「彩、今週の土曜日って空いてる?」
私があかりにそんな事を言われたのは、卒業を間近に控えた3月の初めの事だった。
「え? 空いてるけど、それがどうしたの?」
「ホント? 昨日お母さんがケーキ屋さんの割引券くれたんだ。友達と一緒に行ってきなさいって。結構有名な所なんだよ?」
ケーキ……? 今、ケーキって……
あかりが何気なく発したその単語に、条件反射の如く私の全神経が注がれる。
「ほら、私達もうすぐ卒業でしょ? 今まで二人で遊びに行った事とか無かったし、彩さえよければ……」
「行く!」
「えっ……?」
「絶対行く! 今週の土曜日ね?」
「う、うん……」
勢いよく詰め寄る私にあかりは少々困惑した様子だ。
……でもそれも仕方ない。何を隠そう私は大の甘党、特にケーキには目がないのだ。
子供の頃から甘いものが大好きだった私。特にプロになって以来、その甘党っぷりは二次関数的に上昇していった。
家の冷蔵庫にはプリンやらシュークリームやら、必ず何かしらのスイーツが常備してあったし、対局で勝った日なんかには、一切れ1000円近くもするケーキを、平然と3つ4つ買って帰るなんて日常茶飯事だった。
囲碁は思考のゲームであり、その性質上脳のエネルギーを大量に消費する。限られた時間内で何百何千通りもの展開図を考えなければいけないプロの対局、特にタイトル戦ともなれば、一局で体重が2・3キロ落ちるなんてザラにある話。そしてそれを補う為の手っ取り早い手段、それが糖分補給だ。
もちろん趣味嗜好は人それぞれだろうけど……私に言わせれば、碁打ちに糖分は必須なのだ!
打って変わって現在、小学生として分相応のお小遣いで細々とやっている身であり、碁会所の席料等の出費も考慮すると、私が甘いものの為に使えるお金など微々たるもので、特にケーキなんて単価の高い物にはそうそう手を出すことなどできない。
プロの時と比較すれば体は昔ほど糖分を求めていないのかもしれない。それでも、そんなかつての私の記憶が、精神が、この体にも叫ぶのだ。……甘いものが食べたい! と。
そんな折、あかりからのこのお誘い。美味しいケーキがお手頃価格で食べられる。……私が食いつかないはずがなかったわけで。
「じゃあ土曜日、駅前に1時半でいいかな?」
「おっけー! あかり、大好きだよ!」
「……あはは、喜んでもらえて嬉しいよ」
苦笑するあかりを尻目に、既に私の脳内はどのケーキを食べようか、なんて考えでいっぱいだった。
―――
そんなこんなで当日。
昼下がりのティータイム、モダンな雰囲気漂う落ち着いた内装の洋菓子店。その片隅で、私は恍惚の笑みを浮かべていた。
ヤバい……殺人的だ。美味しすぎるでしょコレ。こんな店が近くにあったなんて。……決めた、プロになったら絶対ここに通いつめてやる!
「幸せそうだね、彩」
密かな決意を心にする私に、あかりがそう話しかける。
「超幸せだよ。私囲碁の次にケーキが好きだもん。あかり、ホント誘ってくれてありがとね」
「うん、それはいいんだけど……」
「どうしたの?」
「その……そんなに食べて大丈夫?」
躊躇いがちにあかりが指差す先には……私の目の前に重ねられた、既に空となった2枚のお皿があった。
あかりがくれた割引券にはこう書かれていた。
『お一人様3個まで割引いたします!』
余りにも甘美で残酷な誘惑だった。割引価格で3個もケーキが食べられる。しかしそれは、1個のケーキすら購入を躊躇われる私のお財布事情に大打撃を与えることも意味していた。いくら割引されようと、3個も注文すれば通常の2個相当の値段になるからだ。
確かにお小遣いが入ったばかりの今なら3個買うことも可能だ。でもそれをしてしまえば、残りのほとんどの日々を甘味断ちするという地獄の様な苦行が待ち構えている。
悩んだ。ひたすら悩んだ。そしてその末に、ついに決断を下した。そんな私の背中を押してくれたのは、私の世界で偉い先生が残したある格言。
『囲碁は人生の縮図である』
……そう、囲碁も人生も一緒。守ってばかりではダメ。行く時に行かないと勝てない。攻め時を見誤るなんて棋士として恥ずべき行為だ。……そして、今がその時なんだ!
「いちごショートとチーズスフレと季節のフルーツタルトください!」
そして今、幸福感に満ち溢れた私には一欠片の後悔もなかった。自分の選択は間違っていなかった。心からそう思える。
「全然余裕だよ。本気出せばもう2・3個だって……」
「そういう事じゃなくて……大丈夫なの?……体重とか」
「体重?」
「あ、別に彩が太ってるとかじゃなくて、むしろ痩せてて羨ましいなぁなんて思ってるんだけど……その、気にならないのかなって」
あわててそう取り繕うあかり。……体重、か。確かに普通の女の子にとっては一番の悩みの種だ。あかりもそういうのを気にする年頃なんだねぇ。
まるで他人事の様に考えているけれど、あいにくと私はその手の問題に悩まされた事がないのだ。何故なら……
「私、食べても全然太らないんだよねー」
ただの体質なのか、それとも年中囲碁に頭を使っているせいなのか、私は本当に食べても食べても太らないのだ。とはいえ、棋士にとっては体力作りも大切な事だし、そういった点では自分のこの体質が悩みの種と言えなくもないけれど。
「ねえ彩……それ、全ての女の子を敵に回す発言だってわかってる?」
「え……あの、あかり?」
誰にでも優しい普段のあかりからは想像もつかないようなドス黒いオーラが、彼女の背後から沸き上がっている様な気がした。言葉面こそいつも通りだったけれど、顔が笑っていない。
「私達が普段からどれだけ我慢しているかも知らないで……そんなのずるすぎるよっ!」
そう言いながらあかりは私の両肩を掴んで激しく揺さぶってくる。
「ちょっ……やめて、タンマタンマ! ケーキこぼれるから!」
この期に及んでケーキの心配をする私が余程お気に召さなかったのか、そんな懇願も虚しく、私を掴むあかりの両手の力は緩む事はなかった。
結局、そんなあかりの口にフルーツタルトを押し込んだ所でようやく私は解放された。
未だに『ずるいよ……』なんて言いながらも引き下がってしまうあたり、あかりも甘いもの好きの普通の女の子なんだろう。
……そして、そんな子の前で自分の体質の話はやはり禁句だ。私は改めてそう痛感したのだった。
―――
店を出た私達は駅前に向かって歩いていた。現在時刻は午後3時。健全な小学生と言えども、解散するにはまだまだ早い時間だ。
誘ってくれたお礼と言っては何だけど、個人的にこの後はあかりが行きたい所に付き合ってあげようと決めていた。……出来ればお金が掛からない範囲でお願いしたいところだ。
「この後どうしよっか? まだ時間あるし、どっか行きたいとこあれば付き合うけど」
「そうだなぁ…………あ、じゃあさ!」
何かを思いついたようにあかりが声を上げる。まあ小学生が行ける所なんて限られてる訳だし、そんなに驚くような場所でも無いだろうけど。
「彩の家、行ってみたいな!」
少々意外ではあったものの、私の思惑に違わず実に小学生らしい答えだった。
……それにしても何だってまた私の家? まあ来たいって言うんだったら別に断る理由もないけれど、自慢じゃないけどうちには友達と遊べるようなものなんて何も無い。机の引き出しをひっくり返せば精々トランプくらい出てくるかな、ってレベルだ。
「いいけど……うちで何するの?」
私のその問いに、あかりは少しだけ恥ずかしそうにこう答える。
「えっと、私ね……囲碁やってみたいんだ」
「お待たせ。はい、どうぞ」
「ありがとう。わざわざゴメンね」
オレンジジュースが入ったコップをあかりに手渡し、私も碁盤を挟んで向かいの座布団に座る。
ちなみに今日は朝から両親は二人で出掛けているため、家には私達しかいない。まあそのほうがあかりも余計な気を遣わないで済むだろうし、好都合なんだけど。
「いやー、それにしてもあかりが囲碁をやりたいって言ってくれるとはね」
「うん。ヒカルも最近は凄く夢中になってるみたいだから、そんなに面白いのなら私もやってみようかなって。……ほら、彩もやってるって言うし」
悲しいかな、取って付けた様な自分の名前に、まあ私はオマケなんだろうなって事は何となく伺い知れた。……予想通りと言うか、やっぱりあかりが囲碁を始める理由はヒカルだった訳だ。
あかりは可愛い。友達とかそういう贔屓目無しに、性格も含めて本当に可愛らしい女の子だと思う。……それにも関わらず、私のクラスで彼女にアタックする男子は誰一人としていない。
それは、あかりが明らかにヒカルに好意を持っている事が端から見てもバレバレだからだ。他の男子もアタックするだけ無駄だと感じているんだろう。
もはやクラス内にはそんな二人を生暖かく見守ろうという暗黙の了解すら存在している訳で。……そして、それに気付いていないのは恐らく当人達だけ。
原作でもヒカルにくっついて囲碁部に入ったように、ヒカルが囲碁をやってる以上、あかりが囲碁に興味を持つのは必然だったと言うわけだ。
……ま、理由なんてどうでもいいや。私にとっては友達が囲碁を始めたいと言ってくれた事、それが何よりも嬉しいんだから。
「でも……私に出来るかな? 自分からお願いしておいて何だけど、囲碁って頭良くなきゃ出来ないんじゃないの?」
「大丈夫大丈夫! 考えてみなよ、ヒカルだって出来るんだからさ!」
「……確かに。それもそうだね!」
ヒカルが聞いたら怒りそうなやりとりだけど、それに説得力を持たせてしまうヒカルの成績の悪さがいけないのだ。
……最近、社会の成績だけは上がってるみたいだけど、その理由だって私にはバレてるんだぞ。
「じゃあ、まずは石取りゲームから始めてみよっか」
そう言いながら私は白石を天元に置き、その三方に黒石をツケる。
「あかりは白ね? それで、ここに黒を打たれるとこの白石は取られちゃうわけなんだけど」
「うんうん」
……やっぱりいいな、こういうの。昔の私の友達は囲碁を薦めてもジジ臭いとか言って全然やってくれなかったし。
まったくひどい話だ。お年寄りが嗜むって事は、一生楽しめるゲームって意味なのに。
「じゃあ始めに戻すね。この白石が取られないようにするためには、白はどうすればいい?」
「えーっと……」
そう考えると、まだ子供のこの時期に囲碁を覚える事ができるっていうのは凄く幸せな事だと思うんだけどなぁ。やっぱり柔軟な発想力っていうのは子供ならではの部分が……
「こうやって逃げる」
あかりの人差し指と一緒に、天元の白石が碁盤の上を滑っていく。
「…………」
「……正解?」
柔軟と言うか、斬新と言うか。……うん、でもこういう考え方も大事なのかもしれない。歴史に残る妙手だって、例外無く常識に囚われない発想から生まれるものなんだから。
「……ごめん、説明不足だったね。囲碁っていうのは黒と白が交互に――」
―――
「今日はありがとね、あかり。本当に楽しかったよ」
「ううん、こっちこそお願い聞いてもらっちゃってありがとう」
夕日で空が赤く染まる中、私達は並んで道を歩いている。初めて家に来たということもあって、帰りが困らないように私はあかりを駅前まで送ってあげることにしたのだ。
「まあ少ししか教えてあげられなかったけどね。……どう? ちょっとは面白かったかな、囲碁」
「うん。彩って教えるの上手なんだね。すごく丁寧で、親身になってくれたし……何て言うか、本当に囲碁が好きなんだなぁって」
もちろん囲碁が好きな気持ちは誰にも負けないつもりだし、一応プロだった過去の経験から、どう教えれば初心者が理解しやすいかという事もある程度知っている。
それでも、改めてそんな風に言われると、嬉しい反面少し照れ臭くもあった。
「あかりも真剣に聞いてくれたから私も教え甲斐があったよ。……ヒカルなんて最初の囲碁教室は半分寝てたんだから!」
照れ隠しのつもりで、思わず再びヒカルを引き合いに出してしまう。
「……そうそう! 子ども囲碁大会の時なんかさ、対局中に口出しを……」
一度鞘から抜いてしまった手前、堰を切ったようにヒカルの話が私の口から飛び出てくる。流石にちょっと悪いかな、なんて思いながら横を向くと、さっきまで隣を歩いていたはずのあかりがいない。不思議に思い後ろを振り返ってみれば、道の真ん中で立ち尽くす彼女の姿があった。
「……あかり?」
「あのさ……一つだけ彩に聞きたいことがあるんだけど」
どこか思い詰めたような表情で、あかりがそう口にする。……わざわざ改まってどうしたのだろうか。まあ他ならぬあかりの頼みだし、よっぽどの事じゃなければ答えてあげるけど。
「彩って……ヒカルの事、どう思ってる……?」
「え……?」
どういう意味だろう? まず頭に浮かんできたのがそんな疑問だった。
「ほら……最近彩とヒカルって仲良いじゃない? 一緒に遊びに行ったりもしてるみたいだし。……あっ、もちろん私としても良いことだと思うよ?」
……うん、私何も言ってないよ?
「つまりね、私にとっても彩は大切な友達のわけで、そんな彩にとってのヒカルは……えっと、その……」
萎むように小さくなっていく声量に反比例して、あかりの顔は赤くなる一方だった。
もはや言葉の内容自体は全く要領を得ないものになっていたけれど……何と言うかまあ、そこまであからさまだと、流石の私でもあかりの真意に気付いてしまう訳で。
……何この子、可愛いすぎるでしょ。こんな健気な女の子をほったらかしにするなんて、ヒカルに殺意すら芽生えてくるよ。
そんな物騒な考えが浮かんでくるくらい、目の前のあかりは……何かもう色々とヤバかった。油断したら頬がぐにゃぐにゃに緩んでしまいそうだ。
……おっと、笑ってる場合じゃない。あかりは真剣に聞いているんだから、私だってちゃんと答えてあげないと。
「大丈夫だよ、あかり」
「え……?」
もちろん私も友達として、そんなあかりを心から応援している。
だから、ちょっとくらいなら意地悪しても許されるよね。
「……あかりの大好きなヒカルを、取ったりなんかしないからね?」
「なっ……!」
その言葉に、まさに茹でダコと形容するに相応しいくらい真っ赤になるあかり。
……人の顔ってこんなに赤くなるんだ。
「ち、ちがっ……! そういう意味じゃなくて!」
「照れない照れない。ね? お姉さんはちゃーんとわかってるんだから」
「お姉さんって……じゃなくて違うの! ねえってば!」
わたわたと手を振りながら必死に私の言葉を否定する、そんな小動物の様な姿がもう可愛くて、子供をあやすようにあかりの頭を撫でてあげる。そんな最中、私はふと大切な事を失念していた自分に気が付いた。
……あれ、そういえばこれって本人には言っちゃいけなかったんだっけ。……まあもうすぐ卒業だし、大丈夫だよね?
心の中で言い訳しながら勝手に自己完結をするその一方で、自分の言葉に全く耳を傾けようとしない私に、あかりが遂に感情を爆発させたのは今から数秒後の事だった。
「彩のばかっ! もう知らない!!」
―――
……一週間後、卒業式を翌日に控えた学校で、屍と化した様に机に突っ伏す私の姿があった。
「彩……大丈夫?」
「と、糖分が……足りない……」
「もう、だから言ったのに。……でも、それが私達の苦しみなんだからね。ちょっとはわかったかな?」
鬼の首を取ったかの様にそう口にするあかりの言葉も、既に耳には届いておらず、私はひたすら一週間前の自分を呪い続けていたのだった。
「うう……私のバカぁ……」
今思えば、詰まるところ私のこの結末も、まさに格言の通りだったという訳だ。
……囲碁は人生の縮図であり、人生もまた囲碁の縮図。
――不用意な一手には、相応のしっぺ返しが待っているのだ。