「隊長、朝ですよ」
メアリーはゆさゆさとベッドに転がる体を揺さぶる。彼の寝起きが悪い事はこの1週間、共に生活をしていて生まれついてのものなのだと理解してきた。
しかし今日は彼の出勤日だ。カーテンを開けて朝日を部屋に溢れさせれば、彼は唸りながらベッドの上で身動ぎし始める。
「隊長、朝ですよ」
もう一度先程と同じセリフを言う。彼——ウェスカーはむくりとようやく身を起こし、不機嫌そうに細めた目をメアリーに向ける。
「……何時だ」
掠れた低い声はサイドボードの目覚まし時計に目を向けようとするが、窓から差し込む朝日が眩しくて眉間にシワを寄せた。
「朝7時です」
代わりにメアリーが時刻を告げれば、ウェスカーは短く返事をしてから床に足を付けた。
「朝ごはん準備しますから、着替えて歯を磨いて……」
「朝食などいらないと言っているだろう」
ウェスカーは長らく朝食抜きの生活をしてきた。
そもそも昔から仕事が忙しいからか、彼は食生活について無頓着である。メアリーを迎え入れた初日、小さな冷蔵庫に栄養ドリンクがびっしり並んでいるのを怒られた記憶がある。
「だめです!」
突如、ビッとウェスカーの顔の前に人差し指が突き立てられた。元を辿ると案の定メアリーであり、その勢いに彼は少しだけ身を引く。
「お仕事なんですから、ちゃんと食べてください!」
彼女を引き入れたのは果たして正しかったか。有能であるが少々口煩い。
「そう言うお前こそ、報告によれば朝は食パン1枚だったらしいな」
自分の事は二の次のくせに。彼女は「うっ」と短く唸り、それでも果敢に噛み付いてきた。
「それとこれとは別です!とにかく、今日も食べてもらいますからね」
そう言ってメアリーは寝室を出て行った。残されたウェスカーは困ったように頬を掻いてからいそいそと部屋着から出勤用のシャツに着替え始める。リビングを経由し、洗面所に入り歯を磨いて身支度を整えてから再度リビングに戻ってくると椅子に座り、台所に立つ少女をテーブルに肘をつきながら眺めた。
穏やかな朝。己には似つかわしくない。
しばらく使われる事のなかった台所のコンロは、心なしか炎が嬉しそうに揺らめいているようにも見えた。鼻腔を掠める芳ばしい香りは自然と食欲が湧く心地になる。気付けば先程まで突き刺すようだった朝日は柔らかな陽射しになっていた。
「はい、どうぞ」
目の前のテーブルに置かれたのはサラダが添えられたベーコンエッグだった。ちょうど良くトースターからは焼けた食パンが2枚飛び出し、向かいにも同じような盛り付けの皿が並んで出来たばかりのトーストがそれぞれに並ぶ。
「いただきます」
向かいに座ったメアリーが食べ始めるのを見て、ウェスカーも用意された朝食を手にする。
バターを塗ったトーストにベーコンエッグを乗せて一口。卵の優しい味わいとベーコンのジューシーさ、トーストのカリカリの食感。気に入っている食べ方。とろとろの黄身に辿り着いた瞬間が堪らない。
メアリーは料理が上手い。ベーコンの焼き加減も目玉焼きの半熟具合もウェスカーの好み通りに作ってくれる。エイダからの報告でカルロスと住んでいた頃も家事の担当は彼女であった事は知っていたが、ここまでとは思っていなかった。
先程ああは言ったものの、正直この朝食がなくなるのは惜しい。それに彼女が上手いのは朝食だけではない。
「お夕飯は何がいいですか?」
あっという間にベーコンエッグトーストを平らげたウェスカーにメアリーの眼差しが向けられていた。
「……何でもいい」
「あ、それ1番困るって前にも言いましたよね?」
サラダを口にする彼は悩んでいた。メアリーの言う事は尤もであるが、食に無頓着だった己には何をリクエストすればいいのかが分からないのだ。さすがに難しい料理は彼女を困らせるだろうし、軽食では夕飯としては物足りない。カレーはこの前食べたし。
「……卵料理、では駄目か?」
料理名ではなく、食材名でのリクエストを試みる。さて、何が飛び出してくるか。
「じゃあ、オムライスにしますね。勿論半熟で」
ニコリと笑った少女の表情は眩しい。
この笑顔を見たら、彼女がウェスカーに拉致されてきたなんて誰も信じないだろう。
無垢を装う少女はウェスカーにサンドイッチの入ったランチボックスを持たせ、職場に向かう彼を見送った。玄関が閉まると新聞を受口から取り、まずは見出しをチェックするためにパラパラとページを捲っていく。
「やっぱりどこにも載ってない……」
探しているのは"メアリー・ワトソンが何者かに拉致された"という旨の見出し。だがこの1週間、新聞の記事にもなっていなければテレビやラジオで話題に上がる事もない。1面にならずとも、小さな記事くらいにはなっているだろうと思っていた。しかもそれなりの期間があるというのに、何もない。
「ラクーンの時みたいに、情報操作されてる…?」
だが今のウェスカーにそれだけの権力があるのだろうか。それとも、背後にもっと強力な何かがついているのか。
己が自らウェスカーの手中に収まったのは、彼の素性を知るためだ。それが何になるかなんて分からないが、もし3年前にジルから明かされた"ウェスカーがアンブレラの研究員で、S.T.A.R.S.を実戦データのために利用した"という事も真実であれば、今彼が生きているのは大問題である。ジルは今もクリスと共に反アンブレラを掲げて活動しているはずだ。この行動が何かの形で彼らの役に立てばいい。
しかし気に掛かるのはカルロスの事だった。彼は今もメアリーが元気に大学生活を送っていると思っているだろう。ここまで情報操作が徹底されているならば、大学側も押し黙らせている可能性がある。カルロスには連絡すら行き渡らない。
「ごめんね、カルロス……」
彼は稼いだ資金を貯めてメアリーを大学に送り出してくれた。その親切心を踏みにじるようで心が痛かった。しかし今更ウェスカーの手から逃れられるとは思えない。それは彼と生活をし始めた1週間前から感じている事だった。
彼は今この瞬間も、見えない鎖でメアリーを繋ぎ止めている。だからこそ、彼女をここに目に見える形で縛り付ける事をしない。きっと彼女がこうして情報を集めようとしている事も看破済みだろう。寧ろ、そうなるように仕向けているようにすら思える。
メアリーは先日彼から習ったばかりのパソコンの電源を入れ、彼が書いたと思われるレポートのファイルを開いた。
——普通は情報を盗まれないよう、パソコンの使い方など教える必要などないのだ。あからさますぎる。
そのレポートには通称"洋館事件"と呼ばれる、あのアークレイ山で起きた山火事の前日に起きた事件について記されていた。そしてこれが、S.T.A.R.S.を実戦データとして使い多くの隊員を殉職させた事件であり、レポートにはその実戦データがまとめられている。誰が、どの怪物によって、何時に殺害されたか。淡々と記される様はニコライ・ジノビエフの調査レポートとよく似ている。
そして同じフォルダには先日のメアリーの検査結果もあった。
「やっぱり私には……T-ウィルスの抗体があるんだ」
己にウィルス抗体がある事は、実は3年前に知っている。いち早く気付いたニコライから明かされ、一時は彼に捕まり危うくアンブレラに売り払われるところだったのだ。あのままアンブレラに己の体が渡ったら。想像しただけで身の毛もよだつ心地になる。
あの時はウィルス抗体があると言われてもピンと来なかったが、ウェスカーが行った検査でこの結果が出るのなら信憑性が増す。実際、ゾンビに襲われても己はゾンビにならなかった。確定で間違いないのだと思う。
そして1番謎なのはウェスカーが今どの組織に所属しているかである。
普通に考えればアンブレラに所属していると思うのだが、今アンブレラはラクーン事件の事で裁判にかかっている。彼がそんな会社に今も在籍しているとは思えないのだ。それに、パソコンのどこを探してもアンブレラに関する資料やデータが見つからない。ここにあったのは洋館事件のデータとメアリーの検査結果だけだった。
「もしかしたら仕事用のパソコンの方に入れてるのかな……」
彼にはこれの他にいつも仕事に持って行くノートパソコンと記録用デバイスがある。恐らく重要なデータ、メアリーには見せられないものはそこに収められているのだろう。
何度も同じものを見ても仕方がない。メアリーはパソコンの電源を切ると椅子から立ち上がりながら伸びをして、気を取り直して家事に勤しむ事にした。
———
「美味いな」
「本当ですか?」
ウェスカーが帰宅し、先に夕食にしたいと言ったのですぐに支度を始めた。今朝のリクエスト通りの半熟オムライスを仏頂面ながらも2口目を口に運ぶ彼を見て思わずメアリーもパッと表情を明るめる。
やはり誰かと食卓を囲むのは楽しい。カルロスと暮らし始めた頃もそんな事を思っていた。それは例え相手がウェスカーであっても同じ事だった。
「えへへ……」
というか、今目の前にいるのは初恋の相手なのだ。そんな人に手料理を褒めてもらうのは純粋に嬉しい。
照れ笑いを浮かべるメアリーを視界に入れ、ウェスカーは少しだけホッと安らぐ心地になる。
どうしてか、彼女の手料理は温かくて優しい。長年無機質だった己にじんわりと染み込むようなそれは、振り解くのが惜しい程に感じる。
「隊長、食べたいものがあったら遠慮なく言ってくださいね」
しかし、その微笑みは信じていいものだろうか。
彼女はパソコンを使って情報を得ようとしたはずだ。ログイン履歴には昼間にパソコンが立ち上げられた事が記録されている。新聞もまずは彼女がチェックする。しかしお目当ての記事は見つからないのか、新聞はどこも切り取られた様子がない。
彼女は己の素性を暴く事が目的でここに留まっている。この生活も態度も、そうする事が1番怪しまれずに済むからだ。
「……ああ」
しかし、何故かその微笑みを拒めない己がいた。
「……どうかしましたか?隊長」
嬉しそうだった声が転じて心配するようなものに変わる。それにハッといつの間にか俯かれていた顔を上げると、案の定目の前には眉を下げて心配そうにするメアリーがいた。
「ああ……美味くて食べ終えるのが勿体なく感じてしまってな」
咄嗟にそんな事を口走っていた。一応、嘘は言っていない。
「ふふ、冷めて美味しくなくなる方が勿体ないですよ。それに、全部食べてくれた方が嬉しいです」
それを聞いてメアリーはまた笑みを零した。
彼女の思考を上手く読み取れないのは、己の性質のせいなのだろうか。しかし、この心を掻き乱すような気持ちは彼女のせいなのだろうと、半ばなすり付けるかのように思考を奥へ押しやる。
「そうか」
短く返事をするのがやっとだった。少し冷めた3口目はそれでも品質を損なう事はなく、口の中いっぱいにあの優しい味が広がった。