前回のあらすじ
ふたりの勇者がその身を捧げて戦った。
そして、赤の勇者は夢を見る。
……兄の匂いは、いったいどんなだったのだろう。
そんなことはどうでもよくなって、とうに記憶の果てに追いやられてしまった。一緒にいた時の記憶はあるが、時々ぼやけることがある。長い間会うことがなかったから、時間が赤錆のようにこびりつき始めているのだろう。思い出そうとすればじゃりじゃりと記憶が擦れ、それ以上の努力を妨げるのだ。
……夏凜にとって、兄の存在は大きなものだった。
「夏凜……オレは大赦の人間になるよ」
親よりも先にそう伝えたことを、今でもよく覚えている。当時の夏凜には大赦とはとても偉い人たちの集まりで、世界を守るために様々な活動をしているという知識しかない。
だから、素直にすごいと思った。
立派な御役目を頂戴できる人間になるのだと、幼い夏凜は兄を誇りに思った。
別に何をさせても完璧な人間、などといった少女漫画によく出てきそうな男ではなく、苦手な食べ物があったり美意識に疎かったりと……まあ同年代の男としてはそれほどの魅力はない。
そんなことを言ったら傷ついて泣いてしまうからずっと胸の奥にしまいこんでいる。
しかしやることはきちんとやる人間だ。
でも、どうしても夏凜にはわからないことがひとつだけあった。
大赦に住み込みで働くことになった兄が家を出る日、ついに我慢できなくなって、ドアを開けた兄の背中に『頑張って』や『いってらっしゃい』といった言葉ではなく、
「どうしてお兄ちゃんは大赦の人になりたいの?」
という素朴な疑問を投げかけた。
兄の足がぴたりと止まる。両親はわかりきったような表情で何も言わない。それが夏凜をより不思議にさせた。
まるで自分だけ知らないような恥ずかしさを感じた。俯き、頬を膨らませて不愉快であることをわかりやすく表現している。その幼さの滲み出る可愛らしい言動に兄は微笑を浮かべた。
そして夏凜の頭に手を乗せ、優しく撫でる。
「たぶん、皆は世界のためだとか言うだろうけど、オレは違うんだ。オレは――」
兄の姿がブレる。
ノイズが走ったように、赤錆が隅から手を伸ばしてこれ以降の記憶の再生は難しいと残念そうに停止させようとしてくる。
夏凜は手を伸ばす。必死に伸ばす。昔の夏凜にはまったくわからないことだった。でも、今ならわかる気がするのだ。だから答え合わせがしたい。
だから!
だから――!
無慈悲に錆ついた記憶は終わりを告――。
現実へ引き――され――。
叫んでも――兄は――ず。
……やはり、兄の匂いはわからなかつた。
◆
夏凜の朝ははやい。
朝五時に鳴る目覚し時計よりはやく起き、華麗なフォームでベッドから降りる。
パジャマから数秒で運動着に着替え、歯磨きをしながら今からする鍛錬を脳内シミュレートする。
ここはひとりで住むことを想定されたごく狭い一室。トレーニングマシンを一台しか置けないのが辛いところだ。
朝食は七時。それまでに食堂にいないと抜きにされてしまう。当然夏凜はそんなヘマはしでかさない。
ズレないようにしっかり腕時計を手首に巻き、ランニングシューズを履いて部屋を出た。
通路にはホテルのように一部屋一部屋が並んでいて、それらすべてに夏凜と同じ年頃の女の子たちが下宿している。
起こさないように注意を払いながら音を殺して小走りで階段まで向かう。
一段飛ばしで一階まで降り、エントランスから弾丸の如く外へ飛び出した。レンガで舗装された海岸沿いのランニングロードを颯爽と走る。
朝は比較的涼しいから気持ちの良い走りができる。同じようにランニングする年寄りや青年たちを見られるだけでも刺激を受ける。
昨日同僚に教えてもらった歌を口ずさみながら、リズミカルな走りを意識。
別に夏凜はタイムを少しでも縮めようと励んでいるわけではない。そうなってくると本来の目標から外れてしまうからだ。
目標はシンプルで、体力をつけること。
誰だって運動を始めたばかりだと最高のパフォーマンスができる。しかし体力が尽きればそれができなくなる。それをなるべく先延ばしにするために毎日走るのだ。
タイムは昨日と比べると少し遅くなったが、特に気にする必要はない。汗で張り付いた運動着が夏凜のボディラインをくっきりと写し出す。食生活の充実していない夏凜の身体は細く、簡単に倒れてしまいそうに見える。しかし実は筋肉は引き締まっていて、体力はもちろん筋力もそれなりにある。腹筋を割ってしまうと何か大事なものを捨ててしまいそうな危機感から、そこまではしていない。
「……ふぅ」
宿舎に戻り、ウォーターサーバーで喉を潤す。次は修練場で素振り千回の予定だ。腕時計を確認すると、十分注意時間に余裕はある。素振りをした後、シャワーを浴びて朝食に向かう。脳内でフローチャートが組み立てられ、夏凜はさっさと行動に移そうと修練場の扉を開いた。
広さは四十畳ほどで、基礎訓練などで主に利用される場所だ。畳が敷き詰められていて、剣道場に改名するべきではと夏凜は密かに考えている。
「…………あ」
夏凜は僅かに硬直した。
ひとりの少女が夏凜より先に修練に励んでいたのだ。
顔立ちはくっきりとしていて、何事にも無感動といった雰囲気を醸し出している。しかしながらこうして朝練をしているということは、夏凜と同じ真面目で努力を惜しまない人間であるのだ。
そして夏凜が硬直したのは、ただ人がいて驚いたわけではない。その人物が、自他共に認める勇者候補のライバルだからだ。
二本の木刀を持ち、しなやかな剣さばきで人型の練習台に剣撃を浴びせる。動きは洗練されていて、無駄なものはほぼない。指摘できることがあるが、してしまうと不機嫌になるだろうから止めた。
「調子どう?」とか、「朝食なんだろうね」とか、そんな他愛ない会話をする仲というわけでもない。ただ事務的な会話しかした記憶がない。
だから夏凜は「おはよう」とだけ言って挨拶を済ませ、トレーニングを始めるために備え付けの木刀を二本手に掴んだ。
すると突然、少女は汗を拭いながらこんなことを言い出した。
「……三好夏凜。少し手合わせしない?」
「は?」
それは思わぬ誘いだった。
もし眠気が冷めていなかったら、冷水よりも効果的な言葉だろう。
夏凜はじっと少女を見つめた。
「なんでよ」
「あれだけいた勇者候補はその半分以上が脱落して、もう両手で数えられるほどしか残っていない。それに適正試験の回数も最近増えてきているような気がするわ。……そろそろ勇者が選定されるのよ、きっと」
「…………」
「だからここで明確にしておきたい。あなたと私、どっちが強いのかを」
「……そう」
ここまで夏凜に対して直接的な言葉を投げかけるのは初めてのことだった。
それにしても言っていることは最もだ。およそ週一くらいだった適性試験は今では週三になっている。それに今日、新たに一人が落とされた。
初めはあれほど賑わっていた寮は静まり返り、夜になると取り留めのない会話が聞こえてきたのだが、それもない。夏凜の両隣の人もいなくなったおかげで昼夜問わずトレーニングマシンを利用できている。
「あなたも同じ事を考えているでしょう?」
「そんなこと、正直どうでもいいわ。……でも、言いたいことができたから相手してあげる」
「ッ。ずいぶん余裕なのね」
火照った身体を今一度引き締める。戦闘モードに切り替えて、呼吸を整える。
先代の赤の勇者は二丁の大振りの戦斧を武器としていたという。その最期は詳しく聞かされていないが、果敢に三体のバーテックスに立ち向かい、そのすべてを追い払ったらしい。その鬼神の如き戦いぶりは、きっと想像を遥かに上回るほど壮絶なものだっただろう。
だから新たに選出される赤の勇者も、接近戦が得意な武装になると大赦は言っている。
この木刀は……軽い。もし勇者になれば、これよりもっと重い金属の武器を手に戦場を駆けることになる。だからこの木刀は自分の身体の一部のように扱えなければならない。
「ランニングし終えたばかりだけど、ハンデなんていらないわよ」
腰を低く落として構える。目の前の少女に打ち勝つには、徹底的にわからせる必要がある。中途半端に倒しても間違いなく立ち上がるはずだ。
力強く相手を見据える。
……本気だ。恐らく向こうもただ倒すだけでは終わらないと思っているのだろう。つまりこの戦いは、どちらかの心が折れるまで終わらない。まだ朝で、これからまた訓練があるというのにこれでは響いてしまう。
しかし、それよりもこの戦いのほうが重要だ。今後の訓練に臨む心持ちに関わってくる。
「シッ!」
先に動いたのは少女の方だ。重く畳を踏み込んで一気に肉迫する。上段からの振り下ろし。夏凛はそれを急激なステップを踏んで回避し、丸出しの脇腹を狙って木刀を叩きこむ。しかしそれは咄嗟に逆手に持ったもう一本の木刀によって防がれた。カンッ! と甲高い音が響くが夏凛はさらに一太刀を入れる。これも狂いのないタイミングで弾かれる。
今の夏凛の動きは、普段少女が見せる隙を重点的に狙ったもののはずだった。一撃目は反応が難しいが、その直後の側面が極端に甘くなる。それを突くつもりだったが、できなかった。それはつまり、夏凛がどのように動いてどのタイミングで攻撃するのかなどをすべて脳内でシミュレートし、その対策を考えているということだ。
……私を研究し尽くしている!
横の薙ぎ払いは容易に受け流され、お返しとばかりに鋭い剣撃が返ってくる。回避に集中すれば、回避先の位置を未来予知しているのではないかと思えるほど恐ろしく正確な軌跡がなぞり、頬を掠める。
夏凛はより一層神経を研ぎ澄ませ、意識はより深みに沈む。
感覚神経が張り巡らされるような錯覚に陥る。今や木刀の先端までが夏凜の身体と一体化している。
間合いを詰める。牽制の薙ぎ払いを上半身をくねらせて躱し、鋭い突きを放つ。回避または受け止めることができないと瞬時に判断した少女は腕を当てて軌道を逸らした。
もしこれが実戦で、夏凜が切れ味の高い武器を使っていれば間違いなく腕はズタズタに引き裂かれていた。しかし今は模擬戦に過ぎず、そんなことはどうでもいい。
相手の動きの一部分ではなく、全体を俯瞰するように見ろ。腕の曲がり具合、重心の動き方から次の行動を予測しろ。
躱す。弾く。弾く。振る。躱す。振る。躱す。連撃に圧倒されてはいけない。針の穴のような極小の隙間に糸を通すような繊細さで反撃する。
やがて少女の方からバックステップで距離をとった。
「大したことないわね。防戦一方じゃない。攻めない勇者なんて不要よ」
少女はそう吐き捨てるように言った。
「……あっそ」
「…………そんなに私のことが嫌いかしら?」
「そんなことはないわ。でも、あんたの在り方は好きじゃない」
手に滲む汗が手首を伝い、腕の産毛に触れる感覚までも鮮明にわかる。
「それが嫌いってことよ」
「あんたのどこまでも真面目な姿勢はいつも私を奮い立たせてくれた。あんたがいなければ、私はここまで強くなれなかったかもしれない」
「そっくりそのまま言い返すわ」
もう一度木刀を構え直し、鋭く息を吐き出した。
肩の力を抜いて、脱力する。わざとらしく気を抜いた様子に少女は小首を傾げた。
――刹那、夏凜はノーモーションで一気に接近した。
完全に虚を突かれた少女の対処が間に合うはずもなく、下段からの振り上げを真正面から叩き込んだ。
半端な命中ではなく、確実にダメージを与えられたという感触。そして夏凜は立て続けに追撃を加える。
なぜ両手に武器を持つのか。それは、重い一撃をコンセプトとする大剣や戦槌とは異なり、攻撃の手数を主としているからだ。
膝。下腹部。肩。横腹。腕。そのすべてに正確に木刀を叩き込む。
「卑怯、よ……! そんなっ!」
出鱈目な振り回しをして夏凜を引き剥がした少女は痛みに呻きながら文句を言った。
「卑怯? 何言ってんの? あんたもしかして、敵が正々堂々と勝負してくれると思っているの?」
ここでは対人などで基礎的な攻撃方法などが学ぶことができる。その内容は申し分なく、勇者としての土台を築くには最適だろう。しかし所詮は対人で培ったものでしかなく、「こうするだろう」という勝手な憶測で動いてしまう悪癖がついてしまう。敵は人外だ。ここで学んだことだけでは満足に戦闘などできるはずがない。
呼吸をするたびに、乾燥した喉をじゃりじゃりと空気が通り抜ける。
少女は奥歯が割れるほど強く歯を食いしばり、いつもの済まし顔とは打って変わり、戦意を剥き出しにして夏凜の懐に潜り込んだ。
「――なんだ、あんたいい顔するじゃない」
「はあッ!」
決して安易な踏み込みではない。向こうから間合いの届く距離に飛び込んできたということは、こちらも一撃を与えられるということでもある。
怯えるな。
ぶぅん! と重い唸り音と共に木刀が夏凜の脇下を捉える。これは防御のリズムを完全に崩した一撃だった。瞬時にこれを捨てることに決め、次の一手として首元を狙う。ここで意識を刈り取り、終わりにする!
脇腹にクリーンヒットする。鈍い痛みが一気に全身に行き渡り、木刀を持つ手の力が一瞬だけ弱まった。
「ぐッ!」
しかしまだこちらは終わっていない。すでにニ撃目を繰り出そうと振り上げている少女の前へと、敢えて一歩を踏み出した。そして最小限の動きのみで最短経路を辿り、ガラ空きの首元へ剣撃を叩き込んだ。
「ア゛ッ!」
濁った声が漏れる。
当たりどころが悪ければ怪我をさせてしまうものだ。夏凜は力が抜けてその場に崩れ落ちた少女を見下ろす。
意識はちゃんとある。ただ、今の一撃で意識が僅かに飛んだのだろう。
「ほら、立ちなさい。まだ負ける気はないんでしょ」
「ええ、その通り……よ!」
落とした木刀を拾い上げ、そのまま振り上げる。
それを力の流れをずらすように弾きながら接近した。
足首を狙った振り下ろしは既のところで回避され、さらに木刀を上から踏みつけられる。
とった! とでも言いたげな獰猛な笑みを浮かべたのを夏凜は見た。完全に前のめりになり、頭を前に差し出している状態だ。柄でうなじを突けるほどの超至近距離。ここから踏みつけを力づくで押し退けてカウンターへ転じることはないはず。
しかし相手は夏凜。余裕を持った一撃ではなく、確実な一撃を。
両の木刀を振り下ろす。これにて完勝――。
「――甘いわよ」
夏凜がそう囁くと、この局面でなんと両手から木刀を手放してみせた。
咄嗟に武器を手放すというとんでもない行動に少女は目を剥く。
ここでどうしてそんな判断ができる⁉ 普通なら無理にでも足をどけようとするでしょう⁉
ガラ空きになった真正面を夏凜のアッパーが突き抜け、顎にクリーンヒットした。身体が数センチ浮き上がるほどの力強い一撃のもとに、少女は床に大の字に倒れる。
夏凜は熱い吐息を吐くと、倒れた相手の身体を抱き起こす。
「ほら、起きなさい」
「自、分で……」
「軽い脳震盪起こしてるでしょ。私に掴まりなさい」
肩を貸しながら部屋の隅にあるベンチに座らせた。時間を確認すると、朝食まで残り十五分ほどになっていた。そろそろ顔を出しに行かないとまずい頃合いだ。床の転がった木刀を拾い上げて片付けながら運動着の匂いを嗅いだ。
……たぶん大丈夫だろう。
「……あなたのほうが強いなんて認めないから」
興奮が落ち着いたのか、少女はいつも通りの真面目キャラな声色でぽつりと呟いた。
殴られた顎がまだ痛むようで、ゆっくりと擦っている。
「ふん、そんなこと言ってる時点で負けてんのよ、あんたは」
「…………」
冷たく返された少女は押し黙ってしまう。
もし本気で夏凜を打ち負かそうとしたければ、肩を貸そうとしたあの瞬間が最大の隙だった。言い換えれば負けを認めるかどうかのジャッジだったのだ。それを少女は甘んじて受け入れ、借りた。
あそこで夏凜は攻撃されるのを期待していたのかもしれない。完全に無防備を晒した顔面に一発殴りを入れられたのに……しなかった。
そんな卑怯な攻撃を、少女は許容しなかったのだ。
「そんなことどうでもいいわ。さっきも言ったでしょ? あんたは純粋な力の強さを『強さ』として考えているようだけど、私は違う。そりゃあ一騎当千の奴らが集まったらそれぞれが無双して敵無しなのは当然。でもね、私達は勇者になるのよ。仲間たちと協力してなんぼでしょう。……孤独な勇者なんて、私はごめんよ」
「……仲間に縋るなんて、弱い人のすることよ」
ライバルはどうやら夏凜の考えは理解できないようだ。しかし同様に、夏凜もライバルの考えを理解できない。
人間性の全く違った二人。どちらが神樹様に選ばれるかは、大赦にもわからない。どちらも勇者になるため、それこそ人生を捧げる覚悟で腕を磨いてきた。
純粋な力の強さだけが強さではない。とはいっても戦場で結局モノを言うのはこれだ。蟻が象に敵わないのと同じように、弱者は絶対的強者にいかなる策を弄しても徹底的に、無慈悲に踏み躙られる。
――それでも夏凜は否定するのだ。
脳震盪はマシになったようだ。立ち上がったライバルはいつものクソ真面目な仏頂面に戻っていた。
踵を返し、先に修練場を出ようとしたその背中にしっかりとした意思を示す。
「――弱くて結構よ。だからこそ、私は『強く』あるの」
少しだけ肩がぴくりと動いた。立ち止まり、こちらを一瞥してから部屋から出て行く。
やはり感情のいまいち読めない表情だったが、夏凜には悔しさを滲ませているように見えた。
◆
「そんなこと、あったわね……」
ぼんやりと夢見る夏凜はぼそりと呟いた。
ああ、でも。
夢を見ている場合ではない。
はやく。
はやく立ち上がって、友奈と東郷を助けに行かなければ。
でもできない。
右脚、無反応。右腕も無反応。それにさっきからずっと暗闇の世界だ。
「……目、持っていかれたか」
満開したのは三回。つまり散華したのは三回。
ひっきりなしに聞こえる戦闘音が耳にしっかり届く。今すぐにでも助太刀に向かいたいが、盲目の勇者にできることなんて、ない。満足に歩くことすらできないのに何ができるというのか。
もう一生夏凜は勇者として戦えないだろう。この戦いを終えたら呆気なく勇者の資格を剥奪され、かつてのライバルにバトンが渡されることになるはずだ。
「……ま、いっか」
夏凜が言うのもなんだが、実力は確かなものだった。友奈たちとすれ違いやいざこざは避けられないだろうが、なんとかやっていけるだろう。
頑張った。夏凜はここまでボロボロになるまで頑張ったのだ。だからもう、何もかも捨てて休みたい。
いつもなら絶対に考えないことを考えているのに気づき、自嘲する。
もう一度目を瞑り、夢を見よう。
そうすればいつの間にか戦闘は終わっているはずだ。そうして皆に後を託し夏凜は休むことにした。
――刹那、兄の言葉が聞こえた。
懐かしい、声。
仮面を剥がしてやろうと掴みかかった時とは全く違う、優しくて包容力のある言葉。
ああ、確かにこんな声だった。
家族、というものを夏凜はよく覚えていない。勇者になるべく家を発った日からずっと、親と離れ離れの生活を送ってきた。だからきっと、無意識に家族の暖かさなんてものを求めていたのかもしれない。
胸の奥がぽかぽかする。今までずっと放置され、冷え切った何かに手が伸ばされる。
樹海に雨なんて降らないのに。
どうして左の袖はこんなにも濡れてしまっているのか、完成型勇者の夏凜はすぐにわかってしまった。
これは……喜びだ。
ずっとずっと、妹として兄に甘えたいという子供っぽい欲求が刺激されたことの喜びだ。
そして。
あの日兄が言った最後の言葉が、錆が剥がれるように鮮明に蘇った。
夏凜の頭に手を乗せ、優しく撫でる。
『たぶん、皆は世界のためだとか言うだろうけど、オレは違うんだ。オレは……目の前のちっぽけで大切なもののためにって言うよ』
そう言って、兄はニカッと白い歯を見せつけた。
胸元に抱き寄せられ、夏凜はされるがままに頭を押し付けた。
……ほんのりと甘いクッキーの匂いがした。
◆
夢を見る。
果たして今のも夢だったのか。
……いいや、そんなことはない。あれは紛れも無く現実で、兄の姿を見た。でも夏凜は盲目のはずだからあれはきっと……強い想像が呼び出した偶像?
そして今の夏凜は夢を見ている。両足で立ち、前をしっかりと視認できている。ここは……和室だろうか。
……赤子の鳴き声が聞こえる。男の子か女の子かはわからない。
それを、縁側に座った少女があやしているようだ。外の庭を眺めながらリズミカルにゆっくりと身体を揺すっている。夏凜よりもひと回りほど身体が小さく、おそらく小学生くらいだろうと予測する。
その様子をぼんやりと観察していた。
「あー、すみません。もうちょっとだけ待ってもらっていいですか?」
こちらに背を向けたまま話しかけてくる。
こんな記憶は知らない。場所も知らない。それに……目の前の少女は、誰だ?
「え、ええ」
流されるままに頷き、夏凜はやがて赤子が静かに吐息を立てて寝るまで静かに待つことにした。
少女が子守唄を歌い始める。しかし微妙に音程がズレていたりとまるでなっておらず、手助けすることにした。
あくまで少女のリズムを崩さないように、鼻歌で音程を取れるように補助する。まだ完璧にはならなかったものの、幾分はマシになり、おかげで赤子を眠らせることに成功した。
すると突然、すべての景色が波のように遠くへ引いてしまった。夢だからと納得はできるが、だとしても目の前の超現象についていけず、思わず反射的に腕を前に出した。
そしてゆっくりと目を開くと、赤い戦闘衣を身に纏った少女が立っていた。少し長めの髪を後ろで結んでいて、ちらりと八重歯を覗かせるボーイッシュな子だ。
「さっきはありがとうございました。おかげで弟をあやせました」
丁寧にお辞儀をして感謝を口にする。
「あ、弟なんだ。……で、それよりあなたはなんなの?」
ふわり、と幻想的な景色が広がった。
光の奔流。
これらが星雲の如くどこまでも遠くに伸びている。
そよ風のような、打ち寄せる波のような不思議な音が聞こえ始める。自己意識がこの景色に溶けて同化する感覚。
およそ普通に生きていれば決してできない体験に、夏凜は思わず息を呑んだ。
「そうですよね。あたしたち初対面ですし。では、こほん。改めまして……」
わざとらしく咳払いすると、
「初めまして! あたしの後輩っ!」
と、先輩は陽気に笑ってみせた。
記憶の再演。
それは、過去を今一度振り返るもの。
たとえ勇者としての自分を否定されても、
それでもと三好夏凛は声を張る。
恐らく次の次くらいで終わります。
ああ! 最後はどう終わるのだろう!
ではまた次回!