結城友奈は勇者ではない   作:mn_ver2

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前回のあらすじ
・戦闘に勝利
【友奈】天の神の祟り+神の呪縛が発動
【高嶋】右腕断裂により重傷
【赤嶺】左肘切断。内臓損傷の重傷
【夏凛】軽傷。精神的ダメージ大
【園子】軽傷。精神的ダメージ特大
【東郷】軽傷。精神的ダメージ特大
【樹】風を庇って下半身断裂により殉死
【風】軽傷。精神的ダメージ超絶特大

・征矢に謀反の可能性あり
・牛鬼の消失により、大満開の可能性――絶望的
・高嶋、手甲と大葉刈を入手


生きて

 けたましい警報が鳴り響いたのは突然のことだった。

 樹海化の予兆があり、勇者たちのスマホに警報を発していたことを男は知っている。

 別に男は樹海化に伴う勇者たち以外に対する時間停止の措置の例外というわけでもない。だから、いつの間にか勇者たちの戦闘は終わっている。もし刹那の先に無が訪れたのならば、それは勇者たちの敗北を意味する。

 だからこそ、生きているということは、戦闘に勝ったという証拠に他ならない。

 男の管理する部屋は大赦の中でも特に秘匿されている秘密の部屋。この警報はこの部屋と、上層部にしか伝わらない。

 さっさと警報を切った男の傍らで、汚い作業台の上の、散らばった作業道具の中から内線電話が鳴った。

 やはり整理整頓は大事だな、と痛感しながら道具をかき分け、受話器を耳に当てた。

 

「ええ。……はい。今のは誤報です。恐らく樹海化によって何らかのセンサーが反応してしまったのでしょう。申し訳ありません。こちらで調査し、二度と起こらないように善処したします」

 

 ……確かに、この警報はもう二度と鳴らない。

 定型文のような謝罪を口にした男は、相手のこれ以上の追及に取り合わないとばかりに通話をこちらから切った。

 高嶋友奈と赤嶺友奈の来訪により生じた、本来ならあり得ないバーテックスの襲来。具体的には、力のある『友奈』が三人も存在していることに憤慨した、天の神による粛清だ。

 そして、これに勝利を収めた。

 それ事態はとても素晴らしいことだ。世界を守るという御役目を立派に果たしてくれた。しかしながら天の神の怒りは今頃最高潮に達しているかもしれない。

 そうであるか否かは――。

 こつん、こつん、と軽いながら存在感を放つ足音が背後から近づく。

 男は振り向くことなく、作業台の整理をしながら足音の主に声をかけた。

 

「おかえり。どうだった?」

 

 すると足音は男のすぐ後ろでぴたりと止まった。そしてすぐ脇にある錆びたパイプ椅子に腰を下ろし、熱っぽい吐息を吐いた。

 

「駄目だった。高嶋友奈は一度殺せたが、牛鬼に蘇生させられた。赤嶺友奈との一騎打ちにも負けた。……ああ、認めよう。完敗だ」

 

「なんだって?」

 

 想定とは真反対の戦闘結果に、眉をぴくりと動かした男はようやく振り向く。

 するとそこには、腹部に大きく斜めに走る斬撃の跡が痛々しく刻まれている征矢の姿があった。

 そんな馬鹿な。

 男は仮面の裏で短く喘いだ。

 征矢の戦闘力は遥かに高い。神世紀の勇者たちより少し強いくらいだ。さすがに満開されると敵わないが、まだ勇者システムの発展しきっていない時代のふたりならば容易に処分できるはず。

 男は訝しみながら問うた。

 

「手を抜いたか? 赤嶺友奈」

 

「その名で私を呼ぶな」

 

 凍てつく殺意を乗せられた眼力に、すぐさま男は手を抜いたわけではないと理解した。

 

「……傷は深そうだな。一旦器を変えるために死んだほうがいいんじゃないか?」

 

 赤嶺友奈に征矢は弱いと思い込ませるために、わざわざ弱った器で殺されに行ったのは稀なことだ。

 そもそも征矢の運用方法としては、多少の傷ならば治療すればいいが、後に響く傷なら捨て、神樹から抽出される新たな器に乗り換える。

 だからこそ不思議だ。

 なぜ征矢は赤嶺友奈に勝てなかったのか。

 間違いなく両者の間には天と地の差ほどの戦力差がある。それに征矢にとって、赤嶺友奈は過去の自分だ。しかしながら異世界の自分でもあることはわかっているはず。

 ならそこで葛藤が生まれるはずがない。

 葛藤なんて人間らしいことは許されない。

 それが征矢だ。

 人間を捨て、四国という閉塞した鳥籠の中での平和と安寧を維持するための歯車、機構。

 

「いや……このままでいい。一応軽く手当はしたが、まだ曖昧だ。だから『整備』を頼む」

 

 このままでいい?

 男は装束を脱いで上半身だけ裸体を晒した征矢の身体を見ながら呆然とする。

 明らかに征矢に何らかの変化が起こっている。はっきり言って男にとってどうでもいいことだが、なかなか興味深いことではある。

『整備』をするべく男は汚れた手を流し台で綺麗にしてから棚から医療用バッグ下ろし、征矢の前にふたつめのパイプ椅子を置いて座った。

 ガーゼはすでにドス黒く染まっていて、流血も完全には止められていない。

 つう、と小麦色の腹に血が伝うのを尻目に男はガーゼを一気にすべて剥ぎ取った。

 

「ッ」

 

 一瞬だけ口を歪めるが、すぐさま仏頂面に戻る。

 征矢は人間ではない。備品だ。

 だから治療ではなく整備という。

 姿形は少女そのものだが、その裸体に男の情欲が刺激されることはない。人間ではないのだから。

 

「内臓は?」

 

「たぶん、肺と心臓。そこまで深くはないはずだ」

 

「念の為確認させてもらう」

 

 ぱっくり割れた傷から腹の中に手を突っ込み、なるべく丁寧に探る。肋骨に触れないように細心の注意を払いながら、目標の臓器に指先が触れる。

 征矢の口元から血が滴るが、気にせずにチェックする。

 

「……ああ、もう自然治癒が始まってる。放っておけばだいたいは治るだろう。手術になったらさすがに私の専門外だからな」

 

 手を引き抜いた男は最後に征矢の腹を手早く縫合した。

 赤く濡れた手を洗いながら、歴代の勇者たちの武具がある保管庫へと続くドアへと視線をやる。さっきの警報は間違いなく武具の喪失によるものだ。

 まだ上には悟られていないが、早いうちに偽物をセットしておく必要がありそうだ。

 では喪失したのは何か。

 それは言うまでもなく初代勇者、高嶋友奈の手甲だ。

 今回の侵攻は間違いなく発生すると男にはわかっていた。ふたりの友奈がこの世界、この時代に現れたことを大赦が認知した瞬間からわかっていた。

 だからそのために備えた。

 高嶋友奈に最高な状態の手甲を使ってほしいから。これは男の鍛冶師としての願いであり、意地でもある。

 

「――まだ、時は来ていない」

 

 男は独り言を漏らし、怪我人だとはまるで思えないほど平然と歩き回る征矢を観察する。

 ちょこちょこと征矢専用に用意された武具を手にとっては感触を確かめ、また別のものへと目移りさせる。まるでおもちゃ屋に来てはしゃぐ子供のようだ。

 

「お前は私を責めないのか?」

 

 男の問いに、手甲のレプリカを腕にはめようとしていた征矢の動きが止まる。

 

「高嶋友奈のために動いていた私を、責めないのか?」

 

 すると征矢は怒りを見せることなくすらすらと答える。

 

「責める必要なんてない。お前はお前のやるできことをやった。高嶋友奈も同じだ。お前の仕事は武具の保管と私の側付き……寧ろ忠実にこなしているではないか」

 

「その結果、お前は失敗した」

 

「…………」

 

 失敗。

 それは征矢にとってはあまり重い言葉ではない。失敗しても、次があるからだ。ボロのきた器だと殺されることはある。しかし命ある限り……命を失っても御役目は継続する。だから征矢に失敗という言葉は存在するが、それはただの経過に過ぎず、最終的には必ず成功する。

 

「樹海化のどさくさに紛れた奇襲は失敗に終わった。これで勇者様たちも警戒を強めるはず。次はそう簡単にはできないぞ」

 

「その通りだな。だから私は、ふたりを見極めることにする」

 

「――は?」

 

 とても征矢の口から出ない言葉に呆けた声を零した。

 そんな男を無視して征矢は踵を返し、保管庫へのドアのロックをあっさり顔パスした。そして悠々たる足取りで地下へと降りていく。

 その後ろに続いて男は保管庫へと入る。階段を降り、霊的な封印の施されている柱たちが地中に沈み、静かに佇むモノリスたちが姿を見せる。

 生のない無機物のはずなのに、放つ威圧感は覇者のそれに近しい。本能による危険を刺激する、剣呑な雰囲気がふたりを出迎える。

 それをものともせずにすたすたと歩き、ふたりは空白となったモノリスの前座の前に立つ。

 ……ない。

 やはり高嶋友奈の専用装備だけがなくなっている。歴代の勇者たちの武具に囲まれながら、今更ながらなんという重大な御役目に就いたのだと男は振り返る。

 

「あいつの前に初めて姿を見せた時……ふと、懐かしい記憶が蘇った。死んでいた回路に電流が走った感覚だ。もうほとんど灼けて、朧げだったが。恐らく、楽しかった……のだと思う。でも、私にはそれがよくわからなかった」

 

 べっとりと血糊のついたバイザーの奥で征矢はどんな目をしているのだろうか。男には測りかねた。

 視線を振り、次は本物の生大刀の目の前へと移動する。そして触れようと手を伸ばすが、既のところで動きを止め、迷った素振りを見せてから、手を引く。

 

「私は征矢だ。ただ罪人を殺すためだけにある矢。これから先ずっと、私はこの気持ちの正体を理解できない。赤嶺友奈はただの処分対象……そう割り切っていた」

 

「今は違うと? ――それは許されない。お前は赤嶺友奈を殺し、高嶋友奈も殺さなければならない。御役目の放棄は重大な罪だ。大赦に……神樹様に対する罪だ」

 

「――私のことをとやかく言える立場か?」

 

 鋭い指摘に、男は唇をキュッと閉めた。

 

「お前だって、上には口が裂けても言えない隠し事……計画があることを知っている。私がそれを見て見ぬふりをしていること、忘れるなよ? お前はこの二百年としばらく、私の側付きをした者たちの中で最も奇怪で、狂った男だ。だからこそ、その行く末に興味がある」

 

 それは男も同じだ。

 二百年以上前に生きていた赤嶺友奈という人間が、何を想って人を捨て、征矢に『堕ちた』のかについての興味は尽きない。別に最後まで明かされなくても構わないが、知ることができるのならば是非知りたいものだ。

 ……しかしもう、そんな当時の想いなど覚えているはずもない。

 

「お前のやろうとしていることは、逆に人類を窮地に立たせることになるかもしれない。――あいつが泣くぞ? 地獄がお前を待っている」

 

「……それじゃあ物足りないな。私の罪を償うには。でもこれは私が始めたことで、そもそも時は来ないかもしれない」

 

 鮮明に覚えている。

 男がなぜ大赦に席を置いたのか。それを果たすために、緻密に計画を練り上げた。

 しかし征矢の口ぶりからしてすべてバレているのだろう。その上で、見逃してくれている。それほど征矢は男のすることを面白がっているのだろう。

 

「来るさ。喜べクソガキ。時は――きっと来る」

 

 征矢の揺るぎない言葉に、男もまた、『見て見ぬふり』をしてやろうではないかと決め込む。

 薄暗いバックライトに照らされた征矢の姿は、どこかに捨ててきたかつての少女であった頃の自分に想いを馳せているのだろうか。

 ……いや、そんなことはないか。

 低く喉を鳴らした男は、手甲のレプリカをモノリスの前にそっと納めた。

 

 ◆

 

 樹の下半身は、上半身の転がる根のすぐ下に落ちていた。風は大事そうにそれを抱え、できるはずもないのに肉が剥き出しになってぐちゃぐちゃになった切断面を合わせ、心臓マッサージをしようとした。

 夏凛と東郷と園子に止められるが、必死に三人を払い退けながら、言葉にならない声で喉が裂けそうになるほど風は絶叫を放ち続けた。

 その後樹海化が解け、大赦による迅速な後始末が行われた。三人の友奈は速やかに病院へと搬送され、樹の葬式と火葬の段取りがトントン拍子で決まっていった。

 その頃には何もかもの気力が失せた風は、首を縦に振るか、もしくは横に振るかでしか意思表示ができなくなってしまった。

 ……先代勇者、三ノ輪銀の葬儀の規模は大きかったという。当時は神樹館小学校の全員に勇者であることが公表されていた背景があったからか、大人数が集まっていた。

 しかし今の代……犬吠埼樹の葬儀は今入院している友奈たちを除いて東郷、夏凛、園子。そして大赦関係者たちのみという非常に小さな規模で執り行われた。これは風の意志である。

 純白の装束に身を包んだ勇者たちは棺を囲むような配置で座る。

 僧侶代わりの神官の長い祝詞が終わる。小さなホールのため、声は反響していた。そして次に勇者としての御役目に勤めたことへの感謝を述べた後、手向ける用の花を勇者たちに順に手渡す。

 唯一の家族である風が一番かと思いきや、初めに受け取ったのは夏凛だった。面食らいながらもちらりと目だけを隣の風へと動かすと、人間なのか? と疑ってしまうほど生気の抜けた佇まいで座っていた。

 なるほど、確かにこれは神官も渋るわけだ。

 腰を上げて一歩一歩、爪先から踵の先までしっかりと踏みしめながら棺の前まで歩いた。

 そして二秒程前を向いたまま動きを止め、覚悟を決めた夏凛は頭を下に向けた。

 小さな棺の中には安らかに眠っている樹の姿があった。溢れんばかりの花に囲まれ、まるで生きているように見える。

 あれだけ血塗れだった身体も綺麗にされ、しっかり死化粧も施されている。そして上半身と下半身が繋がって見えるようにきちんと配慮もされている。とても丁寧に樹の遺体を手入れしてくれたのだと内心感謝するが、同時になぜそれほどの気遣いを初めからしてくれなかったのだと、もう発散しようのない怒りがこみ上げる。

 満開の影響を最も醜悪に受けたのは樹だった。歌手になりたいという大きな夢のため、歌のオーディションに応募し、その一次選考に突破したばかりだというのに散華として神樹に声帯を取り上げられた。

 辞退は避けられなかったが、またチャンスはある。だというのに。

 悔しくて悔しくて、流れる涙一粒一粒に様々な感情が入り混ざる。

 ……思い出す。

 三ノ輪銀に託された想いを。

 それを、台無しにしたのだ。

 何が完成型勇者だ。

 何が皆を守るだ。

 何が! 何が……ッ!

 愚鈍で、馬鹿で、救いようがない。

 あの時の自分を殴りつけてやりたい。調子に乗るな、と。その慢心は激しい後悔によって返上させられるわよ、と。

 何分立ち尽くしていたのかは夏凛自身もわからなかったが、それを咎める者は誰もいなかった。

 いつの間にか食いしばっていた口の端から血が細く流れていた。手で拭い、花を手向けて自分の位置に戻る。次は東郷、園子と順に続いた。ふたりはこれで仲間を見送るのは二度目になる。その胸中は夏凛には決して理解できないだろう。

 とても長い時間をかけてふたりは花を手向けた。終えたふたりの目は真っ赤に充血していて、それだけではなく、強く握りしめたせいか、拳から血を滴らせていた。

 最後に風の順がやってきたが、相変わらず生気の抜けた表情の変わらないまま、まるで事務作業のようにさっさと終わらせてしまった。

 

「――――」

 

 夏凛は何か言おうと思った。だが、ガサガサに乾ききった喉が言葉の塊を押し上げることはなかった。そのまま神官によって滞りなく終わり、葬儀が終了し、火葬されることとなった。

 流石にこれに夏凛たちが介入することは許されなかった。

 骨壷への納骨は風の手によって行われ、二日後には犬吠埼家の墓に樹の骨が納められた。

 ……どうすればいいのかわからなかった。家にいても夏凛は何もすることができなかった。日課のトレーニングをする気力すら沸かず、初めてサボった。

 これでもまだマシな方だろう。そう夏凛は自分を分析する。

 あれだけ友奈好きを公言している東郷が今日は友奈の見舞いに行っていないという。これは明らかに異常事態だ。園子もいつもの陽気さを失っている。また、それらに誰も何も言わないことも異常事態だ。

 勇者部の活動も暗黙の了解で停止している。しばらくの間はとても再開できるとは思えない。

 ボサボサの髪のまま、寝間着の夏凛はベッドにぽすんと倒れ込んだ。心は氷のように冷たいのに、布団だけは暖かく出迎え、包んでくれる。

 樹は妹分のような存在だった。だからこれからもずっと、そんな関係が続いてほしいと思っていた。

 なのに。

 

「……ごめん、なさい。樹」

 

 薄暗い私室がぐにゃりと滲む。

 激しすぎる悔しさと後悔に自罰する気力すら起こらない。

 

「……ごめんなさい、三ノ輪銀」

 

 枕に顔を埋め、ただこの気持ちを発散するしか今の夏凛にはできなかった。

 

 ◆

 

 泥のように、汚れて濁った深いまどろみから浮かび上がる。白い天井がぼんやりと視界に飛び込み、どうやらここは病院であることを悟る。

 友奈は強烈な倦怠感と共に、目を擦ろうと腕を動かした。

 

「……あ、あれ?」

 

 動かない。以前のような麻痺になったわけではない。動くには動くが、ほんの少ししか上げられないのだ。

 友奈の動きを妨げる何かの正体を探るべく頭を下に向けると、腕をベルトで固く拘束されていた。ベルトはベッドの骨にきつく巻き、血流が圧迫されるのではと思うほどだ。

 さらに腕だけではない。脚もガッチリと拘束されている。訳のわからないまま身動ぎするが、ビクリとも動かないし抜け出せそうにない。

 これではコールボタンも押せない。

 ……ところで、皆はどうしているのだろう。こうして生きているいうことは、あの戦いに勝ったわけだ。

 方法は全く不明だが高嶋も生き返ったし、万事良しだ。

 約束通り、風に美味しいご飯をご馳走になることを楽しみにしながら呑気にもう一度寝ようと大きく欠伸をしたところで、病室のスライドドアが静かに開き、誰かが中に入ってきた。

 東郷かと思えばそうではなく、大赦の仮面を被った女神官だった。思わず身構えてしまう友奈だったが、拘束されたままではどうしようもない。

 神官は友奈に身体を向けると深くお辞儀をし、すぐそばにパイプ椅子があるにも関わらず床に手を突き、もう一度深く頭を下げた。

 神官たちの、勇者への仰々しい態度は今に始まったことではない。人類を救うことができる唯一の存在だとしても、勇者はただの子供だ。ぺこぺこ頭を下げる大人というものにはやはり慣れない。

 

「か、顔を上げてください」

 

「はい」

 

 顔を上げた神官は友奈に断りを入れて椅子に腰を下ろした。

 ……初めて会う神官だ。樹海化の後に園子に呼ばれた時に一緒にいた神官たちとは違った雰囲気を纏っている。氷のような冷たさ。じわじわと背筋が凍える錯覚に陥り、友奈は無意識に身体を捩らせる。

 

「友奈様の拘束は、何度も暴れまわったためだと医療従事者から聞き及んでいます。もう平気そうなのでベルトを外します」

 

 不穏な言葉について訊き返そうとしたが、あっという間に神官は友奈の拘束を解いた。確かめるように両肩を回そうとするが、妙な違和感を覚えた友奈は自身の腕を改めて見下ろした。

 

「何、これ――」

 

 病衣を着せられているが、その右腕部分が盛り上がっている。それだけなら以前と変わらないから別に問題はない。しかし驚愕したのはそのことではない。身体を侵食する枝木がさらに生えているのだ。もう手首まで伸びていて、分厚いコートを羽織っていても、誤魔化せそうにないほどまでに。またさらに右脚の付け根辺りまで侵食が進んでいる。

 痛みといったものはないが、明らかな身体の変化に恐怖を感じた。

 

「侵食の痛みに耐えようと暴れていたそうです。何度も鎮静剤を投与され、今日、ようやく落ち着いたとのことです」

 

「そう、だったんですか……」

 

「仕方ありません。今の友奈様は天の神の祟り、そして神の呪縛の板挟みになっているのですから」

 

「神の呪縛……?」

 

 聞いたことのない単語だ。

 しかしそれが何のことを指しているのかは考えるまでもなかった。天の神の祟りは間違いなくこの身に深く刻まれた紅い紋様のことだ。これのせいで皆に不幸が訪れた。これについて話そうとした風は車に轢かれかけた。

 そして神の呪縛とは、恐らくこの枝木。右半身麻痺となった友奈を助けてくれていたが、今は逆に苦しめている。

 そんなことを考えたせいか、腕に鋭い痛みが走り、眉を顰めた。

 

「急ぎ友奈様にお伝えしなければならないことがあります」

 

 無色の声でそう言った神官は仮面越しに友奈を見据えながら続ける。

 

「三百年続いた神樹様の寿命が近付きつつあります。このままでは近いうちに神樹様は枯れ、外の炎に四国は呑まれてしまいます」

 

 突然突き詰めかけた危機に、友奈は数秒の間だけ白黒させる。言葉の意味を咀嚼し、理解した瞬間、両手を伸ばしながら神官に言った。

 

「ちょ、ちょっといきなりすぎます! それに……そんなのは駄目です!」

 

「仰る通りです。なので我々は人類が生き延びるため、ある方法を見出しました。――それは、神婚です」

 

「しん……こん? それは……なんですか?」

 

 訝しげな表情を浮かべる友奈に神官は説明する。

 

「神たる神樹様と結婚することを神婚といいます。純潔なる乙女との番を得ることで、神樹様の力は強化されます。そして人は神の一族として迎え入れられ、共に生きられるのです。これにより、世界の平和と安寧が確かなものとなります」

 

「それで皆が助かるんですか……?」

 

「はい。また、神婚した少女は神界へとその身は召され、俗界との繋がりが断たれます。つまり、死ぬということです」

 

「――――」

 

「そして、その結婚相手に神樹様は友奈様を神託で示されました」

 

「へっ?」

 

 つい呆けた声が漏れてしまい、友奈は無意識に右腕の枝木に触れた。明らかに人の肌ではないごつごつした感触が掌に伝わる。それだけではない。枝木は確かな温かさを持っているのだ。普通の植物ならありえないこと。

 ……人の温かさ。

 これは完全に友奈の身体と一体化している。

 

「なんで私を……?」

 

「友奈様が心身ともに神に近い御姿であり……神の業に手を出した人間であるからです。本来ならかぶ……征矢案件ですが、この状況においては最も適した人間であるかと。恐らく天の神の祟りも同じような理屈でしょう」

 

 聞きなれない単語が出てきたが、友奈にはもうそれについて訊くほど余裕がなかった。

 

「神の呪縛……人に神の業は本来振るえません。ですが友奈様は行使された。その代償がそれです。友奈様を蝕むふたつの呪いは互いに敵対するもの同士。片方が肥大化すれば、もう片方も肥大化する……いたちごっこのように侵食が進んでいます。もしもう一度勇者へ変身すれば、その瞬間が友奈様の最期となります」

 

 抑揚のない一方的な宣告。

 以前から祟りには散々苦しまれてきていた。

 高熱にうなされ。文字通り心臓を鷲摑みにされるような激痛に耐え。誰にもこの苦しみを共有できず。悶々とした日々を過ごしてきた。初めは胸の中央にぽつんとあっただけなのに、今では紋様が腹部全体まで広がっている。日に日にその激しさは増し、生命力をじわじわとやすりのように削られているという感覚が漠然とある。だからといって解決法なんてなく、最期まで寄生する最悪の呪いでしかなかった。

 このまま何もしなければ間違いなく死ぬ。これは確定だ。どんな最高の医療を受けたとしても助からない確信がある。

 ならば。

 この少ない命を皆のために使うことが一番合理的で、勇者として正しい行いではないのだろうか……?

 神官の説明は終わったようだ。今は友奈の反応を窺っている。初めから感情のない声色で色々と説明してくれていたが、果たしてこの人は何を考えているのだろうという疑問が浮かび上がる。友奈に「人類のために生贄になって死ね」と言っているのと同義なのだ。良心は揺れないのだろうか。

 友奈は真っ直ぐに神官の顔を見据える。やはり感情の機微はまるでわからない。

 ……いや、無用な詮索だったか。

 仕方ない(・・・・)

 この言葉が免罪符であることはわかっている。

 でも、覚悟を決めるために僅かでもいい、時間が欲しい。

 

「どうか、我々人間をお救いください。慈悲深い選択を」

 

 椅子から立ち上がり、もう一度額を床に擦りつけて乞う神官を見下ろしながら友奈は苦々しく口を開いた。

 

「すみません……。わかりました、なんてすぐには言えないです。だから少しだけ時間をください」

 

「高嶋友奈様と赤嶺友奈様はこの病院にいるので、集まるならここがよろしいかと。まだ目覚めてはおりませんが」

 

「え? ふたりも入院しているんですか⁉」

 

 唐突な事実に、ここが病院であることを忘れて甲高い声を上げてしまう。

 確かにあの戦闘は壮絶を極めるものだった。友奈もこうして入院しているからあまり人のことを強く言えないが、怪我人が出てもおかしくなかった。しかしふたりで済んだのは幸いだった。

 安堵の息をつこうとしたが、それより先に神官が言葉を続けた。

 

「高嶋友奈様は右腕断裂、赤嶺友奈様は左肘から先を切断と内臓損傷。ふたりとも命の危機がありましたが、ひとまず峠は越えました。犬吠埼樹様については、犬吠埼風様を庇って殉死。先日火葬を済ませ、犬吠埼家の墓に納骨されました」

 

「――――、え?」

 

 喉の奥で、友奈は激しく喘いだ。

 

 ◆

 

 グループに送られた友奈からのメッセージを見ても、東郷には僅かな喜びしか沸き上がらなかった。喜ぶ気力なんてどこかへ消え去ってしまった。

 神世紀三〇一年の出だしとしては最悪だ。

『話したいことがある』とあるからには行かなければならない。しかし、どうしても気が進まなかった。というより、申し訳なさでとても顔を合わせられない、というのが正しいだろう。

 樹が死んだなんてとても言えない。いったいどれだけ友奈が悲しむだろう。想像すらしたくない。部屋着から着替えるだけでもいつもの十倍近く時間がかかってしまった。心もどんよりとした重苦しく、呼吸をするだけでもひと苦労する。

 風は……来ないだろう。

 昨日心配になって夏凛、園子と一緒に訪ねたが、まるでただ息をしている芋虫のようだった。

 大好きな食事すらとった形跡はなく、カーテンは締まりきっている。薄暗いリビングでソファーにうずくまりながらクリスマスにビデオカメラで撮った樹のソロシーンを何度も何度もリピート再生していた。手にはリモコンと、数日前にプレゼントしたばかりの花飾りを握りしめて。

 もう目も当てられない状態だった。

 痩せこけた頬を見て、東郷はただ涙を流すことしかできなかった。

 ちゃんと食べてるか? 風呂は入っているか? などといった夏凛の質問に無言で頭を横に振るだけだった。

 だから無抵抗の風にご飯を食べさせ、風呂に入らせ、昨日はそれだけにした。まるで介護をしているような気分だった。

 家を出るとすでに玄関前に乃木家の高級そうな車が停車していた。フロントドアガラスが下に降り、やややつれた園子が顔を出した。

 

「送るよ、わっしー」

 

 声に元気がまるでない。

 小さく頷いた東郷は自動で開いたドアを見て、中に乗り込んだ。病院までは一切の会話はなかった。

 受付で面会の許可をもらい、友奈の病室へと歩を進める。

 高嶋と赤嶺は未だ昏睡状態。搬送された当時は出血量がひどく、一刻を争う状況だった。樹の死のショックでまともに動けない東郷たちからふたりと友奈を引き取られ、乗せられたストレッチャーを瞬く間に真っ赤にしながら運ばれていくのを呆然と見送ることしかできなかった。

 そしてふたつの血の跡が道を作っているのを見て、我に返ったのを覚えている。

 高嶋と赤嶺というイレギュラーはこれで完全に大赦の認知下に置かれる。もうどうなるかわからない。明日にはこの時代の異分子として処分されるかもしれない。バーテックスの襲来のどさくさに紛れて一度は高嶋を殺した征矢という少女が再び現れるのは間違いない。

 だがその対策を考えられるだけの余裕なんてなく、重症の二人を連れだす事なんてとてもできない。

 完全に打つ手なしだ。

 東郷と園子はドアの前に立った。

 中から夏凛の声が聞こえる。

 園子がノックをすると、友奈の声が返ってきた。

 

「どうぞ」

 

 中に入ると、上半身を起こした友奈と夏凛が重い空気を滲ませている。

 そして東郷の視線に気づいたのか、友奈は小さく笑いながら右腕に布団を被せて隠した。

 

「……こんにちは、友奈ちゃん。目覚めてよかったわ」

 

「うん、こんにちは東郷さん」

 

 そして沈黙が訪れる。園子はどう話をきりだせばいいかわからず、何度も口を開閉させては影を落として俯いた。

 それを静かに見ていた友奈はゆっくりと口を開いた。

 

「大丈夫。全部知ってるから」

 

「! そっか……」

 

 弾かれたように園子は顔を上げる。

 

「昨日神官さんが来てね、それで教えてくれたの。樹ちゃんのことは……残念だったね」

 

 友奈は樹の死に際を見ていない。いつの間にか戦闘は終わっていて、いつの間にか樹が死んでいて、いつの間にか葬儀まで終わっている。

 仲間を見送ることすらできなかった苦しみを三人は想像することができなかった。

 この病室の空気が粘性を持ったように重い。気道を通り、肺にどすんと落ちてくる感覚だ。

 

「……でね、話なんだけど」

 

 そうだ、友奈から話があるということで集まったのだった。できれば全員が本調子に戻ってから――がいいのだろうが、それを待たないということは、それほど急ぎの話なのだろう。

 しかしそれを遮ったのは他でもない東郷だった。

 

「待って、友奈ちゃん。その前にどうしても訊きたいことがあるの」

 

「ああ……うん、あれのことだよね。ぼんやりだけど、覚えてる。……そっか。見られちゃったんだね」

 

「あの赤いのは、何?」

 

 もがき苦しむ友奈を介抱しようとしたときに見てしまったモノ。どう考えても縁起の良いものではなかった。禍々しく、見ているだけでこちらの気分が悪くなってしまうほどのあの赤黒い紋様。どう言えばいいのか考えている……ようだ。弱弱しく微笑み、ヘドロを吐き出すように言った。

 

「あれは……ごめんね、言えない」

 

「どうして? 絶対良くないものだよね?」

 

 よくわからないが、友奈は安心した顔で東郷の胸のあたりを見ている。その意味は東郷にはわからない。

 

「ごめんなさい。本当にどうしても言えない。もうたくさん迷惑をかけた後だから、これ以上かけられない」

 

 いつになく真剣に話す友奈の固い意思を感じ取り、東郷は追及を一旦止めることにした。

「それで話なんだけど」と前置きした友奈は神官に伝えられたことを、祟りの話には触れずに、三人に全てを話した。

 到底受け入れがたい内容ではあったが、横やりが入ることもなく、説明が終わる。

 

「……私はこの神婚を受けようと思うの」

 

「いやいや、それは駄目でしょ」

 

 すぐにそう否定したのは夏凛だった。

 握り拳を震わせ、痛切な顔のまま口を開く。

 

「なんで友奈が犠牲にならないといけないのよ。樹が……樹がいなくなったばかりだってのに。神婚なんてする必要ないわよ、絶対に」

 

「でも方法がもうこれしかないの。神婚しないと世界が終わっちゃう。だから私は――」

 

「違う! そういう話じゃない!」

 

 肩をわなわなと震わせていた夏凛がついに我慢の限界に達し、語気を荒げて立ち上がった。

 

「なんでこんな目に友奈があわないといけないのよ⁉ 仲間を失って、悲しむ間もなく次はお前が犠牲になれって、ふざけんじゃないわよ!!」

 

「夏凛ちゃん……」

 

「友奈も友奈よ! なんでその神官に怒らなかったの⁉ なんで殴りかからなかったの⁉ それだけ酷いことを言われたって、なんでわからないの⁉ 神の呪縛とやらで先が短いとしても、だからって今すぐ命を投げ出す必要ないでしょうが!」

 

 肩で息をしながら夏凛は友奈の目を射抜く。友奈の瞳には困惑と迷いが混じり、その向こうに透明な雫を流す夏凛が映っている。

 

「にぼっしーの言う通りだよ。大赦がそう言ってるだけで、もっと考えたら他の方法があるかも知れない。だから早まったら駄目だよゆーゆ」

 

 両手でかき分けてふたりの間に割って入り、一旦場を落ち着かせようと園子が緩衝材となって働きかける。

 

「それに神婚って響きもなんだか不穏だし、人が神の一族として迎え入れられるってどういうことなんだろう。人類という種が概念的存在に変質? 進化? するのかな? それって、私たちは人間の形を……在り方を維持できているのかな?」

 

「そんなこと私に言われても……わからない。でも、大赦の人たちが……大人の人たちがいっぱい考えて見つけた答えが神婚なら、もう本当にこれしかないんだよ。それに私たちはただの子供だし、神婚よりもいい案があるとは思えない」

 

「……」

 

 確かに、と園子は内心で頷くしかなかった。

 もし友奈に「じゃあ今すぐ何か案を出せる?」と尋ねられても最善策を提示することができない。そこらの中学生よりは頭が回ると自負してはいるが、思考を巡らせてもいい案なんて浮かぶはずもなかった。そもそも神である神樹、その寿命を延ばすなんてことがただの人にできるわけがない。人が長年にわたって培った物理法則や科学の一切を無視した超常存在の生命力に介入するなんてまず不可能。だから通常ではない手段を取るしかない。

 だからこその、神婚。

 どれだけ脳をフル回転させても大赦と同じ結論にいきついてしまう。

 伏目になった園子の視線は自然に友奈の下半身に向く。掛け布団がかけられていてもよくわかるほどの異常な盛り上がり。友奈の枝木の侵食は脚にまで及んでいる。

 車椅子から立ち上がった時はこれほど悪化していなかった。

 問題は山積みだ。高嶋と赤嶺、征矢、神樹の寿命。そして友奈。そのどれもが解決できていない。

 苦虫を万匹噛み潰したような顔をしながら園子はそれでも否定しなければならない。

 

「流石に私もすぐに代案を提示できない。でも、たかしーや赤嶺ゆーゆ、ふーみん先輩たちと一緒に考えたら、きっといい案が浮かぶはずだよ。だから――」

 

「でもそれじゃあ私の時間が――! ぅ、ぁ」

 

 額に脂汗を垂らした友奈が園子の言葉を遮るが、突然苦しげに呻いた。極限まで瞳孔を開き、園子を……いや、園子の胸部を見ている。

 

「大丈夫……?」

 

 激しく呼吸を繰り返す友奈を見かねて咄嗟にナースコールを押そうとしたが、友奈が勢いよく出した右手が手首を掴むことで止められた。

 

「――――」

 

 右腕は見るに耐えないものへと成り果てている。裾から野太い枝木が顔を覗かせ、友奈の指に絡まっている。それはまるでお前を絶対に離さないという意思表示にも感じられる。

 

「ごめんね、ちょっと取り乱しちゃった。……うん、もう大丈夫……ごめんね」

 

「ゆーゆは神婚に前向きかもしれないけど、私たちはあまり良いものだとは思えない。それだけは、わかってほしい」

 

「……うん。でも、やっぱり私の決意は変わらない……と思う」

 

 そうぽつりと漏らした友奈は小さく微笑んだ。

 瞬間、東郷の平手が友奈の頬を叩いた。

 病室に響く甲高い音が、手加減のない本気の一発だったと語る。

 

「わっしー⁉」

 

 園子の戸惑いの声を無視して、これまで静観を貫いていた東郷があまりに突然のことに動きを停止させた友奈の胸ぐらを掴みあげた。そして鼻の先まで顔を近づけさせると、力強く言い放った。

 

「――生きなさい!!」

 

「!!」

 

 友奈が目を見開く。

 

「たとえ短くても、ちゃんと生きて、それから死になさい!!」

 

「そんなことしたら世界が……」

 

 なよなよする友奈を揺する。

 

「どうしようもないことはわかってる! そのっちはああ言ったけど、たぶんもう神婚しか手がないのもわかってる! でも! それでも! 簡単に自分の命を投げ出そうなんて考えないで! 私にもう、仲間との悲しい別れをさせないで!!」

 

「――――」

 

「もちろんこれは私の我儘よ。皆のために戦うのが勇者。私たちは……勇者。でも、皆のために喜んで命を差し出すのは勇者じゃない。自己犠牲で悦に浸る偽善者よ。私がそうだったから、よくわかるの。……生き汚くたっていいじゃない」

 

 大局的な『善』は、友奈が神婚することだが、局所的な『善』は、友奈が最後まできちんと人として生き抜くことだ。

 どちらの善もこれ以上にないほど正しい。正しさと正しさの争いに結論なんて出せるはずがない。だからその狭間に苦しめられる。

 東郷は視界を涙で滲ませながら友奈の身体を優しく抱きしめ、

 

「あの時の答え、今、聞かせて」

 

 と耳元で囁いた。

 あの時と言われ、友奈の肩がぴくんと跳ね上がり、即座に思い出した。

 車に轢かれて、病室で目覚めた後のことだ。右半身が動かなくなって、それをリビドーの消失のせいで歪な受け入れ方をしたせいで皆に怪しまれた。そこを東郷が助け舟を出してくれて、ふたりきりになった時だ。

 生きる理由。そう確かに友奈は言った。

 でも、その答えを出せないほど目まぐるしく日々は過ぎていった。

 結局は答えを見いだせないまま、だらだらと今に至る。

 まだ『なんとなく』で生きているのかな、と自嘲してしまう。

 しかし、続けて発せられた東郷の言葉が、そんな友奈の後ろめたい気持ちに熱を灯した。

 

「もしまだ見つけられてないのなら――私を理由にして。私のために生きて。私も、友奈ちゃんのために生きるから」

 

「ぁ――――」

 

 何かがピシッ! と瓦解した。

 鋭い破砕音が脳内で響いた。

 焦って、もがいて、避けられない死をどう迎えるかばかり考えていた。

 でもそうじゃない。そうじゃないのだ。

 あまりに利己的で、あまりに馬鹿なことを考えていた。確かに神婚すれば人類は救われるだろう。

 それを東郷たちはどう思うのだろう? 心の底から友奈の献身を喜んでくれるのだろうか?

 否。断じて否である。

 逆に勇者部の誰かが神婚するなんて言い出そうものなら、友奈はなんとしてでも食い止めようとするだろう。

 今まさに、東郷たちがそうなのだ。

 薄く開いた口から、ひび割れた声を漏らす。

 

「いいの……?」

 

 すると東郷は迷いなくはっきりと答えた。

 

「いいの。人として終わるのなら、それでもいいじゃない。どれだけ言い繕っても……それが悪だとわかってても、そうしてしまうのが人間なのだから」

 

 東郷の抱き締める腕に力が入る。

 枝木の硬い感触が伝わるが、構わないとばかりにさらに力を込める。

 

「私のために、生きてくれるの?」

 

「うん。だから友奈ちゃんも、私のために生きて。残された時間を、たくさんたくさん楽しもう」

 

 友奈は胸の内で感情の爆発が起こりそうになりながら視線を夏凛と園子に見やった。

 ふたりは友奈に頷き掛けている。

 ……ああ、どうしてこんな簡単な答えを見つけられなかったのだろう。

 友奈が皆を想うように、皆も友奈を想っているのだ。

 その事実にようやく気づいた。

 

「……死にたくない」

 

 本心を吐露する。

 そっと両腕を伸ばし、東郷の細い腰に手を回す。

 視界のすべてが――七色の光に満たされ、滲み、ぼやける。

 ボロボロと熱い雫が流しながら、友奈は一生懸命自分の想いを口にした。

 

「本当は死にたくなんてないよ……だから生きる。東郷さんのために、生きるよ」

 

 東郷の白くて柔らかい指が、そっと友奈の涙を拭う。そしてにこりと微笑みを向けた。

 人類の絶滅を受け入れるのは遥かな重荷だ。人ひとりが背負うにはあまりに大きすぎる。

 だからこそ、皆で。

 残された僅かな時間であろうと、生きよう。苦しくても、悲しくても、生きよう。友奈は、友奈の生きるこの世界が好きだ。

 矛盾だと指摘されたって構わない。人間とは、矛盾だらけの生き物である。

 後悔のない最期を迎えられるとという確信が友奈の中にはあった。

 なぜなら。

 ふたりの流す涙が、これほどまでに温かいのだから。

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の日、友奈が病院から姿を消した。




物語の終焉は近く
絶望の嵐は勢いを増すばかり
それでも勇者たちは【人間】を貫く

それではまた次回!
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