H.C.F.はアンブレラとはライバル関係にあった組織だ。そして、現在アルバート・ウェスカーが籍を置く組織でもある。
(ラクーンではアンブレラの薬ばっかりだったけど、外にはこの会社の薬もたくさんあったな)
ラクーンシティはアンブレラのお膝下だった。ライバル会社の薬なんて置きたくないだろう。
だがラクーン壊滅後、カルロスと共に暮らし始めてアンブレラの薬は一切買わなくなった。薬局にも何度か足を運んだが、株価が暴落するにつれてアンブレラのものは棚の隅に置かれるようになり、代わりにH.C.F.社やトライセル社の薬が幅を利かせていた。
今いる薬局もそう。アンブレラの薬は何処にも見当たらない。
「すみません。アンブレラの薬はここにはないんですか?」
ちょうど店長が店内を見回っていたので声を掛けてみた。すると彼は驚いたように目を見張ってメアリーを見る。
「ええっ、お嬢ちゃん"あの"アンブレラの薬まだ買ってるのかい?オレはもう信用なくしちゃったよ」
やっぱりか。メアリーは溜息を吐く店長を見て内心で安堵した。アンブレラは今やスキャンダルの宝庫だ。なのにまだ裁判を長引かせるなんて往生際が悪いにも程がある。
「いえ、アンブレラの薬を扱ってる薬局では買いたくないなって思って」
「なんだ、そういう事か。実は入って来てはいるんだけどね。うちでは置かない事にしたんだよ」
メアリーが笑顔で否定すれば、彼はそうやって事情を説明してくれた。そんなやり取りをしてから目的の痛み止めの薬とスキンケア用品、包帯等の医療道具を購入して薬局を出ると、カルロスと住んでいた街よりも都会な道は平日の昼間でもそこそこの人通りがあった。
今日買ったのはどれもH.C.F.社の製品だ。が、ウェスカーがこちらに転身したという事はこの会社も似たような事をやっているに違いない。実際、サーバー侵入で得た情報ではウィルス研究や生物兵器の開発を行なっている部門がある事が分かっている。これをジルやクリスが知ったら怒り心頭であろう。
(という事はアンブレラを潰せたとしても、結局状況は変わらない……って事よね)
アンブレラの忌まわしき研究はいろんな形で世に出されていく事になるだろう。いや、もしかしたらそれ以前から競合する形で製薬会社業界では行われていた事かもしれない。そして、いつかはラクーンシティのような大規模な災害も再発するかもしれない。
(隊長、何考えてるんだろう……ただの正義感でアンブレラを潰そうとしているわけじゃないよね。何かもっと、別の目的でもあるのかな)
ウェスカーは彼女にU.M.F.-013の所在を割り出すよう指令を出した。それにはアンブレラの全ての研究データが保管してあり、そのデータを政府に提出すればアンブレラ壊滅の決定打になり得る。
だが、ウェスカーがそこまでする理由とは。
「わっ」
そこまで考えた時、何かに真正面からぶつかった。それの正体を確認しようと視線を上げてみると、黒髪の東洋人の顔立ちをした女性がそこに立っていた。
「こんにちは」
「あっ……あっ、エイダ?お久しぶりです…!」
ぺこりと頭を下げると女性も会釈をしてくれる。
この女性——エイダ・ウォンはカルロスと住んでいた頃にちょくちょくその街に観光に来ていた人だ。なんでもあの街が気に入ったらしく、そして何よりメアリーに会いたいから——なんていう男なら一発で落ちる口説き文句まで携えていつも会いに来てくれる。
「ねえ、メアリー。少し時間あるかしら?」
再会の喜びもそこそこに、エイダはそこにある喫茶店を指した。
エイダはコーヒーを、メアリーは紅茶を啜り一息つく。
「エイダはここに住んでるの?それとも観光?」
メアリーがそう切り出すとエイダは口許にあの綺麗な微笑みを浮かべた。
「ここに住んでるのよ。会社もこの近くなの。H.C.F.っていう製薬会社よ」
「わぁ、有名じゃないですか!」
すごい!とメアリーは目を輝かせてみせるが、内心驚く。まさかウェスカーと同じ会社で彼女が働いているとは夢にも思わなかった。彼も特に話題に出す事もないので、違う部署で働いているのだろうか。
「ふふ、でも私の仕事なんてそんな大層なものじゃないのよ。上司にもこき使われるしね」
彼女は首をコキコキ鳴らすように左右に傾けておどけてみせる。よくある愚痴。少女も思わずクスリと笑った。
「その上司も人遣いが荒いのよ?私よりも後に入ってきたのに偉そうで」
「えっ、そんな事あるんですか?」
子供らしい疑問符を浮かべる少女を見てまたエイダは和むように口許を緩め、向かいに座る彼女の両頬に手を伸ばして包む。
「あるわよ、大人は複雑なの」
そうウィンクしてみせれば、少女の頬がほんのり赤く染まるように見えた。
「んん……でも、エイダにそんな事する人は嫌だな……」
直視出来ないのか、メアリーは視線を俯かせて右往左往させる。
なんて純粋で可愛らしい子なんだろう。あの街で監視をしたり実際に接していくうち、エイダは素直にメアリーに好感を抱いていた。3年間、直に少女を見ていた彼女からすれば、"彼"に少女を渡すのは正直惜しいとも思っていた。だが、ここにいるという事はそういう事のようだ。
「そう?あなた、とてもその人に懐いているみたいだけど」
「え…?」
途端に少女の頬から赤みが消えた。視線がこちらに戻り、眉間にシワを寄せながらエイダを見ている。
「もしかして家で仕事の話とか聞いてない?まぁ、彼の性格からして話したくもないわよね……」
「ち、ちょっと待って、どういう事?」
さすがにこの戸惑った顔は演技ではないだろうが、メアリーは勘もいい。ちゃんと気付いているはずだ。だが、ここでその勘に委ねるのは意地が悪い。
「私の上司、アルバート・ウェスカーっていうの。私があの街に来てたのは、彼の命令であなたを監視するためだったのよ」
エイダがそう明かせば、メアリーは唖然としたように彼女を見つめていた。
何故ウェスカーは彼女にエイダの事を言わなかったのか。理由として最もそれらしいのは、単純に仕事の話を彼女の前ではしなかったから、だろう。恐らくウェスカーは彼女の能力を試したくて、敢えて情報を与えなかったのだ。……と、思いたいが、これまた本当に単純な仕組みになっている。
「彼、職場ではあまり評判が良くないの。だってここに来る時に"お土産"がなかったから」
彼はアンブレラからライバル会社であるH.C.F.に鞍替えした。しかし、彼には何の強みもなかったのだ。アンブレラの情報を手土産に持ってくるかと思えば、その情報や生物兵器、ウィルスすら持ち合わせていなかった。加えてそこまで大した経歴もなく、H.C.F.内では無能呼ばわりされていたらしい。
エイダがウェスカーの下に付いたのは上層部からの命令で、彼の見張りも兼ねている。
「そんな……どうりでお仕事の話聞かないと思ったら……」
ウェスカーはプライドが高い。無能呼ばわりなど屈辱でしかなかっただろう。それをメアリーにだけは知られたくなかったのだ。
「どうする?まだあの人のところにいる?」
そう問い掛けるエイダは、暗に自分のところに来るように誘っているようにも見えた。
エイダは3年間メアリーを見続けてきて、彼女に秘めた才能がある事に気付いていた。それが今度はウェスカーの手によって開花されつつある事も分かっている。ウェスカーが何を企んでいるかは知らないが、彼女の才能が悪用される事だけは避けたい。これは上層部の命令ではなく、エイダの独断である。
しかし、メアリーは少し考えた後にその申し出を断るようにエイダを見つめ直した。
「私はもう少し、隊長のところにいたいの。隊長が何しようとしてるのか、1番近くにいれば知れると思うから……」
彼女がそう返答する事は想定のうちだった。
それこそがウェスカーがメアリーに繋いだ"見えない鎖"だった。彼は外部に企みを悟らせる事はしない。だが、隣にいればもしかしたら知れるかもしれない。その僅かな希望が彼女を縛るのだ。そしてそれに縛られたが最後、絶対に離される事はない。
彼女を救うには手が遅すぎたようだ。
「そう……残念ね」
ウェスカーの彼女に対する思惑がなんとなく読み取れた気がする。エイダは溜息を吐きながら心底、本当に残念に思った。彼がそう思ったのと同じように、エイダにとっても彼女は才能あふれる人材だ。もし勧誘に失敗したとしても彼女を媒介にしてウェスカーの情報をこちらに流してもらおうと思っていたが、彼女は真面目だ。それは難しいだろう。
「ところで、その"隊長"っていうのは何?」
しかし折角のメアリーとの時間なのだ。もう少し話がしたい。エイダは先程から気になっていたウェスカーへの"隊長"呼ばわりに単純に疑問が湧いていたので、それを会話のネタにしようとした。すると少女の表情は照れたような微笑みに変わる。
「あの人、ラクーン警察の特殊部隊のS.T.A.R.S.の隊長だったの。私、隊長だった頃のあの人が1番好きなんだ」
その蕩けた表情にエイダはようやく真に納得がいった。
なるほど。彼女が彼のもとを離れたがらないのは、鎖で繋がれている以外の理由があるからのようだ。
「へえ、ラクーン警察の。私の好きな人も警察官だったのよ」
「え!エイダも好きな人いるの?」
女子は恋バナに弱い。エイダもこうして好きな人の話を他人にするのは久しぶりの事で、あわよくば彼女の話も聞いてみたい。警察関係の相手という他にラクーンで恋に落ちたのも共通点と言えるだろう。
恋バナに花を咲かせていると注文していたケーキがテーブルに運ばれ雰囲気は更に女の子らしくなり、時間が経つのが惜しくなる程だった。
———
ウェスカーが自宅に帰ってくると珍しくリビングは電気が消えて真っ暗だった。半年前はこちらが常だったが、今は違和感がある。電気を点けてみるとソファに転がって眠っているメアリーがすぐに視界に入り、溜息を吐いた。
「帰ったぞ」
手に持っていた箱を一旦テーブルに置き、ソファに近付くとその体を揺さぶる。するとすぐに目蓋が開かれ、むくりと身を起こして目を擦っていた。朝はウェスカーより彼女の方が早く起きるので、この光景は珍しい。
「んん……隊長、おかえりなさい……」
寝起きの掠れた声。よほど熟睡していたようだ。
「あ……ご飯用意するから、先にシャワー浴びてきて……」
メアリーは寝ぼけ眼で立ち上がり、すぐに台所の方へ足を向ける。しかしウェスカーはそんな彼女を引き寄せて己が体に収めた。
「いい。俺が用意する」
慈しむように頭を撫でてから解放してやると、寝ぼけ眼だった彼女の目は驚いたように見開かれ、頬が赤く染まっていた。それを尻目にウェスカーは台所へ移動しようとする。
「……!い、いや、隊長は料理できないでしょ?」
しかしハッと我に帰った少女がそれを阻止するように彼の前に躍り出たが、彼はそれを押し退けて冷蔵庫から卵を取り出した。
「出来る。見ていろ」
一体何を作るつもりなのだろうか。メアリーが心配そうに見守る中、ウェスカーは器を用意してから卵の殻を割ろうとした。——の、だが。
「うわっ……」
バキッ!と卵を割る音らしかぬそれが響き、振り下ろした卵は無惨にも中身が台の上で潰れてしまっていた。呆れたような声はメアリーのものである。
「違うのか……」
「いや、何もかもが違うから!もう〜っ、隊長はシャワー浴びてきて!」
メアリーは無理矢理にウェスカーを台所から押しやるように脱衣所まで連れて行き、そこのカーテンを閉めた。脱衣所に押し込められた彼のシルエットは何か言いたげだったが、それに背を向けるとやがて洗面台から水の流れる音が聞こえ、それが止むと服を脱ぐ時の布擦れの音が聞こえてくる。
「……隊長」
浴室に入る直前、まだ出てこないように見張っていたらしいメアリーがカーテン越しに声を掛けた。
「お夕飯、作ろうとしてくれたのは……ありがとう」
控えめに紡がれた感謝の言葉に、彼は思わず心臓が跳ね上がる心地になる。
礼を言われたのは何年ぶりの事だろうか。途端にくすぐったい気持ちが身体中を巡り、そこにまだいるであろう彼女を振り返る。カーテンの隙間から脚が見え、彼女の肩に触れようとしたが己は既に服を全て脱いでいる事を考慮して、その手を引っ込めた。
「テーブルにあるのはケーキだ。食後に食べよう」
ふと先程そこに置いた箱の存在を思い出して言い残し、そそくさとウェスカーは浴室に入って扉を閉めた。
「ど、どうしちゃったんだろう、隊長……」
しかしようやく脱衣所の方を振り返るメアリーは奇行とも言える彼の行動に疑問を抱いていた。
(エイダめ、メアリーとの接触を図るとは……)
ウェスカーはシャワーを浴びながらエイダの言葉を思い返していた。どうやら彼女は昼間にメアリーと会った事をしっかり報告——もとい、自慢をしたらしい。
(たまには食事を作ってやれだのプレゼントのひとつやふたつだの、なんなんだあの女は…!)
エイダとメアリーが何を話したかは詳しく聞いていないが、ウェスカーの評判が社内で芳しくない事は話しただろう。やはりあの女を過度に信用してはいけない。
だがそれ以上にメアリーとの関係に言及されたのが気に食わない。己と彼女はそういう関係ではないのだから、何をどうしようと己の勝手である。
しかし。しかしだ。
(……だが、礼を言われたのは事実だ)
反芻するように先程の言葉を噛みしめる。
エイダは3年前と変わらず家事を担当している様子の彼女を気遣ってか、それとも単に面白そうだからか、ウェスカーに食事を作るよう提案した。他にもプレゼントや服を見繕うなどメアリーが喜びそうな事をピックアップして提案してきた。その時は適当にあしらってしまったが、そのうちのひとつを実行しようとしたところ、ああなった。
『あの子は尽くす事は出来るけど、尽くされたり何かをしてもらう事に慣れてないんだと思うの』
エイダのメアリーに対する分析を思い出す。
つまりは、そうしてやればもっと喜んでくれるのだろうか。
「はぁ……」
まただ。彼女の事を考えてしまうのは何故なのだろうか。
けれどももう、言い逃れ出来ないほどに彼女に対して愛情を注いでしまっているのかもしれない。
抱くはずがないと思っていた感情が日に日に熱を孕んでいく。気付きたくもない事実は胸を焦がしていくばかりだった。