真っ白な雪が降りしきる中、暁歩は頭に笠を被り隊服を着て、円匙を雪に突き刺す。
「よっこらせと」
声に出して踏ん張りながら、掬った雪を別の場所へ放り投げる。
振り返ると、門扉から玄関までの雪はあらかた払われ、敷かれていた石畳が見えるようになっている。脇に植えられた紫陽花にも雪は薄っすら積もっており、風情があった。
「わっ、綺麗になってますね~」
玄関の戸を開け様子を見に来たすみが、雪かきが終わったのを見て嬉しそうに言う。傍目に見ても問題ないようで、暁歩は少し安心した。
「これぐらいかな」
「はい。これだけ雪が払われていれば大丈夫だと思います」
治療するのが目的のこの屋敷で、辿り着くまでの道が雪で歩きにくかったらどうしようもない。この時期、雪が降り積もる日になると、蝶屋敷の貴重な男手である暁歩は雪かきに追われていた。
暁歩がここに来る前は、こんな日はアオイやカナヲ、それにすみたちで頑張っていたらしい。雪かきは結構な重労働のため、良い鍛錬になるとのことだ。ちなみに、すみたちは空いた時間に雪だるまを庭で作るのが楽しみだという。
「お茶が入ってますよ」
「助かるよ、ありがとう」
すみが手招きをすると、暁歩は肩や笠に積もった雪を払って玄関をくぐる。隊服は遮熱性が抜群だが、手や顔は冷気に中てられて寒かったので、屋敷の中が随分と温かく感じる。
「患者の皆さんの容態はどう?」
「今のところは大丈夫みたいです。ただ、寒いのか皆さん布団にくるまってじっとしていますね・・・」
「訓練とかができれば、身体を動かして温かくするのもいいけど・・・」
病室には火鉢が置いてあるので極寒ではない。布団にくるまるのも暖を取るにはいいが、身体を動かした方が鈍らないで済むし、できることならそちらの方がいいと思う。
そして、たとえ雪が降りしきろうとも鬼殺隊と鬼の戦いは続いている。特に今は体温が奪われやすいので、大怪我を追うと文字通り分秒を争う事態になる。
「・・・もうすっかり冬か」
「どうしたんです?」
「いや、ここに来て随分経ったなぁって思ってさ」
暁歩が蝶屋敷に来て、もうすぐ十か月。
気が付けば、それだけこの蝶屋敷に馴染み、隊員の治療にも慣れていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
雪の日は、洗濯物を外で干せないため、水洗いから干すのに至るまで全て室内になる。そして部屋干しだと乾くのに少し時間がかかるため、外干しと比べるとそこまで忙しくはならない。なので、最近では問診や雪かき以外の時間は大分融通が利くのだ。
「あの、暁歩さん」
「?」
「実はちょっとお伝えしたいことがございまして」
食卓でお茶を飲み温まっていると、きよが椅子を引き何やら真剣な様子で話しかけてきた。暁歩も何か重要な話だと感じ取り、湯飲みを置く。
「もうすぐ、しのぶ様の誕生日なんです」
「え、そうなの?」
「はい」
記念日が近いと聞いて、暁歩も驚く。
誕生日とは年に一度しか来ないもので、普段とは違った気分になる。暁歩も自分の誕生日が来た際は、心が無性に踊るような感じがしたものだ。
だが、その話を切り出したきよは少し表情が落ち込んでいるように見える。
「ですが、しのぶ様はあまり・・・そういった日を祝われることをあまり好まないようで・・・」
「そうなんだ・・・」
「はい。カナエ様がいた時は、お祝いしていたんですが・・・」
今は亡きしのぶの姉・カナエは、屋敷の皆の誕生日はいつも祝ってくれたという。おいしい料理を作ってあげたり、何か一つ欲しい物を買ってあげたりと、まるで親のようだった。その時は、しのぶも祝われた時は嬉しそうだったらしい。
だが、カナエが亡くなってからは少し変わった。誕生日を祝おうとしたら、笑みを浮かべてはくれた。しかし、どこか語調が落ち気味で、心から嬉しいと思っているようには見えなかったらしい。
きよがそう話すと、暁歩も少し考える。
「・・・それじゃ、普通に過ごすってこと?」
「そうなんですけど・・・私たち、しのぶ様にお世話になっていますから、何かしてあげたいと思うんです」
暁歩もそうだが、この屋敷に身を置かせてもらっている点も含めて、しのぶには世話になっている。それでもしのぶは、この屋敷に住む人を家族と思っているから、もしかしたら『世話になっている』と思ってほしくないのかもしれない。
だが、きよたちは家族だからと今の状況に甘んじているだけでなく、日ごろの感謝を込めて何かをしてあげたいそうだ。これはきよたちだけでなく、アオイやカナヲも同じつもりらしい。半年以上経っても暁歩はカナヲのことがよく分かっていないが、それでも人に感謝の気持ちを持っているのなら文句はない。
「なるほど・・・きよちゃんたちは何を?」
「しのぶ様、普段任務で疲れてると思いますから、肩もみなどでお身体をほぐしてあげようかなって」
きよ、すみ、なほの三人に身体をほぐしてもらっているしのぶの姿を思い浮かべる。ささやかな親孝行のような感じがして、思い浮かべるだけで和む。
「アオイさんは、お夕飯にしのぶ様の好きなものを一品出すつもりみたいです」
「なるほど・・・」
一品とさりげない感じがするあたり、アオイらしいと思う。
カナヲがどうするかについては、きよも把握してはいないらしい。
となれば、暁歩一人だけが何もしないわけにもいかない。
「・・・何をすればいいんだろう」
「それは自分で考えた方がいいと思いますよ・・・」
きよから困った笑みを向けられて、まったくもってその通りだと暁歩は思った。
□ □ □ □ □
しのぶの誕生日の話を聞いて数日後、暁歩は足りない薬種と、屋敷で使う消耗品を買いに街へ来ていた。最初にしのぶに連れられて以来、こうして買い出しを任されることも増えている。
薬種は難なく手に入り、頼まれた品も買えたので、後は屋敷に帰るだけだ。しかし、暁歩は素直に屋敷に帰ろうとはせず、まだ街に留まっている。その理由は、来るしのぶの誕生日に何かできないかと考えているからだ。
(何だろう、何ができるだろう・・・)
しのぶを支えると誓いはしたが、やはり根底には『世話になっている』という意識もある。だからこそ、アオイたちと同様に何か恩返しができればと思った。
そして何をするかは、きよの言う通り自分で考えるべきである。
きよたち三人娘は体をほぐし、アオイは好きな料理を作って、カナヲは不明。
では暁歩はどうするかと問われれば、まだ答えが出てこない。
そして、あからさまに祝ってはならない、という条件がまた頭を悩ませている。
「んー・・・」
小首を傾げ唸りながら道を歩く。降っていた雪も鳴りを潜め、今や地面に薄っすらと積もる程度。雪解けも間近だ。
それはさておき、そもそも暁歩はこうして誰かの誕生日をどう祝うかと熱心に悩んだこともない。親の誕生日は家事を手伝うぐらいのことをしていたし、師匠の空見に至っては『祝う暇で修業しろ』と言われる始末。
それでも、暁歩はしのぶに大きな恩義があるからこそ、何かしなければと決めている。後はどうするかを決めるだけだった。
それが決まらずに心の中で堂々巡りをしつつ街を歩いていると、花屋を見つけた。
「・・・花か」
偶然見つけたにしては、悪くないのではと思う。
花は女性への贈り物としてよく起用されているし、綺麗な色もあって見る人を楽しませたり、あるいは和ませたりもする。流石に何本もの花束を渡すのはあからさまなので、一輪か二輪の花をさりげなく置くのがいいかもしれない。
そして暁歩の中で、『花を贈ろう』と方針が決定すると、早速花屋へと足を運んだ。
「いらっしゃいませ」
人の好さそうな主人のおばちゃんが迎えてくれる。
店には色々な種類の花が置かれており、中には西洋の花もある。甘い香りが漂っていて、薬種とは違う独特の匂いがする。
ところが、暁歩は誰かに花を贈ったことなどないため、どれを選べばいいかは分からない。適当に選ぶ、という選択肢はなかった。それは暁歩の中の嫌な予感が発動して全力で止められる。
「あの、すみません」
「はいはい、なんでしょ?」
「お世話になった方へ贈る花って・・・どういうのがいいですかね?」
なので、迷わず訊ねることにした。おばちゃんは『あら』と表情をパッと明るくさせる。
「ご両親に?」
「あ、いえ・・・親ではなくて。世話になっている方に、日ごろの感謝を込めてと思いまして」
「なるほどねぇ・・・男の人?女の人?」
相手がどんな人かによって贈る花の色や種類も変わるだろう。だからそれを訊かれたと察した暁歩は、『女の人です』と答えた。
「あらら、まあ」
途端、妙にニコニコと笑いかけられた。
何か勘違いしているような気がしないでもなかったが、事情をぼかしつつも説明して花を選んでもらった。何せこういうものに関しては、とんと馴染みがないものだから。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「ただいま戻りました~」
目当てのものを買って屋敷に戻ると、ちょうど通りかかったなほが『おかえりなさい』と出迎えてくれる。そして、暁歩が手に提げている袋を見て、『あ』と興味深げに視線を向けてきた。
「お花ですか?」
「うん。しのぶさんの誕生日に、ちょっとね」
「へぇ~、いいと思いますよ」
手を合わせてなほが笑ってくれる。どうやら、悪い選択ではなかったらしい。
靴を脱いで上がりながら、暁歩はなほに話す。
「で、この花は当日にこっそりと部屋に置いてもらいたいんだ。だから、頼んでもいいかな」
暁歩はしのぶの部屋には勝手に入れない。だからこそ誰かに頼むべきだが、なほは少しだけ悩むように『うーん』と言ってから、改めて暁歩を見上げる。
「そういうのはやっぱり、暁歩さんが持って行ってあげるべきだと思うんですよね」
「いや、でもね・・・」
なほの言い分も正しい。ささやかなものであれ、祝いの品は直接渡すなり持っていくなりした方がいいのは、暁歩も分かっている。
「勝手に入っちゃダメって言われてるし・・・」
「それでしたら大丈夫ですよ。私が話を知っていますから」
なほが事情を知っているから、勝手に入ったことにはならない。
暁歩の中での抵抗がほんの少し軽くなる。それでもやはり、女性の部屋に入るということに気が引けてしまうが、自分で渡すべきというのもあって頷いた。
「・・・それじゃあ、しのぶさんがいないところを見計らって行くから」
「では、その時にまた声を掛けますね」
二人で約束を取り交わしたが、妙になほは嬉しそうだった。内緒で人を喜ばせる計画をするのが、案外面白いのかもしれない。その気持ちは暁歩も分かるような気がした。
□ □ □ □ □
忘れてはならないのだが、暁歩もしのぶも鬼殺隊の一員である。
そして鬼殺隊の戦っている鬼は、当然ながらしのぶの誕生日など知ったことではなく、今日もまたどこかで闇に紛れて罪のない人々を喰っている。
「それでは、行ってきますね」
「お気をつけて・・・」
そんなわけで、しのぶは誕生日の二日前に任務が入ってしまった。
玄関で見送るのはすみと暁歩。すみは、竹皮にくるんだおにぎりをしのぶに手渡し、暁歩も隣で無事を祈り頭を下げる。
しのぶは、受け取ったおにぎりを懐に仕舞い、心配には及ばないと言わんばかりにニコリと笑い、玄関を出ると一瞬で姿を消した。
「大丈夫でしょうか・・・」
「きっと、大丈夫だと思うけど・・・」
しのぶを案じるように不安げな声を洩らすすみ。
暁歩はそんな彼女を元気づけるように言うが、暁歩もまたしのぶがどんな戦いをしているのかわからない。
もっと言えば、鬼との本当の戦いがどういうものかさえ分からない。藤襲山の時も、アオイを助けた時も、正式な任務ではなく場当たり的に戦った感がある。
「・・・・・・」
しのぶが普段、どう戦っているのかが分からない。だから、何を見て、どんな場所にいて、どのような鬼と戦ったのかさえ掴めない。しのぶを支えると言ったが、何も分からずに言葉だけで慰めてもどうにもならないのは目に見えている。
せめて、同じ戦場に立っていれば。
「暁歩さん?」
そこで、すみに袖を引っ張られた。考えが止まり、すみを見る。
「え、どうかした?」
「いえ、声をかけても応えてなかったので・・・」
「あ、ごめんね。ちょっと考え事をしてたんだ・・・」
笑みを作って問題ない風を装う。
「それで、何かあった?」
「えっと、なほちゃんから聞いたんですけど、しのぶ様のお部屋にお花を持っていくんですよね?」
「うん、そうだよ」
「それでしたら、ちょうどしのぶ様は任務に出られましたから、今持って行ってはいかがでしょう?」
元々はしのぶがいない時を見計らって、すみたちに教えてもらう手はずだった。しかし、任務で不在の今ならいつ入っても問題ない。
だが、暁歩は逡巡してから首を横に振った。
「もしかしたら、明日にでも帰ってくるかもしれないし。だから予定通り、明後日の誕生日のいない時間を見計らって置くよ」
「そうですね・・・分かりました!」
早く帰ってくるかもしれない、そのことにすみも表情を明るくする。
無垢な笑みに暁歩も気持ちが少し楽になってきたところで、二人は問診のために準備に取り掛かった。
□ □ □ □ □
だが、暁歩とすみの希望も空しく、しのぶは翌日になっても帰ってこなかった。
おそらくは任務が長引いているからだろうが、鬼の頸を斬れないとはいえ柱の一人であるしのぶであっても、心配だ。鬼との戦いは死と隣り合わせであり、柱だから死なないという保証もない。もしも今、しのぶが戦っている鬼が強力なものであるとすれば、帰ってきた時には冷たくなっているなんてことも考えられる。
それを考えると、暁歩はどうしようもなく恐ろしい気持ちになる。藤襲山で死が間近に迫っていると察した時とは比べられないほど、それが怖い。
恩義があり、自分の自信を取り戻すきっかけを作ってくれて、そして心優しいしのぶが死ぬということが、とてつもなく怖かった。
その恐怖から目を背けるように、暁歩は調剤室で止血剤を作っている。薬を作る手つきは冷静で、頭でも調剤の手順は分かっているが、同時に『しのぶが心配』という気持ちも途絶えない。
「・・・はぁ」
息が詰まる思いで作業をして、一段落すると自分の中のモヤモヤした気持ちを吐き出すように息をつく。
その時、机の上に置かれている花瓶と花に気づく。
それは、しのぶの誕生日のために買ったものだ。花瓶は小さめのもので、花も二輪。買った時はまだ花開いていなかったが、今は花弁が開きかけているところだった。
その花を見て、不安で波立っていた心が少しずつ落ち着いてくる。しのぶのことを考えて買った、自分にとっては初めての贈り物。それにつれて、蝶屋敷のしのぶの姿が脳裏によみがえってきた。
そして、この花を渡さなければと思い、花瓶を持って立ち上がる。
「今、しのぶさんの部屋に入っても大丈夫かな」
食卓にいたすみとなほに訊いてみた。
二人は、暁歩の手にある花瓶を見て、その意図に気づいたのか頷いた。
「はい、大丈夫だと思いますよ」
すみが許可を出したことで、暁歩はこの日、初めてしのぶの部屋に入ることになった。何が起きるか分からない、とのことでなほと一緒だが。
障子戸を開ける前に、何か自分が重大な過ちをしようとしているのではないか、と不安になる。だが、勝手に入るわけでもなく、いかがわしい真似をするのでもない。自分はただ、感謝の気持ちをしのぶに伝えたいのだ、と言い聞かせて戸を開けた。
部屋は暁歩の部屋より少し広めで、机や本棚、箪笥など一通りの調度品は揃っている。箪笥の上には丸形の水槽が置かれていて、中には金魚が数匹悠々と泳いでいた。それを見て暁歩も、自然と笑みがこぼれる。
本棚には医学書のような本が何冊も収められており、中には西洋のものらしき書籍もある。机の上には、個人の研究で使っているのか硝子の試験管など実験器具が置かれていた。
暁歩は、中に入った瞬間に、同じ屋敷のはずなのに妙に違う甘い香りがするのを感じ取った。そして、ここで普段しのぶが生活していると思うとなぜか心がざわついてくる。
だが、平静を保ち、どこに花瓶を置けばよいか、部屋を見回しながら考える。できれば、あまり目立たないような場所に置きたい。
「・・・ここにしようかな」
決めたのは箪笥の上。金魚が泳ぐ丸形水槽のすぐそばだ。ここなら部屋に入った時真っ先に目につく、ということもない。それに、生き物である金魚の水槽のすぐそばなら、逆にずっと気づかれないまま枯れ果てることもないはずだ。
試しに置いてみて、配置に問題がないことを確認する。なほもそれを見て、同意してから二人はしのぶの部屋を出る。
「しのぶさん、無事に帰ってくるといいですね・・・」
食卓へ戻る間に、身を案じるなほの言葉。
それを聞いた暁歩は、なほの頭にそっと手をのせて。
「信じよう、しのぶさんを」
蝶屋敷にいる身でできるのは、しのぶが無事に帰ってくることを祈ることだけだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
その日、暁歩は当直で夜間も起きていた。
治療中の隊士に何かあった時や、鎹鴉から来る負傷者の通達に備えるため、最低一人はこうして夜に起きている。ただ、こうした当直を暁歩は半年で何度も経験しているが、眠っている隊士の容態が悪化するようなことは起きていない。鎹鴉からの通達は何度かあるが。
なので、一定の間隔で病室を訪れたりするぐらいで、後は大体調剤室にいるぐらいだ。
「・・・雪か」
調剤室で資料を読みつつ、ふと窓の外を見ると雪が降っていた。夕方頃からはらはらと降り始めたが、今は結構まとまって降っている。雪解けはもう少し先になってしまいそうだ。
そして雪を見ると、こんな中でしのぶは任務に就いているのかと心配になる。戦っている地域で雪が降っていない可能性もあるが、どうしても悪い方へと考えがちになってしまっていた。
資料に栞を挟んで、一度調剤室を出る。気分を少し変えたかった。
明かりはすべて消しているので、調剤室の外は真っ暗だ。おまけに雪で冷気も鋭く、床が冷たい。隊服のおかげでそこまででもないが、寒かった。
やがて辿り着くと、洋灯に一人の姿が照らされた。
「・・・おかえりなさい」
「ただいま、ですね」
その姿を見て、暁歩は心底安心した。
肩や頭に積もった雪を払っていたのは、しのぶだ。任務から帰ってきた彼女は、隊服や羽織に汚れや血などが見受けられないが、少し疲れているのだろう、動きが若干ゆっくりだった。そして、雪が載っていたせいで湿っていた髪を、暁歩は持っていた手拭いでポンポンと軽く叩くように拭く。
「お疲れのようですね・・・アオイさんがお湯を張っておいてますよ」
「ありがとうございます」
こうしてしのぶが任務に出る際、アオイは予め風呂のお湯を張っておいてある。任務で疲れたしのぶがすぐに疲れを癒せるようにという、彼女の気遣いだ。特にこうして寒い冬は、その気遣いがとても重宝すると前にしのぶは言っている。
「お茶を淹れておきましょうか」
「そうですね・・・お願いしてもいいですか?」
「分かりました」
しのぶが頼むと、暁歩は了承して食卓へと向かう。しのぶは、身体を癒し清めるために、風呂場へと行った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
半刻ほど経ってから、しのぶは食卓に姿を見せた。風呂上りで髪を下ろしており、ほこほこと湯気が見える。上気した頬が赤くなっていて、温まったのだと分かった。
そんなしのぶの姿に新鮮さを抱きつつも、暁歩はお茶を淹れた湯飲みを置く。
「お疲れのようですね・・・」
「あら、そう見えますか?」
「ええ、まあ」
お茶を飲んで苦笑するしのぶ。普段と比べればだが、少しだけ疲れているように見えた。
「・・・大丈夫ですか?お体の方は」
「はい、心配には及びませんよ」
「それは・・・良かった。無事に帰ってきてくれて・・・」
つい、本音がぽろっと洩れてしまう。
それを聞き逃さなかったしのぶは、自分の感情を隠すいつもの笑みではなく、本心からくる笑みを浮かべる。
「・・・心配してくださって、ありがとう」
その笑みを見て、言葉を聞いて、暁歩も心が温まるかのようだ。しかしそれは、安心感から来るだけではなく、もっと別の気持ちが働いている様にも思える。その自分の感情、気のせいとも言い切れない。
「・・・けれど、あの程度の鬼に手間取るようでは、まだまだですけどね」
だが、しのぶのその言葉には、なにやら穏やかではない感情が見えた。
暁歩は自分の妙な気持ちを一度置いておき、しのぶに何があったのか話してほしいと、視線で促す。
「今回戦った相手は、十二鬼月ではありませんでしたが、かなりの数の人を喰っている強い鬼でした」
十二鬼月とは、人喰い鬼の中でもとりわけ強力な十二体の鬼のことを差し、上弦六体、下弦六体に分かれている。特に上弦の鬼は強く、ここ百年あまり討伐できていないほどだ。だから、今の柱は下弦の鬼を最低でも一体撃破していることになり、しのぶも同じだ。
「けれど・・・私の姉を殺した鬼は、上弦の弐。十二鬼月の中でもより強力な存在です」
カナエの死の間際に駆け付けたしのぶは、その仇敵の姿を見ていない。全てはカナエから齎された情報だけだが、その中で『上弦の弐』と聞いた時は息を呑んだ。
カナエは、妹の贔屓目を抜いても、花柱としてとても強かった。にもかかわらず、上弦の弐には敵わなかったと聞いて、ひどく動揺したと同時により強い怒りが湧き上がってきた。
「だからこそ、あの程度の雑魚鬼相手に後れを取るようでは、仇を討つなんて夢のまた夢でしょう」
お茶を飲んで語る復讐の覚悟に、暁歩は膝の上で拳を握ることしかできない。
その華奢な身体に大きな復讐心を背負わせるに至ったカナエの死が悲しくて、そしてそこまで復讐心で苦しめさせる『上弦の弐』がどうしようもなく憎い。
「・・・それでも、復讐は成し遂げると」
「はい。それは・・・姉が亡くなる時、心に誓ったことです。もう後戻りをすることはできません」
しのぶの顔からは、笑みが消えている。
悲しい決意を耳にして、暁歩は思わず顔を伏せてしまう。
だが、自分は支えたいと自分から願ったのだ。そこから逃げるなんてことは許されない。だから顔を上げて、しのぶの顔を見る。
「・・・詮無いことを言ってしまいましたね」
「いえ・・・。俺が自分から、しのぶさんと向き合うと決めたことですから・・・」
暁歩が伝えると、しのぶはお茶を飲みきって湯飲みを置く。
その表情は、普段の微笑みに、少しだけ愁いがにじんでいるように見えた。
「・・・さて、私はそろそろ休みますね。明日の朝食は、皆さんより遅めで大丈夫ですから」
そしてしのぶは、食卓の戸を開き、暁歩の方を振り向かずに。
「・・・お話を聞いてくださって、ありがとうございました。おやすみなさい」
「・・・おやすみなさい」
そう言って、しのぶは食卓を出ていった。
食堂の壁に掛けられている時計を見ると、時刻は丑三つ時を過ぎている。とっくにしのぶの誕生日になっていた。
だが、とても『おめでとう』という気にはなれない。あれだけの覚悟を聞かせられては、そう言った気分にはなれなかった。
しのぶにとっての仇敵は、想像以上の存在。十二鬼月でも最上位級となれば、戦って無事で済むとは限らない。最悪の場合は、暁歩が恐れる『死』となるだろう。
けれど、しのぶの復讐心は、本人も言っていたが引き返せないところまで来ている。だから今更、何を言っても止めるつもりは無いだろう。
尤も、暁歩自身は『復讐を止めてほしい』と言えるほどの男でもないと分かっているのだが。
「・・・・・・」
小さく息を吐き、しのぶの使った湯飲みを洗う暁歩。
今の暁歩にできることは、しのぶの復讐心を引き下げさせるのではない。復讐を決めたしのぶの身体と心を壊させないように、寄り添うことだ。
復讐を止められない、共に仇敵を討つほどの力がない自分自身を嘆きたくなるが、寄り添うことだけはできるはずだど、暁歩は自分に言い聞かせる。
◆ ◆
自室に戻ったしのぶは、畳の上に布団が敷かれているのを見て、蝶屋敷の誰かが準備してくれたのだと思い感謝の気持ちを抱く。先ほどは食卓で暁歩に本音を吐露したが、今は少し、任務で疲れた身体を休ませたい気分だ。
髪飾りを机に置き、寝間着に着替える。
「あら?」
その途中で、あるものに気付いた。
箪笥の上にある、金魚が泳ぐ丸型水槽。
その隣には、置いた覚えのない花瓶が置いてあった。
(・・・そう言えば、今日は誕生日だった・・・)
壁にかかった七曜表を見て、しのぶは少し感慨深くなる。
誕生日を最後に祝ってもらったのは、カナエが亡くなったのと同じ四年前のこと。それまではカナエが主導となって、蝶屋敷で暮らす皆の誕生日を祝っていた。無論、カナエの誕生日もそのお返しのように祝った。
けれど、カナエが亡くなり、しのぶがこの屋敷を受け継いでからは、それもなくなってしまった。しのぶ自身の正直な気持ちは、血のつながった家族が皆死んでしまった今、誕生日という自分が生まれた日を祝われると、いなくなった家族のことを思い出して、少しだけ悲しくなってしまう。
その気持ちの変化に機微に気付いたのか、アオイやきよたちは目に見えて祝うこともなくなった。ほんの少しの気遣いをしてくれるだけになったが、その気遣いと、自分を想ってくれていることが嬉しい。
(これは、誰が贈ってくれたのかしら?)
だが、こうして花瓶まで付けて花を贈られるのは初めてだ。
花瓶は、白を基調とした陶器で、一輪か二輪ほどの花を挿すためか口は狭い。また、蝶の意匠が施されていて、この屋敷に相応しいのではと思う。
そんな花瓶に挿してあるのは、四枚の大きな花弁が特徴の
それを認識した瞬間、しのぶは心から来る笑みを浮かべた。
(・・・この花の贈り主は、花言葉を分かっているのでしょうかね?)
しのぶは薬学や医学に精通しているが、生薬から植物にも結構詳しい方だ。
だから、雛罌粟の花言葉も思い出すことができた。
赤い雛罌粟の花言葉は『慰め』と『感謝』。雛罌粟全般を指す花言葉は、『いたわり』と『思いやり』。いずれも、贈る人に対して感謝の気持ちを示すものだ。
そして雛罌粟の花言葉はもう一つある。
それは『恋の予感』だ。
≪おまけ≫
陽が昇ってからのこと。
「どこか痛いところはありませんか?」
「大丈夫。ありがとうね」
「いえいえ」
居間できよ、すみ、なほがしのぶの身体を解しているところを見て、それがまるで親孝行をする娘とその母親のように見えてしまい、暁歩とアオイは妙にほっこりとした気分になった。