鬱、加速
友奈、失踪
その報告は、突然園子からグループメッセージに送られてきた。
『いなくなった』
『ゆーゆが』
よほど焦っていたのか、五秒ほど遅れて主語を後付けした。
友奈とどう過ごそうか計画を練っていた東郷は反射的に身体を動かし、コールボタンを押していた。ワンコール目が終わらないうちに相手が出た。
「どういうこと、そのっち⁉」
もしもし、なんて悠長なことは言ってられなかった。電話の向こう側から何やら慌ただしい音が聞こえる。
『わからない! ちょっと色々お話しようと思ってお見舞いに行ったんだけど、いなかった! 今大赦に直接出向いて確認を取る! わっしー、ゆーゆが行きそうなところわかる⁉』
園子の余裕のない口調は、状況がどれだけ重大であるかを如実に物語っている。
友奈がいなくなったのは……いったいどういうことだ。
友奈は高嶋や赤嶺と違ってちゃんと目が覚めているし、怪我こそあれど、無理をすれば歩き回れるはずだ。強いて言うならば、外出するには些か目立つ外見であるくらいか。
誰にも言わないで消えるなんてことがあるのだろうか? それも、生きると約束したまさに次の日に。
大急ぎで外に飛び出た東郷はすぐ隣の結城家のインターホンを押す。ピンポーン、と東郷の焦る気持ちを弄るような間延びした軽快な音の後、友奈の母親の声が聞こえた。
「友奈ちゃんはいますか⁉」
しかし。
いないわよ? と裏を感じさせないシンプルな答えが返ってくる。
そんな馬鹿な。踵を返して東郷は走る。白い息を吐き、呼吸をする度に冷たい空気が喉を灼いても、無視して走る。
ポケットに手を突っ込み、スマホで夏凛に電話をかける。ニコール目で電話に出た夏凛に東郷はとぎれとぎれに言った。
「夏凛ちゃん! 突然で悪いけど、学校に、友奈ちゃんがいないか、確認してきてくれる⁉」
ダウンの擦れる音や道路を走る車の音などで声が聞き取りにくかったかもしれない。
しかしそれは杞憂に過ぎず、すぐに返事が返ってきた。
『わかった。あんたは友奈の家確かめた?』
「ええ。でもいなかった……!」
『風には……いえ、駄目ね。今から行ってくる。切るわね』
通話を終え、スマホをポケットにしまった東郷は人気のない通路へと走り込み、一旦上がった息を整える。
喉が乾燥しきったせいでイガイガする。軽く咳き込んだだけで余計に喉が痛くなり、強引に我慢する。家を出たときは身体は冷えていたが、今はとても熱い。このダウンが余計にそれを加速させている。
そうして再びスマホを手に取り、今度は電話ではなく勇者アプリを起動させた。そのまま勇者への変身し、建物の屋上へ一気に飛び上がってから一直線に北の方角へ向けて飛ぶ。
少々寒い格好だが、火照った身体なら大丈夫……と思い込んでいた東郷はすぐに後悔する。
流れる空気抵抗が、冷たい!
ぞわぞわ、と急速に身体の熱が冷やされ、鳥肌が立つ。
そもそも樹海化されていない状態での活動は想定されていない。単純な防御力なら格段に向上しているが、温度に対する機能は備わっていない。
でも、勇者の状態で移動したほうが手っ取り早い。
暖かい息を両手に吐きかけ、やがて大橋へと辿り着いた。そのまま走って英霊之碑のドームへと足を踏み入れる。
「……いない」
誰もいない。
整然と並べられた石碑たちが冷たい風を静かに受け止めているだけだ。
過去の英霊たちに敬意を込めて一礼してからその場を去り、東郷はさらに海の向こう、壁まで飛ぶ。
これは可能性の一つだ。自分がそうだったように、何らかの要因で皆に黙って壁の外に行ってしまった……なんてことがありえるかもしれない。
昨日はああしてきちんと相談して心の家を曝け出してくれたが、実はあれが全てではなかったかもしれない。友奈を疑うような真似をして心苦しいが、背に腹は変えられない。
もし東郷の危惧した通りだったら、救い出したあと、たくさん怒らなければならない。
潮の匂いに鼻腔を刺激されながら飛翔を続け、ついに壁の上に立つ。相変わらず向こう側はなんてことない水平線を見せているが、これは幻想で、数歩進めば地獄の業火に包まれた世界が視界に飛び込むだろう。
大丈夫。ちょっと確認して、すぐ戻るだけだ。
もし友奈がいたとしてもひとりで先走らず、皆に報告することを優先しなければならない。
胸に手を当てて深呼吸を繰り返す。そして心を落ち着かせた東郷は一息に外への足を踏み出した。
瞬間、冬だったはずの寒風など嘘のような熱風が東郷を出迎える。卒倒するほどの数のバーテックスが我らが領土であると主張しているかのように群をなして飛んでいる。
念の為東郷と同じようにブラックホールになっていないか確認しようと空を見上げるが、それらしきものは見当たらなかった。
まだバーテックスは東郷の存在には気づいていない。手際よくスマホを手に取り、勇者アプリの勇者たちの位置情報を探る機能を使う。いてほしい、といないで、という矛盾した願いを抱きつつ探索が終了した画面表示を薄目で見下ろす。
「……いない」
安心していいのかわからない結果を受け止めつつ、そそくさと壁の内側に戻る。
そして、地面に膝を付き、頭を垂れた。
あとは夏凛と園子の報告を待つだけだが……。
それから数分足らずでふたりからメッセージが飛んでくる。どちらも『いなかった』という報告だった。東郷も指を動かして同じ言葉を送信した後、悔しさを滲ませながら地面を拳で叩きつけた。
もちろんそんなことをしても友奈が返ってこないことはわかっている。でも、この胸に燻ぶるやるせなさを発散させずにはいられなかった。
不安。悔しさ。悲哀。
最近それらに苦しめられることが多すぎる。僅かでもいい、友奈の寿命が尽きるまでの時間を精一杯過ごそうと願っているだけだというのに。
なぜこうも理不尽にすべてを取り上げられてしまうのだろう。
「友奈ちゃん、どこに行ったの――……!!」
そんな東郷の叫びは潮風に晒され、揉みくちゃにされて虚しく消えるのみだった。
◆
それから三日経っても友奈の手がかりは何一つ見つけられなかった。
それに、高嶋と赤嶺もまだ目覚めない。傷は無事塞がれたが、失ったふたりの片腕はもう戻らない。そして危惧していた征矢の襲撃もない。
流石に病院だから征矢もそこまで手荒な真似はできない……のだろうか?
夏凛は並べられたふたりのベッド、その間にお見舞いとして置かれた花の水を入れ替えに椅子から立ち上がる。
心音図は一定のリズムを刻み、重なる電子音が、暖房のかかった部屋に静かに響く。
花瓶を掴んだ夏凛はふたりの寝顔を数秒見下ろしてから病室を出た。
「……袋小路ね」
打つ手なし。
風は樹の葬儀後から特にこれといった動きはなし。相変わらず抜け殻のような生活を送っている。一昨日確認しに行ったら、ボサボサの髪のまま樹のコーラス映像を死んだ魚のような目で観ていた。
東郷と園子は友奈の捜索に奔走。正直大赦に攫われたのではという予想があったらしいが、園子曰く、位の高い神官に問い詰めても本当に知らなかったとのこと。
ならどこに行った?
……わからない。
水を入れ替えた夏凛は花瓶を元の位置に戻し、整理しきれていない情報に脳が圧迫されそうになりながら椅子に腰掛ける。
約束を反故にし、自罰に陥る夏凛にはどうすればいいかわからなかった。
「……頑張ったわね、あんたたち」
遥か昔からこの時代に飛ばされ、頭の中がごちゃごちゃになりながらも、最終的にはきちんとした『自我』を示した。
赤嶺も、こんなになるまで頑張ってくれて……。
と、そう考えてしまえばしまうほど夏凛は自責を積もらせる。
それを振り払うべく、あるいは誤魔化すべく頭を振った。そして呼吸を整え、壁の時計を見る。
まだ昼を少し回ったくらい。
……何か行動を起こすべきだ。
そう夏凛は考えた。どんな小さなことでもいい。何か、できることを。
その果てにあることを思いつく。
これは誰かのためではない。自分のためでしかない。でも、今の自分には必要なことだと結論づけた。
病院を出て、走る。
家に戻って自転車という手もあったが、それすら考えられないほど夏凛は必死だった。
走って走って、喉が砂漠のように乾燥しきっても走り続けた。
やがてある場所に到着する。
そこは、人類のために戦った英雄たちの眠る場。
英霊之碑。
身体から蒸気を起こしながらドームの縁に立った夏凛は息を整え、ゆっくりと下へ続く階段を降りる。
四方に頭を振りながら、目指すべき人物の石碑を探し、その前に立って優しく撫でた。冷たい風を受ける石碑はとてつもなく冷たかったが、どこか温かい気がした。
「……三ノ輪銀。私の、先輩」
夏凛のスマホは元々は赤の勇者……三ノ輪銀のものだったらしい。その想いは夏凛へと引き継がれ、今に至る。
だからあの時、幻かなにかはわからないが、三ノ輪銀に会うことができたのかもしれない。
だからこそ、まずは――。
「――ありがとう。あなたのおかげで、私は立ち上がれた」
根性を叩き込まれた。自分より小さな少女に、勇者の真髄を叩き込まれた。
あの激励とも言える一喝がなければ夏凛は絶対にもう一度立ち上がろうなどと考えなかっただろう。
だから、感謝を。
そして。
「ごめんなさい。私、約束、守れなかった……!」
そう掠れ声で呟き、冷え切った地面に両膝をついた。さらに両手で顔を覆い、どうしようもない感情を爆発させた。
「皆を守るって誓ったのに……! なのにッ! 樹を失ってしまった……! ごめんなさい……!う、あああああああ――……!」
苦しい。とても苦しい。
慰めてほしいわけじゃない。責めてほしいわけでもない。どっちもしてくれる聖人なんていないことはわかりきっている。
でも、こうして心に溜まったヘドロを吐き出さなければ前を向けない。次に進めない。
勇者としての自我を失ってしまいそうで怖かった。
頬を伝う透明な雫が、銀の石碑の前にポタポタと止まることなく落ちる。
視界を滲ませつつ、夏凛は顔を上げた。
途端、夏凛は幻を見た。
目の前に、誰かの拳があった。
目を擦って改めて見ても、その幻が消えることはなかった。
「――――」
密かに裁定者を求めすぎたゆえか……?
拳はそのままゆっくり近づいて来て、夏凛の胸を強く小突いた。
物理的な接触はなかった。しかし、夏凛はなぜか尻もちをついてしまった。
「え……?」
呆けた顔のまま、触れられた部位……心臓の真上に自身の手を重ねる。
そこにはなぜか、仄かな熱が宿っていた。実はただの体温だった、なんて勘違いかもしれない。
でも、それでもいい。
思い込みだっていい。
夏凛は今、確かに、
『諦めるな』
と言われた気がしたのだ。
もちろん樹の生を、ではない。
もう失ったものは返ってこない。いくらだって悲しみに明け暮れてもいい。泣いて泣いて、目を真っ赤に泣き腫らしてもいい。
しかし、そこでずっと足踏みすることは許されない。
なぜなら、時間は個人の感情など顧みず残酷に進むからだ。
尻を蹴りあげられたような気分だった。
まだ全てが無駄になったわけではない。まだ守るべき者たちがいるのだから。
また失うかもしれない。それは十分にあり得る話だ。
しかし、守ろうとして守れなかったのと、守ろうとしなくて守れなかったのは雲泥の差だ。
結局は自分のエゴなのかもしれない。
くだらない正義感に縛られているのかもしれない。
だからどうした。
夏凛は皆を守ると約束した。
それを帳消しにすることは、決してない。
なぜなら夏凛は勇者であり、人間なのだから。
涙はもう止まっていた。
吹き付ける寒い風も、夏凛の心を凍らせることはもうできない。
次にやるべきことは、もう決めた。
夏凛はしっかりとした足取りでその場から去っていった。
その頼もしい背中を見届ける者がいたかどうかは、誰にもわからない。
◆
孤独の巣窟の前に、赤の勇者が立つ。
インターホンを押すが、反応はない。
まあ……わかってはいたけどね、と内心で頷いた夏凛はまさかとは思いつつドアノブに手をかけた。そしてそのままひねる。
すると、なんの抵抗もなくドアは開かれた。
驚きに息を呑みながらさっさと中に入ってしっかり鍵をかける。
……樹の歌声が聞こえてくる。また、あのビデオをリピートしまくっているのだろう。
夏凛は玄関で靴を脱いで上がりこみ、リビングへ入る。
前から変わらずソファーの上で、予想通り風はビデオに釘付けになっていた。
「風……あんた、鍵くらいしなさいよ。もし知らない奴に入ってこられたらどうすんのよ」
風のくすんだ目がこちらを向く。が、すぐに視線をもとに戻す。
ふと台所に目をやれば、流し台に洗っていない箸やらが乱雑に散らばっている。前に来たときに、少しでも気分が楽になればと置いていたインスタントのうどんがいくつか減っている。しかし食べたあとのゴミはそのまま放ったらかしだ。
女子力の塊とも言える風の面影は、ない。
それにしても、カーテンを閉め切っているせいで暗い。夏凛は風の家の中をまるで自分の家のようにズカズカと歩き回り、カーテンを力いっぱい開けた。
すると今までほぼ無反応だった風が、「う」と眩しそうに喉から声を絞り出す。
テレビ画面の明るさが自動調節され、丁度樹のソロパートが始まるところだった。
夏凛は喉を鳴らすと、風の隣に腰掛けた。
ビデオ映像は微かに震えている。撮っているのは風だったはずだ。感動に嗚咽が混じっていて、なんだか風らしいとも言える。
そうして一周して、リピートされるというところで夏凛はおもむろにリモコンを手に取り、再生を停止させた。
途端、風は血相を変えて夏凛を睨みつけた。しかしそれを無視して話を切り出した。
「友奈が、いなくなったの。ここ数日の間、私たちで探し回ったけど手がかりもない」
風は口を閉ざしたままだ。
「今日私がここに来たのは他でもない、あんたをもう一度立ち上がらせるためよ」
そして目元のくまの酷い風を見据えながら、力強い声で言った。
「立ちなさい、風。それで私を……私たちを、助けて」
濁った目を数度瞬かせた風は、ゆっくりと頭を横に振った。
そして夏凛の手からリモコンを取り返そうと手を伸ばしたが、呆気なく振り払われた。
再びキッ! と夏凛を睨む。だが夏凛もその眼力に臆することなく睨み返した。
「別に私はあんたを慰めに来たわけじゃない」
そうだ、東郷や園子だったら絶対に優しい言葉を投げかけて風を元気づけようとするはずだ。
でも夏凛にはそんなことができない。なぜなら人とのコミュニケーションはあまり上手くないし、言葉選びも上手くないからだ。
だからといって責めに来たわけでもない。それは違う。一方的に責めるのは間違っている。責めるのなら、夏凛たちも同罪だ。
もっと上手く立ち回っていれば、もっと強ければ、なんて後悔はいくらでもあるだろう。
ならば――。
「立ち上がりなさい。前を向きなさい」
しかし風は駄々をこねる子供のように頭を振る。
「私たち皆、樹の死を悲しんでる。でも、どれだけ嘆いても、苦しんでも樹は返ってこないのよ。そこんとこの現実をしっかり見なさい」
夏凛の口から放たれる言葉は全て、風にとっては高純度の毒でしかない。
案の定、苦しそうに呻きながら風は頭を抱えた。ガシガシと頭をかきむしり、小さく身体を丸める。
しかし夏凛は止まらない。
「私は天国にいる樹が悲しむから、なんてありふれた慰め文句は言わないわよ。今生きているのは私たちで、樹は死んだ。樹にばかり固執しないで、私たちもちゃんと見なさ――」
「あんたに、私の悲しみなんてわからないわよ!!!」
数日ぶりに発した風の声は、怒声だった。
やや上擦っていて、糸が絡まったような掠れ声。
手を伸ばして夏凛の胸ぐらを掴む。そして力任せにグイッと引き寄せ、血走った目で夏凛を視界に収めた。
しかし、夏凛はその手首を掴むと、強引に風を床に押し倒した。
まさか反撃されるとは思っていなかったのだろう、風は呆けた顔で見上げた。
「わかるはず……ないでしょうが!!」
近隣の迷惑になることなんで考えずに夏凛は吼えた。
「私があんたと出会って過ごしたのなんてほんの一年もない! でもあんたは樹と十年以上も一緒にいたんでしょ⁉ そんなの、積み上げられた愛が私なんかにわかるはずないでしょ!! 私に同意を求めるな!! 私に救いを求めるな!! 私は、あんたの尻を蹴り上げるだけよ!!」
それでも、風は目尻に涙を溜めながら反抗した。
「じゃあ……じゃあどうすればいいのよ……! もう嫌! 全部、嫌! 何もしたくない! このまま消えてしまいたいのよ、私は!」
「そんなことは許さない。立ちなさい」
「嫌……」
「立ちなさい」
「嫌!」
「立てッ!!」
「――――」
有無を言わせない一方的な命令に、風は口をつぐんだ。
長い間掃除されていなかったせいだろう、床のホコリが巻き上げられる。それを大量に吸い込んでしまった風は乾いた咳をした。
窓から差す陽光が、肩で息をする二人を淡く照らす。
少し、強引すぎたか?
夏凛は俯く風を見て後悔する。立ち上がってほしい一心でこうして言葉を投げかけたが、逆効果だっただろうか?
やはり東郷と園子と一緒に三人で説得するべきだったか――。
しかし、その心配は杞憂だった。
ぽつりと懺悔するかのように、風が口を開いて話し始めたのだ。
「棺の中の樹を見た時……なんだ、まだ生きてるじゃないって……思ったの。でも私の手に持つ花や、記憶が樹は死んだって押し付けてきたの。そんな受け入れられないことばかりが振りかかって、ふと、私が誰かわからなくなっちゃった」
「…………」
「火葬した後の骨上げ……私、本当はできなかった。遺族も親族もいないから私一人でやってたんだけど、骨を拾い上げる度に寂しさが強くなって、途中で泣き崩れちゃった。大声で泣き喚いて、後は神官にやってもらったの」
ぽつ。ぽつ。
床に風の涙が落ちる。
ぐぐぐ、と拳に力が入り。
腕を小刻みに震わせ、嗚咽を漏らし始める。
「酷いお姉ちゃんよ、私は。だって、妹を満足に弔ってやることすらできないんだから」
「…………」
「笑ってもいいのよ」
「笑わない。笑う奴がいたら私が殴ってやる」
一切のタイムラグのない、素早い返事だった。
いつになく真剣な表情の夏凛を見た風は弱々しく吐息を吐く。
しんと静まり返った空間。樹がいなくなったことによる変化はあまりに大きい。主を失った部屋に目をやると、ドアは開いていて、当時から何一つ変わっていない。そのままを風はずっと残しておきたかったのだろうか。
今一度先輩としての威厳なんてどこかへ消えた風を見下ろす。
皆が皆、全てが自分にとって良い方向に事が進むことなどあり得ない。困難にぶつかって、もしくは壁に阻まれて、どうしてもそこから前に進めなくなることなんて数えるのが嫌になるほどあるだろう。
理不尽に何かを取り上げられることも。
でも、それが生きるということだ。
藻掻いて藻掻いて、その果てにどうしても立ち上がれないことだってあるだろう。風は今、その瀬戸際に立っている。
だから、なんとしてでもこっち側に引き寄せる。
それが夏凛のやるべきことだ。
風の懺悔はすべて受け止めた。ならばこちらの番だ。罪を独白し、風と同じ場所に立つのだ。
「……私は、皆を守るっていう約束を破ったわ」
「そんなこと言ったら、私だって……」
「そうでしょうね。ええ、そうよ。私だけじゃなくて、東郷たちも同じようなことを考えてるでしょうね」
単純でわかりやすい約束ほど、重い。
それを嫌というほど思い知らされた。
三ノ輪銀に怒られる覚悟はしている。どれだけ罵られてもいい。それだけのことをしてしまった自覚がある。
でも。
「でも、そこでへこたれるわけにはいかないのよ。だって、守るべき人は樹だけじゃないから。東郷に園子、友奈、高嶋に赤嶺。それに風、あんたもよ」
「…………」
「そして今、いなくなった友奈のために私たちは全力で探してるの。もしあんたの大切な人の中に友奈……それと私たちが含まれているのなら……助けて」
いくら樹の死を乗り越えたとしても、友奈の失踪は夏凛の精神を容赦なく削っている。
嫌な予感はある。
最悪の事態だって想定しないといけない。でも、それが怖い。もし……もし、そうなってしまった時、また立ち上がれる自信が持てないからだ。
いつしか夏凛は顔が熱くなっていることを感じた。リビングに暖房は効いてないはずなのに、おかしい。
視界が滲む。
そのまま、心の中で強く祈りながら吐露した。
「助けて、風……!」
「――――」
どれだけの時間が流れたのかはわからなかった。途轍もなく長い一瞬だったかもしれない。
風は泣き腫らした目でこちらを見上げている。
すっ、と風が立ち上がる。
ゆっくりと。ゆっくりと歩き、夏凛の前に立つ。
そして。
「夏凛」
耳元で囁かれたような感覚に、肩がピクリと跳ね上がった。
目元を拭い、淡いエメラルドのような二つの瞳が、至近距離から夏凛の目を捉える。
ガサガサの唇が動き、続く囁きが夏凛の耳に届いた。
「今日は、帰って」
これ以上の言葉は受け付けないという、はっきりとした拒絶だった。
「……うん」
それきり、夏凛が風に何かを言うことはなかった。風が持ってきたティッシュで鼻をかみ、涙の跡を拭かれ、促されるがままに玄関に導かれる。
首元がもこもこしたコートを羽織り、靴を履く。とんとん、と爪先で地面を叩いた後、ふと後ろを振り向いた。
「…………」
出過ぎた真似だったか。
今になって、恥ずかしさで悶死しそうだ。
記憶領域のフォルダ、黒歴史に新しいデータが蓄積される――なんてことを考えると、胸に鋭い幻痛が走る。
無意識のうちに顔を歪めながら夏凛は口を開こうとしたが、風の顔を見て、やっぱりやめた。
言おうとしていた言葉を訂正しよう。
今、風に投げかけるべきは――。
「また、明日ね」
白い歯を見せつけて、夏凛はそう言った。
◆
まず、赤嶺の視界に飛び込んできたのは白だった。
視界がボヤけていて、よく見えない。天井であることはわかる。でも、犬吠埼家の家でも夏凛の家のものとは少し違う。
まあ、間違いなく病院だろう。
そう結論づけた後に目元を擦ろうとして、気づく。
「あ」
左肘から先が、ない。余った裾が垂れ下がっている。
霞んでいた意識が一気に覚醒する。
ガバッ! と上半身を持ち上げ、素早く状況を理解する。
予想通り、ここは病院。そして赤嶺の隣には高嶋が眠っていた。
高嶋のベッドサイドには、戦闘に使われていた武器が丁寧に置かれていた。手甲と、大鎌。前者は本人のものだから言うことはないが、大鎌――大葉刈に至っては疑問が湧く。記憶が正しければ、あれは千景の武器だったはず。
西暦の勇者たちの武器にはそれぞれ霊的な力が宿っているという。しかし、大葉刈が主人ではない高嶋の元に姿を見せたのはどうも納得がいかない。
……そういった考察はあまり得意ではない。
思考を放棄した赤嶺は、次に身体の鈍痛を感じた。恐らく征矢に斬られた内臓がまだ完治しきっていないのだろう。傷が開くといったことはなかったが、激しい動きなどはあまり身体によくないようだ。
ぽすん、とベッドに背中を預けた赤嶺はもう一度眠ろうと瞼を下ろす。
友奈たちに会って戦闘結果を確認したいところだが、こういう何もない時間も悪くない。甘んじてこれを堪能しようと自分を許す。
……ぷに。ぷに。
誰かに頬を突かれている。
ぷにぷにぷにぷに。
ちょっと、しつこい。
「んんー……」
大きく頭を振った赤嶺は素早く相手の手首を掴み、眠りに落ちそうだった意識をもう一度覚醒させて見開く。
「いた、いたたたたた……」
するとそこには、さっきまで眠っていたはずの高嶋がこちらを見下ろしていた。
「あ、ご、ごめん」
無意識に力を入れすぎたようだ。
慌てて手を離そうとした赤嶺はふと気づいた。
高嶋の指が一本、ない。
薬指がない。
左手は包帯でぐるぐる巻きにされ、見るに痛々しい。
「?」
それに、不思議そうに小首を傾げる高嶋の右腕がない。肘すらなく、肩口からなくなっている。
「良かった〜。やっと起きたね、赤嶺ちゃん! まあ、実は私もさっき起きたばかりだったんだけど」
「そっか……」
「……酷い怪我だね。大丈夫?」
「大丈夫……ではないかな。でも、そんなこと言ったら高嶋ちゃんだって」
腕を失うとは想像を絶する不自由を強いられる。自然と高嶋の視線が赤嶺の左腕に落ちる。
「でも、私たちが生きてるってことは、戦いには勝ったってことだよ。そこは喜ばないと!」
無性に食欲が湧いてきた。
この飢餓感から察するに、数日間は寝たきりになっていたはずだ。
うどんは捨てがたいが、肉。肉が食べたい。ガッツリ食べて、太ることなんて考えないでお腹いっぱいになるまで食べたい。
今ならストッパーの蓮華もいないし、絶好の機会だ。
「私たち、起きたわけだからナースコールをして知らせたほうがいいよねー?」
ナースコールボタンを探しながら高嶋が尋ねてきた。手伝ってやりたいのは山々だが、あまり動けない赤嶺は「そうだね〜」と返した。
あの戦闘はふたりがこの時代にやって来たから発生したものだと征矢は言っていた。
ならば、まだ生きていると知った敵は果たしてこのまま大人しく引き下がるのだろうか?
いいや、そんなはずはない。赤嶺ならより準備を整えてから今度こそはと襲う。
何が何でも、必ず殺すという強い殺意とともに。
だからこれですべて終わり、というわけではない。
寧ろ、最優先でやらなければならないことが明確になった。それは一刻も早く元の時代に帰ること。そうすればこの時代に及ぼす影響は収まるはずだ。
そのためにも、はやく腕時計を直さなければ。
――刹那。
赤嶺は病室の空気が変わったのを感じた。
高嶋も感じたのだろう、見つけたナースコールのボタンを押す手前で弾かれたように顔を上げる。
窓は締め切っているはずなのに、なぜか冷たい風が舞い込んでくる。
その元を辿るように視線を横に振った。
すると、窓は開いていた。そして部屋の角の方に静かに佇む死の影がいた。そこだけ隔絶された世界のように薄暗く、ふたりの見知った光が揺らぎ、存在を主張している。
咄嗟に戦闘態勢に移ろうとした赤嶺だが、腹部の痛みに動けない。高嶋は咄嗟にベッドサイドの手甲を手にとって構える。
カツ、カツ、と侵入者は乾いた足音を鳴らしてこちらに近づき、三メートルほど離れたところで足を止めた。
生唾を飲む音は、果たしてどちらが鳴らしたものか。
次に息を呑む。
……まずい。
赤嶺は額に脂汗を滲ませる。
侵入者……征矢は僅かに口角を上げた。バイザーから放たれる光は、まるで死へ誘う焔。
あの時、赤嶺に一瞬だけ向けられた優しい態度が気のせいとしか思えないほど、純粋ながらも粘性のある殺意。
すると征矢は微笑を消し、超然とした表情でしばしふたりを見る。
そしてゆっくりと告げる。
「――私がここに来た理由は……言うまでもないな?」
――時、来たれり
男はそう悟った。
【Infomation】
▼征矢の運用システムの変更を検討開始
それではまた次回!