七人御先高嶋
高嶋の身体を、白くて優しい熱がそっと包み込む。それに身を任せると、瞬く間に勇者装束に変化が現れた。
淡く発光を始め、弾ける。
すると装束は桜色ではなく、純白の長いものへと変わっていた。深紅のラインが走り、被ったフードには魅入るほど美しい彼岸花が咲く。
七人御先、憑依完了。
一目連とはまた違った感覚が全身を巡り、高嶋は深呼吸をすることで落ち着かせた。
右手にはあの人――郡千景の武器である大鎌、大葉刈が収まっていて、ギラリと光沢を放つ凶悪な刃が自己を主張する。
「――来い」
そう低く呟いた瞬間。
高嶋の背後に白い炎を燃え上がらせながら六人の自分自身が現れる。
影分身などではない、正真正銘の高嶋友奈本人だ。
自意識を持ち、言の葉を話し、斬られれば痛む。
パワーアップしたからといって、当然これから立ち向かうバーテックスに勝てるとは思っていない。そもそもそれを想定しているわけではない。
きっと、何度も殺されるだろう。
しかし問題ない。
一人でも生きていればまたすぐに七人へと増える。七という絶対数は保たれ、すべてがほぼ同時に殺さない限り『高嶋』は不死身である。
死ぬのは怖い。正直、この精霊はとてつもなく悪趣味な精霊だと思う。なぜなら死を是としているからだ。
そう考えるだけで頬が強張り、一瞬だけ気の迷いが生じてしまう。死という未知はあまりに恐ろしく、竦んでしまいそうになる。
……でも、同じ心を持った別の自分が必ず後を継いでくれる。『自分』は死ぬが、自分は生きていてくれる。それだけでいい。
まだ高嶋は千景が七人御先を宿して戦う場面を見たことがない。千景も近い将来、この恐怖と戦うことになるのだと思うとやるせなさでいっぱいになった。
それと同時に、千景のことをまたひとつ知ることができたと嬉しくもあった。
だから、いつか千景がこれを使った後は精一杯癒やしてあげようと心の中で固く決意した。
「行くよ」
七人が音も無く飛び立つ。
すぐに分散し、対応が限界となっている風たちに合流する。
「風さん、援護に来ました!」
水瓶座の攻撃を受け流した風は尻目に高嶋の姿を見て「助かるわ!」とだけ短く返そうとしたが、外見の変わりようにギョッとこちらを二度見する。
「何あんたその格好……って、えええええ⁉ あっちにも高嶋……こっちにも高嶋がいるじゃない⁉」
夏凛の援護に向かった者がいれば、野放しになっているバーテックスの足止めに向かう者など、六人がそれぞれで判断して動いている。
戦闘疲れで幻覚を見ているのではと風は何度も目を擦って現実を直視する。
「倒すことはできないですけど、私達が絶対に足止めします。だから、お願いします」
「わ、わかったわ。ありがとね。すごく助かる」
「絶対に生きて勝ちましょう!」
「ええ!」
そう言って改めてバーテックスたちに顔を向けた瞬間、どこからか放たれた射手座の矢が、高嶋の首から上を吹き飛ばした。
◇
「――――ぁ、え?」
あまりに突然のことに、風はその場で四秒ほど動きを止めてしまった。
激しく血色の液体を撒き散らしながら、穿たれた頭部がどこかへ飛んでいった。
そして高嶋の身体が大鎌を落とし、ゆっくりと地面に倒れ込む。首から夥しい量の鮮血を流しながら、ピクピクと痙攣する身体を呆然と見下ろす。
一切の思考が停止し、戦場で肩の力を抜いてしまう。
どう反応すればいいかわからなくて、ただこの絶望を爆発させようと、胸から込み上げる叫びを口から吐き出そうと――。
「――大丈夫です、風さん! 私は死んでません!!」
と、別の高嶋がすぐ隣に着地した。
訳がわからないまま呆ける風を落ち着かせようと、ガチガチに固まった肩を掴む。
「私のはそういう精霊なんです! だから落ち着いてください!」
「いや、でも……」
そう掠れ声で呟きながら側に倒れていた高嶋を視線を落とせば、すでに首無し遺体は灰となって消えていた。
「確かにそこの私は死にましたけど、『私』は死にません! だから安心してください!」
「こんな戦い方で、本当にいいの?」
ここが戦場ということも忘れて風は戦慄を覚えながら問うた。
あの高嶋は紛れもなく本人だった。本人が七人いる。それ自体はとても心強いのだが、七人のそれぞれが自己を持っているというのはあまりに……あまりに残酷すぎる。
「風さんの言いたいことはわかります。でも、西暦の勇者システムは古いので、どうかわかってください。それに私達がほぼ同時に全員やられない限り、私は大丈夫です」
「…………死んでも大丈夫だとしても、なるべく死ぬのは駄目よ。絶対に。わかった?」
風と視線が合わさる。
そこから感じられるのは、憐憫や不安といったマイナス要素ばかりが混ぜられたようなものだった。でも、その中に僅かながら『願い』を見た。
「わかりました」
自分の胸に言い聞かせるように、手を胸に当てながら高嶋は力強く答えた。
水瓶座の水球攻撃が飛んでくる。あの中に捕らわれれば呼吸を奪われ、すぐに殺される。前回、風がこれに捕らわれた時は満開することによって抜け出せていたが、今はそれができない。
すべて飲み干す、なんて子供っぽい考えもなくはないが、それでもとても不可能な量の水だ。
ふたりは一旦後退し、その間に高嶋は他のネームドの牽制に向かう。
夏凛と一緒にもう少しで一体目を撃破しそうな自分自身を一瞥した後、身体の両脇から湾曲して伸びる二本の角が特徴的なバーテックス――牡牛座を睨む。
誰にも邪魔されていないことにつけ上がったのか、いざ参らんと侵攻速度を上げている。
――行かせない!
激しく裾を靡かせながら急接近する。鎌の扱いは千景ほど完璧ではない。しかし、千景が鍛錬していたのを側で見守っていた記憶を呼び起こす。洗練された鎌の捌きに何度見惚れたことか。どう動けば次の動きに繋げられるか。より高い攻撃を繰り出せるか。それを目に……脳に焼き付けている。完全なる再現にまでは至らないが、それでも十分扱えるはずだ。
ブォン、と重々しい音を鳴らして大きく振りかぶる。恐らく角は硬くて容易には切り裂けないはずだ。だから、堂々と真正面から斬りかかる!
「はああああッ!」
牡牛座がその巨体に見合わない反応速度で身体の向きを急転換し、角の方をこちらに向けた。苔に覆われたそれと接触した瞬間、金属板を引き千切る様な耳障りな衝撃音が高嶋を叩きつける。同時に指先から鈍いフィードバックが足先まで伝わり、顔を歪める。
続いて高嶋を敵と認識した牡牛座が、その頭頂部にある黄金の鈴を鳴らした。発生したのは不協和音。さっきの衝撃音とは次元の桁が違う、人が聞いてはならないものだ。
あらゆる動作を停止させられつつ、鎌を手放して両手を耳に当てながら、力を振り絞って牡牛座を蹴り、距離をとる。地面に着地した高嶋は、あともう少しあそこにいたら、鼓膜は破壊され、脳へのダメージは避けられなかったと分析する。
だからといって距離が離れていてもまだ耳をつんざく音は聞こえている。
これでは接近できない。
歯噛みした高嶋の隣を――。
「――私が行きます!」
と、幼さをまだ色濃く残した頼もしい声が通り抜けた。
頭を振れば、短いブロンズヘアを揺らして樹が飛び出していた。牡牛座に右腕を向け、手首のリング状の装備から無数のワイヤーを射出させる。それらは音圧をものともせずに真っ直ぐ進み、ガッチリとその巨躯を絡めとり、一時的に不快音が止んだ。
「くっ、う……ッ! 高嶋さん、鈴を!」
余裕そうな態度を一変させて暴れ始める牡牛座を額に脂汗を滲ませながら樹が抑え込んでいるが、どう見てもあと数秒で小さな身体ごと宙へ投げ出されそうだ。
「わかった!」
掌を開けば、静かに大葉刈が収まる。
根にクモの巣の亀裂を走らせるほど鋭い跳躍とともに、高嶋は牡牛座へ肉迫する。意図を察した牡牛座がありったけの力で拘束から逃れようと足掻くが、「やあああああ!!」と樹の気合で地面に叩き落とす。
そこを、鈴を掲げる植物質の土台を根元から一刀両断した。
その瞬間、ついに樹の拘束から抜け出され、角を振り回して怒りを撒き散らす。
さすがにこれについていけない高嶋は一旦後退して樹の隣に立った。
あとはお願い、と言葉を投げかけようとしたとき、続いて樹は声を張った。
「――友奈さん、お願いします!」
声につい反応を示してしまいそうになった高嶋は喉に上ってきた返事を奥に押し戻した。
なぜなら、自分のすぐ脇から自分自身――いや、違う。友奈が真剣な顔で飛び出したからだ。
戦線復帰を果たした友奈はまだ暴れている座へ向かって勢いよく飛翔する。
「勇者――パアアアアアンチ!!」
友奈の放った拳撃は、牡牛座の堅強な身体を大きく砕いた。致命傷を負ったことによって御霊が露出し、そこを樹の無数のワイヤーが貫通することで撃破が完了した。
◇
空へ砂粒らしき物質が舞い上がるのを見上げる。
どうやら向こうの高嶋は樹、友奈と協力して座の撃破に成功したようだ。それだけで勇者たちの負担は格段に下がる。
すでにここに至るまで高嶋は十一回殺されている。そしてその半数以上はこのネームドによるものだ。
自然と鎌を掴む力が強まる。ぎりりと気難しそうに睨む。
明らかに他のネームドとは異なる威圧感を放ち、大きい巨躯は、絶望の権化を想起させる。死霊に足首を掴まれているような感覚に陥り、空気を貪るように吸う。
四方に伸びる先端。正面に突き出た球体、その両脇に生えている牙が高嶋を嘲笑うかのように上下する。
別にこの挑発に乗ったりする必要はない。そもそもこのバーテックス――獅子座は、高嶋より圧倒的に強い。まず勝ち目がない。酒呑童子の力を宿しても恐らく掠り傷程度しかつけられないだろう。
落ち着け。躍起になってはならない。まだ戦線は安定していない。下手に突撃してこの拮抗状態を悪い方向に崩してはならない。
「たかしーー!!」
遠くからの呼び声が段々近づいてくる。
高嶋をそう呼ぶのはひとりだけだ。
隣に立った槍使いの少女は、普段ののんびりとした様子とは真逆の、剣呑な雰囲気を醸し出している。
「園ちゃん! 戦況はどうなの?」
肩で息をしながら園子は口を開いた。
「なんとか戦線は保ててるよ。いっつんとゆーゆが復帰したから、皆も少しは余裕がある。この調子なら勝てるかもしれない。でもそのためには――」
そう言った園子は、すう、と目を細めて追憶とともに堂々と鎮座する獅子座を見据える。
過去に園子は獅子座と対峙している。
今回の戦闘の第二陣だって、二年前のあの時とまったく同じ展開だ。予想できたはずだ。確かに風は年長で部長であるが、勇者としての経歴は園子の方が上だ。
風の全員満開という提案を安易に推してしまった。
ずきりと胸に小さくも忘れられない痛みが走る。
脳裏に二年前の最終決戦の記憶が蘇る。
圧倒的な数のバーテックスをひとりで倒しきるために、何度も満開を繰り返し、文字通り何度も人間性を捧げた。
何度も。何度も。
しかし今度は満開すらできない。
果たしてその状態で獅子座を撃破できるのか。
もし超火球が発射されたら、今の園子たちに受け止める術は無い。
でも。
それでも。
「――あいつを倒さないとね」
負ければ全てが終わる。
「あいつはすごく強いから、たぶんふたりだけじゃ無理。もう少し人数が欲しいから、全力でここに食い止めて――」
言い終える前に、園子の横にふたりの高嶋が着地した。
「うん、これなら攻勢に出られそう」
三人の高嶋と園子は無言で頷き合うと、勢いよくその場から飛び出した。まず獅子座に自身の命を脅かす的であることを明確に認識させなければならない。これまで高嶋は一方的に遊ばれていた。その遊びで何度も殺されている。
四人に興味を失ったのか、獅子座は身体の向きを変えて神樹の方へと向かっていく。
第一陣では、勇者の力を削ることを目的とし、神樹に目もくれずこちらに突貫してきていた。しかし第二陣は違う。あくまで最優先は神樹に到達することであり、勇者の排除は必要に応じてといった感じだ。
「こっちを向けええぇぇ!」
園子が槍を高くかざすと、穂先が幾つかに複製されて鋭く射出する。それらは一切の回避行動を取らない獅子座の球体部分へと深々とすべてが突き刺さった。
果たしてバーテックスに痛覚があるのかはわからないが、微微ながらもダメージが入ったものの侵攻は止まらない。
獅子座の真正面に三人の高嶋が躍り出る。フードで目元が隠れ、大鎌はこれから魂を刈り取らんと歓喜するかのように、刃先が黒い光沢を放つ。
まさに、死神。
それが三人。
これも防御姿勢をとらない獅子座の球体へと寸分の狂いもなく振り下ろされる。
ガギィン! と硬い音が爆発し、鎌は呆気なく弾かれてしまう。
「ッ!」
硬、すぎる……!
傷とも言えない微小な傷をつけただけに終わる。
高嶋は瞳の奥に驚愕と反抗心を滲ませつつ、一度鎌を手放した。
園子の穂先はまだ刺さったままだ。やはり西暦と神世紀の勇者では根本的な戦力に大きな差がある。穂先を階段として駆け上がりながら、三人の高嶋は拳に力を込めた。
「勇者――パアアアアアンチ!!」
またしても硬い感触。
豆腐でダイヤモンドを殴っているような感覚だ。
でも!
一度で無理なら、何度でも!
六つの拳が振りあげられる。赤い手甲が煌き、赤い流星の如き速度で拳撃を打ち込む。
拳の嵐。
激しい打撃音が地表にいる園子の身体を叩く。
それでも獅子座へのダメージは少し球体が凹んだだけで、まだ反撃もされない。
完全に道端に転がる虫けらのような扱いをされている気分だ。
カッと熱くなった高嶋は渾身の一撃を繰り出そうと血が滲むほど拳を固く握りしめたが、そこで行動は終わってしまった。
突然、獅子座の後部にある棘の生えた巨大な輪が左右真っ二つに分断される。その間には赤いマグマのような空間が生成されていて、高嶋は警戒しながら様子を窺う。
現れたのは赤く発光する雑魚敵の群れだった。このような攻撃手段は初めてだ。……いや、これは高嶋への攻撃などではなく、ただの増殖行為に過ぎないのかもしれない。
すぐさま高嶋へと殺到する雑魚敵を回避、もしくは迎撃しながら距離を取り、地面に着地した。
すると間もなく園子が走ってきた。
「ネームドはもう五体倒せたらしいよ! たかしーのおかげで、このままならいけるかもしれない!」
希望を見出し始めた園子は煤だらけの顔を緩めながらそう言った。
しかし高嶋の表情は険しいままだ。
「でもあのバーテックス、勝てるの? 私じゃ無理だけど、園ちゃんでも難しいと思う」
「わからない。私もあれと戦った時は満開してたから……通常装備で勝てるかはわからない。でも、あとひとりかふたりほどいたらいけると思う」
「……待てる?」
そう短く訊いた言葉の意味は、それまでこの強大な敵を食い止められるかというものだ。
確かにあと数人勇者がいれば獅子座は倒せるかもしれない。しかしそれは、獅子座を高嶋と園子でこの場に縫い付けることができればという前提の上で成り立つ。
ネームドの数は減らせているが、まだ防衛線が解消されたわけではない。さらには雑魚敵だっている。後方で狙撃体制を長時間維持している東郷の精密な射撃と、樹のワイヤーによる広範囲捕縛がなければ対応がまるで間に合わないのだ。
分散している四人の高嶋も、死亡もしくは致命傷を受ければ自動的に消滅し、新たな高嶋が抽出されている。精神の摩耗は正直なところ、激しい。
別に感覚のすべてを共有しているわけではないが、消滅した――濁した表現だからもっと直接的な表現をすると、殺された高嶋の想いや残滓などといったものが僅かながら、流れ込んでくるのだ。
ああ、まただ。
何度も自分自身に託される。
それらの数だけ高嶋の心は強くなる。意志は固まり、より強固になる。託された願いを無為にしないためにも、この戦いには必ず勝たなければならない。
獅子座の侵攻は止まらない。あともう少し進めば、戦線が崩壊する。それはあちらも気づいているだろう。必死に迎撃を続ける勇者たちを見下す絶対的強者のように、その場で移動を停止させた。
「止まった……?」
高嶋はチャンスだと素早く判断し、鎌を握って三人同時に飛び出した。
しかしその全員が一瞬にして蒸発した。
「たかしーーッ!!」
現れるは、太陽を思わせる巨大な火球。
獅子座の前方へ熱が収束し、プロミネンスが噴き出す。
距離が離れているのに、ここまで届く熱が園子の睫毛をチリチリと灼く。
恐れていた事態だ。
今の勇者たちにあれを食い止められるとは考えにくい。放たれれば、終わり。樹海の地面を根こそぎ燃やし尽くされ、神樹への一本道ができてしまうだろう。
新たに現れた高嶋が園子の傍らに降り立ち、戦慄したまま獅子座を見上げる。
「やられた……! あれでまだ攻撃ですらないなんてッ!」
「ああ……あれは……マズイね。うん。すごーくマズイ」
恐らく勇者全員が束になれば、ギリギリ受け止められるかもしれない。しかしそれは絶対にできない。もし敵が獅子座だけならばこの選択肢を迷うことなく採用していた。
勇者たちが一点集中している間に他のネームドの牽制がなくなってしまう。
いじらしい攻撃だ。しかも、それを勝機を見出し始めた今にするというのが非常に厄介だ。
「――園ちゃんは誰か呼んできて」
「え?」
それは、思いもしないお願いだった。
つい呆けた返事をした園子を無視して言葉を続ける。
「私があれを受け止める。その間に、誰かと一緒に瞬間火力で倒して」
「何言ってるのたかしー! そんなの無理だよ! ひとりで――」
「『私達』で、食い止める」
強い決意の漲った宣言は、これ以上園子の追及を受け入れないとばかりにピシャリと締め切った。
来い、と高嶋が呟くと、その背後に六人の自身が出現する。
七人の高嶋は堂々たる歩行で前に進み、火球を睨み上げた。極限まで巨大化した火球が発射されるまでは、あと数秒後だろう。
明らかにキャパシティを上回っている。いくら不死身だといっても、この膨大な熱量を直に受け止めて無事でいられるはずがない。数回だとかそんなレベルではない。何十回も死を重ねることになる。
そんな酷いことをさせるわけには――。
「行って!」
という叫びと、火球が発射されたのは全くの同時だった。
有無を言わせない高嶋の命令に、園子の身体は勝手に動き出していた。
園子を見届けた高嶋たちは、股を大きく開き、迫る太陽を受け止めるべく両腕を前に突き出し、吼える。
「絶ッッッッ対に受け止める!!!」
接触。
瞬間。
高嶋の数人が熱に耐えきれずにその肉体を蒸発させる。そして熱だけではない。勢いも殺さなければならない。
大きく後ろへと押される過程で、脚の肉がぐちゃぐちゃに潰れ、剥き出しになった骨で根に突き立てででも、高嶋たちはなお受け止め続ける。
「ォ、ォ、ォォオオオオオオオオ――……ッ!!」
死んで。
死んで。
死んで。
すぐさま抽出される自分が死へと身を投げる。
顔面が灼かれ、皮膚が爛れて眼球が干からびようとも、最後の一瞬まで力を振り絞る。
地獄の時間は続く。
もう何度殺されたのかもわからない。
魂が擦り切れ、ふっ、と全身から力が抜けそうになる。
いや、まだだ!!
皮膚の下の筋肉組織を剥き出しになった高嶋は己に喝を入れ直した。
ここで負けることは許されない!
西暦の自分が命がけで繋いだ人の歴史!
それを、こんなところで終わらせてはいけない!
ギリリ、歯を食いしばると、炭化した歯の一部が呆気なくボロボロと崩れる。
少しだけ火球の勢いが弱まってきているような気がする。
でも、高嶋の死のペースは落ち着かない。それどころか、消失と抽出のバランスが保てていない。消失のほうが幾分か上だ。
保険として一人だけこの場から離れさせるか?
否!
これは、高嶋のすべてを用いて食い止めなければならない。妥協は、一片たりともしてはいけない。
腰の骨が砕け、バランスが崩れ、一気に炎に包まれる。
それを尻目にいよいよ本当に危うくなってきた消失のペースに危機感を覚える。初めは七人だったのに、今では三人しかいない。抽出のスピードがまるで間に合っていない。
このままでは――!
その時。
ノイズの走る視界に、ちらりと長い黒髪が映り込んだ。
「――――」
身体中の水分をほとんど消失した高嶋の口はひび割れ、音を発することができなかった。
続いて他の高嶋のもとへも、プログラムコードのような文字列が螺旋状に降り注ぎ、それが高嶋と同じ装束を身に纏う少女となった。
白いフードに顔が隠れてよく見えないが、これが誰だなんて考える必要もなかった。
――負けないで。
ポン、と肩に優しく手が乗せられる。たったそれだけで、無限の力が湧いたような気がした。
火球の暴力的な熱とは違った、仄かに心に届く安らかな熱が全身を巡り、あらゆる傷が回復する。同時に人影が高嶋の前に立ち、火球の熱を完全にカットする。
抽出の均衡が保たれる。
一気に七人……いや、十四人へと増えた、七人御先を宿した少女たちが今一度受け止めんと目を剥いた。
勢いはほとんど殺せている。
あとは。
両手を広げ、鎌を持つ。
十四人が持つ、十四の鎌。
それぞれの高嶋が隣の少女へと微笑みかけ、鎌を振るう。
そして、火球はあっという間に細切れにされ、樹海全体を激しく叩きつける爆発となった。
視界が開け、倦怠感に襲われつつも前方の獅子座を見据える。どうやら園子は夏凛を呼ぶことができたようだ。ふたりが縦横無尽に獅子座を翻弄し、最終的に撃破したのを見て、もう七人御先の力を借りる必要はないと、憑依を解除する。
「……ありがとう、ぐんちゃん」
と囁く。
感謝を告げられた千景は優しい笑顔を向け、光の残滓となって消えていった。
残るネームドは……三体。
それらは園子たちに任せればいいだろう。
まだ戦いは終わっていない。
東郷の応援に向かうべく、高嶋は呼吸を落ち着かせて飛ぶ。
雑魚敵の掃討だ。そのためには、数の力も悪くはないが、確実に敵を屠る圧倒的な火力が必要だ。
だからこそ、選ぶ精霊は――。
神樹の概念記録にアクセス。
該当精霊、ヒット。
現在、酒呑童子は凍結中。
よって憑依不可。
牛鬼による絶対権限の行使。
凍結解除。
さらに牛鬼によるフィルタリングにより、憑依時に発生する魂の穢れを浄化。
憑依、実行。
「――来い、酒呑童子!」
鬼の力を我が物に。
両腕の手甲が巨大化し、より凶悪に、掠っただけでも容易に切り裂けそうな切れ味の爪が伸びる。
象徴的な鬼の角が頭部に現れる。
「グ……!」
脳の奥で赤い爆発が起こる。
三つもの精霊を連続して憑依させるのは無理があったか。体力も限界に近い。告白すると、あまりの疲労に四肢がうまく動かせない。
でも戦う。
戦う意志があり、守らなければならないものがある。
それ以上の理由は、いらない!
敵の群れへと突っ込み、鬼の拳を振り下ろす。
完全な奇襲となった高嶋の一撃は、多くの敵を巻き込んで破壊する。
ようやく高嶋を認識した敵が殺到する。それらを回避し、あるいは手甲で受け止めながらすべてを受け流し、カウンターを入れて殲滅する。
しだいに四肢の感覚が薄れてきたところに、敵の体当たりを受けてしまう。
「あがッ!」
隙を晒した高嶋を喰らおうと敵が押し寄せる。それらの何体かは東郷の狙撃によって落とせたが、残りは白い歯を見せつけながら肉迫する。
爪に齧られて先端が折れる。頭を激しく打ち付けられ、一瞬意識が飛ぶ。
半ばヤケクソになりながら放った拳は大きく口に咥えられる。そのまま噛み砕かんとギギギと不穏な音を軋ませるが、もう片方の拳を突っ込み、顎を砕き、口を裂いて投げ捨てる。
距離を取った高嶋の姿は満身創痍で、今にも倒れてしまいそうだ。
しかし鬼を宿した瞳に戦意の衰えはなく。
また竦みも一切無い。
これこそが、初代勇者!
初代勇者、高嶋友奈!
「私の屍を越えて――」
いや、違う。
かぶりを振る。
ここから先は何があっても通してはならない。それこそ、たとえ死のうとも。
だからここで放つべき言葉はこれではない。
爪を見せびらかすように前に差し出す。目を極限まで開き、気迫だけで敵を殺さんと睨む。
そして。
「死 ん で も こ こ は 通 さ な い !!」
と、魂の雄叫びを上げた。
ヘイトは完全に高嶋に向いた。残る数十体の敵が一斉に押し寄せる。東郷の狙撃にあまり期待してはいけない。動き回る高嶋に誤射してしまいかねないため、確実な場合しか撃ってはくれないはずだ。
砕いて。割って。壊して。
この時だけは、あらゆるものを破壊する悪鬼となろう!
獣のように四肢を使って素早く動き回り、背後を向けた敵に爪を振り下ろして切り裂く。
「私は!」
拳! 爪! 拳! 爪! 拳!爪!
「初代勇者、高嶋友奈だああああああああああああああッ!!!」
恐れをなせ!
我が鬼の力の前に、その命を差し出せ!!
三百年前から送られてきた、この積年の意志を受け取れ――!
拳が割れる。肉が裂け、皮膚を突き破って中手骨がむき出しになる。血液の霧を散らせ、目も眩むような激痛に顔を歪める。
しかして手甲は未だ健在! ならば、まだまだ戦える!
とうに四肢の感覚なんて消え去った。腕の骨が折れているのかすら分からない。
両手の指も、何本かはただの肉塊に成り果てている。
でも動かす!
意識が白黒する。
腹部に敵の体当たりが命中し、ドス黒い血を口から大量に吐き出しながら地に倒れる。
視界は赤く染まり、心臓の鼓動が弱まってきていると自覚する。
だがまだ死んでいない。
……酒呑童子は大の酒好きだったという。そこに付入られ、鬼の力を封じる神酒を飲まされ、気を緩めたところで首を刎ねられたと言い伝えられている。しかしそれだけでは死なず、首だけになっても最後の命を振り絞って刎ねた人間に喰らいついた。
だから! 高嶋友奈も、この程度で終わるわけがない!
ごぷり、と口の端から血の泡を噴き出しながら立ち上がろうと――。
――どこからか飛来した矢が、高嶋の太腿を深く貫いた。
「あ、ぐ……ッ!」
この矢は……友奈を殺そうとしたあのバーテックスのものか!!
体制を崩す。
そこを、一体の敵が大口を開けて迫った。東郷の狙撃を食らっても、絶対に食い殺すとばかりに動きは止まらなかった。
右の肩口に喰らいつかれる。完全に右腕が敵の口内に収まり、戦慄を覚える間もなく、ガリッ! と上下の歯が合わせられた。血に濡れた装束を引き裂き、腕の肉に食い込む。そのまま呆気なく骨へと到達し、軽くて乾いた音が響いた。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッッ!!」
すべての痛みを超越した痛み。
空を仰ぎ、口が裂けそうなほど限界まで開けて絶叫する。
涙か血なのかわからない液体を流しながら視線を落として睨みつける。その間にも他の敵が高嶋の背後を通り抜けようとしている。
ダメだ。東郷に近づけさせるわけにはいかない。遠距離特化の東郷に近接戦闘は極めて危険だ。
死んでも通さないと……言ったはず!!
「ガアアアアあああッ!!」
強引に腕を引き抜く。肉がブチブチと千切れる不快な音が鳴り、ついに砕けた上腕骨を突き出したまま引き抜くことに成功する。
右腕はお前にくれてやる!
左の拳で頭部を掴み、握り潰す。
腹の中から自分右腕を取り出し、最も前に進んでいる敵へと投げつける。
もう人間らしい移動方法すらできない。わからなくなってしまった。三本の手足を使い、獣よりも醜い動きで残る敵に迫る。
攻撃も出鱈目だ。
爪で貫き、それを振り回して周りを巻き込み、確実に屠る。
手を広げて地面に叩きつけ、喰らいつく。
その行動に意味はないが、理性を捨てた、本能にのみ従った生物の原初的行動なのかもしれない。
いつしか敵はすべていなくなっていて、高嶋は己の勝利を悟った。
「…………」
もう、喜ぶ元気すらなかった。
ただ、感傷に浸るくらいしかできない。
恐ろしい速度で血が流れる。これを止める手段もない。
びちゃりと血の海に倒れ込んだ高嶋は、死の予感を自覚しながら、ゆっくり、ゆっくりと瞼を下ろした。
◆
東郷は左肩と耳の間にスマホを挟みながら通話を試みた。戦闘中であることは承知しているが、最優先で伝えなければならないことがあるからだ。焦りが汗に滲む。
スコープを覗けば、今ちょうど園子と夏凛が射手座を仕留めたところだ。残るのはあと蠍座だけ。
全体を俯瞰し、蠍座以外いないことを念の為確認した。
『どうしたの東郷』
出たのは風だ。
出てくれたことに安堵しながら東郷は口早に報告した。
『高嶋さんが重症を負っています! 赤嶺さんも!』
高嶋は今の今まで援護していたから状況はわかっている。赤嶺の状態も確認済みだ。
ふたりとも決して楽観視できる傷ではない。どう見ても命に関わるものだ。一刻も早く病院に届けなければ……死ぬ。
『わかった。こっちはある程度余裕があるから乃木と夏凛に行かせるわ。蠍座は私と樹で倒しておく。あんたは友奈と合流して索敵。もしバーテックスがいなければ私達に合流して』
『わかりました』
そういえばさっきから友奈の姿が見えない。
戦闘していれば簡単に発見できるが、そういった様子はない。
スコープでの視認はさっさと諦めて勇者アプリでの位置情報で探る。友奈のタグは北東百メートル辺りにいることを確認して、大まかな目安を定めてもう一度スコープを覗く。
すると友奈の姿を確かに確認した。
しかしなんだか様子がおかしい。その場に倒れて身悶えしている。苦しんでいるようにも……見える?
別にダメージを受けた形跡は見られない。だが何かがあったのは確かだ。
ライフルを消し、大急ぎで友奈のもとへと駆けつける。
やはり流血などはしていないが、どう見ても苦しんでいる。
「どうしたの友奈ちゃん⁉」
返事はない。
ただうめき声を漏らすだけで、まともな反応を返してくれない。
なるべく身体を揺さぶらないように上半身を抱き上げ、もう一度声をかける。
「どこか痛いの?」
それでも反応はない。しかし小刻みに震わせながら手を胸の上に乗せている。
胸に何か怪我をしたのか?
東郷は友奈の胸部装甲をずらし、その正体を探ろうとした。白い装束をぺらりとめくり、目に飛び込んできたものに、思わず喉の奥が詰まったような不快感に襲われる。
「――――、ぇ?」
現れたのは歪な赤い紋様。それは現在進行形で友奈の身体を蝕み、侵食を広げている。
この紋様……見たことがある。
あらゆる情報が脳内で交差し、ある予想へと導かれる。
でもそれを到底受け入れられるはずもなく。
「なに……これ」
と、掠れ声で呟くことしかできなかった。
◆
蠍座の最も警戒しなければならないのは、尻尾の先の針だ。あれに触れられると、幾つも繋がって尻尾となっている球体タンクに貯蔵されている毒が付与されるからだ。
大剣で針による突き刺し攻撃を受け流しながら風は叫んだ。
剣から両腕に伝わる強烈な反動が、肘、片方から背骨にまで突き抜ける。
「樹!」
「うん!」
風の背後から横に飛び出した樹がワイヤーを射出して蠍座を拘束。そのまま大きく放物線を描いて地面に叩きつけた。
「ナイス樹!」
第二陣のネームドは第一陣より強い。
それは風も樹もわかっている。反応速度や耐久力が底上げされ、驚異が増している。たとえ最後だろうと油断は決して許されない。
針を振り回し、ワイヤーを断ち切って高速から逃れた蠍座は再び風たちに立ち向かう。今の動きをとっても振り回す速度は格段に早い。
「東郷と友奈は……まだか」
流石にもう合流したと思われるが、予想より少し遅い。園子には高嶋、夏凛には赤嶺の介抱を指示してある。
溜まった疲労を吐き出すように息をつくと、大剣の柄を握り直した。
「お姉ちゃん……どうする?」
樹がやや不安げな面持ちで尋ねてくる。
「ホントは東郷と友奈を待ったほうが確実だけど……あいつらも疲れてきたでしょうから、ここは私達で倒そう。樹、いける?」
「もちろん。お姉ちゃんについていくよ!」
「嬉しいこと言ってくれるわね!」
大剣を右肩に担いで、風は地面を蹴り上げて蠍座へと一気に接近する。懐に入るのを許そうとしない針の攻撃が迫るが、既のところで板状に変形させたワイヤーがそれを弾いた。
サンキュー樹! と心の中で感謝を口にしながら大剣を地面に平行に構える。狙うのは三本の腕でバカでかいタンクを抱えている下半身だ。
「せあああああああッ!」
一条の線がチン、と走る。
一拍置いて腕が一本切り落とされる。さらに根の側面に着地した風は肘を曲げ、バネの要領で再び飛翔し、さらに腕を一本切り落としてみせた。
支えを失ったタンクは、その中身を零しながら地面へ落としてしまう。
大きく身体のバランスを崩した蠍座が、傾いた姿勢のままでよろよろと浮遊しながら風と樹に接近してくる。その間にも自己修復は始まっていて、赤い閃光を弾けさせながら腕のシルエットを伸ばし始めている。
それまでに仕留める!
「チャンスよ!」
風は獰猛極まる雄叫びを上げ、鋭い眼光を宿しながら最後の一撃を放とうと足に力を入れた。
――第二陣のバーテックスは、第一陣より強い。
だから、この蠍座の弱々しい動きがブラフであることを見抜けなかった。
突然、蠍座の姿勢が正常に戻った。さっきまでの傷が嘘だったかのような、緩急の差に風は反応できなかった。素早く接近した蠍座が目にも止まらぬ速度で地面を根こそぎ穿ちながら横に薙ぎ払いを放つ。
驚きに喘ぐことすらできない風の背中を、樹のワイヤーが遥か上空へと投げ上げた。
「――お姉ちゃん!!」
風の身体はそのまま蠍座の頭上へ落下する。
超正確な投げ上げに感謝しながら風は大剣を上段に構え、今度こそ雄叫びを上げて振り下ろした。
「これで終われえええええぇぇぇッッ!!」
落下のエネルギーが加算された風の一撃は、蠍座の身体を一刀両断した。タンクの毒を浴びてしまわないように距離を取りつつ、きちんと撃破されたことを確認する。
荒くなっていた呼吸を落ち着かせるべく、深呼吸を繰り返しつつも確実に蠍座の姿が見えなくなるまで視線を変えないまま後ろに下がる。
これで敵はすべて倒した。
今回のMVPは間違いなく高嶋だろう。どういう理屈なのかは知らないが、七人になったことで戦線の維持ができた。さらに獅子座の相手までもしてみせた。
初代勇者の底力を見せつけられた。
そしてもちろん、樹もだ。
さっきの一撃、樹の咄嗟の行動がなければまともにダメージを食らってしまっていただろう。
「助かったわ、樹。ありがとう」
風のすぐ後ろにいる樹に話しかけた。
しかし返事がなかった。
……と、ちょうどいいタイミングで園子に夏凛、東郷と友奈が戻ってきた。確かに園子と夏凛におぶられている高嶋と赤嶺は重症だった。ふたりとも、腕がない。
友奈も東郷におぶられているが……特にこれといった傷は見受けられない。
ああ、確かに三人の友奈のことは決して無視できないが、樹の返事がないのが気になる。
園子が死んだ顔でこちらを見ている。
夏凛が呆然と立ち尽くしながらこちらを見ている。
東郷が口を小さく開け、悲痛に顔を歪ませながらこちらを見ている。
「どうしたのよあんたたち。そんな顔して。今すぐ病院に友奈ズを病院に連れて行くのよ。ほら、樹も」
再び呼びかけるが、それでも返事はなかった。
そして気づく。三人は風を見ているのではない。風の足元を見ているのだ。
その視線に導かれるがままに、目元を下ろしてそこを見る。
そこに確かに樹がいた。
地面に倒れていた。
仰向けで。
でも、
なぜか、
樹の下半身が無かった。
「……樹?」
よく、状況がわからなかった。
今更ながら靴先に赤い何かが付着していることに気づく。
「――ぁ?」
夥しい量の血が池を作っていた。
鼻につく血の匂い。
それでもなお、風は樹に語りかけた。
「ほら樹……立って。今から友奈たちを病院に届けて、それで……おいしい料理をいっぱい御馳走するって……約束したじゃない。樹にあげた髪飾り、まだ一回しか飾ってるの見たことないんだからお姉ちゃんにもっと見せなさいよ。だからほら……立って。帰るわよ」
「風先輩……!」
東郷が顔をくしゃくしゃにしながら風の名を呼ぶ。
……厳密には、何が起こったのか風は頭では理解している。蠍座の薙ぎ払いが迫った時、樹は風のすぐ側にいた。だから風の緊急離脱を可能にさせることができたのだ。
でも樹自身は?
風を投げ上げるのが精いっぱいで。
自分の位置はそのままで。
逃げることができずに。
樹の虚ろな目がゆっくりと動いた。その目元には涙の痕があった。
風と目が合う。
樹の唇が動く。
「よかっ……たぁ……」
そう言って安心したように頬を綻ばせ、ほっと息を吐いた。
そしてごぷ、と血を吐き出して。
ゆっくり、ゆっくりと瞳から生の光が失われた。
樹が死んだ。