PTSDほどではありませんが、赤嶺チャンは心に傷を負いました
なんか知らんけど今回は文量多いけど許してネ!
――まだ、時は来ていない。
無言で座禅を組み、完全に無の境地に至ろうとしている男は静かに自身に言い聞かせる。
ここは大赦本部の、神官専用のとある修練所。同じような白い装束を纏う神官たちが、男と同じような姿勢で瞑想している。
神官は巫女のように神樹様から神託を授かることはできない。
世界を変えるのは大人ではない。子供だ。
では神官の存在意義は?
子供さえいれば、神樹様との交流を任せきりにし、他の業務……子供にはできないことを代行するような仕組みにすればいいはず。
しかしそれはもう、神官ではなくただの役人だ。
――まだ、時は来ていない。
より深く。より高く。
男の精神は沈んでいく。
大赦という組織は、尊く、犯し難いものでなければならない。つけ入る隙を見せてはならない。神聖でなければならない。
だからそれらを永遠に証明、維持するにはどうすればいいか。
答えは簡単。神樹様への信仰を強く持つことだ。
この世界はもはや信仰なくして生きるに能わずというレベルにまでなっている。それは小学生……いやもっと前、幼稚園児にも擦りつけられていることだ。毎日部屋の神棚に祀ったレプリカを神樹様と見立てて拝をしたり、神樹様の素晴らしさを説いたりと徹底した教育が施される。
だがそれは一般人に向けてのものであり、神官たち大赦に勤める人間は違う。
さらに高い次元……神樹様と共にあろうとする強い意志が重視される。
そうすることによって、大赦としての在り方がより強固になってゆく。三百年も継続しているからこれは断言できる。
大昔の江戸時代、徳川幕府は二百六十五年続いたという。それと比べるとやはり大赦の運営は間違ってはいないのだろう。
そう、間違ってはいない。
……しかしそれは、何を判断基準にしたものだろう。
ぷつぷつと男の肌から汗が噴き出し、身体からじわじわと熱気が放たれる。修練所の温度が上がり、異変に気づいた周囲の神官たちがぎょっとして男を見る。
だが男はその視線に気づかない。
微動だにせず座禅を組む姿は毅然としていて、呼吸音は静かなはずなのに、やけに響く。
大赦の体制はほぼ完璧と言っていい。
これからも四国は大赦を中心とした運営が為されるだろう。
不変の日常が、これからも永遠に続く。
人は神樹様の庇護化で生き続ける。
だから。
――まだ、時は来ていない。
ようやく男の瞑想が終わる。
ゆっくりと精神を身体に浮上させる。いつの間にか修練所はむさ苦しいほど熱気に包まれていて、ゆっくり四方を見れば、自分以外誰もいないことに気づく。
脚をほぐしながらその場から立ち上がり、修練所を立ち去る。体型は痩せ型だからか、鍛え抜かれた筋肉は装束の下に隠れている。
男は神官としての地位が特別高いわけではない。与えられたふたつの御役目は、おいそれとは口にできない。つまり極秘だ。
それに片方の御役目は、つい先日から始まったものだ。
他の神官たちに混じって埃一つない廊下を歩き、男は自身の個室に入る。広さは与えられたものにしてはやけに広く、幅、奥行きともに十メートルほどある。
左手には大きく口を開ける溶鉱炉。そこからレールが敷かれて作業台へと続いている。右手には、整然と武具が壁に並べられている。
まだ滾る熱を放出するために仮面を取り、装束を脱いでいつもの作業着を着込む。
耐熱仕様の黒い羽織を上半身に斜めにかけ、右半身は裸体を晒す。ようやく覗かせた筋肉はただ隆起しているだけでなく、分厚い。
本来ならばこの羽織をこのように半端に着込んだりするものではなく、耐熱仕様というオプション通り、熱を防ぐものである。
身体に弾け飛ぶ火花程度、熱くはない。それどころか、その火花の加減でどの程度の手応えなのかがわかるまである。
男は神官であり、鍛治師でもある。
これがひとつめの御役目。
とはいっても、何かを生み出したりするより、すでにあるものを修繕、もしくは改良したりすることに特化している。
男にこの羽織なんて本当は必要ない。全身を駆動させて打つだけではなく、全身で武具の出来を感じるのだ。
実のところ、武具を管理するだけでいい。そういう御役目だ。だから、別に鍛治師にならなくても良かったのである。
羽織の懐からくしゃくしゃに丸められたメモ書きを取り出し、内容を確認する。
「……動き出したか」
そう呟くと、男は部屋のさらに奥、ロックのかけられたドアの前に立つ。これを開ける権限を持つ人間は片手で数えられるほどしかいない。
特別な鍵を鍵穴に差し込み、右に回す。
カチッ、と微かな音と共に、何重にもかけられたロックが高速で解除されてゆく。
ドアを開け、薄暗い部屋へと足を踏み入れる。
すると、それに反応して足元の両脇から弱い光が手前から奥に向かって点灯する。
ロックはまだ解除されている途中だ。二十メートルほど前方に、行く手を防ぐように、人の太さくらいの柱が幾本も屹立している。それらはすべて精霊の力を応用したもので、白いオーラを纏っている。
それらが滝のように上から失せてゆく。次に祝詞が赤くびっしりと刻まれた柱たちが臼を回すのに似た重々しい音を鳴らし、ゆっくりと地中へと沈んでいく。
そこまで厳重に守られていたものがようやく姿を表す。
……鎮座するは、七つの白いモノリス。
右に四つ、左に三つとグループ分けされている。
それぞれの前には武具が浮遊していて、その眺めに男はつい感嘆を漏らす。
右には生太刀、旋刃盤、手甲、クロスボウが保管され。
左には弓と戦斧、槍が保管されている。
これらの武具はすべて、男が手入れしたものだ。どれも国宝級……いやそれ以上、人類の宝。これ以上にない名誉と責任が男にはある。
コツ、コツ、と足音を鳴らし、男はそのうちの一つの前に立つ。
――赤い手甲。
それにゆっくり手を伸ばし、触れる。
すると浮遊力を失ったそれはすっぽりと手の中に収まった。
サイズは非常に小さい。男のゴツゴツした拳にはとても入らないだろう。
だがそんなことは関係ない。
なぜなら、男がこれらの武具を使用することはないからだ。あくまで使用者のために、最高の状態を維持させることが、男の御役目だ。
そのためだけに鍛治師の称号を得た。
――まだ、時は来ていない。
「でも、備えることはできる」
踵を返し、歩を進める。
男には『時』を呼ぶ力はない。
だから待つことしかできない。そもそも、『時』が来るかどうかすら怪しい。
だが待つ。
待ち、備えることしか男にはできない。
再び柱がせり上がり、重力に抵抗する水のように薄っすらとオーラがかかり、厳重にロックがかけられる。灯りは消され、完全な暗闇と静寂に包まれる。御役目を全うした武具たちはもう一度眠りにつく。
そうして、男は保管所を後にした。
◆
「鏑矢計画は第二世代で頓挫、棄却されました。以降二百年以上……現在に至るまで、鏑矢は存在しません」
「――――え?」
今、とても大切なことをさらっと言われた気がした。
続けて説明を続けようとする神官に待ったをかけ、数秒だけ呆けた園子は急いで言葉の意味を咀嚼する。
「それって、どういうこと? 第二世代で頓挫って、何があったの?」
「わかりません。なにせ大昔の話ですので。それについての記録はすでに抹消されており、知る者は誰ひとりいません」
抹消とはあまりに不穏な言葉遣いだ。
大赦の情報統制は、バーテックスという存在を消せるほど徹底されている。一般人に恐怖を与えないための必要な手段であることは理解できるが、それを本当に実現させたということに大きな意味がある。
つまりその気になれば、大赦は歴史を捏造することが可能なのだ。
だから、記録がないということは、そうしなければならない理由が確実にあったことを意味する。
「……そう。赤嶺ゆーゆは第二世代なの?」
神官はかぶりを振る。
「いいえ、第一世代です」
「仲間は『レンち』と『シズ先輩』のふたりだけ?」
「本名は明かせませんが、それで正しいです」
すんなりと情報を開示する神官。
いくら園子にも容易には開示されない情報もあるはずだろうが、この辺りはまだ大丈夫なようだ。
それに一度、園子はこの神官に嘘をつかれている。世界を守るため仕方ないとはいえ、そのせいで満開を繰り返し、散華を繰り返し、芋虫生活を余儀なくされた。
いまさらそれを責めるつもりはない。
だが、もう一度嘘をつこうものならどうなるか、神官はよくわかっているはずだ。
これから園子は失われた時間を取り戻す権利がある。しかしそのために退けなければならない障害にどう対処すればいいかわからない。
「鏑矢を止める方法は?」
「ありません」
「赤嶺ゆーゆを殺す以外の方法は?」
「ありません」
「…………」
八方塞がりだ。
殺せば間違いなく友奈の危険は去る。それは頭では理解している。
でも人殺しなんて、絶対にできない。
友奈の言っていた通り、根っからの悪人ではないのは素振りからなんとなく見て取れる。もしかするとそれは演技なのかもしれない。
友奈の信頼は無意味なのかもしれない。
でも、『友奈』だから。
そんなとってつけたような希薄な理由だけで、様々な葛藤をしている自分に園子は気づいている。
「私は、ゆーゆを守れるのかな?」
「それについての返事は、差し控えさせていただきます」
あくまで自分でなんとかしろということか。
一応、訊きたいことは訊けた。
ゲットした情報も悪くない。
赤嶺にとっては未来のものが含まれるため、慎重に扱わければならないものもある。
「……わかりました。ありがとうございました。今日はこれでお邪魔します」
完全に冷めたお茶を喉奥に流し込んだ園子は椅子から立ち上がり、神官に深々と頭を下げた。
神官はこちらに向き直り、そんな園子を無言で見据える。
その様子はドラクエで言えば、動く石像。
園子が部屋に入ってから、神官は身体の向きを変える以外、一切の身じろぎも、所作もなかった。
「……乃木園子様」
悲しいが、恐らく向こうから話しかけてくることはないだろう、と思いながら部屋を出ようとした瞬間、園子の背中に声がかけられた。
驚き反面、嬉しさが胸中にじんわりと広がる。
振り向いた園子は努めて冷静に返事をする。
「なにかな?」
過去にいくら仲が良かったとしても、今は勇者と神官。その立場は弁えなければならない。
だがそのように最初に距離をとったのは神官の方からだ。
「…………」
ここで初めて神官が僅かに身動ぎする。
腕の裾が少し揺れるだけだったが、園子にはそれだけで十分嬉しかった。
またあの頃に戻れたような気がして、つい口元が綻ぶ。
それを見た神官はまたもやたっぷりと沈黙を含ませた後、
「……どうか、お仲間を大切になさってください」
とだけ、無機質であったものの、明確に感情を込めてそう言った。
神官は酷く後悔しているかもしれない。あの時、まだ小学生だった園子と当時の東郷に、満開の代償を予めきちんと話しておけば。
未来は……歴史は変わったかもしれない。
でも、これでいい。
今更どれだけ過去を悔いたとしても、時は無慈悲に刻み続ける。未来はあっという間に訪れ、そのまた先の未来がすぐにやって来る。
だから、前を向くのだ。後ろばかりではなく、前を。そうしなければ、人は進めない。いつまでも過去に執着するのは、たぶん、違うから。
園子は笑顔で答えた。
「うん、ありがとう!」
ひらひらと手を振り、今度こそ園子は部屋を出た。
あれだけ長い時間、話をしたのはとても久しぶりだ。
本部を出て、門をくぐり、すぐ側で待機していた乃木家の車に乗り込む。
帰って、情報をまとめよう。
園子は顎に手を当てて思案に潜り込む。
鏑矢は赤嶺友奈一人だけ。
現代には鏑矢はいないため、これからは赤嶺の動向にのみ注意を払えばいい。
有効打になるものはまだないが、覚醒したばかりの友奈に負けたことから、力で抑え込むことは可能。
しかし相手は対人特化。対バーテックスの勇者とは違って、相性が悪い。
……と、ここでふと新たな疑問が浮かび上がった。
あの場で思いつき、訊けばよかったと後悔しつつも、ぽつりと口にする。
「――あれ? じゃあ、今、鏑矢の代わりをしているのって……何だろ」
◆
分厚いコートを着込む友奈は、自分の右腕を執拗に擦りながらぼんやりと考える。
自身の身に起こっているふたつの異常。これらをなるべく隠し通りたい。
……いや、隠し通さなければならない。
余計な心配事は増やしたくない。
もし病院に行っても、大赦と繋がっているから、流れるように園子の耳に届くだろう。
ようやく勇者としての御役目は完全に終わり、今度こそはというところにふたりの友奈が過去からやって来て、勇者部を掻き回している。
良い意味でも、悪い意味でも。
この果てにどんな結末を迎えるかなんて、友奈にわかるはずもない。
もどかしさと不安に押し潰されそうで、グッとギプスを握る手に力が入る。
友奈は優しいから。誰にも嫌な思いなんてしてほしくない。
だから、口を閉ざすのだ。
「友奈ちゃん?」
「ん? なに東郷さん?」
ゆっくりと顔を持ち上げた友奈を、東郷は心配そうにこちらを見つめていた。
「さっきの話、聞いてた?」
……まるっきり聞いてなかった。
ぼんやりしすぎるのは良くないな、と思いつつバツの悪い顔で口を開く。
「ごめんごめん、クリスマスツリーを見てたからあんまりちゃんと聞いてなかったよ〜」
完成したクリスマスツリーは見事なもので、恐らく風が手を伸ばしてジャンプしてもてっぺんには届かないだろう。
飾り付けも非常にバランスがよく、偏りがない。あまりの出来に、あとで写真を撮ってスマホのホーム画面にしようかと思いつく。
「私の家の電灯のことよ。昨日急に切れてとても困ったの」
「そりゃ災難ね。私のとこなんかエアコンが壊れてさ。寒いってのに、ほんとツイてないわ」
そう言って肩をすくめた夏凛は、「ま、完成型勇者だから問題なかったけどね!」と付け加えてすでに我が物となった椅子に腰掛けて足を組む。
その素振りの堂々たるや、勇者部の古参だ。
「東郷はともかく、夏凛はまあ大丈夫でしょ。夏凛だし」
何やら含みのある言い方で風が夏凛をどやす。
「はん! 当たり前よ!」
「じゃあ寒中水泳とかも余裕そうね」
「よ、余裕よ!」
顔が引きつってるから恐ろしく説得力がない。
今の一幕を録画して改めて見せつければほぼ間違いなく顔をトマトのように赤くするだろう。
「あ、そういえば不幸の話といえば、私達もあるわよね、樹ぃ?」
風に言われ、弾かれたように顔を上げた樹はぶんぶんと音が鳴るほど力強く頭を振った。
「お姉ちゃん言わないで! それは恥ずかしいからっ!」
若干涙目で口を塞ごうとする樹だが、それを面白おかしく受け止めながら風は楽しそうに言った。
「流れ的に言っちゃおっと。昨日ね? 高嶋と三人で高嶋の教材を買いに行ったのよ。んで、帰ってきたら樹に預けてた鍵を失くしちゃっててさ。家の前で私達凍え死ぬところだったわ」
「うわあああああ……!」
恥ずかしい話を暴露された樹はついに爆発し、ぽかぽかと姉の胸を叩き始めた。
皆不運だねー、なんて話のネタにして楽しんでいるが、友奈はそんな真っ直ぐに聞き入ることができなかった。
こんな偶然が、それも四人に同時に起こるなんてことがあるのだろうか。いや、ない。
原因はどう考えてもあの現象だ。
皆の胸に浮かび上がった、あの歪な紋様。
強い喉の渇きに襲われる。
ガサガサとひび割れた気道を、タワシでゴシゴシと擦られる嫌な感覚。崩れた一部が胸に支えて、苦しい。
あんなことを言わなければよかったのだ。
ずっとひた隠しにしていれば、皆は毎日を幸せに生きていられる。
自罰的な友奈は己を強く責めた。
あの時の無知な自分の肩を掴んで引き止めたいと切望する。
「そうそう、友奈。あんたの牛鬼、返しとくわね」
「へ? ああ、はい。ありがとうございます」
いつの間にかクリスマスツリーのてっぺんの星をガジガジと噛んでいた牛鬼を風が三脚を使ってそっと腕に寄せて降り、友奈に手渡した。
「思うんだけど、なんで牛鬼は高嶋のとこに行くのかしらね。特に知り合いでもないはずなのに。友奈は何か知ってる?」
友奈の左腕にすっぽり収まった牛鬼を、鑑定士のように凝視しながら風が尋ねる。
「いやーわからないです……。たぶん、高嶋ちゃんと私が似てるからじゃないですか?」
「……まあきっとそうね。案外精霊もアンポンタンなとこあるのね」
その言葉に、牛鬼はさっまでのナマケモノにも劣らない気怠さを滲ませていたが一転、凄まじい速度で風の頭に飛びついた。
聞き捨てならなかったのだろう、牛鬼は咀嚼するべしと大口を開けて食らいつく。
「うわぁっ⁉ ちょ! ちょっと! 離れなさいよ!! 悪かった! 私が悪かったからぁっ!!」
しがみついた牛鬼を引き剥がそうとして暴れる風。しかし不注意故に足の小指を机の脚にぶつけてしまい、梅干しよりも皺を深くしながらその場に無様に尻餅をつく。
その様子が夏凛には大受けしたようで、腹を抱えて目尻に涙を滲ませながら指を指す。
「ぷふっ! あははははは!! あー最高! まだ早いけど、これが初笑いでいいわ!」
満足したらしい牛鬼はのろのろと小さな羽を羽ばたかせて風の頭から離れ、友奈の肩に留まった。
「か〜り〜ん〜」
ゆらりと立ち上がった風は『にっこり』と笑みを浮かべながら目尻を拭う夏凛ににじり寄る。
「ちょ、な、なによ……」
不穏な気配につい反射的に身構える。
その判断は正しかった。
心なしか、視線は夏凛のかばんに向いている。そこから仄かに香る、ある食材に狙いを定めてロックオン。
「笑ったな? あんたの煮干しを全部食べてやるー!」
「はああああああ⁉」
『煮干≒命』を貫く夏凛にとって、風の発言は命に関わる大事件だ。
電撃の如きスピードでかばんに手を伸ばして胸元に手繰り寄せる。それを引ったくろうとする風とでもみくちゃになっているところを、樹はため息混じりの息を吐く。
「お姉ちゃん、もう中三なんだから……」
賢妹は黙って見届けることに決めたようだ。
「そうですよ風先輩、煮干しを食べたところできっと、家に山ほどあるでしょうし」
少し内容が違う東郷の指摘が飛ぶ。
と、ここでドアをスライドさせて遅れながら園子が部室に入ってきた。
白いふわふわしたコートに身を包み、より一層園子の雲のような印象を強くする。
「園子、参上だぜ〜!」
そう朗らかに挨拶して振る右手には、なぜか包帯が巻かれている。
「園子さんも……! その手どうしたんですか……⁉」
慌てて駆け寄った樹が心配そうな声で言った。
大きな怪我ではないが、東郷、夏凛、犬吠埼姉妹と続くと自然と予感はしていた。
「んん? ああこれは今朝ポットで火傷しちゃって……えへへ。でも大丈夫だよいっつん。こうすれば……」
患部を隠すように、持参していた枕兼サンチョの口に突っ込む。
「ほら、これで完璧〜。観測されなければ、それはないようなもの。つまり、シュレディンガーの猫なんだぜ〜」
難しい言葉を引っ張り出した園子は、意気揚々といつも通りの明るさで振る舞ってみせる。
……胸が痛い。
友奈は無意識に視線を胸元に落としていた。身体を灼かれるような痛みではなく、もっと深く、痛いもの……精神的な激痛が走る。
ほぼ確定だ。
あのことを伝えようとしたことが間違いだったのだ。
申し訳なさが、友奈をその場からどこか遠くへ行ってしまいたいという悪い願いを助長させる。
「友奈ちゃんは何もなかった?」
今度は聞き逃さなかった。
また同じ繰り返しをしたら怪しまれるかもしれない。
チクチクと絶え間なく刺激する針の痛みを押し殺しながら、掠れ声で答える。
「う、うん。何もなかったよ」
「良かった。友奈ちゃんまで何かあったら、いよいよ神社でお祓いでも考えないといけなくなるわ」
本当は事態は東郷が思っているより大事……だなんて、口が裂けても言えない。
「そうだね……っ」
差し障りのない曖昧な返事をして頑張って作り笑いを顔に貼り付ける。
色彩が失せ、皆の胸元に赤い紋様が浮き上がる時の怖さはまだ肌に染み付いている。
だが、これではいけないというのもよく理解している。このままではいけない。取り返しのつかないことになるかもしれない、と。
勇者部は、もちつもたれつな関係でありたい。
誰かの悩み、苦しみは皆で解決する。
風も、東郷も、そうやってぶつけ合って、分かりあった。
膝の上に乗り移った牛鬼が、風の頭を囓った感触を思い出すように口をもみもみと波打たせている。
そして友奈の視線に気づくと、ゆっくりと顔を垂直に傾けてこちらを見上げた。
そのつぶらな瞳に意志らしきものは感じられないが、なんとなく心配されているような気がした。
今日は心なしか、体調があまり良くない。
室内でも常にコートを着込んでいるのも原因の一つだろうが、明らかにそれだけではない。
自分でも気づかぬ間にぼんやりしてしまうことがある。視界が滲み、音が霞み、次第にそれが気持ちよくすらなり始めてしまうのだ。
瞼を開きながら眠りに入ろうとしている、といったところが的確な表現だろうか。
授業中なんて何度このようなことがあったことか。先生が時々チョークを黒板に力強く押し付ける音がなければ、友奈はずっと上の空だった。
……やっぱり、話すべきなのか?
途端、恐怖がどっと溢れ出す。言った結果、どうなるかが怖い。
でも、もしかしたら皆の不運は本当に偶然で、友奈の精神状態の不安定さがマイナス思考に偏らせようとしているだけかもしれない。
友奈はきっと、難しく考え過ぎなのだ。
勇者部五箇条、そのひとつ。
悩んだら相談。
この悩みを……苦しみを打ち開ければ、絶対に助けてくれる。
それが、勇者部だから!
「風先輩!」
今日初めて出た、張りのある声。
少し自分でも驚く。
「ん? なに友奈?」
ホワイトボードに今日の部活予定を書こうとペンを握る風がこちらを向く。
一度、ごくりと喉を鳴らす。
喉を通ろうとする言の葉を、半ば無理やり押し出してなんとか口から放つ。
「少し、お話があるのであとで時間いいですか?」
これから部活が始まるから、話すのは終わってから。
今日の部活動は、他の部活から友奈に届いた要請以外、特に何もすることがなかった。
当然の如く要請は拒否させてもらい、事務作業をする東郷の隣に用事があるわけでもないが、車椅子を固定する。
カタカタと東郷の靭やかな白い指がキーボードを叩く耳障りの良い音が、部室に静かに響く。
モニターの角を噛む牛鬼を一定の周期で友奈が引き剥がす。
「東郷さんはすごいなぁ」
ふと、そんな感嘆を漏らすと、東郷は柔らかい笑みを浮かべて友奈に向けた。
「そんなことないわ。友奈ちゃんだって、ちゃんと勉強すればこれくらいできるよ」
「ええ〜できるかな〜。……あれだよね、東郷さんって英語とかは嫌いだけど、そういうプログラム? とかはすごくできるんだね」
「うっ……ッ」
どうやら痛いところをついてしまったようだ。
勇者部のブログを更新しているようだが、以前友奈が借りたHTMLを使っているのようだ。しかし友奈の知らないタグをスラスラと打ち込んでいく姿は、まるでできるプログラマーっぽい。
傍から見れば、英語を毛嫌いしている人間とはとても思えない。
「あ〜っと……」
自分の失言を悔いてもすでに遅い。
わなわなと狭い肩を震わせる東郷が、勢いよく立ち上がった。
「ああ、どうしてプログラムは全部英語なのかしら……! ここは日本! ならば、すべて日本語に統一されるべきよ……っ!」
明らかに発作がでている。
壊れたロボットのように激しく頭を振って取り乱す東郷を、友奈は「どうどう」と馬に言うセリフで宥める。やがて平穏を取り戻した東郷は普段通りのお淑やかな口調で平謝りする。
「ごめんなさい友奈ちゃん。私としたことが、つい感情が昂ぶってしまったわ」
「だ、大丈夫だよ。それに東郷さんがいないと、勇者部のデジタル分野は危ないからね。本当に感謝してるんだよ? こんなにいいデザインでホームページを作ってくれて、それに皆の写真も、ほら」
友奈が指差したのは、ホームページのトップ画面。
勇者部の全員がホワイトボードの前で並んだ写真。もちろん先日加入した園子もいる。六人ともとてもいい笑顔で、つい魅入ってしまう。
アクセス数も申し分ないほどで、程よい量の依頼が学校の外から舞い込んできている。
これのおかげで、勇者部は外部との繋がりを得ることができているのだ。
その過程で街の皆と関わる中で、勇者としての自覚を強く持つことができた。だから、バーテックスたちとも戦えて、打ち勝てた。
「楽しい?」
前髪を揺らした東郷に、不意にそう尋ねられる。
難しいことを考える必要はない。皆が揃って、毎日バカをやっているが、そんなのでいいのだ。そんなので、十分に、楽しいのだ。
あの痛みが、あの記憶が徐々に現実感を失っていく。
――あまり引きずり過ぎたら、駄目だよね。
先程の急造の仮面ではない、心からの微笑みを意識して、ようやくなんとか完成させることができた。
それを、東郷に向けた。
「うん、楽しいよ」
すると東郷はどこか安心したような顔で、ゆっくりと腕を友奈の頭に回した。
「ぁ」
ちょっとした驚き混じりの声も、東郷の腕の中に隠れる。
そのまま抱き寄せられ、友奈はされるがままに東郷の柔らかい胸元に頭を擦り寄せた。
人の……暖かい心臓の鼓動がとくん、とくんと顔全体で感じる。その音はキーボードを叩く音なんかよりも遥かに落ち着く。
「たくさんたくさん傷ついたけど。もう、傷つかなくていいからね。私が……私たちが友奈ちゃんを、絶対に守るからね」
そんな無知の言葉が、友奈の心にぐさりと深く突き刺さる。
でも、余計な心配はかけたくない……。
……いや、いいや。
今、東郷が言ったではないか。
助けてくれると。その言葉を、友奈は信じるべきなのだ。
悪いことを……考えていた。
友奈は仲間を信じようと……頼ることを極度に恐れていた。
風が帰ってきたら、ちゃんと話そう。
すごく心配されるし、迷惑もかける。
それでも、友奈は仲間を信じ、頼る。
そう、決めた。
「ただいま〜! っと、oh……」
その部長様はちょうど帰ってきた頃だった。元気いっぱいドアを開けて入ってくるや否や、完全に己の最高とも最悪ともとれるタイミングに、風はその場で数秒だけ呆けてしまう。
「ほほーう、お熱いですなぁ〜」
「ふ、風先輩っ⁉」
東郷が慌てふためきながら、咄嗟に友奈を解放する。
ゆっくりと頭を持ち上げた友奈は、状況を理解すると、みるみる顔が赤くする。今の東郷との一幕はイチャイチャに属するものだときちんと理解できているようだ。それを発見されてしまうのは、やはり恥ずかしい。
「いいのよいいのよ。あんたたちのことだからだいたいわかるし。誰にも言わないから」
そう言いながらやれやれと肩をすくめて中に入ってきた風は、ホワイトボードに書かれた予定を消す。
「すぐに樹も帰ってくるわ。夏凛はもうちょいかかると思う。東郷、皆が帰ってきたら勝手に終わっといてくれる?」
「わかりました。あの……風先輩は?」
「ちょっと友奈とお話よん。恋人借りてくわ〜」
けらけら笑いながら風は友奈の車椅子の後ろに回る。
「押してあげるわ」と言われ、友奈は「ありがとうございます」と速やかに車椅子を固定モードから手動モードに切り替える。
グリップを握り、東郷の隣から引き離される。東郷が少し寂しげな色を浮かべたような気がして、友奈はすかさず口を開いた。
「また明日ね!」
別れの言葉は効果てきめんだったようだ。
一気に晴れた顔になって、東郷もこちらに手を振ってくれた。
そして、風に連れられ、部室を後にした。
恐らく風に車椅子を押してもらうのは、これが初めてだ。
「ごめん友奈。私の押し方、大丈夫? 揺れとかさ」
「全然大丈夫ですよ! すっごく丁寧に押してるの、わかりますよ!」
速度はゆっくりだ。さらに、やや緊張しているのか、グリップ越しに手の震えが背中に伝わる。
それだけで、友奈への気遣いがよく伝わってくる。そういった優しさはお姉ちゃん気質というか、なんというか。
とにかく、大切にされているというのはとても嬉しかった。
廊下を抜けて、校舎裏に出る。
肌寒さは言うまでもなく、赤い夕焼けは、それをかき消すほど煌々と光を放っている。
赤いハイライトを背に、風は友奈の前に回り込んだ。
「んで? 話ってなに? 悩み事?」
「えっと……」
喉が詰まる。ぐっと胸に左手を押し当て、言おうとずっと考えていたセリフを絞りだそうともがく。
が、いざ本番となると、すんなり言葉が出てこない。
「まさか……恋愛相談? いや、それはないか。東郷が怒るし。そもそもあんたたちデキてるし」
「い、いやそんなことは……」
「え〜ホントでござるか〜?」
面白そうに友奈を弄った風は、腕を組みながら身体を振ると、目許を緩めた。
「そんなことより、何。言ってみ」
とても頼もしい言葉が、潤滑油となった。
するりと喉を通り、苦しみを……悩みを打ち明ける。
「実はあの日……スマホを返してもらった日……東郷さんを助けたから、実は、その私が天……!」
それ以上先は、どれだけ勇気があっても、できなかった。
またしても奇怪な現象がやって来る。
色が失せ、何もかもが失せ、風の胸に『あれ』が見えた瞬間、友奈は完全に悟った。
これは、呪詛だ。
言ってはならない呪いの言葉。
凝視する必要なんてない。
そんなことをするまでもなく、風の胸に浮かび上がるあの紋様は、巨大だった。昨日の勇者部全員のものとは比較にならないものだ。
言い……過ぎた、のか……!
目を見開く。
すでに紋様は消え失せている。それは風に呪いが浸透してしまったことを意味していて、友奈は大きく顔を歪めた。
「ん?」
風が不思議そうに友奈の顔を覗き込む。
勇気は急激に萎み、朽ちた。
みるみる顔が青ざめていく友奈は、懸命に続きを誤魔化そうと言葉を探る。
「天……天気を調べて、晴れていればお外でクリスマスパーティーがやりたいなーって……! 園ちゃんも入部したから歓迎会っていうのも含めて……!」
「あーなるほどね〜」
納得顔でうむと風が頷く。
なんとか誤魔化すことには成功したようだ。
「んじゃあさ、ちょうどクリスマスの日に樹のショーがあるから、その後ってのはどうよ。乃木にも協力してもらって、どでかく盛り上げるのもアリかもねー」
こんぐらいでっかいクリスマスケーキを! と風が両腕を限界まで広げて主張する。ついつい食べられないですよー! とツッコみたくなったが、風の胃袋は四次元ポケット並みだ。もしかしたらもしかするかもしれない。
話題を反らすことには成功したようだ。あれこれ構想を出し合っていると、すでに三十分ほど経っていた。さすがにこれ以上外にいると風邪を引きかねないし、風があとで皆に提起するということで一旦落ち着いた。
「それじゃ! 気をつけて帰るのよー!」
そう言い残して風は背中を向けて颯爽と校舎の中へ帰っていった。
その背中を見届けながら、友奈は何度も心の中でごめんなさいと呟く。
この車椅子は電動だから一人で帰ることは問題ない。だから、今日は一人で良かった。
もし誰かと一緒だったら、泣いてしまいそうだったから。
手動モードから電動モードに切り替えると、低いモーター音が唸り始める。友奈は正直、この音はあまり好きではない。
……ふと気づけば牛鬼がいない。スマホの中に閉じこもったのだろうか。最近は常に姿を現しているから、不意にいなくなるのはなんだか慣れない。
水気を失った枯れ葉が、友奈の頬を掠めて飛んでいった。痛みはなかったが、鋭い冷たさが素早く全身に広がった。
この冷たさは、友奈の罪に比べれば何ほどのこともない。
そう、ひたすら自分を責めながら、友奈はレバーを押し倒した。
◆
ああは言ったものの、何から何まで園子に頼るわけにはいかない。
友奈の言う通り、園子の歓迎会も含めてなのだから、当人に用意をさせるのは気が引ける。
スーパーの帰り、前かごにどっさりと食材を詰め込んだ風は自転車を押しながらどう計画するかを思案する。
カラカラと自転車の車輪が回転する音がとてもリズミカルで、そのリズムに合わせて樹が口ずさみ始める。
「良いよ樹ちゃん! とっても綺麗な声だよっ!」
風の後ろで樹の自転車を押す高嶋が、熱血顧問くらいの興奮で樹を褒める。
「いい調子ね。でも寒いからあまりやらないほうがいいわよー。樹のイベント、楽しみにしてるんだからコンディションは最高にしといてもらわないとね」
「もー私のじゃないよ〜。……でも、うん。ありがと」
橋を渡ったところで、風は話題を切り出した。
「そうそう、樹のショーが終わったらそのままクリスマスパーティーがしたいんだけど、どうかしら。高嶋も」
「それはいいですね! でも……いいんですか、風さん? 私、勇者部員じゃないですけど」
高嶋と勇者部との交流は、はっきり言ってあまりない。犬吠埼姉妹とは仲良くなれたが、東郷と夏凛の人柄は正直なところ、掴めていない。
友奈とはある程度は話ができる。
風は後ろを振り向くと、「なーに言ってんの!」と陽気に前置きして、
「勇者部じゃないと参加できないって誰が言ったのよ。それに、部長の私が言ってんのよ? それ以上の理由なんて必要ないわ」
「――――」
高嶋の世界は、この時代に来てからというもの、犬吠埼家の家だけという小さなものだった。そこから広がりを得られるのは、大きなチャンスだ。
すでに形成された勇者部というグループに混じれるかという少し不安な気持ちは否定できないが、きっと大丈夫だろう。
「じゃあ……参加させてもらおうかな」
「よし! そうと来たらさっそく、皆にイベント告知よー! ますます当日が楽しみになってわ〜!」
ちょんちょん、と肩を突かれて高嶋は横に顔を振った。
すると、樹が絶妙な苦笑いを浮かべていた。
「ん? どうしたの樹ちゃん?」
「たぶんお姉ちゃん、クリスマスパーティーという建前でいっぱい食べるつもりなんですよ。それにきっと、年末年始も食べるから、地獄絵図が今からでも想像できるなーって」
「なるほど。じゃあダイエットメニューを今から考えなきゃだね」
「そうなんですよ。手伝ってくれます?」
「もちろんだよ!」
風に聞こえないくらいの声量で同盟を交わすふたり。
風の異次元の胃袋は同棲しているからよく理解している。食いしんぼにとってはビッグイベントであることは間違いない。
そして賢妹の慧眼はすでに姉の未来を見ているという。
なんという完成された姉妹だ。
アパートがそろそろ見えてくる。
歩行者信号が青になり、風が左右をしっかり確認してから自転車を押し始める。
「今日は温かいスープとかにしようか。最近うどんばっかで流石の高嶋も胃が疲れてるんじゃない?」
「告白すると、そうですね……嫌ではないんですけど、口が寂しくなるっていうか……」
「それじゃそうしましょっか。樹もそれでいいわよね?」
「うん、お姉ちゃんの料理なら何でも良いよ」
「樹……樹いいぃぃぃ!!」
後ろ姿だから本当に泣いてるのかわからないが、とても感極まっていることは間違いなさそうだ。
高嶋と樹が苦笑いをする。
その時。
車道を猛スピードで疾走する一台の車が曲がり角から現れた。そのままスピードを落とすことなく交差点に入り込んでくる。
夕焼けの陽にも負けないほど赤い大型車両が、赤信号に遅れて気づき、耳障りなスキール音が鳴らして歩道に突っ込む。
その先には、泣き真似をする風。
音に反応してぱっと顔を傾けるが、すでに車は目と鼻の先だった。
風の瞳孔が極限まで開かれる。
すると、風の端末から犬神が現れた。
風の前に立ちふさがるように前に飛び出し、精霊バリアを張る。
しかし、それでも車の勢いを殺すことは叶わず……もしくは呆気なくバリアが破砕音とともに壊れた。
その異常事態に、風は二重の意味で戦慄する。
バーテックスの攻撃を防げるほどの強度を持つはずの精霊バリアが、こんなにも容易く突破されるなんて、おかしい。
――死。
これが光の速さで脳裏をよぎった。
こんな大きな鉄の塊が猛スピードで接触すれば、絶対に軽症では済まない。
友奈の場合は時速三十キロメートルという法定速度が定められた道路だったから右半身麻痺で済んだ。
だが、明らかにこの車はその倍は出ている。
コンマ秒後に訪れる衝撃に備えて、風の身体が強張る。
そして、ぎゅっと、瞼を強く下ろした。
……しかし、最悪の事態になることはなかった。
風のスマホからさらにもう一体の精霊が現れる。
二体目の精霊……鎌鼬だろうか?
だがシルエットが違う。
鎌鼬は翼なんて背中から生やしていない。
現れたのは、牛鬼だ。風のスマホに潜んでいたのか。友奈と二人きりの時に乗り移ったのか?
なんで⁉ という風の驚きは、牛鬼の展開した精霊バリアによって吹き飛ばされた。
張られたのは犬神のものなんて比にならないほど強靭なバリア。一般的な、半透明なものとは違う、明らかに重みがあり、そこにあるという確かな実体を感じさせるほど存在感が圧倒的だった。
二度目のバリアは、金属を容赦なくひしゃげ、車の頭を正面から押し潰すほど強かった。あれほどスピードを、完全に制動距離をゼロにして停止させた。
「――――っ」
一拍遅れて、風は尻もちをついた。
支えを失った自転車が横に倒れ、前カゴの中に入っていた卵パックの中身がほぼ割れてしまう。
だが、そんなことはどうでもよかった。
「お姉ちゃん!!」
「風さん!!」
ふたりが走り寄ってくる。
樹に抱きしめられても、現実味を帯びない空虚な目で、眼前の車を見る。
小刻みに身体を震わせ、ゆっくりと樹の背中に腕を回す。
そして次に、風の両目に涙が溢れる。
慎重に、慎重に樹の肩に顔を埋めたあと、恐怖を吐き出すために、ありったけの声量で泣き喚いた。
その声に反応して、近くを通りかかった歩行人がぞろぞろ集まってくる。
それでもただひたすらに風は泣き、妹に縋り続けた。
役目を終えた牛鬼は風の無事を確認すると、どこかへ飛び去っていったのを高嶋は見た。
急いで救急車にコールをかけながら、高嶋は上擦った嗚咽をぐっと押し殺す。
――犬吠埼風は、事故に遭わなかった。
もし牛鬼に助けられなかったら、結城チャンは言い過ぎたので風先輩は重症もしくは死亡していました
今回はふりかけのように伏線を散りばめましたが、果たして回収できるのか……
風は事故を回避した
ならば、樹のショーが待ってるぜ!
次はほのぼの回を(たぶん)お約束できるぜ!
不本意だけど! 不 本 意 だ け ど !
それではまた次回!