何事もほどほどにね☆
「…………は?」
夏凛は呆けた顔をしながらも自然と拳を強く握りしめた。
風に呼び出され、友奈たちが部室に入ると、見慣れないものがあった。机の上の開かれたスーツケース。そしてその中にあるのは、かつて使っていた携帯……大赦に回収されたはずの勇者デバイスだ。
「風先輩、これって……」
友奈がゆっくりと尋ねる。
「バーテックスの生き残りがいたらしいの。……ホント、帰ってきたばっかなのにいきなりでごめんね」
「先輩が悪いわけじゃありませんよ」
そう言いながら友奈は携帯を手にとった。普段使っているものは手に少し収まりきらない大きさだったから、すっぽり収まるこれのほうがなんだかんだ慣れている。手慣れた操作で電源を入れ、起動する。
すると突然、精霊の牛鬼ともう一体が画面から飛び出してきた。猫のような姿で、手足がメラメラと燃えている。
「わわっ⁉ この子は新しい精霊なのかな?」
「あーそれね。あたしもなんか一体増えてたのよ」
携帯を操作して呼び出すと、確かに狗神と見知らぬ精霊が出現した。
つられて東郷たちも携帯を手にして精霊を呼び出すと、夏凛以外は増えていた。東郷は元々三体いたため、これで四体目だ。
煮干しを齧りながら夏凛は眉をひそめて不満を口にした。
「私だけ増えてないってどういうことなの?」
「わからない。たぶんあんたが完成型勇者だからなんじゃないの? あたしらはトーシロだから戦力増強すべきって判断されたのかも」
「それならまあ……納得かも。敵の一斉攻撃を凌いでみせたんだもの。生き残りくらい、お茶の子さいさいよ!」
友奈たちの勇者としての力は初めに比べて大幅に上昇した。封印の儀すらままならなかった頃と比べると雲泥の差だ。
胸元に飛び込んできた牛鬼の頭を撫でながら、友奈は未だ浮かない顔をする東郷を見た。夏凛兄妹の喧嘩の時からずっとこのような調子だ。現場にいたからこそわかるが、夏凛の兄が言っていたことは……おそらく嘘だ。しかし何を隠して嘘を言っているのかまではわからない。
「大丈夫だよ東郷さん。夏凛ちゃんの言う通り、私たちは強いんだから勝てるよ。……それに、何があっても私は東郷さんを守るから」
「…………ありがとう」
今考えるべきことは、バーテックスだ。もちろん文化祭についての話し合いもしたいが、たとえ生き残りであろうと神樹様と接触すれば全てが終わる。優先順位的に仕方のないことだ。
『それでお姉ちゃん、いつ来るの?』
綿のような緑色の精霊が樹の頭の上でぽんぽん飛び跳ねている。
「次の新月から四十日の間って予想されてるそうよ」
『結構長いんだね』
樹は精霊を摘んでスケッチブックの上にのせる。一気に精霊たちが増え、今やちょっとした動物園のよう。その分騒ぎ出すと簡単に収拾がつかなくなってしまうことが難点だ。
バーテックスの襲来にはまだ時間がありそうだ。その間に新しい精霊たちのことを知っておかなければならない。すでに東郷は四体すべてを従え、「整列!」と号令をかければ嘘のようにピシッと横に並ばせられるほどだ。
「さっき夏凛も言った通り、あれだけの猛攻を防いだんだから、今度は楽に倒せるはずよ。とはいっても油断は禁物。……勇者として今度こそ本当に最後のお役目。しっかり果たすわよ!」
腕を高く突き上げて叫んだ風に続いて友奈たちも「おー!」と声を張る。旅行の時はずっと抜けていたが、いざという時はこうして我を主張する風の横顔が、友奈には眩しく見えてしまった。
……が、あれからバーテックスが襲来することはなく、新月を迎え、さらに夏休みが終わって二学期が始まってもこれといった動きはなかった。勉学に励み、部活で依頼をこなす何気ない生活が続いている。
精霊たちの世話に焼かれながらも賑やかな日々を過ごせている。犬吠埼姉妹と東郷は抱えた不自由を受け入れながら普段通りの生活を送れている。しかし、それでも樹とのコミュニケーションは困難で、常にスケッチブックを持ち歩いていないと意思疎通ができないレベルだ。筆談するにしても長い文章を書くと時間がかかってしまう。風をはじめ、友奈たちもなるべく簡単に答えられるように話をふるように心がけている。
それに風は受験生だ。勉強が忙しくなり始めているのは誰の目から見ても明らかだった。
運動部は夏の前から最後の大会が始まり、これに敗退したら三年生は終わり、というのがセオリーだ。だが勇者部には大会なんてものはないし、そういった明確な区切りも存在しない。きっと卒業する最後まで在籍するだろう。
なるべく風の負担を減らしてやりたい……というのが友奈の思うところだ。だから、近々襲来するバーテックス戦ではできるだけ風には戦わせずに終わらせたい。
「そういえばあんたたち、バーテックスが来てもちゃんと戦えるんでしょうね? 私は鍛えてるからいいんだけど」
椅子の背もたれに全力でもたれる夏凛がそんなことを言った。今日の勇者部の活動はなく、文化祭に向けて話し合いをしただけだ。
『きたえてはないですね』
樹が気まずそうにしながらスケッチブックをこちらに向ける。夏凛以外の全員に元から体を鍛える習慣はなく、せいぜい登下校で歩くことと、体育の授業が主な運動の機会だ。
もちろん例外なく友奈もそれに当てはまっている。
「戦えるよ! 鍛えてはないけど!」
勇者としての実力は確実に上がっている。連携もよく取れているし、あとはコンディションの問題だ。元気いっぱいに返事をするが、夏凛はどこか納得いかないような顔だった。持っていた煮干しの袋に手を突っ込み、鷲掴みした煮干しを口に放り込む。
「っ。ふぅ。わかってるとは思うけど、これで最後なんだから私は慢心せずにやりきりたいの」
風はそれに「そっか」とだけ応えると、窓を開けて顔を出した。若干強い風が吹いていて、髪が大きく靡く。大きく息を吐くと、こちらに向き直った。
「まあ……そうね。大赦にあんなに良くしてもらったんだからちゃんと目に見える形で返さないとね」
「ですが鍛えるといってもどうするのですか……?」
今日の活動記録をパソコンに入力し終えた東郷が疑問を投げかける。
「そんなの、私の家に来たらいいじゃない。あらかた道具は揃ってるんだからみっちりしごいてやるわ!」
「それって筋肉痛になりそうな予感が……」
「甘いわよ友奈! 筋肉痛になるってことは、筋肉が鍛えられてる何よりの証拠! 私の勘では来週くらいに来るからそれまでにあんたたち全員を仕上げてみせる!!」
妙に気合が入っている。拳を握り、決意に満ちた表情でふんすと鼻を鳴らす。
……夏凛が勇者部の活動をサボった日を思い出す。誕生日を祝おうとしたができず、代わりに家に突入してそこで行ったこと。本人は嫌々だったが、最後にはすっかり楽しんでくれた。今では自分から家に誘うようになり、微笑ましい限りだ。
『でも勘って?』
「女の勘よ」
「――知ってる? 女の勘は悪い意味でよく当たるそうよン」
音もなく夏凛の背後をとった風が語り、夏凛は猫のように高く飛び跳ねて後ずさる。
「うわあああ⁉ もう、びっくりするでしょうが!」
「あはは! 今の動きは凄かったわ。これなら安心ね」
こうなったら簡単にバーテックスを倒せるほど鍛えてもらおうと考え、具体的にどのようなことをするのか尋ねようと口を開いた、その時だった。
手元の携帯から聞き慣れたアラーム音が鳴り響き、激しく震え始めた。
突然、心臓がわけもなく鼓動が早まる。指先が冷たく痺れる。友奈はぎこちなく首を動かして窓から外を見下ろした。
まだ外で部活をしていた学生たちが完全に動きを止める。これはまるで時間停止のそれだ。
「……なんてタイミング。でも上等よ! 殲滅してやるわ!」
夏凛の頼もしい言葉に、友奈の緊張はほぐれた。
……そうだ、友奈は極度に緊張していたのだ。これほどのことは、今までなかったのに。何からくるものなのかわからない。……きっとちゃんと戦えるかという不安から来ているのだろう。
彼方から虹色の景色が迫りくる。胸に手をギュッと押しあて、大きく息を吐いた。
そして、大丈夫と自分に言い聞かせた。
◆
張り巡らされた無数の虹色の根のひとつの上に友奈たちは現れた。向こう岸の壁から生き残りがやってくるはずだ。相変わらずステージが複雑すぎて、根が森のように入り組んでいる。敵が巨大なら発見しやすいが、小さければ困難だろう。
後ろを振り向けば、遥か遠くに神々しく輝く新樹様が聳え立っている。あそこにバーテックスに到達されると終わりだ。
「敵は一体。数分で森を抜けます」
敵の現在位置を携帯で確認した東郷が報告する。
「……よし。これで最後よ。皆、いくわよ!」
風の号令で全員が携帯の勇者システムを起動させて勇者服を纏う。
久しぶりの勇者服に友奈は足を軽く動かし、拳を開閉させて順に違和感がないかを確認する。そして最後にバシッ! と両拳を打ち合わせた。
手の甲に刻まれた桜の模様を見ると、満開ゲージはゼロだった。
「よぅし! じゃあまたあれやろうか」
皆の前に出た風が言うと、東郷が「了解です」と言いながら隣の夏凛の肩を掴んだ。何をするのか察した夏凛も「ほんと好きね」と言いながらも樹の肩を掴む。そして樹は友奈の肩を掴んで……と、最後に風と円陣が出来上がった。
「勇者部ファイト!」
「「おー!!」」
バーテックスが森を抜けたのを確認すると、東郷を筆頭に索敵を開始する。しかしそれもほんの数秒で視認する。砂煙を高く巻き上げながら駆け抜けるバーテックスがいる。
大きさは人間と変わらず、首と両手首を拘束板で繋がれている。目を細めて観察していた風が口を開く。
「ん? あれってこの前樹が倒したやつじゃない?」
「もしかすると、二体でいるのが特徴のバーテックスかもしれませんね」
「ということは、二体でセット。双子みたいなものかな? ……よぉし! 結城友奈、行きま――」
「待って!」
「!」
鋭い風の命令に動きを止めた。
すでに身体はいつでも戦える状態だ。対して風はまだ武器すら構えていない。友奈は疑問に思いながらも聞き返した。
「どうしたんですか風先輩?」
「い、いや……ちょっと……ね?」
歯切れの悪い返事だ。それに目が泳いでいる。数分前まではあれほど威勢があったのに、急にしおらしくなっている。
左手が顔に伸び、左目の眼帯に触れている。
たぶん無意識の行為なのだろう。しかしそれで友奈はわかってしまった。心のどこかで恐れているのだ。戦うとまたどこか身体がおかしくなってしまうのではと。樹と東郷もどこか尻込みしている節がある。
風を休ませよう。まだ不調が治っていないのがその証拠だ。これはふたりも同じ。夏凛となら問題なく倒せるはずだ。
友奈は自身の満開ゲージを確認してから夏凛に声をかけた。
「夏凛ちゃん行くよ!」
「ええっ⁉」
「待ちなさい友奈! これは――」
「風先輩たちは後衛にまわってください! 私と夏凛ちゃんで仕留めます!」
風の静止を無視して友奈は勢いをつけて大ジャンプした。その後を夏凛が続く。
上空からならバーテックスを見下ろすには最適だ。すばしっこさが売りであることは知っている。だからここは奇襲して大きな一撃を与えるのが最善手だ。
落下予測と敵の移動予測に計算なんて不要。おおよその勘で事足りる。
「夏凛ちゃん、合わせて!」
「ええ!」
圧倒的高所から純粋な落下エネルギーをぶつけるべく、夏凛と拳を合わせてバーテックスの背中に重撃を食らわせる。
ガゴ! と重い衝撃が空気を震わせ、横殴りの一撃がバーテックスを大きく吹き飛ばした。
追撃の一手を加えるべくすかさず肉迫した友奈は右半身を仰け反らせて腰を捻る。
「勇者……パ――」
友奈の基本は超接近戦での拳撃で、敵の懐に踏み込む超アタッカー。当然そのリスクはつきものだ。
手を拘束されているため、容易に起き上がれずバタバタと暴れまわっているところをチャンスと見て繰り出す拳。だが、バーテックスの恐るべき反応速度によって、無防備な脇腹をギリギリで展開された精霊バリアと一緒に蹴り飛ばされる。
バリアによって阻まれていたとはいえ、身構えることすらできずに受けた超攻撃。衝撃が内部に届き、一瞬だけ呼吸ができなくなり、激痛が襲う。さらに内臓が押し上げられ、不快感にえづく。しかし喉元までこみ上げた胃液は吐き出すまいと着地するまでに無理やり飲み込んだ。
……気持ち悪い。
背中を激しく打ちつけ、肺から強制的に空気を吐き出されて意識が明暗するも、すぐに立ち上がる。
激痛が走り、今もじんわりと全身に広がっているが死んでいるわけではないからまだ戦える。
夏凛に名前を叫ばれるより「大丈夫!」と大声で叫んでから持ち場に戻る。すでに夏凛によってバーテックスの両脚は切断され、封印の儀を始める用意は整っていた。
「あんた絶対大丈夫じゃないでしょ⁉」
目を見開きながら近寄ってきた夏凛が脇腹を優しく触れられる。まだ痛みを殺しきれてはおらず、鈍痛が走る。
すでに風と樹もバーテックスを囲うように位置取りをして封印の儀を始めようとしている。最後の足掻きとばかりに暴れるが、東郷の精密な超遠距離射撃によって頭部を吹き飛ばさ、止めの一撃とばかりに風が大剣の面の部分で叩きつけた。
「先に樹に援護させようと思ったけどいらなかったわね。動ける? 友奈」
こちらからは見えないが、風が親指を立てて東郷にサインを送る。
「そんなに触られたら痛いよ夏凛ちゃん。でも大丈夫! こんなにピンピンしてるから!」
何度か飛び跳ね、さらにボクシング選手のように数発ジャブを繰り出す。
「なら……いいけど」
心配そうな視線を浴びせながらも夏凛は自分の持ち場に戻っていく。
駆け足でバーテックスの正面に向き直った友奈は封印の儀を実行する。風が大剣を地面に突き刺して掛け声をかけ、精霊を呼び出す。するとバーテックスの足元に模様が現れ、周囲を四色の花びらが螺旋状に舞い上がり始めた。
身じろぎひとつしなくなったバーテックスの輪郭が淡く発光し始め、うなじ辺りから心臓ともいえる三角錐の形をした御霊が――。
「ええええ⁉ 何よこの数ーー!!」
夏凛が叫びながら一歩引く。
予想を裏切られ、現れた御霊の数は数えることができない。瞬きの間に地面はサッカーボールサイズの御霊で溢れかえってしまうほどだ。こうなってしまっては単体攻撃ではなく範囲型攻撃で一気に殲滅しなければならない。この場でそれができそうなのは……隙間を狭くした籠のようにワイヤーを編むことのできる樹だ。
咄嗟に喉を上りかけた『い』の音を必死に飲み込んだ。
風は思いとどまる。勇者としての力を振るうことでまた何か良くないことが起こるのではないという恐怖があった。下手に満開ゲージを溜めることは危険なことかもしれない。
樹に任せなくても、新たな精霊の力を使えば自分にだってきっとできる。風はみんなに聞こえるように声を大にして言った。
「締めは私にやらせてもらうわよ!」
「いいえ、ここは私がいくわ」
しかし、ここで夏凛が宣言を妨げて一歩前に出た。風は今まで誰にも見せたことのないような形相で吠えた。
「か、夏凛! やめなさい! 部長命令よ!」
必死に呼び止めようとしても意味はなく、夏凛は両手に剣を持ち、構えをとった。
「ふ、ふん! もともと私はあんたたちの助っ人で来てるのよ? そんな律儀にあんたの命令に従ってたまるもんか!!」
ふたりが言い合いをしているうちにも恐るべきスピードで御霊が増加し、現実世界への侵食が進行する。これ以上時間を無駄にすればいくら風や樹、夏凛でも一掃することができなくなってしまう。
……友奈は自身の体調を確認する。風たちのように異変を感じる部位はない。強いて言うなら足蹴りをくらった脇腹がまだ痛むだけだ。
たとえ症状が現れても時間が経てば治ると大赦は言っている。なら臆することはない。
……勇者であれと、勇気を持って一歩を踏み出す。
もう一体の精霊を呼び出し、その力を纏う。しかしその様子を樹に気づかれてしまうが、声が出せないから止めることはできない。
ごめんねの意味を込めて微笑みかけ、友奈は高く飛び上がった。
「勇者……キッーーク!!」
足に炎を集中させ、一直線に御霊の発生源に飛び込む。すると地面が赤く燃え広がり、広範囲を圧倒的な熱量で灼き尽くす。耐えきれなくなった御霊は虹色のノイズとなって消滅し、バーテックス本体も砂になってその身体を崩壊させた。そして周囲には焼き焦げた跡だけが残った。
空へ上っていく残滓を仰ぎ、携帯を手にとって無事にバーテックスを封印出来たことを確認する。これで本当に終わりのようだ。
ヘドロのように重苦しい息を吐き出してから携帯をしまう。
「……終わったね。うん、『なせばなんとかなる』ね!」
友奈の周りに皆が集まり、第一声をかけたのは風だった。
「友奈! なんとかなったものの、勝手は駄目じゃな――」
最後まで口にすることはなく、風は友奈の右手の甲を見て硬直している。手を翻して見てみると、満開ゲージが溜まっていた。
それを見て全員が言葉を失うが、友奈は努めて陽気であろうとした。あはは、と小さく笑って右手を後にまわす。
「ご、ごめんね先走っちゃって。新しい精霊の力を試したくてつい。海よりもふかーく反省してます!」
かっこよく額に手を当て、兵隊がするようなポーズを取る。
すると東郷が、友奈の身体をぺたぺたと海で日焼け止めを塗ってくれた時と同じように全身に触れた。
「東郷さん⁉ くすぐったいよ⁉」
「大丈夫友奈ちゃん? 身体は平気?」
「うん、大丈夫! 元気そのものだよ! 皆に怪我なく終わって良かった……!」
満面の笑みを浮かべながら樹の頭を撫でる。花びらが舞い上がり、奇妙な感覚に襲われる。実際に経験したことがあるわけではないが、例えるなら幽体離脱するような感覚。
……現実世界に戻されるのだ。
これで勇者のお役目はすべて終えた。あとは帰って文化祭の話し合いがしたい。さらにこれは高望みだが、またもう一度この前のような旅行に行かせてほしい……なんて思いながら友奈はそっと目を閉じた。
◆
そこは見慣れた学校の屋上ではなかった。
ちょっとした社があり、申し訳程度にお賽銭箱がちょこんと前に置かれている。
不安げに周囲を見回すと、東郷がひとつ上の壇上で右往左往していた。
「東郷さん!」
「友奈ちゃん!」
互いに身を寄せ合い、安堵する。
ここがどこなのか、ヒントとなる建造物がないかを探していると、奥にひしゃげた大橋があるのを視認した。
「あれって大橋だよね? だとしたら私たち結構遠くの場所に飛ばされたっぽい」
「そうね。……あれ? 私の改造版でも電波が届かない……? そんなまさか……」
東郷はパスワードを入力しても起動しそうにない自分の携帯とにらめっこをしている。友奈も同じようにパスワードを入力しても動じる様子はなかった。
「どうやって帰ろう……? タクシーとか? でも私たちいまお金持ってないし……」
ポケットを漁っても出てくるのはハンカチとティッシュだけだ。普段から財布を持ち歩くことすらない中学生には厳しい話だ。目配せしても当然東郷も首を横にする。
「別にいいんじゃないかしら? 歩いて帰ろう友奈ちゃん。時間はかかるだろうけど、その分長く一緒にいられるじゃない」
「おお! 確かにそうだね! じゃあ行きますかー!」
東郷の車椅子の背後にまわり、グリップを握る。反転して気をつけて段差を降りようとした時、社のさらに後ろの方から声が聞こえた。
「ちょ、ちょっと帰るのは困るなーわっしー。せっかく呼んだのに〜」
甘い甘い、脳が蕩けそうなほどのんびりとした声だった。おそらくこちらに向けられたものだ。友奈は警戒しながら車椅子を押し、声のする場所へと向かう。
社の影になって今まで見えていなかっただけで、角度を変えて覗くと、大きなベッドが姿を現した。そして少女がひとり、ポツンと身を預けていた。全身を包帯に巻かれ、口元と左目しか素肌を晒していない。病衣を羽織り、穏やかな表情でこちらを見つめている。
「こんにちは、わっしー。結城友奈さん。私と会うのは初めてだよね?」
「そう、ですね」
友奈はなるべく目を見て返事をする。まじまじと見つめるような真似はしない。それはかえってこの少女に失礼だろうから。
「あ、まだ名乗ってなかったね。私は乃木園子っていうの〜。よろしくね〜」
「は、はい。よろしくお願い、します……?」
「早速なんだけど結城さんに訊きたいことがあって〜。私の姿を見て、どう思った?」
「――――」
突拍子のない残酷すぎる質問に、友奈はぴくりと眉を動かした。
右手の指先にはめられたパルスオキシメーター。サイズの合っていない病衣。もしかして四肢が欠損しているのかと考えたが、影が落ちている様子はない。しかしこうして遭遇して、今に至るまで身じろぎひとつしていないのだ。単にそういう人間なのか、それとも文字通り指先すら動かすことができないのか友奈にはわからない。
たった数歩で接触できる距離なのに、その何倍も遠くに乃木がいるように見えてしまう。だが目を離すことができなかった。これは先程抱いた乃木に対する不敬ではなく、もっと別の何かだ。この違和感を言語化することができない。乃木になんて答えればいいのかわからない。
わからなくて、できなくて、わからない。できない。できない。わからないからできず、またできないからこそわからない。だからできない。でもわからないから当然であって、ならばできないのも当然だ。ならできればいいのに、できない。だからわからない。できないからって無理しても結局はわからないからできないに戻ってくるのだ。そしてわからない。できない。
その狭間、また無限ループに囚われ、胸につっかえるもどかしさをすっきりさせることができず、喉の通気口が細くなり、呼吸が浅くなる。
……しかしながら、これだけはわかる。できる。答えられる。
「特に…………。いえ……ちょっと頭の中がごちゃごちゃして……わからないです」
となぜか自分自身にもわからないまま嘘を吐いた。
前傾姿勢に入りました。あとは堕ちていくだけです。
どこかで知ったことですが、大丈夫って言う人ほど大丈夫じゃないらしいですよ。
今度こそすべてが終わった。
結局、彼女たちは大人に振り回される、十年と少ししか生きていない可愛くて愛くるしい子供に過ぎないのだ。
頑張って答え合わせまでは書きたい。
ではまた次回――