その無知は引き剥がされる。
答え合わせ。
――小刀、一閃。
過たず捉えた友奈の胸。
しかし、それは端末から飛び出してきた牛鬼によって東郷の時と同じようにバリアによって防がれた。
小刀が床に突き刺さり、友奈はそれをまるでサーカスの演目に驚いたような目で見下ろす。
命を懸けた戦いを経験しているからこそわかる。今の投擲は、命中すれば友奈を絶命しうるものだった。
風は無言で東郷の手加減することなく頬を張った。……誰も見たことのない憤怒の形相だった。バチン! と甲高い音が鳴り、さらにその胸元を掴み上げた。強引に車椅子から立たせ、床へ投げ捨てる。
「……あんた、見損なったわ。帰ろう友奈」
風が友奈の手を取り、部屋を出ようとする。
いつも友奈好きを公言しているはずなのに、今の行動は到底許しがたいものだった。これは警察沙汰にも発展する。呼ぶべきかどうか頭の隅でチラついたが、そんなことをまともに考えられないくらい混乱してしまっていた。
自殺を試み、さらにそれに失敗したからといって友奈に手を出したのだ。
「――待ってくださいっ!」
東郷の大きな声に、風はそれ以上の声で叫んだ。
「待たない!! あんたみたいな狂った奴の近くに友奈をいさせるわけないでしょ⁉」
「お願いです! 私の話を聞いてください!」
「誰があんたの言葉を信じると思ってんの!! それ以上口を開いたら黙らせるわよ⁉」
激しい言い争いが続く。東郷は必死に腕を伸ばして床を這いつくばり、車椅子に手を伸ばそうとしている。しかしそうはさせないとばかりに風は車椅子を蹴り飛ばした。そして急いで友奈を廊下へと押し出そうとした。しかし友奈は今ひとつ状況が理解できていないようだ。「え? え?」と困惑しながら風の覇気迫る勢いに流されている感じだ。
「ちょ、ちょっと風先輩?」
「家に……! いや隣接してるからダメか。じゃああたしの家に来なさい! ついでに今日は泊まって――」
「えっと、風先輩はなんでそんなに怒ってるんですか? 東郷さんに手を上げるなんて駄目ですよ。ちゃんと謝らないと」
「………………………………………………………………………………、は?」
これまで頂点に達していた怒りや困惑、悲しみの混じった感情が一気に冷めるのを感じた。
友奈はよくわからないといった調子で風を問い詰める。もしかして風のやっていることの方が狂った行動なのかと錯覚してしまいそうだった。
その間に風から離れた友奈は蹴り倒された車椅子を起こし、自分を殺そうとした東郷を抱きかかえて丁寧にそれに乗せたのだ。常軌を逸する行動にパニックになり、風は現実を疑う。
今、ひょっとすると悪い夢を見ているのではないか、と。いやしかし朝食にうどんを四杯も平らげたから意識はしっかりしているはずだ。
助けられたはずの東郷は顔を伏せ、嗚咽を漏らし始める。ぽたぽたと床に涙が落ち、場の混乱に拍車がかかる。
その目の前に友奈は膝を付き、赤くなった頬に手を伸ばしながら覗き込むように様子を窺った。
「東郷さん大丈夫?」
その屈託のない優しすぎる言葉についに東郷の我慢が限界を突破してしまった。
友奈の手の上に自分の手を重ねて泣き叫ぶ。
「大丈、夫じゃ……ないよ……ッ! 友奈ちゃん……! どうして……!」
ぐいっ、とそのまま強引に引き寄せられ、頭が東郷の胸に収められる。まだ状況が理解できない友奈はされるがままだ。
「どうして友奈ちゃんは……さっきのを避けようとしなかったの……」
東郷と友奈の距離はある程度離れていた。だから何かしらの反応――回避行動をとったり、身をすくめたりできたはずだ。しかし友奈はそのような行為は一切せず、逆に比較的距離の近い風の方が反応速度が速かった。
勇者としての戦闘経験ならば、勇者システムによって身体能力が強化されていなくても直感的に反応できるはずだ。
なのに友奈は何もしなかった。東郷の本気の、人殺しになり得る攻撃に対して完全に無防備を晒し続けたのだ。あまりの異質さが逆に東郷の中のある仮説が現実味を帯びる。
「勇者は死なないから……だと思うけど……?」
「っ……! それはおかしいよ……友奈ちゃん…………」
――さも当然のように語る口から、人間として致命的に欠けた『何か』がついに姿を現した。
「友奈……何、言ってるの……?」
風もぼんやりと『何か』を認知することができた。言葉にできない不明瞭な欠落。しかしそれなくして人でない決定的なモノ。
散華をするものとしての候補はずっと四肢か五感のいずれだと東郷は予想していた。実際自分自身と犬吠崎姉妹はこれに当てはまっているからだ。友奈もその例に……と思っていたが、それはより悪い意味で裏切られた。
凍りついた風の顔つきが溶けることはなく、ふらふらと近づいて友奈の両肩を掴んだ。
「自分がおかしいってわからないの……?」
「おかしいって……え? 私はいつも通りですよ? 結城友奈、昨日は元気に休んだので今日は元気百倍です!」
「――――――」
……風は何も言葉をかけられなかった。
言葉が見つからない。どうしようもないこの絶望を表現するに相応しい言葉が見つからない。
身体的に何を捧げたのかはわからないが、大まかになら完全に理解した。その残酷さもだ。これは、三人の散華などまるで甘えのようにすら思えるほどだった。
顔をくしゃくしゃにして上を仰ぐ。
……ああ!
……ああ!
いったいあたしはなんて酷いことをしてしまったのだろうか!! 勇者部に招き入れなければこんなことにはならなかったはずなのに!! すべて、すべてあたしの責任だ……!!
許されない罪を、たかが中学三年生がどうやって償おうというのだろう。
そのまま身体を引き寄せ、普段樹にするよりも遥かに力強く友奈を抱き締める。 そして友奈の服を汚してしまうことなどお構いなしに顔を埋めて大声で泣いた。
「ぅ、あ、あああアあアアア――……ッ!! ごめん! 本当にッ……ごめんな、ざい!!」
十年と少ししか生きていない少女には、こうして感情を爆発させて謝り続けることしかできない。その中で、自分は大した力のない、ただの子供であることを思い知らされる。
勇者だなんて大層なお役目を頂戴しようが、満足に罪の償い方すら知らない未熟な子供なのだ。
「え? え? なんで泣くんですか⁉ なんだかふたりともおかしいですよ?」
振りほどくこともせず、友奈はひたすら必死に謝り続ける風をたしなめるように頭を撫でながら東郷に助けを呼んだ。しかし東郷は泣きじゃくるばかりでまるで力になってくれそうにない。
ようやくただならぬ事態であることをなんとなく理解した友奈は陽気な態度をやめ、落ち着いた口調で話しかけた。
「どうしたの、東郷さん」
「試すために殺そうとしたりしてごめんね……! でも、友奈ちゃんが何を散華したのか私っ、わかっちゃた……!」
「気にしないでよ東郷さん。それより私の散華がわかったんでしょ? いいことだよ」
「よくない! 全然良くないっ!」
大きく頭を振り、どこまでもわがままを突き通そうとする幼い子供のようだ。普段の東郷なら絶対にしないようなことを今、大切な友奈の前でしている。……それも友奈の言葉を否定してまで。
嫌だ嫌だと激しく首を振る東郷を尻目に、本棚の上に飾られている写真立てを見た。数枚は勇者部全員を撮ったものだが、それ以外はすべて友奈単体のみか、東郷と一緒に写っているものだった。
そして自分がどれほど大切に思われているかを知る。思われているからこそこれほど泣いている。
言うべきか、言わざるべきか。その判断に苦しんでいる。いつまでも抱え込んだままではきっとどっちにとっても辛くなる一方だ。だから今ここで吐き出させてあげよう。
「……いつか知るよりも、今知るほうが気が楽になると思うから、できたら教えてほしいな」
すると風は身体を引き離して懇願するようにお願いしてきた。
「やめておきなさい……。お願い。これは知らないほうがいいのよ……」
「でも、いつまでも逃げるわけにはいきません。いつかは向き合わないといけないから、なるべく早いほうがいいと思います」
知らないまま過ごしてきたツケを未来で払わされるより、今知り、徐々に受け入れるほうがよっぽど楽だ。
「そう……。友奈は『強い』のね」
「そんなことはないですよ。……さあ、東郷さん。教えてくれる?」
親友に散華を告げるということは、確信があり、揺るぎないものであるという意味を含む。この余命宣告のようなことを果たして容易に口にできるだろうか。惨たらしくも慈悲に満ちたこれを、いったい誰がしようものか。
……しかし、
誰よりも大切な親友のためにどんな残酷なことでもしてみせる。これからずっとその障害に対して無知だあり続けるより、たとえ傷つけてでも早期に未来で成長しきる癌を切除してみせようという愛ゆえに。
奥歯が割れそうになるほど力強く歯を食いしばる。そして、言った。
「友奈ちゃんは……危険を認識することができない。だから頭を打っても平気だし、バーテックスに蹴られてもすぐに立ち上がった。痛みを本能的な『痛み』として認識できない」
ふとこの間完治したばかりの頭の傷に意識が向く。
これは夏凛を説得するときに不慮の事故によって負ったもの。しかしこの時はそんなことより夏凛の方が大切だった。
危険がわからない……? 東郷の言っている意味がよくわからなかった。そんなことはない。一昨日のバーテックス戦だって、気をつけていたから大きな怪我もせず完勝できたのだ。強烈な足蹴りを一度腹に受けたがそれだけだ。
痛かった。痛覚がないとかそういったことはない。痛かった。でも大丈夫だ。なぜならその怪我が致命傷ではないから。その場で動けなくなるほどのものではないから。動けるのならすべては軽症で、大丈夫だ。
……。
…………。
………………。
………………、…………どこがおかしい?
「痛いものは痛いよ? 痛いからこそ……から、こそ……えと……そう! 我慢するんだよ!」
「……虚勢を張るのはやめよう友奈ちゃん」
東郷に手を握られた。そしてそのまま引き寄せられる。風の熱情の抱擁から離脱し、すっぽりと膝上に頭を乗せられた。
優しく頭を撫でられた。一度。二度。三度。
「でもね、本当はその程度のものじゃないの。もっと深いところ。私が友奈ちゃんを殺そうとしても何も抵抗しなかったわ。命の危険なんだよ? おかしいよ。……友奈ちゃんは死に鈍感になってしまったのでは? 言い換えると、生きようとする本能……意志を散華した。思い当たること、ない?」
「いや、そんな――――――――…………。あっ」
虚ろな弾丸に頭蓋を貫かれたような長いラグの後に、脳汁が泡となって熱く弾けた。
思い当たる節が、あった。
あまり食事がとれなくなった。
寝るつもりがなくても気づいたら朝になっていた。
うまく言葉にできないことがあった。
恐怖を感じなくなった。でも勝手に身体が震えるようになった。
怪我をしやすくなった。
どれも満開をした後に起こったことだ。でもこれらは偶然で、たまたまそういう気分、もしくは体調が優れなかっただけだと無意識に自己補完していた。
これらすべては生きる意志を失ったから、というひとつの原因に帰結する。でもこれだと奇妙な点がひとつある。
「でもっ、それだったら私はもう死――」
「何かを無くしてもそこに繋がる回路は生きているの。私の左耳は無意識に音を聞こうとするし、風先輩は眼帯をしているけどものを見ようと目を開いている。樹ちゃんは声が出ないのに声を出そうとする時がある。……私達は惰性でこれまで通りの生活を送ってるのよ。でもいつかは無いことに慣れてしまって……。だから……だか、らっ」
「……私が今生きているのは、
東郷は無言で頷いた。
それは生きているふりをしているのと同義だ。同時に、その回路の接続先が完全に死んでいることが確認されたら……つまりその状態に
文字通り、
その事実にようやく気づいた時、友奈は初めて恐怖を知った。表層的な中身のない恐怖ではない。本能に訴えかけるものだった。その瞬間、指が震え始めた。それだけではない。身体全体が小刻みに震え始めた。
全身から冷たい汗が吹き出し、視界はいつの間にか滲んでしまっていた。呼吸がうまくできない。ひとつまみ分の空気を貪るように吸う。
これはきっと、最後の本能。残った僅かな欠片を束ねて送られた最後の危険信号。
「私、死ぬの……? それは、い、嫌だ……。東郷さん、私死んじゃうの? 嫌だよ……怖い……。怖いよ……! 助けてっ!!」
必死にしがみついた。
両腕でがしりと東郷の両脚を掴み、スカートにぐちゃぐちゃな顔をなすりつけた。涙と鼻水でスカートを濡らす。
必死に生にしがみついた。
何度も何度も東郷は頭を撫でる。
何度も。
何度も。
そして溢れんばかりの感情を爆発させた。
「うん……! うん……!! 絶対助ける!! 何があっても友奈ちゃんを助けるよ!! あの時そう約束したから!」
夕陽の暖かい光が差し込む病院の廊下、あそこで友奈が語りかけてくれたこと。つい数日前のことだ。忘れるわけがない。忘れてたまるか。
あの時互いに助け合うと約束を交わした。友奈がどこまで真剣に受け止めたかはわからないが、東郷にとってこれは誓いだった。
上半身を曲げて友奈の頭の上から覆いかぶさる。全身を使って包み込むことで友奈の慟哭をすべて受け止めた。
優しく。優しく。どこまでも無限に受け止める。
そして、泣き疲れた友奈が眠りに落ちてもずっと抱きしめていた。
「…………東郷、ごめん」
風は目を赤くしながら謝罪を口にした。
「謝る必要なんてありません。寧ろ私を殴ってでも友奈ちゃんを助けようとしてくれたことにお礼を言いたいくらいですよ」
起こさないようにゆっくりと身体を起こし、涙と涙が乾燥してかぴかぴになった顔が覗かせる。当然東郷のスカートも濡れていて、あとで洗わないと、とくすりと微笑む。ティッシュで友奈の顔をキレイに拭き取り、ベッドまで風に運んでもらう。
「私や友奈ちゃんのように、精霊は私達の意思に関係なく活動します。これは死なせないためではありますが、勇者という役割に縛り付けるためでもあると思うんです」
「ごめん…………ごめん」
「謝らないでください。先輩も知らなかったんですから、仕方ないですよ」
誰も知らなかったから仕方ない。免罪符なようなものだが、大赦のせいだと都合よく責任を押し付けることで心の平穏をギリギリで保たれている。どれだけ言葉を言い繕ってもそこに戻ってきてしまう。やるせなさに心に影がさす。
「友奈のこと、あたしにも守らせてほしい。できることなら何でもするから」
風が穏やかな寝息を吐いて眠る友奈の前髪に触れる。桃色の髪は絹のように柔らかく、さらさらと指をすり抜ける。
なんとしてでも守りたいという、強い願い。
絶望と責任。
部長として、先輩としてできることは何か。それは少しでも部員たちを安心させること。
嫌なことが起こってほしくないから、旅行のとき東郷を非難した。だが今となってはそれは正しい行動ではなかった。正しかったのは東郷だった。
どこまでも自分はだめだと思う半面、独りだけでは大したことはできないと気付かされる。
……だからこそ、勇者部の皆で。
「……絶対に助けてみせるわ」
可愛らしい寝顔を見ながら、風は決意を口にした。
◆
目を覚ますと時計はすでに四時を回っていた。およそ二時間ほど寝ていた計算になる。
飛び起きた友奈は手を誰かに握られているのに気づいた。
東郷だ。車椅子の背もたれに背中を預けながら船を漕いでいた。起こさないようにゆっくりと手を移動させ、肩を揺さぶる。風の姿はない。もう帰ってしまったのだろう。
「東郷さん。東郷さん」
「んっ……」
まだ眠りから覚めないようだ。艷やかな唇がもぞもぞと動き、一度頭を上げたかと思うとそれに特に意味はなく、再び船を漕ぎ始める。
今度は頬を摘む。そのまま横に引き伸ばす。柔らかい頬は餅のように伸び、つい友奈は小さく吹き出してしまった。
もう少し伸ばせるかな? と面白半分に試そうとした時、東郷が目を見開いた。たっぷり十秒ほど見つめ合う。
「あっと……」
東郷が『にっこり』とそれはそれは慎ましい笑顔を浮かべる。
友奈も笑顔を返すが、口元が引きつっている。
「ゆ〜う〜な〜ちゃ〜ん?」
「ご、ごめんなさーい!」
「仕返しよー!」
東郷に襲われる。
むにむにと執拗に頬を摘まれ、みょーんと伸ばされる。伸縮を繰り返し、満足して解放される頃にはすっかり頬の筋肉が緩くなってしまっていた。
ベッドから起き上がり、頬をほぐしながら大きくノビをする。
「そろそろ帰ろっかな」
明日は学校だ。これから日常生活が再開される。
散華の正体を知ってしまい、どうしようもない絶望を感じたが、今やすっかり気分が良い。
生きているふりが終わってしまえばその時点で死だ。正直なところ現実味がなく、むしろ楽観視すらしている。
要は生きていればいいのだ。常に生きているという確信を抱き続けていればいいのだ。……が、ただそれだけの意識する必要すらないはずのことが、友奈にとってはとてつもなく困難なことだ。
「送っていくわ」
「送るっていってもすぐ隣だよ?」
「いいのいいの。私がしたいから」
「じゃあお願いするね」
いつも通り東郷の車椅子を押して部屋を出て、外に出る。夏が終わったものの、まだ残暑は続いている。湿気はないが、シンプルな暑さは健在だ。
「……友奈ちゃん」
「なに?」
頭だけこちらに振り向いた東郷は諭すように語りかける。
「精霊が守ってくれるから勇者は死なない。だから友奈ちゃんも死ぬことはないはずよ。でもいつまでも勇者ではいられないから、そのうちに解決策を探してみせる」
「……ありがとう」
あらん限りの感謝を込めて、ただ一言に集約させた。それだけですべてを伝えるには十分だった。
死がわからない。
今になって振り返るとあれほど泣きじゃくっていた自分が馬鹿に思えてきた。そこまで大げさにならなくていいのに、と。
石畳の地面を通り過ぎ、正門をくぐる。すぐ左隣の家こそが友奈の家で、『結城』と表札がある。
「じゃあね、東郷さん。また明日」
「ええ、また明日」
これだけは、何があっても変わることのない会話だった。身体の髄まで染み付いた不変のもの。
車椅子のグリップを離し、東郷に背中を見せて家に帰る。特に何らおかしなことなどない日常だ。しかし、それは突然聞こえてきた鋭い悲鳴によってかき消された。
何事かと振り向けば、ひとりの男性が女性からかばんをひったくろうとしていたのだ。女性は懸命に抵抗するも虚しく、かばんを強奪されてしまう。
白い帽子にマスク、上下に黒のスポーツウェアを着た男性はそのまま走り去ってしまう。
そして友奈の身体はあの男性を追うべく勝手に動いていた。
「友奈ちゃん待って!」
東郷の呼び声が背中に刺さる。しかし友奈は止まらなかった。これは勇者としてなどではなく、人として当然のことをするべきだと思ったからだ。
「行ってくる!」
踵を返して追いかける。勇者として鍛え上げられた基礎体力を舐めてもらっては困る。それにここ一帯は網羅している。
友奈の追跡に気づいた男性が走る速度を上げる。運良く青になった横断歩道を全力で走り抜け、商店街に入り込む。そこで店頭に立ち並ぶ商品棚を乱雑に薙ぎ倒す。
棚に陳列された商品が次々に道端に広がり、足場が減るも華麗な足さばきで通り抜ける。店のスタッフに「ごめんなさい!」とだけ叫んで男性の後を追う。
しだいに息が上がってきたのか、友奈の耳に聞こえるほど激しく呼吸する。対して友奈の体力はまだもうしばらくもちそうだ。劣勢になったのに気づいた男性は咄嗟に裏路地に身を投げる。
同時に友奈はしめた、と有利を悟った。その道は比較的横幅の狭い道。身体の小さいこちらのほうが動きやすい。
向こうも飛び込んでから気づいたようだ。しかしところどころ壁に肩を擦りながら逃げ続ける。距離は確実に近くなっている。あと三メートルほどだろうか。もう少し近づけば手を伸ばしてかばんに手が届く。
そろそろ友奈にも体力の限界が近づいてくる。全力疾走でここまで走るのはかなり消耗させられた。だがこれでもう終わる。
距離が近づく。手を伸ばす。裏路地はあと数メートルで終わってしまう。ここで捕らえなければ精神的疲労もピークに達して逃してしまいそうだ。
呼吸は荒れたものになり、乾燥した空気が喉奥を刺す。視界は目の前の男性一点に絞られる。
限界まで手を伸ばす。残り数センチもない。
――いける!
そう確信した友奈は力を振り絞り、飛びかかる勢いで力強く地面を蹴った。腕を振り、かばんの紐を掴もうとした。
……だがそこで裏路地は終わってしまった。
右に急なターンをした男性に対応できず、その手は紐を掴むことができなかった。全力を出したのに捕まえられなかったという落ち込みが、一気に友奈に襲いかかる。そしてそのまま勢いを殺せず、真っ直ぐに数メートル進む。
せめてもう少し特徴を覚えておこうと最後の足掻きとして男性の姿をもう一度捉えようと顔を上げた。
……視界いっぱいに車の車体が飛び込んできた。
ここは……車道だった。
友奈は勢い余って車道に飛び出してしまったのだ。今頃男性は上手く撒くことができたと歩道を歩いていることだろう。
「ぁ」
と口の端からそんな声が漏れた。
運転手の顔がよく見える。三十代くらいのメガネをかけた真面目そうな女性だ。その顔は驚きに彩られている。
ああ、これが走馬灯というものだろうか。今までの思い出がほんの一瞬で溢れ出す。幼稚園の思い出。小学生の思い出。もちろん家族の思い出。そして中学生の思い出。なにより、人生で最も濃密な時間を過ごした勇者部の思い出。どれも名残惜しいものばかりだ。
世界がスローモーションに感じる。しかしここで東郷の言葉を思い出した。
――精霊が守ってくれるから勇者は死なない。
ならそこまで重く受け止める必要はない。今にでも精霊が現れて強力なバリアで守ってくれるはずだ。
ついに世界のスローモーションは終わり、等倍になって再生される。
――そして、精霊は現れなかった。
刹那、腹部に鉄の塊が衝突した。
身体の中で聞こえてはいけない鈍い音が響いた。友奈の華奢な身体は軽々と宙へ跳ね上げられる。平衡感覚を失い、上下左右がわからなくなる。気づけば地面に倒れていて、ようやく自分が轢かれたことを理解した。
指先ひとつ動かすことができない。灼けるような熱を孕んだ激痛が全身を蝕む。頭蓋が割れ、脳汁が飛び出しそうだ。耳の奥、目の奥、口の奥が熱い。視界は赤く染まり、ものがよく見えない。ただ、鼻腔を刺激する鉄分の匂いがして、自分が血溜まりに沈んでいることがわかる。
これは致命傷だ。そして同時に大きな疑問を抱く。それは、なぜ精霊が現れなかったのかということ。
心臓の鼓動が恐ろしい速さで弱まるのを感じる。ついに目を開けるほどの力も尽き、瞼を下ろす。
世界が救われたことを知らない盗人は今日も盗みを働く。
世界が救われても勇者は勇者であろうと人のために行動する。
………………………………………………………………………………ああ。わかってしまった。
死を認識できない人が人の生活……生をどうして守れるのだろうか。人でなしが人を守ろうなどと、なんとおこがましいことか。
つまり。
すでにあの時から。
友奈が自分を人でなしとわかってしまった時から。
もう。
DEAD EN――
答え合わせ。
生の意志。渇望。
つまり、友奈ちゃんはリビドーを散華しました。
当初の目標のところまで書けたのでこれにて完結とします。
が、ゆゆゆがもっと広まってほしいからランキングに載るか自分の気分が乗ったら続くかも。
では、お疲れ様でした!