結城友奈は勇者ではない   作:mn_ver2

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そういえばあんまり特殊文字使ったことないな~

前回のあらすじ
鏑矢を倒し、東郷を助ける


浸食

 勇者システムは大きく変更。

 満開ゲージをひとつ消費することで精霊バリアが発動する。五つすべて消費することで満開が可能。散華はなし。その代わり精霊バリアが発動できなくなる。この時攻撃が直撃すれば命に関わる。

 満開ゲージは既存の回復方法ではなく、リチャージ式。回復速度の遅さから、実質一回の戦闘での使用回数には上限がある。

 勇者システムの改善点を伝え、安堵する部員たちを尻目に、園子は友奈のことがどうしても頭から離れなかった。

 棚に上げたものの、友奈のスマホがなくなるという異常事態。優先度は自身も言った通り東郷の方が高いが、それ以上に気になるのは友奈の方だ。

 

「皆、準備はいいわね?」

 

 部長の確認に、互いの顔を見つめ合い、頷う。そして画面をタップして勇者装束を身に纏った。

 するとそれぞれの精霊が勢いよくスマホから飛び出してきた。風の狗神は顔面に直撃。樹の木霊はちょこんと頭の上に乗り、夏凛の義輝は堂々と腕を組みながら顔の横でふよふよと浮かぶ。

 感動の再会は短めに済ませ、四人の勇者は颯爽と外へ飛び出した。

 正直、もう二度と勇者になることはないと思っていた樹は、両サイドを括っている髪飾りが飛ばないように細心の注意を払う。

 それもただバーテックスを迎え撃つのではなく、こちらから敵の巣窟に向かうというのだ。はっきり言うと正気ではないが、とっくに自分たちは正気ではなくなっているのかもしれない。

 そんな結論の出ない思考を、樹はぶんぶんと頭を振って放り捨てる。

 吹き付ける風は少し肌寒いが、どうってことはない。静かに着地をし、直後大ジャンプ。それを数回繰り返せば海辺まではすぐだった。

 流石に海から壁までをひとっ飛び……というわけにはいかず、一、二回ほど海を航行している漁船の甲板に失礼して経由させてもらう。

 船長のおじさんと目があった気がしたが、「すみませーん!」と園子の謝罪とともに、あっという間に壁方面へと飛び去る。

 植物組織の壁の上に華麗に着地すると、園子は向こうに広がる水平線の彼方を仰いだ。孤島などがまばらに点在し、何気ない普通の光景が広がっている。

 ここからさらに数歩進めば、この壮観な光景が吹き飛び、バーテックスの世界――絶望という表現が最も相応しい『赤』がどこまでも延々と埋め尽くしているなんて想像したくない。

 普通なら一般人は壁に上ることを禁止されている。監視は徹底され、二十四時間体制で巡視船が近辺を巡回している。致死性のウイルスを防ぐとされている壁にわざわざ接近する物好きはあまりいないが、極まれに事案が発生することもあるという。

 その場合の対処法は園子でも知らない。

 

「ここから先は本当に危険だから、気を付けてね」

 

 園子の忠告に一同が頷く。

 すると、しゃららん、と軽やかな音とともに出現させた二振りの刀を手に持った夏凛が勇んで前に進み出た。その瞳には燃え滾る熱さを宿している。

 

「私が先に行くわ」

 

「大丈夫? にぼっしー?」

 

「ええ。私は完成型勇者だからね。それより、私に遅れないようにしなさいよ!」

 

「サプリはちゃんとキめた?」

 

 怪しげな物言いに夏凛は若干眉をひそめたが、すぐに表情を戻す。

 

「なんかやばい言い方に聞こえるけど……まあいいわ。任せなさい!」

 

 頼もしい掛け声に、園子は穏やかな笑みをこぼした。それぞれの武器を構え、いつでも先頭に突入できるようにする。筆頭は夏凛として、壁からさらに奥へと歩を進めた。

 瞬間、夏凛の姿が白いベールがかかったように次第に薄れていき、消えた。それに続いて全員が足を踏み入れる。

 すると世界は嘘のように赤に塗りつぶされ、身体の芯をも焼き尽くすような熱気が勇者部のメンバーを出迎えた。

 今足をついているこの場は、神樹が形成した……確保した領域。その外壁は黄金の輝きを放ち、大量の細胞壁のようなものが隙間なく並んで成り立っている。

 東郷を食い止めるために一度ここに侵入したことはあるが、やはり改めて眺めると心に来るものがある。

 

「……」

 

 風が人知れず喉を鳴らす。

 

「お姉ちゃん……」

 

 樹が不安げに両手を胸に当てて寄り添ってくる。

 それを風は無言で受け入れ、力強く抱き寄せた。

 

「で、わっしーがどこかというと……」

 

 いつものふわふわした口調はなく、真剣に呟いた園子はスマホで東郷の現在位置を探る。

 ……東郷のタグを確認した。

 園子たちの点が集中している位置から遠方、バーテックス界の方角に目的の点が存在している。

 

「わっしーいたよ! ほら!」

 

 ぴょんぴょん跳ねながら園子は画面を見せつける。

 

「ホントだわ! じゃああとは連れ戻すだけね! で……具体的にはどこに……」

 

 園子のスマホを覗き込みながら夏凛は座標が指し示す方向へ視線を持ち上げた。

 地面と呼べるかわからない赤のマグマから轟々と屹立するプロミネンス……バーテックスが一定の群をなして縦横無尽に浮遊している空……

 そしてそのさらに上……。

 

「は、はあああああああ⁉」

 

 夏凛が口をあんぐり開けて驚愕のままに叫ぶ。

 座標が示す位置は、ある場所を指していた。

 それは、巨大で、色のない……完全に黒の球体。

 その周りを嵐の如く赤色の風が渦巻いている。距離は遥かに離れているが、それでも力強さはピリピリと身体にまで伝わる。

 ……ブラックホール。

 これが、相応しい表現だろう。

 スマホと視線を往復させて確認しても間違いはなかった。

 達観した目でブラックホールを仰ぎながら、風は評論家のように理知的なコメントを口にする。

 

「うわー、失踪した奴がブラックホールになってるとか李徴もびっくりよ」

 

「そうですねー」

 

 園子に肯定され、評論家もどきは誇らしげに胸を張った。実は中身のない相槌に似たものであることはわかってない。

 こほん、と咳払いをした風は改めて遥か遠方のブラックホールを見据える。距離は目算で三キロほどか。しかしあそこへ行く手立てがない。強化された勇者の脚力でも流石に届くことはできない。

 途端、園子のスマホに警戒のアラームが鳴った。

 東郷の点の周囲に、星座の名を与えられたネームドのバーテックスたちが複数体出現している。存在に気づかれたようだ。身体の方向を変え、こちらをじっと見据えている。

 しかし襲ってくる様子はない。代わりに、大量の雑魚敵が押し寄せて来た。

 前回の戦いで嫌というほど目に焼き付けた白いピーナッツ型の敵を、また相手にしないといけないのかと内心で吐き捨てた夏凛を筆頭にそれぞれの武器を構えた。

 横幅三十メートル、奥行き二十メートルほどで、四人で戦うにはやや足場が狭い。敵に熱中しすぎて足場を踏み外すなんてことは避けなければならない。

 なるべく内側……神樹側に寄って迎撃を始める。

 樹がワイヤーを手首の射出口から素早く放つ。まるで意志が存在しているかのような滑らかな動きで敵を拘束すると、そこを力強く飛び跳ねた風が大剣の大振りで一網打尽にする。

 

「お姉ちゃん!」

 

「らあぁッ!!」

 

 鋭い刃先が敵の身体を豆腐のように切り裂き、生を失い、霧散する。

 そのふたりの背後を駆けながら、夏凛は自身の周囲に召喚した刀をずらりと並べる。二本を両手にとって投擲する。

 赤い軌跡を描いて、頭部を深々と貫き、敵を二体屠る。

 

「……チッ」

 

 舌打ちする。

 夏凛の刀は広範囲攻撃には向かない。満開すれば縦横無尽に空を飛翔して無双できるが、そんなことをすれば風が……。

 

「私が!」

 

 夏凛の前に素早く躍り出たのは園子だ。紫色の裾を激しく靡かせながら槍の後部をとん、と地面に突く。するとチリチリと燐光を撒き散らし、槍が発光する。同時に槍が驚異的な速度で伸び、全長十メートル以上へと変身した。

 

「やあああああ!!」

 

 遠心力を根底から否定する速さで右から左へ、全身を使って大きく振った。

 力の宿った刃が触れるとその場で爆発を起こす。それに周囲も爆風に巻き込まれ、ただのひと振りのもとに大多数を倒してみせた。

 さすが先代の勇者。

 思わず感嘆の声を漏らした夏凛は負けじと刀を構える。

 

「これ、あそこまで行かないとジリ貧よ!」

 

 風の鋭い指摘が飛ぶ。

 ここでいくら戦っても向こうからこっちに来てくれるわけではない。そうしてくれるとありがたいが、その場合、神樹への被害がどうなるかわからない。

 ならばどうやって行く?

 方法ならひとつだけ思い当たる。

 それは、満開。

 満開すれば全員空を飛び回ることができる。しかしそれは現実的ではない。飛ぶためだけに満開はあまりにリスキーだ。持続時間の問題だってある。

 だがどれだけ考えても他の方法が思い浮かばなかった。

 歯噛みした風は苦しさを滲ませながら提案しようとした、その時。

 

「私の船で飛ぶよー!」

 

 飛び出したのは園子だった。

 槍も元の姿に戻り、三人の前に立ち、さらに前に大きく跳躍した。

 まだ倒しきれていない敵が、自ら身を差し出しに来た園子を喰らおうと一斉に集中する。

 思わず風は連れ戻そうと身体を動かそうとした。

 しかし。

 

「満、開!!」

 

 バーテックス界にまで届いた神樹の力。風たちの背後から虹色の糸が無数に伸び、園子の背中を押し上げる。

 瞬間、光の爆発。そして、紫の巨大な花が力強く咲き誇った。

 同時に発生した豪風に敵が一瞬にして吹き飛ばされる。

 中央に浮かび上がるは、鋭い刃を両脇に複数本並べ、オール代わりに弧を描く船。その甲板に、白の目立つ装束へと変化した園子が堂々たる姿で立っていた。

 思えば東郷も戦艦だったし、先代の勇者の満開装備は風たちのシンプルな追加武装とは違って、より重量の増したパワフルな乗り物系武装という規則があるのかもしれない。

 

「乗って乗って〜。わっしー行きの船だよ〜!」

 

 陽気に乗船を促す園子に、風は腑に落ちていない顔で声を張り上げた。

 

「あんた! いきなり満開して精霊の加護が無くなるじゃないの!!」

 

 返答は極めてシンプルで残酷なものだった。

 

「私の時は加護なんてなかったから大丈夫だよ〜」

 

 風たちのこれまでの戦いでは精霊の加護が必須級だった。敵の攻撃を生身で受けることはあまりに危険。勇者を絶対に死なせないという精霊のルールの元に、比較的安全に戦闘ができていた。

 が、今はそれがない。

 守りの制限回数は五回。それ以上はない。

 覚悟はしたものの、命に関わるとなるとつい身構えてしまう。

 追及しようと口を開きかけたが、風は無駄なことだと諦め、さっさと跳躍して乗船した。

 園子は必死なのだ。当然風たちも必死だ。

 ならもう、言うことはない。

 そもそも甲板は園子専用で、そこに三人が乗り込むとなるとあまりスペースはなかった。園子の後ろに立った三人は、改めて船という武装に驚かされる。

 帆の代わりに二重構造の黄金の輪がそれぞれ逆回転し、オールがリズミカルに空を漕ぐことで浮遊している。

 

「皆乗ったね〜? じゃあ行くよ〜!」

 

 乗船を確認した園子が元気よく掛け声をする。

 船の後部が仄かに紫色の閃光を帯び始め、輪の回転が速まり、目に見えて出発する寸前なのがわかる。

 目指すはブラックホール。東郷のいる極点へ。

 しかし船が莫大な推進力とともに飛び立とうとした、その瞬間。

 

「――待って! 私も連れて行って!!」

 

 と、新たな人物の声が甲高く響いた。

 誰もが知っている元気な声。

 バーテックス界に突風と共に侵入してきた人影はそう言うや否や、地面を蹴り上げて高く飛び上がった。

 着地点は園子の船。静かに片膝をついて着地すると、ゆっくりと顔を上げた。

 ずっと病院で心を失っていた少女。

 

「友、奈……!」

 

 夏凛がかすかな声を零した。

 そして確かめるように頬に手を伸ばし、触れる。

 ……人の暖かさがあった。死んだように眠っていた時の冷たさとは違う、生の温度があった。

 途端、夏凛の中でずっと燻っていた感情が爆発した。

 顔を伏せ、ふるふると身体を小刻みに震わせる。そして、あらん限りの力で強く抱きしめた。友奈の肩口に顔を埋めながら、声を震わせた。

 

「ずっと……待ってた」

 

 友奈の優しい瞳が瞬きした。

 

「うん……遅くなって、ごめんね?」

 

「……いいのよ。私たちはあんたが絶対に目を覚ますって、信じてたから。だから……おかえり」

 

「……ただいま」

 

 囁き返した友奈は、背中をぽんぽんと軽く叩く。

 夏凛は少しだけ目を端を赤くさせながら抱擁を解いた。

 その間にも園子の船は今度こそ出発し、雑魚を蹴散らしながらブラックホールへと向かう。

 

「おかえりなさい友奈さん! 本当によかったです……!」

 

 船から振り落ちないように縁側の手すりに捕まりながら、樹が目尻に涙をためる。

 皆にはとても悲しい思いをさせてしまった。あのままいつまでも起きなければ、ずっと皆の心に影を落としたままになってしまう。

 だから、あそこで声をかけてくれて嬉しかった。届けてくれて嬉しかった。

 高嶋には心から感謝しなければならない。

 

「おかえり友奈。退院祝いとかしたいとこだけど、ここに来たってことは、だいたい事情は高嶋から聞いてるってことでいいのよね?」

 

 風が長い髪をばさはざと靡かせながら顔だけを友奈に向ける。

 

「はい。東郷さんを助けに行くんですよね? そのために私は目覚めたので」

 

「……そっか。起きたばかりだから無理のない範囲で……って、あんたなんでそんなにボロボロなのよ?」

 

 友奈の勇者装束は土汚れが目立ち、腕に擦り傷やらがたくさんついている。

 これは赤嶺に殺されそうになった――実際は本当に殺された――からだなんて言えば事態がややこしくなるだろうと思い、友奈は適当に「ちょっとだけ運動してから来たんです!」とはぐらかした。

 

「――ゆーゆ、私のこと、わかるかな?」

 

 紫色の球体を掴む両手を広げる園子は、こちらを振り向かずにそう尋ねた。

 高嶋から受け取った記憶と、以前大橋で東郷と一緒に呼び出された時の姿、雰囲気を照らし合わせる。そして友奈ははきはきと話した。

 

「あなたは乃木園子さんだね?」

 

「うん、そうだよ。会うのはこれで二回目」

 

 船は加速する。

 あれほど小さく見えていたブラックホールは目前にまで迫っている。

 

「ゆーゆが寝ている間に勇者部に入部しました〜! これからたくさんお話しようね〜」

 

 プロミネンスが船体のすぐ横まで吹き上がった。

 横顔の園子の顔が赤色に照らされてはっきりと見えた。

 

「うん! わかったよ園ちゃん!」

 

「おお! 園ちゃん! これまた面白い呼び名だ〜」

 

 嬉しそうにうんうんと頷いた園子はぐぐぐ、と身体に力を入れて前斜姿勢になった。すると船体が前のめりになり、より一層速度が上がる。急速に上へと持ち上がることによる慣性……Gに身体が下へと押し付けられる。

 闇より更に深い闇。そんな球体の下半分から上は見えない。赤い砂塵のような巨大な輪が球を中心に広がっていて、簡単に突入できそうにない。

 だが突入する。

 限界まで加速した船がそのままの勢いで輪に突っ込む。

 ズガガガ! と激しい揺れが襲い、船が壊れてしまうのでは夏凛が小さく悲鳴を上げる。すると園子は「進め!」とさっきまでのふわふわした物言いとは真逆の、揺るがない意志を秘めた声を張った。

 揺れはさらに激しくなる。特に上下の揺れが酷い。柱などにしがみつかないと一瞬で放り出されそうだ。

 話そうとすればその瞬間、舌を噛んでしまうだろう。樹なんて既に甲板から足が浮いてしまっている。

 やがて、船の頭を高く突き出し、赤い雲を巻き上げながら輪の上へと飛び出た。揺れはだいぶ収まったものの、今度はブラックホールの超時空の影響が出始める。景色が移動ぼかしがかかったようになり、自分の手先すら曖昧になる。

 

「うわわっ! これどうなってるの⁉」

 

 片膝をついて、なんとか揺れを凌いだ友奈は目をゴシゴシと擦る。

 距離にして、中心部まであと三百メートルほどだろうか。このスピードなら数十秒で到達できる計算だ。

 

「よし、いけるわ!」

 

 風が真剣な眼差しで前方を見据える。

 しかし、突如全方向から園子の船と同じように、雲を巻き上げて見知ったネームドのバーテックスが複数体現れる。狙いは言うまでもなく友奈たち。ここから先には行かせないとばかりに高速で接近してくる。

 大剣を手に取り、眉をひそめる。

 

「こんなとこまで追いかけてくるなんて厄介ね……」

 

 ここでまともに戦うことはまず不可能。追尾を振り切るので精一杯だ。

 

「私が東郷さんを助けに行くよ!」

 

 園子の前に出てそう宣言したのは友奈だった。中心まであともう少し。

 

「友奈、あんた大丈夫なの⁉」

 

 風が心配そうに声をかけるが、友奈は強く答える。

 

「大丈夫です! それに私は、東郷さんを絶対に忘れないって約束したので!」

 

 それ以上の反対意見は出なかった。

 念のため風からアップデートされた勇者システムの説明を受ける。

 顔を綻ばせた園子は股を広げ、力強く立つ。

 すると、船のオールの部分が眩い閃光を輝かせ、鳥の翼を思わせる形へと変形し、さらに増速した。

 それでも背後を執拗に追いかけてくるバーテックスは振り払えない。

 

「ゆーゆの邪魔は、させないよ!!」

 

 ガコン! と両翼が大きく震え、百を優に超える光線が打ち出される。それはまるでスパイ映画に出てくる侵入対策の赤外線のよう。威力は低いものの、十分牽制にはなる。バーテックスに何本も命中するが、ダメージは微弱。しかし速度を落とすことには成功して、一気に距離を広げる。

 

「ゆーゆ! 今! わっしーをお願い!」

 

 園子の瞳の奥に宿る、願い。

 友奈はそれを目に焼きつけた。

 枝木が折れた骨など知らぬとばかりに拳を作る。感覚が生きていれば痛みに呻いていたところだが、右半身麻痺という状態に今は感謝だ。

 

「任せて。必ず連れて戻ってくるから……!」

 

 頷く。

 そのために友奈は目覚めたのだから。

 障害を乗り越え、理由を果たす。

 東郷を殴った。東郷に殴られた。

 そして、分かり合った。

 約束をした。

 ならば、今こそそれを守る時。

 ついに船が球体の真上に到達する。

 黒。真の黒。色のない、黒。

 見下ろすだけで呑み込まれそうな錯覚。そこに、今から飛び込む。

 園子が安堵した顔でさらに光線を放つ。白光を背景に、友奈は躊躇いなく飛び降りた。

 重力に吸い寄せられ、友奈の身体は一気に加速する。

 身体を極限まで小さくさせ、負荷を軽減する。

 具体的な到達点がどこなんてわからない。でもそこに東郷は必ずいる。

 呼吸がつらい。舌が喉に張り付き、小さく咳き込む。

 排出と吸引のバランスが釣り合っていない。

 満開ゲージひとつ、弾けた。

 友奈の前に現れた牛鬼が精霊バリアを張る。

 それと同時に、園子の迎撃から逃れたバーテックスがぬうっと友奈の背後に現れた。

 ――まずい。

 ここで少しでも身体を動かせば瞬きの間に結城友奈という存在は肉片も残らず消されてしまう。

 これは、友奈が先に特異点に到達するか、バーテックスが友奈に追いつくかの競走だ。

 しかし、ひしゃげるような大きな轟音が耳に僅かに届いた。

 眼だけを動かして音のした方向を見ると、身体を不気味に凹ませたバーテックスがいた。それでも執拗に友奈を追うが、ベコン、ベコン、とさらに凹み、友奈と同じくらいのサイズになったところで閃光を撒き散らし、消えた。

 

「……」

 

 満開ゲージがひとつ、弾ける。

 意識が薄れる。酸素が足りなくなった肺が暴れる。

 満開ゲージがひとつ、弾ける。

 残りはひとつだ。

 初めのひとつめは赤嶺を倒すときに使った。

 消費ペースが速い。

 ギリっと奥歯を噛み締める。

 意識がぼやけてくる。酸素の足りなくなった肺が暴れる。

 苦しい。瞼の裏でチカチカと景色が弾ける。

 このままでは、死――

 だが。

 友奈の悪い予感が的中することはなかった。

 右手に結ばれたミサンガが、突然眩い光を放ち始める。これは友奈が目覚めた時からすでにあったものだ。誰に結ばれたのかも知らない。悪いものなのかもしれないと思ったが、そんなことはなかった。

 光は白から青へと変化し、友奈を包み込む。不快感などといったものは一切なく、寧ろ暖かい……心地よさがあった。呼吸は安定し、熱い吐息を吐く。

 それだけではない。背中に熱を感じる。途端、ばさりと何かが広がった。視界の端に、ちらりと青色の羽毛が映り込んだ。

 

「――――」

 

 なに、と問うことはしなかった。

 大きく翼がはばたくと、落下スピードが目に見えて上がった。さっきまでの息苦しさはない。逆に、友奈の胸に安心がじんわりと広がる。この翼は、それほど頼もしかった。

 赤の流星は、青の流星へ。

 そしてついに、特異点へと到達する。

 その証拠に、落下していたはずなのになぜか上へ急上昇する感覚に襲われた。平衡感覚を失い、少し酔いかけたところで異変は収まる。友奈は頭を押さえてなんとか平然を取り戻す。そして状況を確認しようと周囲を見回すと、すぐ真横には自分の身体があった。臍にあたる部分から桜色の臍帯が伸び、自分の身体の臍へと繋がっている。

 肉体はそこにある。意識はなくその場を漂っている。では、今の自分はいったいなんだ?

 手を見ると、肌色ではなく、もっと彩度が高い。臍帯と同じ色。全身はほぼ裸体で、動かないはずの右半身も自由に動かせる。

 

「ゆ、幽体離脱~~⁉」

 

 青い加護はなくなっているが、別に苦しさなどはない。

 完全な黒へと飛び込んだはずだが、内部はまた別の宇宙が広がっていた。宇宙、という表現が正しいかはわからないが。

 無数の光が、勇者の目でも捉えきれない速さで直進する。

 東郷の姿は……ないようだ。ここから更に明確に目指すべき場所が見当たらない。どうしたものかと悩み始めると、遥か頭上で、チカッ、と赤い閃光が輝いた。

 

「……?」

 

 そして、流星群が友奈へと降り注いだ。

 

「っ⁉」

 

 回避なんてとてもできない。

 殆どは通り過ぎていくだけだが、いくつかは友奈の身体に命中する。

 

「あうッ!」

 

 痛みはなかった。 

 しかし、強烈な不快感が患部を中心に広がる。見れば、樹海の侵食と全く同じ現象が起きている。精神体が赤く灼け、炭化する。

 まだ一部分だけだからいいものの、これが全身にまで広がったら、おそらく終わる。この精神体は終わる。

 そうなれば、そこでたゆたう肉体は、一生ここに取り残される。

 ……それは、だめだ。

 第二波が迫る。

 これも避けられない。

 嵐の如き流星群は友奈の元へと容赦なく殺到する。

 侵食は広がる。

 そして次に、大量の水泡がゆっくりと通過していく。今度は接触してもダメージを受けることはなかった。それによく見ると、水泡には東郷の顔が映っている。その表情は暗く沈んでいて、友奈はつい手を伸ばす。

 すると景色が移り変わり、東郷の記憶だろうものが再演される。

 大赦からの使者。

 東郷が壁を破壊したことによって、結界外の炎の勢いが強まっていること。

 奉火祭と言う名の生贄。

 苦悩。

 決断。

 そして、心神喪失状態の友奈との別れ。

 

「東郷さん……」

 

 ……ずっと、負い目を感じていたんだね。

 確かに壁を破壊したのは東郷で、この選択は自業自得と言ってもぐうの音も出ない。

 でも、はいそうですかと大人しく引き下がれるはずがない。

 だからこれは子供っぽく我儘だ。仕方のないことだと諦めるという選択肢はもちろんあった。しかしそんなことは勇者部の誰一人として思わない。

 だって、東郷がいて、皆がいて、ようやく勇者部なのだから。

 友奈はこうして帰ってきた。

 なら、次は東郷の番だ。

 

「ここで倒れる、もんか……!」

 

 ここで倒れたらすべてが無駄になってしまう。

 神の業に至り、目覚めたこと。

 赤嶺友奈を死に物狂いで打倒したこと。

 園子に東郷を任されたこと。

 すべて、すべてが無駄になってしまう。

 背負っているのだ。

 だからこそ、友奈は諦めない。

 それが友奈である所以。

 胸の中で想いを爆発させる。

 こんな障害なんて、知ったことか。

 東郷を助けるためなら、人を超え、その悉くを乗り越えてみせよう。

 そのためなら、もしまた赤嶺に戦うことになってもいい。

 だから!

 だから――!

 

「何度でも、助ける――!」

 

 ◆

 

 激しい酔いから覚めた感覚に、友奈は小さく身震いする。

 四方を見回すと、友奈は明らかに今までいたところとは異なる場所に浮かんでいた。宇宙空間のような雰囲気ではなく、どこまでも広がる無機質な世界。気になることといえば、遥か頭上に目のような模様が確認できることのみだ。それがなんとなく不気味で、まるで本当に見られているような気すらする。

 ふと肉体を確認するが、これは大丈夫のようだ。臍帯はまだ繋がっている。

 場面が変わったということは、何か進展があったとみていいだろう。目以外に何かないかと周囲をぐるりと迂回していると、大きな鏡が目に入った。

 大きさはだいたいサッカーゴールより少し小さいくらい円状。全体的に黒ずんでいて、鏡は友奈を映さない。

 それだけではない。

 鏡には何か黒い物体が埋め込まれている。用心しながら近づくと、それは人の形をとっている。さらに慎重に接近を続けると、その正体が、友奈の探していた人物のものだと気づく。

 

「と、東郷さん……っ!」

 

 喜び反面、苦しさが一気に胸中を支配する。

 目の前に立つと、トレードマークのながい黒髪は煤け、勇者装束も色味を無くしているのがよくわかる。

 石像だと言われても疑うことができないほどだ。

 息は……していない。しかし身体は僅かながら生の熱を帯びている。

 

「こんな……酷い……」

 

 そして気づく。

 鏡の背後に、何かがある。首を横から出して後ろを見ると、恐ろしい光景が飛び込んできた。

 メラメラと激しく燃える炎が、延々と誰かを灼いているのだ。

 その姿は、今の友奈と同じ精神体に似た人物で、どう見ても東郷の精神体であることは間違いなかった。

 奉火祭とは、炎に身を捧げて天の神に許しを乞う儀式……だったはず。かつて西暦のお割にも行われたとされる儀式。

 しかし、こんな残酷なことが……あっていいのだろうか。

 仕方ない、仕方ないと免罪符を自分たちに発行して世界を背負わせることは、果たして本当に正しい行いなのだろうか。

 

 私たち人間は、

 果たして、

 このままでいいのだろうか?

 

 ……いや、今はそんなことを考える暇はない。

 とにかく東郷を助け出さなければ。

 

「東郷、さん……!」

 

 鏡に手を触れる。

 瞬間、水面に沈むかのようにあっさりと手が沈み、同時に身体の芯まで鋭い痛みが走った。

 

「ッ!」

 

 反射的に手を引き戻す。

 赤く侵食されたりといった、外見に変化は特にない。

 それなら、今の痛みは何だったのだ?

 気を取り直してもう一度鏡に手を入れようとした。 すると、今度は唐突に右半身が言うことを聞かなくなった。

 

「⁉」

 

 精神体だから自由に動かせていたはずなのに、今になって、なぜ……?

 どれだけ力を入れようとしても右肩や、右脚の付け根に届くとそれは完全に消えてしまう。

 ついには、意志とは反して鏡から離れようとし始めた。

 

「ちょっ、ちょっと……」

 

 何が起こっているのかさっぱりわからない。でも右半身は明確な意思を持っている。

 しかしこのままでは東郷から引き離される。それは友奈の意図することではない。

 意志力を振り絞り、再び鏡の前へと移動し、今度こそ左手を中に沈み込ませた。

 

「ウッ、ぐ……あぁっ……ッ゛!!」

 

 神経を裏返しにされて、丁寧に針で刺されるような耐え難い苦痛に友奈は悶絶する。

 

「帰、ろう……! 東郷さんッ……!!」

 

 それでも強引にさらに奥へと沈ませる。肩まで鏡に呑まれて、ようやく東郷の背中をがしりと掴んだ。

 あとは引き抜くだけ。

 その時、胸に猛烈な熱が発生した。ドロドロに溶けた鉄を押し付けられる、この世のものとは思えない痛みに目を見開いて絶叫する。

 よく見れば、友奈には理解できない何かの紋様が東郷から自分へと乗り移り始めている。

 だが放さない。絶対に放さない。たとえ一秒後にこの身が滅んでも放さない。

 それこそ、死んでも絶対に助ける。

 喉が灼ける。張り裂ける。潰れる。

 気合からなのか痛みからなのかわからない獣の叫びを絞り出しながら、ついに鏡から東郷を引き抜くことに成功した。

 しっかりと東郷の身体を抱き締めながら、安堵の息を吐く。

 痛みも急激に引き、酷い脱力感に襲われる。

 よかった、と東郷の顔を覗き込む。

 鏡の奥では精神体を灼いていた炎の勢いがゆっくり小さくなっていき、やがて完全に消えた。

 これでもう東郷を苦しめるものはいない。助け出すことに成功した。後は帰るだけ――

 ……爆発が起きた。

 起爆現場は友奈の胸の紋様。

 乗り移りが完了したことで、真の効果が発動したのだ。

 一瞬にして友奈は侵食される。全身は赤く染まり、一度友奈と言う存在は汚染される。

 表面は赤く爛れ、内部も文字通り完全に焼却される。

 痛みなどとという次元とは桁が違った。絶叫すら声すら満足に上げられなかった。身体が震える。これに絶えることなんてとてもできない。

 灼ける。

 全て。

 灼ける。

 結城結城。

 灼ける。

 死。

 灼ける。灼ける。灼ける。灼ける。灼ける。灼ける。灼ける。灼ける。灼ける。灼ける。灼ける。灼ける――

 

 ◆

 

 眩しい光が、瞼を閉じていても嫌になるほど差し込んできた。

 東郷はゆっくり、ゆっくりと、瞼を上げると、そこには信じられない光景が広がっていた。

 

「あ、東郷さんが起きたよ!」

 

 そこは病室だった。

 顔を覗き込んでいた友奈が元気に叫ぶ。

 するとスペースを区切るカーテンが開かれ、ぞろぞろと勇者部の面々プラス高嶋が東郷の寝るベッドを取り囲むように立った。

 

「こ、ここは……」

 

 ぎこちない動作で首を動かして周囲を見渡す。

 

「わっしー!」

 

「その……っち」

 

 心配そうな表情を浮かべる園子は、一瞬東郷に抱きつきたい衝動に襲われたが、なんとか踏みとどまった。

 

「助けて……くれたの……? でも、そんなことをしたら世界が火に……」

 

 ややおぼつかない声色だ。

 それに対して風は少し鼻を鳴らした。

 

「事情は聞いたわよ。火の勢いは安定したから、もう生贄は必要ないってさ」

 

「まさか、私の代わりに誰かが……」

 

「違うわ。普通ならごっそり生命力を奪われて死んでたはずなのに、あんたがタフだから生き残ったって話。それで御役目はご苦労さんってことよ。そこに私達が間に合った」

 

「どこも異常なしだそうです! 健康体そのものですよ。しばらくは入院しないといけないそうですけど」

 

 樹の元気な声。

 皆が本気で東郷を心配していたのだ。

 助けるために神樹の領域外にまで出て、東郷を連れ帰ったのだ。ブラックホールは東郷がいなくなったことで完全消滅している。

 説明は東郷の耳にあまり入ってこなかった。視線はずっと、友奈の方を向いている。

 きらりと瞳の奥で感動が渦巻く。

 

「友奈ちゃん……目覚めたんだね……よかった」

 

「うん。東郷さんを忘れないって……守るって、約束したから。だから、こうして目覚めた。でも私ひとりじゃできなかった。高嶋ちゃんに感謝だよ!」

 

「あんたに最初に気づいたの、高嶋なんだから」

 

 夏凛にそう言われ、高嶋はそんなことは……と頭をポリポリかいて照れている。

 

「……そう。高嶋さん、ありがとうね」

 

「どういたしまして。これで勇者部は全員揃ったね!」

 

「あれ……? でも、ほら、えっと……赤嶺さんは?」

 

「あー、赤嶺ちゃんはちょっとお出かけしてるの。たぶん近いうちに帰ってくると思う!」

 

 すると風が心配そうな顔をした。

 

「ちょっとそれ大丈夫なの? 家出ってことじゃない? 何かあったの?」

 

 高嶋は難しい表情を浮かべながら視線を友奈へと送った。

 助けてほしいということだろうか。

 ここは潔く助け舟を出そうと友奈は口を開いた。

 

「大丈夫ですよ。だって、赤峰ちゃんは私と高嶋ちゃんよりしっかりしてますから!」

 

「それ、あんたたちが自分のことを馬鹿って言ってるのと変わらないけどいいの? というか友奈あんた、赤嶺と会ったんだ。私達に合流する前か」

 

「別に友奈がそう言うのならいいんじゃない? あながち間違いでもないし」

 

「夏凛ちゃん! それは聞き捨てならないよっ!」

 

 妙なところで反応した友奈が夏凛に突っかかる。

 

「はあ⁉ ちょっ! ちょっと助けないさいよ高嶋ぁ!」

 

「いやーこれは夏凛ちゃんが悪い、うん」

 

 がおー、と夏凛に被りつく様は完全に義輝と牛鬼の再現だった。病室は温かい笑い声に満たされ、風の「騒ぎすぎよ」との注意でようやく収まった。

 

「これからはいっぱい楽しもうねわっしー! 目の前に迫るはクリスマス! 大晦日! そしてぇ〜、お正月〜!」

 

「乃木、あんた遊ぶことばっか考えてるでしょ」

 

「ありゃりゃ、バレてましたか〜」

 

 えへへ〜と照れ笑いする園子。

 そんな馬鹿をやる日常がやけに嬉しくて、東郷はより馬鹿なことをしてしまった自分を大いに恥じた。

 仲間を置いて一人で勝手にどこかに消えてしまうなんて、なんと罪深いことか。

 友奈を待っていたのに。目覚めた時に誰よりも待ちわびていた東郷がいないなんてことは、あってはならなかったのだ。

 目尻に涙が溜まる。

 そして、ありったけの感謝を込め、口の端を綻ばせて言った。

 

「ごめんなさい。それと……私を助けてくれて、ありがとう」




正史ではようやく2話が終わったくらいです笑
ここからシリアスがラッシュしますが、より上位の鬱を目指します

勇者部は揃った
鏑矢が消えた
そして、征矢が来る

それではまた次回!

















































































 酷い熱にうなされる。
 もしかしたら知らず知らずに呻いていたかもしれない。風呂場で確認した胸の紋様。どう見ても悪いものであるのは確定だろう。
 友奈はぼんやりと目を開ける。
 パジャマは汗でびっしょりだ。掛け布団も気持ち悪い。
 それに、身体がとてつもなく熱い。今すぐに水風呂にでも浸かりたい気分。
胸がじくじくと疼く。原因はこれか? ギプスというのは面倒なもので、固定された姿勢から全く動かせない。あの後医者に診てもらったが、やはり右手の骨は折れていた。
 ……喉が渇いた。
 酷い口渇感に激しく咳き込む。
 意識が朦朧とする。
 着替えるか、水分を取るか。
 決断は一瞬だった。
 側に立て掛けてある車椅子に手を伸ばし、いつもの倍以上の時間をかけて乗り移る。
 視界も悪い。これは電気をつけても改善されない。
 自室を出て階段へ。両親はぐっすり寝ているようだ。
 階段は友奈が長い間入院している間に改造されたようだ。手すりの部分に金属製のレールが取り付けられていて、そこに車椅子の接合部を繋げる。そして接続を確認すると壁のボタンを押す。
 するとやや高い唸り音が鳴って、ゆっくりと友奈を車椅子ごと下の階へと運んでくれた。
 この改造費用はすべて大赦持ちだという。相変わらずこういった部分はとても手厚い手当だ。
 家内もだいぶバリアフリーなリフォームがされていて、特に難儀することもなく冷蔵庫の前にたどり着く。
 もちろんこのリフォーム代も、大赦持ちだ。
 パッ、と台所の電気をつけて、手元を明るくする。外で鳴いている虫の声が僅かに家の中にも聞こえる。普段なら何とも思わないはずなのに、今日はなんだかホラーっぽい感じがしてつい身震いしてしまう。
 速く飲んで寝よう。ああ違う。速く飲んで、パジャマを着替えて寝よう。でも着替えるのは時間がかかるし、はっきり言うと面倒だ。
 ドアを開けて、お茶の入ったニリットルサイズのペットボトルとコップを順番に卓上へと移す。
 キャップを開けるのも一苦労だ。
 なんとかコップにお茶を注いで口元へと運び、一気に喉奥に流し込んだ。すんなりと冷えたお茶が喉を通り、蘇生感が全身に広がる。
 後で催すことなんてどうでもいいとばかりにおかわりをして渇きを癒やす。
 普段から飲んでいるはずなのに妙に美味しく感じた。四杯飲んだところでようやく渇きは満たされた。
 深夜に一人っきり。なんだか怖い。
 速く部屋に戻ろう。
 ペットボトルとコップを直してそそくさと戻ろうとレバーを掴んだ時、異変が起きた。
 ギプスに何か違和感を覚える。その正体を探ろうと視線を落とすと、ギプスが妙に盛り上がっていた。
 病院でガチガチに固められたはずだ。何度も叩いて石のような硬さだと笑った記憶がある。
 だからそう簡単に変形するなんてことはあるはずがないのだ。
 部屋の時計が静かに時を刻む音がやけに大きく聞こえる。心臓の動悸が激しくなり、何が起こっているかわからないという恐怖がじわじわと広がる。
 そして、それがついに訪れる。
 不意に、あれだけ固められたギプスの二の腕付近で亀裂が走った。亀裂は瞬く間に広がり、ガリッ! と一部を吹き飛ばした。
 いったい自身の身に何が起きているのか。恐る恐る友奈は生まれた穴を覗き込んだ。

「――⁉」

 そこには、枝木が生えていた。
 気味悪く蠢きながら窮屈なギプスから出ようとしていたのだ。

「ひっ」

 口から小さな悲鳴が漏れる。
 これは、なんだ。
 枝木がギプスから這い出て、恐るべき成長スピードで肘辺りまで一気に伸びて巻き付く。
 それだけではない。

「……ッ、ガっ!」

 右の腰に、すり潰したような鈍い痛みが走る。
 身体の中から何かが伸びているのがすぐにわかった。
 咄嗟にパンツを下ろして確認すると、そこからも枝木が生えてきている。幹が血に濡れ、べっとりと肌に血が広がる。腕の血も脇を通り、服に染み込み、赤一色になる。
 びちゃびちゃと血を撒き散らしながら、激しく友奈の身体の上で枝木が蠢く。
 気持ち悪い気持ち悪い痛い気持ち悪い痛い気持ち悪い気持ち悪い痛い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い痛い気持ち痛い悪い気持ち痛い悪い気持ち悪い痛い気持ち痛い悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い痛い痛い気持ち悪い気持ち悪い気持ち痛い悪い痛い気持ち悪い気持ち悪い痛い気持ち痛い悪い痛い気持ち悪痛い痛いい気持ち悪い痛い気持ち悪い痛い気持ち悪い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
 痛い! 痛い!痛い!
 この強い嫌悪感と悍ましさに耐えきれず、流し台に吐く。

「お、エ゛ッ!! うぶ……っ!」

 まだ収まらない。
 親に助けを求めようとしても恐怖と痛みで声が出ない。その間にも枝木は伸び、友奈の身体を絡め取る。次々と傷口から溢れてくる幹に、血が出るほど左手で拳を作って必死に耐える。

「フーー! フーー!」

 止まらない。友奈は死ぬほどの苦痛に無言で耐え続ける。
 やがてついに、友奈ができる我慢の許容を大きく上回る。
 一秒後に発せられる絶叫で迷惑がかからないように右肩に噛み付く。歯が肉に食い込み、ぶちっ、と少し千切れる。じわりと血の味が広がったが、そんなことはどうでもよかった。
 そして一秒後、友奈はくぐもった絶叫を漏らした。
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