結城友奈は勇者ではない   作:mn_ver2

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たくさんの方たちの感想や評価、嬉しい限りです。ランキング入ったのかな? 毎日チェックしてるわけじゃないから知らんけど。
さて、本題ですが、DEAD ENDと断言していないので続けます(愉悦)
目標は一期終了まで。
テーマは『それでも』です。


それでも
Result


 生を知る。死を知る。

 その先に死の回避を求め、生の謳歌を切望する。が、それが理解できない。

 ……見渡す限り、水銀の海だ。

 覗き込んでも底がどこまで深いのかなんてまるでわからない。

 そして何を思ったのか、身を投げ出した。

 粘性の高くはない液体だが、途端、全方位から押し潰されるような圧力に苦悶の声を漏らす。やがて肺の中の酸素が足りなくなり、駄目とわかっていても身体が空気を取り込もうと口を開いた。

 当然水銀は肺を満たし、ずしりと身体の重量が増す。不快感にえづくことすらできずに手足をがむしゃらに動かす。

 

 ……深く、もっと深く。

 

 地獄だ。

 沈むほど水圧は容赦なく身体を押し潰す。出鱈目に呼吸をしてもポンプ式で水銀を身体に取り込むだけだ。血がすべて鉛に変換されたように重い。

 

 ……深く、深く。もっと深く。

 

 地獄だ。

 メキメキと骨が軋む。この痛みをどうやっても発散させることができない。水銀の重みがのしかかり、ついにまったく身動きすらできなくなる。

 

 ……深く、深く、深く。もっと深く。

 

 地獄だ。

 

 ……深く、深く、深く、深く。もっと深く。

 

 地獄だ。

 

 ……深く、深く、深く、深く、深く。もっと深く。

 

 地獄の底へ。なお深く。意識が霧散しようとその身はゆっくりと沈んでいく。

 

 …………深く、深く、深く、深く、深く、深く、深く、深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く――――…………。

 

 長い時を経て、ついに底へ到達する。

 すでにモノと化した肉塊は命の残り火を燃やして手を伸ばす。何が目的で底を目指したのかわからない。そもそもどうしてこんな場所にいるのかもわからない。それでも釈然たる意志があった……かもしれない。それは失われた何か。思い出すことはできない。

 そして、爪の剥がれた指先が底に触れた瞬間。

 パシャ! と肉塊は水風船のように弾けた。

 

 ◆

 

 深いまどろみから這い上がる。

 友奈は眩い光に気づき、ゆっくりと目を開けた。視界が霞がかり、よく見えない。左の人差し指の先に何かを挟まれている。おそらくこの前乃木園子のしていてものと同じ、パルスオキシメーターだろう。そしてさらに断続的にピ、ピ、と腕に繋がれた機械音がリズミカルに聞こえる。

 首を動かすと、淡い人影が四つ見えた。しだいに意識が覚醒し、視界も明瞭になってくる。

 人影の正体は勇者部の皆だった。友奈が目覚めたことに気づいて慌ただしくなり始めている。

 ぼんやりと四人の顔を見て、一言目を発する。

 

「あ~っと……」

 

 腑抜けた言葉だったが、それだけでも四人は友奈の無事に震え、今にも涙が決壊しそうだった。そして起き上がろうとして、友奈は妙な違和感を覚える。身体に力が入らない。寝ぼけているのかもしれない。もぞもぞと布団の中で少し身じろぎをして友奈はその正体を探る。

 そして、ゆっくりと顔を上げた。その顔は驚きに彩られていた。

 

「あ、れ……。右腕……うご、かない。右の、脚も…………」

 

「「――――――」」

 

 右腕の感覚が何もない。まるでただ肩の先にくっついている肉の重りだ。手首に触れ、軽くほぐしても触れられているという感覚がない。自分の一部ではないものを触っているかのよう。右足についても同様だ。次第に混乱が頭の中を支配し、息が荒くなる。

 半ば夢中になって全身に触れ始める。どこか変になっているところはないか。ただの肉の重りになってしまったものはないか。左脚、首、鼻、腹、口、うなじ――。

 

「友奈ちゃん!!」

 

「ウ、あッ――」

 

 東郷に左手を掴まれ、ようやく半狂乱に陥っていた友奈はビクッ! と身体を震わせて動きを止めた。病衣が汗で肌に貼り付き、白い顔で東郷を見上げた。

 

「変だよ、東郷さん……これ、なに……」

 

 東郷には何を言っているのか一瞬わからなかったが、友奈の視線で気づくことができた。動いていない右腕を、懸命に動かそうとしているのだ。肩のあたりがぷるぷると震え、額から球の汗を噴き出している。

 どうしようもない現実に東郷はもちろん、誰もが言葉を発することができなかった。水を打ったように静まり返り、友奈のぶつぶつと呟く声だけ虚しく聞こえる。

 これまで当然のようにできていたことができなくなる。この不快感はおよそ言葉に表現できるものではない。

 静寂を突き破って口を開いたのは風だった。

 

「……覚えてる、友奈? あんたは……一昨日車に轢かれたの。それで脳梗塞を起こして右半身のっ、麻痺が……っ」

 

 顔を背けながら、塊を吐き出すように語る。

 しかし口元がキュッと引き締まり、後が続かない。

 そして耐えきれなくなったのか、その場に泣き崩れてしまう。嗚咽を隠すことなく漏らし、ポロポロと涙を流す。

 

「あの時私が帰ってなければ……! そうすれば、こんなことには……っ!!」

 

 絶対助けると約束したその直後にこんな理不尽なこと……。あまりにも……酷い。約束はその日のうちに破られ、どうすることもできない後悔は一生風に付き纏うことだろう。

 立場を代われるものなら喜んで代わる。しかしそんなことはできやしない。どれだけ自分勝手な願いを抱いても、現実は辛い事実を突きつけるのみ。

 

「友奈ちゃん……精霊はどうしたの? 守ってくれるはずなのに」

 

 東郷が核心に迫る質問をする。すると友奈はベッド横の台に手を伸ばして携帯を取って少し操作をした後、画面をこちらに向けた。

 画面には警告とともに『勇者の精神状態が安定しないため、神樹との霊的経路を生成できません』と赤い文字が並んでいる。

 つまり神樹とのパスが繋がらないというのは、勇者に変身するための力を神樹から授かることができないという意味だ。

 友奈は勇者ではなくなった。だから精霊に守護されることなく車に轢かれた。

 東郷の目が見開かれる。散華の内容を教えたことで友奈の精神を大きく揺さぶったからに違いなかった。知ってしまったことへの絶望。これがその結末だ。

 

「勇者じゃなくなったけど、もう戦う必要ないから大丈夫だよっ。それに、死んだわけじゃないしね」

 

 しかし友奈は先程までの影の差した雰囲気とは打って変わって、ケロッとした陽気な口調で語り始める。

 東郷は発狂しそうになった。

 右半身の麻痺に気づき、それに『慣れる』までがあまりに早すぎる!

 これは友奈の超ポジティブさが原因などではない。

 これすらも(・・・・・)散華の影響を受けてしまっているのだ!!

 二年前の東郷は動かない下半身を受け入れることができるようになるまで長い時間を要した。だが友奈は五分も経たないうちにそれへの関心が薄れてしまっているように見える。今、そんなに陽気でいられるはずがないのに! どうして! どうして⁉

 東郷の中で悲痛の叫びが反響する。

 

「何言ってんのよ友奈……。なんか……言葉にできないけど……なんかおかしいわよ……?」

 

 友奈の急激な変化に異常を感じた夏凛が動揺混じりの声で問い詰める。

 

「そんなことないよ夏凛ちゃん。右腕も右脚も動かないのはびっくりだけど――――ぁ」

 

 ようやくここで友奈も自分が何を言っているのか気づいたようだ。ゆっくりと四人の顔色を窺い、ぎこちない動きで風の名前を呼ぶ。

 

「風、先輩……」

 

 風は青ざめた顔で、まともに会話すらできないほど落ち込んでいた。樹に支えられて立つのが精一杯というほど。何度も何度も絶望に叩きつけられた。その度に勇者部さえつくらなければと激しく自責している。

 どれほど残酷なことがこの場で起こっているのかをぼんやりと理解した友奈は言葉を詰まらせる。

 

「と、東郷さん……」

 

 困惑した顔で助けを求められ、東郷は瞬時に行動を始めた。

 これ以上友奈と誰かを会話させるのは良くない。友奈の無意識に吐き出すボロが互いに心を傷つけるだけだ。それに何より、感情的な夏凛と最年少の樹に友奈の異変、さらに言えば散華の存在を知られてはならない。今より酷い地獄はなんとしてでも避けなければならない。

 凍りついた顔の筋肉を無理やり動かし、東郷は催促する。

 

「友奈ちゃんは……友奈ちゃんは、起きたばかりで疲れてるのよ。だから今日の面会はこのあたりにしましょう」

 

 半ば強引ではあったが、あまりの風に樹が心配そうに肩を貸すことで空気は解散という方向に流れ始める。部長でこれなのだ。東郷には想像できないほど大きな後悔をしている。今はそっとしておくべきだ。そしねあとで何らかのフォローを入れなければならない。

 

『また来ますね』

 

 と最後に樹がスケッチブックをこちらに向けた。

 夏凛はまだ腑に落ちなさそうな様子だったが、まだひとりだけ居座るわけにもいかず、後に続いた。

 

「……ありがとう、東郷さん」

 

 最後にふたりだけになると、友奈はぽつりと呟いた。

 

「……ごめんなさい、友奈ちゃん」

 

 たくさんの想いを込めて、それだけ口にする。

 

「え、なんのこと?」

 

「全部」

 

 友奈は簡単に壊れてしまいそうな微笑みを浮かべた。

 

「……でも散華の内容を聞こうとしたのは私だし、東郷さんの声を無視して追いかけたのも私。自業自得なんだ。だから東郷さんや風先輩が謝る必要なんてどこにもないんだよ」

 

「でもね友奈ちゃん。違うの……違うのよ。私たちはもう、ただの勇者部に戻りたいだけなの。なのに……こんなことって……っ!」

 

 耐えきれなかった。

 友奈も壊れてしまいそうだったが、東郷もまた壊れてしまいそうだった。何に縋ればいいのかわからなくなってしまった。大赦の言葉を中途半端に信じ、結果として友奈は普段通りの生活を送れなくなってしまった。樹も風も、そして東郷もだ。

 どうすればいいか、わからない。何をどうすればこの状況を少しでもいい方向に向けられるかわからない。ただ一方的に神樹からお役目という餌に釣り上げられ、酷使され、捨てられたのだ。ここからどうすればいいか、もう何もわからない。

 

「ごめんね、友奈ちゃん! 私、もう、わからなくなっちゃったよ……!!」

 

 この悔しさをどうやって晴らせばいいのだろう! この代償を一生背負ったまま生き続ける自信などないというのに!

 東郷は幼い赤子のように泣き喚く。

 皆の前では努めて冷静であろうとしたが、ふたりきりになるともう我慢できなくなってしまった。決壊する。頭の中がぐちゃぐちゃだ。

 顔を伏せ、どこにもぶつけられない悔しさを叫ぶ。不安やストレス、絶望。

 もはや、東郷は限界だった。

 

「……生きているんだから。生きているんだから、まだ諦めちゃだめだよ、東郷さん。勇者部五箇条、ひとつ。なるべく――」

 

 どうして友奈がそこまで強くあれるのかがわからない。まるで不死鳥だ。何度でも立ち上がり、生きようと羽ばたく姿は、なんとも犯し難い神々しい存在だった。

 

「――あきらめ、ない……っ!」

 

 裏返った声で東郷は続きを口にした。

 すると友奈は優しげに「顔を上げてよ」と語りかけた。大人しく顔を上げると、友奈は左手を東郷の頭の上に乗せた。そして撫で始める。

 

「私も諦めないよ。生きることを。曖昧なままじゃなくて、きちんと生きる理由を持つんだ」

 

「理由って……?」

 

「まだわからないのが本当のところ。あはは……。でもね、必ず見つけてみせるよ」

 

 これは治らない傷の舐め合いに過ぎないのかもしれない。

 一生治ることはないとわかりきっている。それを誤魔化すように、遠ざけるように耐え忍ぶのがどうしようもなく悲しい。

 いつしか荒んでいた心は落ち着きを取り戻し、代わりに撫で続けていた友奈の腕はピリピリと痺れてしまった。

 まだ目元の赤い東郷は熱い抱擁を交わした。

 暖かい人の熱だ。それに心臓の鼓動を感じる。これは生きている何よりの証拠で、もう友奈をこれ以上傷つけないと再び誓いを立てる。

 

「私、頑張るから。東郷さんも頑張ろう。ね?」

 

「うん……! うん……!」

 

 これではどちらが励ましているのかわからない。

 病室を出る東郷の背中を見届けた友奈は、さらに静まり返った空間でひとり悔しさを滲ませた。あのような強がりを言ったものの、不安は根付いている。

 携帯の勇者変身機能はやはり無言を貫いたまま。唯一機能するのは、勇者たちの居場所を知らせるGPSのようなものだけ。

 そっと身体の向きを変えようとするが、右腕が変な向きになってしまう。それを見て友奈はやるせなさとともに携帯をスリープモードにした。

 ……不意に、寒さを感じた。

 きっと汗が冷えたものなのだろうと、友奈は深く布団を被った。

 昼過ぎだというのに、食欲はまるで無かった。

 

 ◆

 

 目を覚ますと夕方だった。

 友奈は隣に立つナースの存在に気づいた。

 その脇には車椅子がある。

 

「結城さん、車椅子の調整に来ました」

 

「あ、はい」

 

 促されるがままに、友奈はベッドから起き上がろうとした。しかし上手くできず、介護されながら車椅子に腰掛けた。両腕が動けば東郷のように自力で車輪を動かせるのだが、それすらできないため左側の肘掛けの先にレバーがついている。座枠の下にバッテリーが設置されている。

 移動できるようになるという喜びを感じると同時に、人間性を剥奪されたという屈辱を味あわされる。

 無意識に拳を強く握りしめる友奈に気づいたナースは、気まずそうに車椅子のグリップを握り、通路へ連れ出した。

 

「テストをしに屋上に行きますね」

 

「……わかりました」

 

 エレベーターに乗って屋上に上がり、ナースにドアを開けてもらって外に出た。病院の屋上は自殺防止のため基本的には封鎖されるものと思っていたが、どうやらそうではないらしい。実際ドラマなどではよく見るシーン。鉄格子は二メートルを超えるほどあり、登ることすら不可能だ。

 二日ぶりに吸う外の空気のはずだが、どうしてか数年ぶりに感じてしまう。

 ナースの指示に従って、バッテリー横のスイッチを入れる。すると唸りをあげて電源が入り、レバー下に緑色のランプが点いた。

 レバーを前に傾けると、モーター音が低く鳴ってゆっくりと前進を始める。男子なら喜びそうな機械だ。

 

「どうですか?」

 

 左右、バック。問題なく動作することを確認した友奈は「大丈夫です」と返事する。これから一生お世話になる相棒だ、近いうちに名前をつけてやらないといけない。

 鉄格子の前まで移動して夕焼けを眺める。

 

「……うん? こんなところに人なんて珍しいな」

 

 聞き慣れない男の人の声に友奈が後ろを振り向くと、ひとりの男が屋上に入ってきていた。

 ひょろりとした体型に、痩せこけた頬。達観したかのような目をしていて、灰色の浴衣を着た中年の男だ。

 第一印象は、おかしな人。

 男はゆったりとした足取りで友奈の横に並ぶと話しかけてきた。

 

「見ない顔だね。最近入院したのかい?」

 

 だが決して悪い人ではなさそうだった。とても穏やかな声で、第一印象は最速で外見だけおかしな人、に更新された。

 

「はい。車に轢かれてしまって……」

 

「そっか。……それは残念だったね」

 

 友奈の車椅子を見下ろしてすべてを察した男は、それ以上踏み込むことはなく当たり障りのない返事に留めた。

 

「えっと……」

 

「ああ、僕のことはおじさんとでも呼んでくれ」

 

「おじさんは、どうしてここに?」

 

 すると、おじさんは懐に手を入れて煙草を取り出した。しかしすぐさまナースに注意され、いたずらがバレた子供のような顔で大人しくしまう。

 

「すまないね。考え込むときは煙草を吸う癖があって」

 

「ここで煙草は駄目ですよ」

 

「確かに君の言うとおりだ。……ここにいる理由だったね。そうだね……」

 

 おじさんは目を細め、遠くを見つめながら言った。

 

「僕は昔、無理をしすぎてね。身体が弱ってしまって今は隠居してるんだ。この病院によく通院している」

 

「でも、なんとなくですけどすごく強そうに見えますよ?」

 

 戦いの経験があるからこそわかる。

 人だろうとバーテックスだろうと、強いものにはそれなりのオーラを感じるものだ。そしておじさんからも微かに同じものを感じる。全盛期だとどれほど強かったのだろうか。

 しかしおじさんはかぶりを振った。

 

「ははは、お世辞はいいさ。僕はそんな大層な人間じゃないよ」

 

 乾いた笑いを漏らすと、それきり黙り込んでしまう。

 もしかして言ってはいけないことを言ってしまったのではと罪悪感を覚えるが、どうやらそうではなかったらしい。

 おじさんはまじまじと友奈を見つめ、優しい目をして訊いてきた。

 

「お名前は?」

 

「讃州中学二年勇者部、結城友奈です!」

 

「元気でいいね。……ああ、あそこの中学か。それにしても初めて聞く部活だ。どんなことをしているんだい?」

 

 無邪気に尋ねるおじさんに、友奈は答える。

 

「人のためになることをする、です!」

 

「――――――」

 

 肉の削げ落ちた頬がぴくりと小さく痙攣した。そして少しした後、おじさんは微妙に口角を上げて微笑んでみせた。

 

「そうか。結城さんはとても素晴らしいことをしているんだね。それでどんなことをやっているのかな?」

 

「清掃活動や幼稚園でのレクリエーション、それと他の部活の助っ人にお店のお手伝い! あとは……」

 

「す、すごくたくさんのことをしているのか」

 

 驚いた表情でおじさんは話に聞き入る。

 とても聞き上手な人で、友奈はぽんぽんと聞かれたことに答えていく。

 

「逆におじさんは普段は何しているんですか?」

 

「僕? そうだな……」

 

 剃り残した髭をさすりながら考える素振りを見せる。

 

「家でのんびりしているね。あとは息子の料理を楽しみに待つくらいかな」

 

「息子さんがいるんですか?」

 

「うん。料理が恐ろしいほど上手でね。おかげで舌が肥えてしまったよ」

 

 愉快に笑うおじさんを尻目に、友奈は街の風景を一瞥する。

 紅く染まった風景を見下ろすと、なんとも言えない感動に身体が震えた。

 このおじさんがこうして幸せを噛み締められているのは、友奈たちが死にもの狂いでバーテックスと戦って勝利を収められたからだ。

 

 ――今になってようやく、自分たちのやってきたことの成果を実感した。

 

 焼き爛れそうだった心が、少し救われた気がした。

 陽だまりのような暖かさが胸を包まれ、友奈は嬉しさを感じる。

 ……そうだ、私たちのやったことは無駄などではなかったのだ。救われたことを知らなくても、人々は友奈たちが勝ち取った『今』を生きている。

 折れた勇者にとっても、他人の幸せはこれ以上ない救いなのだ。

 勇者の欠片がまだ微かにでも残っているのなら。

 勇者という夢をまだ抱いているのなら。

 

「おじさんは今、幸せですか?」

 

 と簡単な質問に。

 

「――ああ、幸せだよ」

 

 と屈託のない真っ直ぐな答えが返ってきた。

 

 ◆

 

 乃木園子はゆっくりと目を開いた。

 ……誰かが、来た。

 三日前の結城友奈の交通事故はすでに耳に入っている。勇者の資格はなくなったらしいが、この前の慰安旅行同様、大赦の温情によって素早く搬送、処置されている。車いす生活を余儀なくされたらしいが……果たしてどう受け止めるか。いくら天真爛漫なあの子でもそのショックは計り知れない(・・・・・・)。その様子を仲間がどう見るかも注意しなければならない。

 この場所は一般的な病室などではなく、もっと異質なもの。乃木のベッドを中心として社が建てられ、その周りを無数の赤い護符やら札やらが埋め尽くす。床。壁。天井。全てにだ。唯一足場のあるのは、ベッドへと続く一本道のみ。

 薄暗い明かり。

 ……そこにぽつんと乃木は独りでずっと生きている。

 この場に神として祀られ数年。身動きのできない神など果たして神足りうるのか。まるで辱めを受けているようにも思えるこれが、いつまで続くのか。

 ……なんて考えても無駄で、散華したのだから、この芋虫生活は乃木の命が尽きるまで続く。

 細く息を吐き出し、やって来た人物の名前を呼んだ。

 

「やっぱり来たんだね、わっしー。……いや、東郷さん」

 

 車輪の軋む音とともにやって来たのは、鬼のような形相の東郷だった。




折れる。折れる。折れる。
それでも、勇者たちのおかげで生きている命がここにある。

それではまた次回
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