暗くなっていく部屋の中で、テレビだけが乾いた音を立てていた。
アイドルの特集番組だ。デジタル画面の液晶越しに、私の見知った顔が浮かんでいる。
芹沢あさひ。
800万の画素数を誇る現代技術の映像美は、彼女の笑顔をどうしようもなく鮮明に掬い上げてしまう。
笑ってる。綺麗な笑顔で。穢れなき天使みたいに。
紐で心臓を締め付けられたように、きゅっと胸の奥が痛くなる。溢れ出る感情は、寂寥だとか後悔だとか、そういった名状し難い後ろめたさだ。
芹沢さん。
私の一つ下の後輩で、そして、憧れだった人物。
彼女は今、私のことをどう思っているのだろうか? 怒っているのだろうか? 失望しているのだろうか? ――それとも、もう全部忘れ去ってしまっているのだろうか?
私にはもう、その答えが分からない。
そしてこれからも、きっと、一生分かることはないのだろう。
*
芹沢さんと私が出会ったのは、ある九月の日のことだった。
当時中二を迎えていた私は、とある一つの問題に直面していた。
それは限られた土地資源の活用を巡る、隣国との紛争問題である。
私の通う中学は、生徒数の割に敷地面積がなくて、はっきり言って狭い。その癖部活動には力を入れているものだから、限られた領土を巡って、各部間の苛烈な侵略戦争が巻き起こるのが常である。
三年生が抜けた夏休み明けの九月は、各部員の再編成がなされ、領土争いが最も激しくなる時期の一つだ。とりわけ我が校に一つのみの小さな体育館は、バスケ部・バレー部・卓球部etc、数多の部活動がしのぎを削る縄張り戦争の最前線である。
中でも私の所属する女子バスケ部は、共に体育館を使う男子バスケ部との折り合いが悪く、常々所有地を奪い合う犬猿の仲となっていた。
平和裏な話し合いで事が済めば良いのだけれど、悲しいかな、領土争いが言論により解決することは古来稀である。
だからその日も、私達は体育館の使用権を巡り、男子バスケ部と諍いを引き起こしていた。
「今日は私達に使用権があるはずなんだけども」
と、私は男子バスケ部の部長に問いかける。
各部における体育館の使用時間や活動領域には、一応、大まかな取り決めがある。
ただし、それらはきちんと明文化はされておらず、言ってしまえば、現状ただの口約束に過ぎない。生徒の自主性を重んじる――と言えば聞こえはいいが、放任主義の我が校では生徒同士の諍いに教師が介入してくることもない。
だから往々にして、こういった横紙破りが強引にまかり通ってしまう。
「あ、そうだっけか?」
彼は面倒くさそうに首を捻る。
悪びれる様子もなく体育館を占有した彼らは、誰に憚ることもなく、我が物顔で練習を続けている。
「ま、いいだろ。気にすんなよ」
と、続けて彼は言う。
待て待て待て。気にすんなとは? それは言うとしても私が言うべきセリフだし、そもそもこの状況自体何一つ納得していないのだけれど、しかし、私がどう訴えてみても彼は首を傾げるばかりで皆目話は通じなかった。
「あのなぁ、俺達は遊びじゃなくて真剣にやってんだ。女バスなんかが使うより、俺達が使った方が有意義だろ」
遊び。何だそれ。彼らの尺度から見ればそうなのかもしれないが、私達は私達なりに全力でやっている訳で、全く話が噛み合わない。一人相撲を続けている気分だ。
「ああもう分かったよ。じゃあバスケで決着を付けるってのはどうだ?」
うんざりするように彼は言う。「勝った方がコートを使って負けた方が出ていく。それなら良いだろ?」
全く何も良くないし、不条理極まりない提案なのだけれど、でも、彼らは自分達の正当性を本気で信じているのだろう。言葉を重ねるごとに虚しくなってくる。
本当は何一つ納得なんてしていないのだけれど、これ以上の譲歩を引き出すのは無理だろうと、ほとんど負けを覚悟で渋々提案を受け入れかけた、その時だった。
「――面白そうな話をしてるっすね。私も混ぜて欲しいっす!」
彼女は、現れた。
鬱屈とした何かを振り払うような、純白の笑みを携えて。
*
結論から言えば。
私達は、その試合に勝った。
芹沢さん。
突如として現れた、たった一人の助っ人の力によって。
「面白いことを探してるんす」
後に彼女は、そう語っていた。
聞けば、その日体育館を訪れたのは、ふとした好奇心による暇潰しだったらしい。
バスケに関してはとんと初心者なのだと彼女は言うが、でもそんなことまるで信じられなかった。
ティップオフの笛が鳴った途端、始まったのは『蹂躙』だった。
瞬く間に敵のボールを奪い、コートを真っ二つに割り、DFを抜けシュートを放つ。
速すぎる影は止まらない。視線を一閃が横切る頃には、既に攻撃が終わっている。
圧巻だった。
強過ぎた。
男バス部が弱いというわけではない。むしろ彼らは地区の中では有名な、それなりの強豪部でさえある。
でも彼らと比べても、芹沢さんの実力のそれはあまりに抜きんでていた。
『天才』。
凡庸な私にとって、彼女を形容する言葉は、それ以外には思いつかない。
「バスケ、楽しかった?」
と私は問う。芹沢さんは間髪入れず「はいっす!」と返す。
「ならさ、バスケ、初めてみない?」
打算はあった。
弱小部の女バス部に彼女が加われば、それだけで大きな飛躍である。戦力増強と言う意味で、彼女以上の適任はいないだろう。
でも、それよりも。
あ、いいなって思った。
高く鳴り響くバッシュの音も、鼻を突くような汗の匂いも、なんだか全てが様になっていて、バスケをしている時の彼女はまるで、完璧な調和のとれた一つの世界みたいだった。
だからきっと、打算なんて建前に過ぎなくて、その時から私は、芹沢あさひという少女に魅せられていたのだと思う。
誘蛾灯に誘われた羽虫は、きっとこんな気分なのかもしれない。ぼんやりと、そんなことを考えた。
「気が向いたらで良いからさ、これからも顔を出してもらえたら嬉しい。その時は歓迎させてほしいな」
「――……!」
芹沢さんは少し考える素振りを見せて、それからまた無邪気な笑みを作る。感傷的なタイトルの付いた一枚の絵画みたいに。
「ほんとっすか? 嬉しいっす!」
そしてそれが、彼女の笑顔を見た最後の記憶だった。
*
彼女の姿を観なくなってから、一週間が経つ。
それは彼女が女バス部に顔を出さなくなってから、と同義だが、その二つに本質的な違いはない。つまりは彼女は、バスケをやらなくなった。
初めは怪我や病気なのかと思った。だってあの日の彼女は、あんなにも綺麗で、バスケをする喜びに満ち満ちていた。あれからまだたったの十日だ。理由もなくやめてしまうだなんて、そんなことは考えられない。
だから彼女が別の部活動に顔を出しているのを見た時は、最初は見間違いなのだと思った。
文芸部。女バス部とは打って変わった、彼女の今の住処である。
「どうして?」
と、私は問いかける。
どうして、女バス部を抜けたのか。どうして、文芸部に入ったのか。どうして、どうして、どうして――聞きたいことはいくらでもあった。
芹沢さんは私の問いかけに、困ったような顔を作る。答えに詰まっている、というよりかは純粋に困惑した様子だ。何を問われているのかすら理解できない、といったような。
「……私は、あなたのバスケが好きだったよ」
嘘じゃない。
全身全霊で楽しむことを具現化したみたいな、彼女の姿が好きだった。だから私は、彼女に惹かれたのに。
「私も好きだったすよ」
と、彼女は言う。
過去形だ。本質的な話なんて何もしてないのに、それだけは分かってしまった。
「どうして、あなたは今ここにいるの?」
せり上がる感情を堪えて、どうにかそれだけの言葉を紡ぐ。口を開けば何かが零れ落ちてしまいそうで、代わりに小さく拳を握った。
「太陽が、まぶしかったから」
太陽? 太陽って、あの太陽?
分からない。彼女は一体、何を言っている?
「太陽がまぶしかったから、私は今ここにいるんす」
芹沢さんはまた気楽な調子で言う。
後ろめたさなど微塵も感じていない様子で。
思考の回らない頭で、私はぼんやりと考える。
彼女は、異邦人だ。
凡人の枠組みから外れた不条理。世界から断絶された異邦の人。
どこですれ違ったのか。何を間違えてしまったのか。この期に及んでも、私には分からない。天才の心は、凡人の私には、分からない。
「……もう、いいよ」
それから私が口にしたのは、どこまでも凡庸な、拒絶の言葉だった。
*
それから一週間ほどで、芹沢さんは文芸部を抜けたのだと聞く。
在籍中に書いた一作の作品は、何かのコンクールで高名な賞を取ったのだという。私には及びもつかない話だ。
彼女がアイドルとして活動を始めたのは、それからしばらく後の話だ。
『Straylight』、というそのユニットは、今や連日テレビを賑やかせている。異邦の彼女はどこまでも、遠く遠くへ羽ばたいてしまっている。
もしも。
そんな、意味のない仮定を考えることがある。
もしも、あの時かけた言葉が違っていたなら。
もっと違う対応を取れていたなら、この未来は変わっていたのだろうか?
何か一つボタンを掛け違えていれば、今も彼女は私の隣で笑ってくれていたのではないか。
無駄な思考だ。だってあの時、彼女を拒絶したのは紛れもない私自身なのだから。
でもきっと、彼女たちは。今、芹沢さんの隣で笑う彼女たちは、彼女を拒絶しなかったのだろう。
これは、あり得たかもしれない未来だ。私自身が閉ざしてしまった、ありうべからざる幻想だ。
終わってしまったんだなぁって思う。
そもそも何も始まってすらいなかったし、終わるような関係すら築けてはいなかったのだけれども、それでも終わってしまったんだなって、思う。
日が暮れていく。
虚無的なまでの広大な闇の中、太陽の光だけが淡く彼女を照らしていた。