屍の立香 作:射程がダンチ
太陽が爛々と輝く蒼穹を、何処からか運ばれてきた桜色の花弁が舞う。
その日、新学期が始まって間もない頃、藤丸立香の姿は街の中心部にあった。
各々が携帯端末や腕時計に視線を向け、慌ただしく行き交う勤め人の波に小柄な朱髪の人物が紛れ込む。
忙しない社会人たちに混じった、時間に追われる心配のない瑞々しい若者。
目立つことはないが、仄かな違和感を残す情景。小さな認識の相違。
十中八九、社会人と言い切れない背格好の若者が平日の昼間に街中を歩いていようが、万人の日常に影響を及ぼす程ではない。質の悪い軟派を生業とする者か、もしくは非行を取り締まる側が声をかけるのが精々だ。
べつに、彼女は学業を疎かにする素行の悪い生徒ではない。
四月は多くの人々が新たな生活を始める季節だ。それは学生にも当て嵌まる。
藤丸立香が籍を置く高校の入学式は予定通りに執り行われ、緊張を胸にした新入生たちが校舎に足を運び、在校生たちは自宅待機という名の休日を迎えていた。
べつに、彼女は生真面目で融通の利かない堅物ではない。
降って湧いた折角の休日を無為に過ごす愚は犯さない。家に引き籠るには惜しい快晴であれば尚更だった。
幸いにも新学期は始まったばかりで課題は出されず、不幸にも親しい友人は午後から部活で一緒に出掛けることは叶わなかった。
そうした過程を経て、現在に至る。
気晴らしを求めて、特に目的地を定めずに足を動かす。
春物の洋服を物色し、学校で話題になったパフェを出す喫茶店が定休日で肩を落とす。二羽の小鳥が仲睦まじい様子で信号の上に佇む姿を携帯端末で写真に残し、頬を緩めながら友人に送る。
強いて言えば、規模の大きい散歩だった。近所を軽い運動も兼ねて歩くのと大差のない感覚。視界に映ったものに惹かれ、行動するだけの時間。
それは無為な休日を過ごしているようにも捉えられる。何をするでもなく、貴重な時間を贅沢に浪費するだけの若者。
けれども藤丸立香はまだ高校二年生であり、全てはそれに尽きる。
進学や就職といった進路への不安や希望を抱くには時期尚早。深刻な悩みは課題の提出や定期試験の成績といった程度のもの。
有限であるはずの刻が果てしなく続くと、楽観的に思い込む特権を許された年頃。
自覚すら持たない、根拠のない確信はその日、唐突に散った。
大型書店の出入り口を潜り抜けて来た藤丸立香は、程なくして視界に映る街並に、正確には頭上を覆う空の色に首を傾げた。
太陽の輝きが見当たらない。蒼穹が茜色に染まる刻限は過ぎ去ったとばかりに宵闇が広がっていた。
流行のファッション雑誌を立ち読みしたり、興味の惹かれる書籍がないものか探し回ったりと相応に長居をしたが、夜が訪れるには充分な余裕があったはず。
落陽の早い雪の降る季節ならば体感よりも長く居座った可能性はある。いまは散り際の桜花が儚くも存在感を残し続ける時期だ。そして立香の記憶が確かなら、太陽はまだ高く登っていた。
「えっ、な──」
なんで、どうして、疑問が明確な音声として紡がれることはなかった。
空模様にばかり意識が向いた弊害、当然のような混乱によって、周囲の状況が常と異なる事実に思考処理が追いつかない。
情景が変貌する。街並の輪郭が朧気になり、人の気配が消失する。無意識ですらない一瞬、或いは最初からそうであったかのように、立香の知る既存の世界は一切が弾き出された。
暗夜に色を添える銀燭の月影。
天より降り注ぐ雪下の大地に芽生えた、異物。
春の薄い服装では防ぎようのない冷気が素肌を叩き、思わず両腕で肩を撫でさする。
行動が思考を活性化させた。それは自身の死を危惧した生存本能の発露であったかもしれない。
「うぅ、寒いッ」
漸く絞り出した呟き。
暖かな春が、慣れ親しんだ街並が、比喩のない銀世界へと転じたのだ。大地から芽生え、或いは突き刺さった存在が鈍い煌めきを放つ。
墓標のようだと立香は思った。実際はもっと異質なものだった。形状の違う様々なそれらには名が標されておらず、しかし、確固たる存在としてこの世界を構成していた。
「わたし、何処にいるの……?」
誰に向けたのでもない疑問に応える存在はいない。
一度でも訪れた過去があれば、数多の
異常事態に見舞われて、年頃の少女ならば錯乱して然るべき状況下で、立香は強張った表情ながらも精神の均衡が崩れた様子は見受けられない。
無理をして気丈に振る舞おうと心掛ける。思考回路の一部が、妙に達観していた。生来の気質によるものかもしれなかった。課題の提出期限や定期試験の実施日が変更しないか、ありもしない希望に胸を馳せる一方で、目に見えるものを受け入れる。思考面では虚構と現実を両立させる部分があった。
いまも、胸中に巣食う感情の暴発を努力して抑え込んでいた。理性が蒸発することなく懸命に思考回路を働かせる。
真に不幸なのは、彼女のそうした努力の一切が無駄に終わることだった。
静謐を吹雪が砕く、刀剣の墓標が目立つ異様な世界。
他に人の気配が感じられないその場所で、己に危害を加えうる存在にまで思考が及ばない立香を誰が責められよう。
日常から隔絶された墓所に存在する人間は、確かに藤丸立香ただ一人であったのだ。
それは墓守の存在を否定する証にはなり得なかった。
明確な意図によって一人の少女を心情風景に引き込んでいた。
黒い筋が地面に生じたのを立香は捉えた。それは自身から伸びる影と似たような形で、背後に人の存在を示唆するものだった。
音もなく唐突に現れた影の持ち主に、本来ならば不審や警戒といった感情を向けるべきである。しかし努力して精神の均衡を保ちながら、緊張状態にある立香が抱いたのは安堵であった。自分の他に誰かがいる、孤独ではないのだと。
強張った表情が僅かに弛緩して立香は背後を振り向こうとする。
そして影は僅かに揺れ動き、次いで立香の慎ましやかな胸から一振りの刃が突き出していた。
鮮血が舞い散る。こみ上げてくる液体を盛大に吐き出す。背中から胸にかけて灼けるような錯覚。酸素を上手く吸えない。全身から力が抜けてゆく。瞼は重いが、皮肉にも激痛が意識を繋ぎ止めていた。
刃が引き抜かれ、支えを失った肢体は雪の大地へうつ伏せに倒れ込む。赤黒い液体が広がってゆく様は、雪原に一輪の華が咲き誇る様を彷彿とさせる。
出血と冷気の相乗効果で、もはや立ち上がる余力は残されていない。意識と気力のみで、かろうじて首を動かす。
足音がした。不思議なことに人の気配とは思えなかった。
紅い衣を身に纏った男がいた。その右腕に、血濡れの刀剣を一振り携えている。
月明かりに照らされた顔立ちは、年齢不詳といえば聞こえはいいが、判断のつかない複雑なものだった。疲れ切った老人の色を呈しているが、澱んだ琥珀色の瞳は烈火の意思を覗かせる。
額に巻いた
妙に見覚えがある。それは何だろうか。記憶を巡らせ、解を見つけて立香は無邪気に喜んだ。
同じ色なんだ、髪の毛とか目の色が。もし男の子に生まれてたら、多分、この人みたいな顔になったのかな。
朦朧とした意識では正常な思考を満足に働かせることができない。必要もなかった。遠からず訪れる死を立香は漠然と理解した。全身を迸る激痛からの解放を願った。
願望が通じたとは思えないが、男は片手に携えた刀剣へ力を込めた。逆手に持ち替える。
視線はある一箇所に向けられる。心臓を貫いて尚も意識の残った少女に安らぎを与えるために首を絶つ。
腰を落とし、振り上げられる男の腕。
あぁ、死にたくないな、わたし。はやく、楽になりたいな。
生気のない虚ろな瞳からは矛盾した感情を窺い知れない。もはや意味もない。
藤丸立香の短い人生は幕を閉じる。
死の間際に垣間見えたのは、藤色の髪をした小柄な少女だった。
滑り込んだ盾に刃が阻まれ、耳障りな甲高い音が響き渡る。
紅い衣の男は俄かに信じられぬ表情を浮かべ、すぐさまそれを打ち消す。無手であったはずの左腕には新たな刀剣が一振り握られていた。
何処から引き抜いたのか分からぬ得物。
両腕に構えた二刀が、間断なく突き出される。絶妙に緩急の差をつけて、絶えず癖を把握させない剣技。
その悉くを、身体を覆い隠すような盾によって防がれる。
己の動きを見切られている。程なくして達した結論に、
呼吸の間隙を突いて繰り出された反撃を難なく捌き、男は闖入者から距離を取る。
盾の持ち主は追撃の素振りを見せながらも、距離を詰めはしなかった。油断なく構えながら、背後に倒れ伏した藤丸立香へ一瞬だけ視線を送る。
両者の目的は一目瞭然だった。攻める側と守る側。命を奪う悪と、それを防がんとする善。
「なぜ、このような
盾の持ち主は言った。まだ年若い、抑揚の無い少女の声だった。
漆黒の戦装束から二の腕や太腿の滑らかな素肌が露出するにも関わらず、寒気に震える素振りは一切ない。先だって繰り広げられた剣士との応酬からして、尋常ならざる存在だった。
全身を覆い隠すには充分な大きさの盾を構え、一方で腰に吊るした鞘から一振りの長剣を引き抜いた。
暴虐から無垢の民草を守護する、現代では目にすること叶わぬ紛れもない騎士の姿。それが年端もいかぬ少女の姿形である事実が、ひどく奇妙であった。
剣士と騎士が対峙する構図は現実離れしており、まるで伝承や歴史の場面が抜き取られたようだ。
沈黙が場を支配したのは一瞬。騎士が疾駆する。前面に押し出した盾に半身を隠し、長剣の一撃を予測させない動作。
剣士は単純に己の得物で応じた。
常人離れした異能の超人にとって距離は問題にならない。
ただ、手数の差が如実に現れたのみ。
紅い衣の男にとって、得物は即ち刀剣である。
そして吹雪の舞う暗夜の世界、雪原に突き刺さる無数の墓標も刀剣の類だった。
地面から抜きはしない。両手には既に二振りの得物を握りしめている。
「全てを失って、願いも果たせずに剣は折れた。間違い続けた選択の先に至った誓いは、独善的で矮小な悪そのものだった」
無数の刀剣が虚空から投影される。その全てがある一点へ、剣と盾しか持ち得ぬ騎士へ暴風と化して襲い掛かる。
一つの命を護るべく勇戦する騎士の姿に何かを重ねて。
「悪いが押し通らせてもらうぞ、俺の
無数の剣が墓標となった世界で、鮮烈な飛沫が舞った。