「ねえお母様、サチは一歩踏み出しました」
「お父様に気持ちを伝えました」
「好きな人に、気持ちを伝えました」
「次は、お母様の番ですよ」
「早く起きないと――お父様のこと、盗っちゃいますよ」
少年がそこで笑顔を見せたのは、実に4年振りのことだった。
☆☆☆
初花家、本家。
夏休みも半分が以上が過ぎて、千花は日本へと戻ってきていた。
しかし旅行を満喫した彼女には待ち受けている試練――宿題がある。
秀知院学園にも教師による違いはあるものの夏の課題というものがそれなりに出される。
夏休み初日から海外に飛び立っていた彼女にとって、それに取り組んでいる時間はなかった。
師弟時代から毎日のように交わされる電話によって、それを幸に愚痴っていた彼女であったが、ここで幸から提案があったのだ。「一緒に宿題をやりませんか」と。もちろん彼女もそれを承諾。
そして本日、初花家へと赴いたのだ。
「――お久しぶりです。チカ先輩」
「本当に久しぶりですね~~!サチちゃんは、その」
門の前で彼女を出迎えたのは幸だった。
約2週間振りに千花が見たその姿は、どこか蠱惑的だった。
少し汗ばんで濡れた髪先が肌に張り付いて――にこりと笑った顔は少し火照っている。
「かわいく、なりましたか?」
彼女は表現しにくいそれを濁した。
その返しとして幸は、千花の手を取って、指と指を絡める。
「恋は人を綺麗にする――そう言いますから」
そして言いながら千花に密着したのだ。
そう、千花はやべー奴を目覚めさせていたのだ。
そもそもこの初花幸という少年は、母親から受け継ぎ、洗練され、現実離れした天賦の容姿を持っている。
そして持ち前の才能でその容姿の『魅せ方』を無意識に理解し。
加えて、幼少の頃から強かな母によって『愛させ方』を教え込まれ。
とどめに、持っている性格は父と同じく、『素直ちゃん』である。
つまり、素で相手を堕とす行動を心の底からしまくれる天然物の
今までは色々と押しとどめている中で、そんな一面も封印されていたのだが。
そんな彼に心から欲しいと思える相手が出来たとき――どうなってしまうのか。
それは多分、彼女だけが思い知ることになる。
当然のように手を繋いだまま、屋敷の方へと歩き出す幸に、千花は顔を赤く染めたままついていくことしかできなかった。
☆☆☆
そんな始まりはあったものの、基本的には2人共真面目で勤勉である。
宿題自体はどんどん消化されていく。
千花の海外旅行の話を中心に、どんな風に夏休みを過ごしてきたかをぽつぽつと話しながら、ノートを埋めていった。
時間はあっという間に過ぎ、夕方にさしかかったころ。
一段落がついた後の休憩タイムのことだった。
「そういえば――四宮先輩の家にも一度お邪魔しました」
「言ってましたね!!花火を楽しみにしてくれてたとか」
ベッドでごろごろ、と全力でぐーたらしていた千花が体を起こす。
「はい。みなさんに会いたいと言っていました」
「楽しみです~生徒会の皆でお出かけは初めてなので!!…サチちゃんも来られたら良かったのに」
「僕はアメリカで成功を祈っています」
残念ながら夏祭りの日、幸は海外に行かなければいけない用事があった。
何だかんだで忙しい夏を過ごしているのだ。
「他にも色々と聞きましたよ。猫耳の話や、先輩カップルの話なんかも」
「1学期も色々ありましたから…サチちゃんと会ったのも大分懐かしく感じますね~」
「あ、タピオカミルクティーのお金、もらっていません」
「そうでした!!」
結局弟子入り料金として処理されたタピオカミルクティーだった。
また少し時間が経って。
「――サチちゃん?」
雑談を積み重ねていると、幸が立ち上がる。
そして千花の方へと歩みより、少し悪い笑みを浮かべた。
「こんな話も聞いたんですよね」
「ど、どんな話ですか?」
千花は冷や汗を流した。彼女の弟子は、告白後からはちょっと予想できない行動をとるようになっていたからだ。
更に、千花はベッドで大胆にだらだらしていたせいで逃げ場がないことを悟る。
するりとベッドに乗り込んで、幸は千花に馬乗りになった。
次いで逃がしませんとばかりに、両手で優しく両頬を包む。
「ちょっと強引なぐらいが、好きって」
千花はこの時ばかりは過去の軽率な自分をひっぱたきたくなった。
でも、ちょっと、悪い気分ではない。
そして顔と顔を近づけて、耳元でささやく。
その声色は、艶やかで。的確に鼓膜を刺激した。
「――ちかせんぱい、だいすき」
頭全体に響いた言葉に、千花は耳まで真っ赤になる。
言葉と一緒に吐き出された吐息が耳をくすぐる。
そして、幸は目を細め、囁く。
「昔、つまみぐいが好きで――とても、とてもおいしく感じて」
「ちかせんぱいは、つまみぐい、ゆるしてくれますか?」
まつ毛とまつ毛がくっつくぐらい近づいて、問いかける。
疑問形で投げられたそれは、実質的に拒否権なんてなくて。
拒否する気もなくて。
「おいしく、食べてくれるなら、ゆるしますよ」
千花は、目を閉じた。
お互いの吐息が感じられて。
高鳴った心臓の音さえ聞こえるぐらい、
周囲が静かになった気がして。
唇と唇を、触れ合わせたのだ。
数舜触れた後に、唇を離して、
閉じていた目を開いて、小さく笑い合う。
そして今度は、どちらからともなく、唇を重ねた。
指と指を絡めて、貪るように、味わうように、刻み込むように。
「恋人でもないのに、悪い子になっちゃいましたね、私たち」
「既成事実、です」
「そんなのなくたって私は逃げませんよ――でも。なんで、奉心祭なんですか?」
元々惹かれ合っていて、それをお互い心のどこかで気づいていた。だからこそ、奉心祭の予約だ。
そして、意識をしてしまえば、恋の深みに嵌るのは一瞬だった。だからこそ、触れ合った。
嵌ってしまえば、それが深くなるのも一瞬だ。だからこそ、口づけた。
それでも奉心祭でちゃんと返事を聞きたいというのは幸のわがままであった。
今になればこそ、千花はちょっと不満なのだ。
――今すぐにだって、恋人になりたい。
――好きな人の振り向かせ方を教えて欲しい。
幸が言ったそれはつまり、あなたの理想に近づきたい。そういうことになるだろうが、千花は別にそのままの姿で十分と思っていた。
目の前の少年が必死に変わりたいと願った姿を、そのひたむきな努力を、迷いを、愛しく思ったのだから。
返事なんて、今すぐにだって出来るのだ。
「奉心祭が来てほしくないんです」
千花は?を浮かべる。
告白の返事を聞きたくない、という意味ではないだろうというのは分かったのだが。
自分が指定したその日が、嫌だというのは、よく分からなかった。
「奉心祭の日は、一番嫌いな日なんです」
「もしかして…」
「はい。僕の誕生日です――だから、チカ先輩に一番幸せな日にして欲しいんです。だめ、ですか?」
それはかわいいわがままだった。
幸の誕生日、それは彼の両親が事故に遭った日であった。ここ数年の間、幸の心を、そして父の心を蝕んでいたものであり、それからというもの誕生日が嫌いだったのだ。
「そんなの。だめなわけ、ないじゃないですか。でも、私にもっと良い考えがありますよ」
それは千花の想いも、幸の願いも満たせるものだった。
えっへん、と胸を張って千花は提案する。
「その日に、私たち。――――しましょう」
言い終わると同時に静寂が彼らを包んで。
2人の目線が合わなくなる。幸が目を閉じたからだ。
2人の会話がなくなる。幸が口を閉じたからだ。
2人の距離がなくなる。千花が抱き寄せたからだ。
「そのために、今日から」
言葉をそこで一度区切り、千花は唇を奪う。
自分からのキスは想像以上に恥ずかしくて、頭の奥が熱くなる。
「お付き合いをしましょう。サチちゃん――私も、好き、ですよ」
好きという言葉をちゃんと口にするのは、ここまで難しいことなのかと、千花は初めて知った。
そして、それが伝わったときの、温かくなる心の感触も。
ぽたり、ぽたり、と。涙が千花の頬に落ちてくる。
崩れてしまった顔は、きっと今まで見た中で一番可愛くないものだ。
でも、それでも、千花にとっては、一番魅力的なものだった。
「うれしい、ですっ。チカせんぱい、大好き」
でも更に、涙に彩られた、その笑顔は。
初めて会った日の微笑みを霞ませるほどに、綺麗だったのだ。
こうして、始まったばかりの恋愛師弟戦は、そのゴールを変えて、リスタートしたのだった。
ここ3話で2回も告白してるカップル。
一応、時間的には初回告白から1か月経ってます。