいるしのぶを見る。風呂上がりだからかもしれないが、頬がわずかに紅い。まさかとは思うが、今になって自分の願い事が大分恥ずかしいことにでも気付いてしまったのだろうか。

 

「・・・もう遅い時間ですし、寝ましょうか」

「・・・そうですね」

 

 実を言うと、二人が普段床に就く時間まではまだ少し余裕があった。それでもしのぶの方から『寝よう』と言い出したのは、やはり恥ずかしさが勝ってしまったのかもしれない。

 だが、このまま起きていて話題が広がる自信も暁歩にはなかったため、すぐに寝るという意見には賛成した。それにこれ以上時間が長引くと、色々と引き返せなくなりそうでもある。

 

「・・・・・・」

 

 明かりを消し、布団に入るが眠気など塵ほどもない。どうすれば何事もなく眠りに就けるかを考えたが、考えるだけ無駄な気もする。

 

「・・・随分と、久しいことですよ」

「?」

「同じ部屋で、誰かが一緒に眠るのは」

 

 すると、しのぶがおもむろに話す。彼女も眠れないらしい。

 暁歩は、天井を見上げたまましのぶの話に耳を傾けることにした。

 

「アオイたちを引き取った時は、姉さんや私が一緒に眠っていました。あの子たちも、鬼のせいで家族を喪ったことをとても悲しんでいました。私のように・・・」

 

 今は真面目にてきぱきしているアオイや、健気に手伝いをしてくれるきよたちも、鬼のせいで家族を喪い嘆き悲しんだことは同じだ。だからこそ、その悲しさや不安を和らげるために、誰かが傍にいる必要があった。

 

「そして私も・・・最初は姉さんと一緒に眠っていました。そして、夜が来る度にあの時のことを思い出して・・・」

 

 言葉に詰まるしのぶ。暁歩もその先を促そうとはしない。

 

「けれど今・・・あなたがこうしてそばにいてくれると、恐れることも、不安もありません」

「・・・そうですか」

「ええ」

 

 きっと今、しのぶは笑みを浮かべているのだろう。言葉でそれは伝わってくる。

 

「・・・本当に、いいのでしょうか」

 

 今度は、まるで雨に濡れているかのような不安げな言葉。

 

「私は・・・幸せに生きても」

「当たり前じゃないですか」

 

 暁歩は起き上がり、しのぶのことを見る。明かりが消えてまだ目は利かないが、それでも強い意志を込めて答える。

 

「幸せの尺度は人それぞれですが、幸せに生きたいと望むことは何もおかしくありません。後ろめたい気持ちを抱くことだってないんです」

 

 しのぶは、暁歩のことを見てくれているようだ。反論を挟みはしない。

 

「それにしのぶさんは今まで、数えきれないほどの、普通だったら耐えきれないほどの辛いことを経験している・・・」

 

 幼少から今に至るまで、悲しい出来事が付いて回って来た。もうそんな思いを抱くのは、これっきりであってほしい。

 

「だからこそ、この先は幸せに、強く生きてほしいです」

 

 その言葉に、しのぶは目を見開く。

 暁歩の口からは初めて聞いたはずの言葉だったが、聞き覚えがあった。

 

「・・・幸せに、強く生きてほしい・・・ですか」

「はい。俺はそう願っています」

 

 すると、しのぶもまた起き上がり、暁歩の方を向いた。

 

「・・・あの戦いの後、目覚める前・・・私は夢を見ていたんですよ」

「?」

「家族の夢です。それも、あの夜のことではなく・・・今の私に直接語り掛けるような、そんな夢を」

 

 夢だったはずなのに、克明に覚えている。桜の樹の下で、先に逝ってしまった家族と、少しの間だけ言葉を交わしたこと。

 その中で、しのぶは家族から『強く、幸せに、永く生きて』と願われたのだ。

 

「不思議と私には・・・それが単に都合の良い夢を見ていたとは思えませんでした。本当に、家族が私に話をしてくれたような・・・そんな感覚です」

「・・・俺は信じますよ」

 

 だが、そのしのぶの話に暁歩は強く共感できた。

 なぜならば、暁歩もまた同じように、あの最終決戦の後で目覚める前、鬼に殺された両親の夢を見たのだから。その夢のことは、不思議と今も鮮明に覚えている。そうした同じ経験をしたからこそ、その話にも理解を示せた。

 同じような夢を見ていた、と知って、しのぶは驚きつつも妙なところで共感を抱き頬が緩む。だが暁歩はそれが見えていないのか、言葉を続ける。

 

「でも、それなら・・・家族からそう願われたのなら、尚更しのぶさんは幸せに生き続けるべきです」

 

 その直後、しのぶは暁歩の手を握ってきた。前触れの無いその行動に、思わず自分の手に目を向ける。

 さらにしのぶは、暁歩に身体を寄せてきた。甘い香りが一気に強くなる。

 

「・・・そう、思ってくれますか」

「はい、もちろんです」

 

 眼前に、しのぶの顔がある。目が慣れてきて、その大きく綺麗な菫色の瞳は、潤んでいるようにも見えた。思わず喉が引っ付きそうになるが、しっかりと返事をする。

 

「それなら・・・私も暁歩さんに対する気持ちは同じです。私もあなたには、幸せに、永く、強く生きてほしい」

 

 身体を寄せて、しのぶの空いた手が静かに握られる。

 

「童磨との戦いは暁歩さんも深く傷つき、あと一歩で命を落としてしまうところでした・・・。あの時、ほんの少しでも何かが違えば・・・あなたは死んでいたと思うと、私はとても恐ろしいです」

「俺もですよ。あの時、あと少しでも俺が間に合わなければ・・・しのぶさんは死んでいたのかもしれませんから」

 

 致命傷を負い、意識が朧気だったしのぶにも見えた、暁歩の深い傷。右脚の腱が切れ、腹部に深い傷を負った暁歩も、もう少しで死ぬところだったはずだ。

 そして最初に暁歩が駆け付けた時、一歩でも遅かったら、童磨にあの場で殺されていたかもしれない。

 お互いに最悪の結末を想像すると、悪寒が走る。考えただけで、息が荒くなってしまうほどの、恐怖に苛まれそうだ。

 

「・・・でも、私たちは今も生きている」

 

 しのぶが、さらに身体を預けるように力を抜いて寄りかかる。ともすれば、互いの心音さえも伝わってきそうなほどだ。

 

「それでも、『もしかしたら』と考えてしまうと、不安になってしまいます。今は隣にいたとしても、いつか突然いなくなってしまわないかと心配で・・・」

「・・・・・・」

「だからこそ、この心の不安を少しでも埋めたい」

 

 そして、しのぶは暁歩を見上げた。

 

「・・・暁歩さん。私は()()()()()()()()()()()()()()()

 

 この場で、その言葉がどんな意味を持つのか。それが分からない暁歩でもない。

 だからこそ、身体は強張り、息を呑む。

 

「しのぶさんは・・・それでいいんですか?」

「あなたが今もまだ生きていて、私のそばにいることを、強く、深く感じたい。それが、私にとっての幸せの一つです」

 

 暁歩が幸せに生きることを願う、しのぶにとっての幸せ。それを実現できるように暁歩は傍にいると言ったばかりだ。最大限努力するとも。

 その幸せを強く感じたいからこそ、しのぶは暁歩を求めている。

 しのぶの手が、不安げに、縋るように、暁歩の手を握る。

 

「・・・俺たちはまだ・・・」

「いずれそうなることは、お互いに望んでいたはずです。それとも、あの時の言葉はでまかせだったのでしょうか?」

「そんなことは」

 

 もの悲し気なしのぶの言葉は即座に否定する。

 月夜の病室で、暁歩がした告白と約束は、もちろん本心から来るものだ。それを反故にするつもりなど毛頭なく、必ずその未来を実現させると心に誓っている。

 

「・・・本当に、いいんですか?」

「はい。暁歩さんになら、私は・・・」

 

 再三確認しても、しのぶの意思は変わらないらしい。

 これ以上は、無粋だ。

 

「・・・今までの私にとって夜とは、悲しい印象しか抱けませんでした」

 

 家族を喪ったのも、鬼と戦っていたのも、無限城で命の危機に晒されたのも夜だ。だからこそ、夜には良い思い出があまりない。受けた悲しみが大きいからこそ、その印象は拭えなかった。

 

「けれど今宵は・・・その印象も変わりそうですよ」

 

 ようやく、しのぶは心からの笑みを浮かべた。

 それを見た暁歩も小さく笑い、ゆっくりとしのぶと唇を重ね合わせる。最初とは違って、今は深く。

 それで理性は熱情に溶けて、そのまましのぶの浴衣に手を掛けた。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 外から聞こえる鳥の鳴き声で、目が覚めたのはお互いほぼ同時だった。

 起き上がって、自分たちの寝間着が乱れているのに気付くと、いそいそと整える。全てを預け合った仲なので、今更よそよそしくすることもないのだが、そこは雰囲気的な問題だ。

 

「・・・夢は、見られましたか?」

 

 落ち着いたところで、暁歩はしのぶに訊ねる。

 対して、しのぶは苦笑いを浮かべた。

 

「・・・見たような、見なかったような感じです。何せ昨夜は・・・」

 

 どうやら、夢を見たかどうかさえ曖昧らしい。ただ、寝る前のことを考えればそうなってしまうのも無理もないと思った。現に暁歩でさえ、夢の記憶がない。

 

「けれど、昨日のような不快さはありません。あるのは・・・安心感ですよ」

「・・・そうですか」

 

 心の不安は、埋められたらしい。それだけでも、十分だ。暁歩は小さく笑う。

 お互い身体に問題がないことを確認すると、まず暁歩は自分の部屋に布団を戻しに行く。そして、時間的に既にきよたちが朝食の準備を始めている時間なので、暁歩としのぶは別々に食卓へ行くことにした。一緒に行くと、もしかしたら誤解を招きかねない。

 

「おはよう」

 

 私服に着替えて食卓に顔を見せると、きよたちは『おはようございます~』と挨拶をしてくれた。申し訳ない気持ちを抱きながら、配膳を手伝おうとする。

 

「ごめん、少し寝坊しちゃった。手伝うよ」

「いえ、もうすぐ終わりますので。ゆっくりしてて大丈夫ですよ」

 

 だが、すみに笑顔でそう押し留められてしまう。きよとなほも同様に、暁歩に笑みを向けてくるので、仕方なく席に着くことにする。

 その少し後に、しのぶが食卓に入ってくるが、きよたちは普段と同じように挨拶を返して、朝食の準備を進める。そこでしのぶは、普段手伝う暁歩が座ったままなのに若干異変を感じたらしいが、暁歩も『なんでかな』と肩を竦めるだけだ。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 しかしその日は、小さな違和感がゆっくりと積み重なっていた。

 朝食の後の洗濯や掃除などを、きよとすみ、なほの三人が率先して行い、暁歩としのぶにはゆっくりしてほしいと言って手伝わせようとしない。それは朝だけでなく、昼食の時間まで続いた。

 普段から暁歩としのぶが頑張っているからその労いも込めてと考えられるが、二人ともどうにも疑問を抱かざるを得ない。

 しかし、暁歩にもやるべきことがある。

 

「きよちゃん、すみちゃん、なほちゃん。ちょっといい?」

 

 昼食の後で家事がひと段落した三人を、暁歩は居間へと呼ぶ。

 それは、昨日きよたちが感じていた、しのぶの異変の正体を教えるためだ。つまびらかに話すつもりは無いが、その理由と結果だけは伝えようと思う。

 

「昨日、しのぶさんとね・・・」

 

 ところが、暁歩がそう切り出した直後、三人が一斉に頬を赤らめ、恥ずかしそうな表情になった。そこで暁歩も説明しようとするのを止めて、『どうしたの?』と問いかけた。

 

「ええと、昨日・・・ですよね」

「昨日って、その・・・」

 

 すると、なほとすみがもじもじと何かを言いあぐねている。暁歩も流石に、何かがおかしいと確信し、予感が働く。

 

「・・・まさか、三人とも夜のこと・・・」

「・・・眠っていたら、音とか声が聞こえてきまして・・・」

 

 恐る恐る暁歩が訊ね、きよの答えを聞くと冗談抜きに机に突っ伏した。

 穴があったら入りたい気分だ。思えば、きよたちの部屋はしのぶの部屋の近くだから、多少大きな音がすれば起きてしまうのも仕方がない。

 そして、そんな事態になっていたと今頃知って、心疚しいことこの上ない。以前、天元との営みを暁歩としのぶに見られた須磨の気持ちが、痛いほどに分かる。

 

「おや、四人とも揃ってどうしたのですか?」

 

 そこで、何と都合の悪いことか、しのぶが顔を見せた。

 だが、彼女は元・鬼殺隊の柱で、医学にも精通しているほどには頭が良い。恥じらう様子のきよたちと、それ以上に衝撃を受けているらしき暁歩。そのうえで、昨日の夜にあったことを考えれば、おのずと答えは分かった。

 

「・・・まさか、言ったんですか?」

「聞こえてたらしいです・・・」

 

 笑みを崩さず青筋を浮かべ、暁歩に問いかける。しかし暁歩の告げた事実は、しのぶの羞恥心をさらに煽るようなもので、思わず足の力が抜けそうになる。

 そしてその反応で、きよたちは昨夜のことに確信を持ってしまう。

 

「今日のお夕飯は・・・お赤飯にしましょうか」

「「それはやめて」」

 

 きよの提案には、暁歩もしのぶも全力で拒否した。

 そして暁歩は、こんな恥を晒すために三人を呼んだわけではないことを思い出す。

 

「それはともかく、三人とも昨日、しのぶさんの様子が少し変だったって言ってたでしょ?」

 

 未だ恥ずかしさは引かないが、本題を切り出すときよたちも姿勢を改める。しのぶはその場に立ったままだが、そんな彼女に暁歩は視線を向けながら、口を開く。

 

「・・・昨日しのぶさんに話を聞いたよ。ちょっと昔の怖い夢を見てたんだって」

「そうでしたか・・・」

「でも、もう大丈夫。話して、気持ちが楽になったって」

 

 しのぶも『心配させてごめんね』と謝ると、きよたちは胸をなでおろした。

 

「元気になってよかったです・・・」

 

 安心から涙ぐむきよの言葉には、すみとなほ、そして暁歩も大きく頷いた。

 

 

□ □ □ □ □

 

 

 カナヲとアオイは、予定通り出発から一週間後に帰って来た。

 

「ただいま戻りました」

「おかえりなさ~い」

 

 二人を出迎えたのは、玄関周りの掃除をしていたすみだ。

 その声を聞いて、暁歩も玄関へと出てくる。

 

「おかえりなさい。楽しかったですか?」

「はい、皆さんとても元気そうでした」

「そうですか・・・それは良かった」

 

 アオイからの報告に、暁歩の表情も綻ぶ。傍にいたカナヲもまた、嬉しそうに頷いている。想い人の炭治郎に会えたことに、非常に満足しているようだ。そんなカナヲに、暁歩は訊ねる。

 

「炭治郎くんや禰豆子さん、相変わらずでしたか?」

「うん。元気にしてた」

「ただ・・・善逸さんは落ち着きがありませんでしたし、伊之助さんも・・・変わらずでした」

 

 カナヲの返事は、やはり生き生きとしているように聞こえる。

 ただ、辟易したアオイの様子を見るに、彼女は相当振り回されたらしい。特に伊之助は、蝶屋敷にいた頃はしょっちゅうアオイと(微笑ましいと言えば怒るだろうが)喧嘩をしていたので、何が起きたかは想像に難くない。

 ともかく、彼らと親しかった暁歩も、彼らの近況に少し興味が湧いた。今度、炭治郎たちに手紙を送ろうかと思案する。

 

「ところで、しのぶ様は?」

 

 帰還した報告をするつもりだろうアオイが訊ねてくる。

 だが、暁歩は少しだけ頭を掻いて視線を逸らした。

 

「しのぶさんは・・・買い出しで」

「あぁ、そうでしたか」

「なほちゃんと一緒に行っています~」

 

 暁歩が若干ばつが悪そうで、逆にすみが妙ににこにこした様子の答えに小首を傾げるも、アオイは納得してくれたらしい。カナヲもゆったりとした笑みのまま小さく頷いた。

 暁歩の反応が若干ぎこちないのは、あの日の夜のこと、そしてその時のことがきよたちに筒抜けだったことを受けて、恥ずかしさが時間が経っても抜けないからだ。

 そしてすみの反応は、暁歩の様子が面白いのと、二人の間柄が親密になって妙に嬉しいからである。

 それから少しして、しのぶはなほと一緒に帰って来た。

 

「おや、二人とも戻ったんですね」

「はい。つい先ほど」

「炭治郎くんたちとは色々お話しできましたか?」

「うん」

 

 しのぶの問いかけに、カナヲは嬉しそうに頷く。最初こそ何の感情も抱かなかったカナヲだが、今となっては一人の可愛らしい少女に変わったその姿に、温かい気持ちになる。

 

「屋敷では、特に何かありませんでしたか?」

 

 そしてアオイは、しのぶに訊ねる。一週間も屋敷を空けたことなどアオイは無かったので、何も問題がなかったかを知りたかった。

 

「ええ・・・特には、はい。なかったですよ」

 

 だがしのぶの答えは、いつもと違って歯切れが悪い。それにはアオイはもちろんカナヲも不思議に思ったようで、お互い顔を見合わせる。

 しのぶの反応は、具体的に言えば、先ほどの暁歩と同じようなものだ。ついでに言えば、傍にいるなほもまた、すみと同様意味ありげな笑みを浮かべているので、余計気になる。

 実はしのぶもまた、暁歩と同じ理由で心に余裕がなかった。『何か』と問われてしまうと、あの夜のこと以外で特に問題が無かったからこそ、それを優先的に思い出してしまい、都度恥ずかしさに飲み込まれそうになる。

 

「どうしたのかしら、二人とも・・・」

 

 しかし、そんな2人の事情を全く知らないアオイとカナヲは、荷物を片付けた後もあのぎこちない反応が気になっていた。

 そんな彼女たちに向かって、きよ、すみ、なほが廊下の脇から手招きをする。アオイとカナヲは何事かと思いつつもそれに応じ、きよたちからコソコソと話を吹き込まれる。年端もいかないきよたちからの情報は断片的だったが、それでも彼女らよりは年上で『そういうこと』の知識があるアオイは、見る見るうちに顔が赤く染まっっていった。

 

「どうかしましたか?」

 

 そこへ丁度、偶然にも暁歩としのぶが通りかかる。

 だが、アオイは暁歩に向かって。

 

「・・・破廉恥な!」

 

 突然糾弾する。

 しかしながら、きよたちがいるのと、アオイが羞恥の表情を浮かべているのを見て、何が起こっているのか大体見当がついた。

 

(何も言えん・・・)

 

 だからこそ、暁歩も唇を噛むことしかできない。しのぶは額を手で押さえている。

 こうして、蝶屋敷の穏やかな日常は、若干変わりつつも戻ってきたのだ。




≪おまけ≫

カナヲ「えっと、その・・・痛かった?それとも・・・気持ちよかった?」
しのぶ「・・・・・・」


その後暁歩は、純粋だったカナヲが妙なことに興味を持ってしまったとして、アオイからおよそ2時間の説教を受けた。
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