「……ここまでだな」
父がアゲハマを盤上に置く。投了の合図だ。
張りつめていた神経が一気に緩む。難しい碁だった。盤面全体に広がる激しい戦いだったけれど、何とか勝ち切ることが出来た。自分でも納得の一局だ。
「……力を付けた。明日からは2子で打ちなさい」
「本当ですか!?」
その言葉に思わず頬が緩むのを抑えきれなかった。
父はボクがこの世で最も尊敬する棋士。他の誰にどれだけ誉められるよりも、父に認めてもらえる事こそがボクにとって何よりも誇らしく、何よりも自身の成長を実感できる事だったから。
そしてそれは同時に、自分が追い求めてやまない彼女との距離が確実に縮まっている事も意味していた。
ボクは今まで一度も彼女に勝った事はない。悔しいけれど自分よりはっきり格上の打ち手、そう認めざるを得ない。
だけど決して手の届かない相手だなんて思った事は無い。圧倒的な力の差を感じている訳でも無い。事実彼女と打った対局において限り無く勝ちに近づけた、自分の刃が彼女の喉元まで迫っていた、そう実感した時だってあったのだ。
このまま研鑽を積めば、彼女に勝てる日だってきっと遠くないはず。そしてその時こそ胸を張って言う事ができるんだ。自分は彼女と対等であると。……共に高みを目指すライバルなのだと。
会心の一局。そして置き石の減少という目に見える形での成長の実感。内心喜びで溢れ返っていた自分とは裏腹に父の表情は対局中と変わらず厳しさを保ったままだった。
まずい、浮かれすぎてしまったか。反射的に綻んだ表情を正す。しかし結局そんなボクの様子に何か言うわけでもなく、父は無言で碁石を碁笥に戻すと、一息置いて口を開いた。
「……今日はまだ時間があるな」
その言葉に時計を見上げると朝の6時を少し回った所。確かに学校の支度を始めるまでにはまだ少し時間がある。
今日の様に対局が早く終わった日には父は決まって初手から並べて検討をしてくれていた。だから今日もいつもの様に検討が始まるのだろうか、そんな風に思っていた。
……しかしそんなボクの考えを他所に、父は両方の碁笥を自分の手元に置くと、静かに黒石を掴み右上の小目に放つ。
……小目? 検討じゃないのかな。
その一手を見た瞬間に今から父が並べるのは今日の対局ではないのだと察した。先程の一局は3子での置き碁であり、置き碁は星に石を構えて始まるからだ。
「数ヶ月前の私の実戦譜。白が私……黒の定先手合だ」
「定先……ですか?」
定先という言葉に少なからず違和感を覚える。どれだけ棋力や段位に差があろうと基本的にプロの対局は互先。例外なんて逆コミが発生する新初段シリーズくらいのものだ。つまりこの対局は非公式での一戦という事になる。
……それにしたって妙だ。プロの対局でなければこれはアマとの一局だとでも言うのだろうか。身内贔屓抜きに、囲碁界の第一人者である父と定先で打てるアマなんて……
そんな事を考えている間にも父は一手一手を味わうかのように碁盤に石を並べていく。……そこからは正に驚きの連続だった。
プロはおろか、おおよそ腕に覚えのあるアマなら誰も使わないであろう古の布石で、攻め込む白を見事に出し抜いて見せた黒の打ち回し。
白も負けじと、緩着とすら思えた一手で逆に黒の隙を誘い形勢を盛り返す。
正に名局と呼ぶに相応しい一局。そして盤面に石が一手放たれる度に、序盤からずっと感じ続けていたある疑惑が徐々に膨らみ続けていく。
……父とここまで打てるアマチュア、他に思い当たる人物なんて……でも、ボクの知っている彼女は決してこんな打ち方はしない。もっと石の形に対して素直で、攻守のバランスに優れた、正統派という言葉が相応しい打ち手だ。少なくともボクと打ってきた対局の中でこんな打ち筋は見た事がない。
違う。彼女じゃない。……そう自分に言い聞かせながらも、どうしても疑惑が拭い切れない。
――黒の一手一手に彼女の指先が、その姿が重なる。理屈じゃなく本能が、黒の正体をボクに語りかけてくるのだ。
答えは出なかった。結局ボクが選んだのは、目の前の人物に……この一局の真実を知る父に問う事。
「お父さん、この黒は……まさか……!」
「ああ、彼女……星川彩だ」
やっぱり――。その答えに納得する一方で、どうしても理解できないと思う自分もまたいた。
……何故父と星川さんが? 何よりこの打ち筋、まさか彼女は……
「棋院で偶然対局の機会を得る事が出来た。最も、半ば強引にこちらが引っ張り込む形となってしまったのは彼女には申し訳ないと思っているが……」
未だに思考の整理がつかない中、父はそう口にすると引き続き碁盤に石を並べ始める。聞きたい事はまだあった。それでもこの対局の一手一手すら見逃してなるものかと、ボクもまた再び盤面に意識を戻す。
終盤に突入し、盤面ではいくらか黒が良さそうだった。彼女のヨセの正確さはボクも良く知るところ。例え父が相手だとしてもここから黒が取り零すとは思えない。そんな最中、黒が放った次の一手に思わず驚きの声を上げてしまう。
「打ち込み!? このタイミングで……?」
確かに白も少なからず味が悪そうな所だ。だけどもし失敗したら黒だってタダでは済まない。名人の父を相手に、折角の勝勢の碁で、こんな一か八かの勝負を仕掛ける理由なんて……
「……彼女は自分が優勢などとは思っていなかったんだろうな」
もちろん父のその言葉が、彼女の形勢判断の悪さを指摘するものでは無いという事は明白だった。
「互先……」
「ああ。彼女は私を相手にコミまで出そうとしていたのだ」
その後は両者際どい戦いを展開したものの、一手差で攻め合い白勝ち。持ち込みの弊害が大きく黒の投了となった。
結果的に彼女は賭けに失敗し自ら勝ちを手放す事となってしまった。けれど、この一局から伝わってくる彼女の想いの前ではそんな事余りにも些細な話だった。
……アマの少女が本気で名人を倒そうとした。彼女は、塔矢行洋さえも射程に捉えていたのだから。
「この一局は今日と大差無い2時間弱で打たれたものだ。仮にこれがプロの公式戦だったら、持ち時間8時間の名人戦タイトル手合だったとしたら、同じ結果にはならなかったかもしれんな。無論私とてその状況ならば1時間……いや、2時間を費やしてでも彼女の布石の意図を読み切って見せる。少なくとも、ここまで見事に手玉に取られたりはしないさ」
笑みを湛えながら子供の様にそう口にする。それは父が彼女を自分と対等の棋士だと認めている証でもあった。
……正直嫉妬を抑えきれなかった。ボクの最も尊敬する棋士にそこまで言わせた彼女に。
「その様子だとお前は知らなかったみたいだな」
「……はい」
「これが彼女の真の力だ。お前は、彼女を見損なうか?」
自分を相手に、全力を出していなかった彼女を……?
……違う。憤るとすれば、彼女の全力に足り得なかった自分の不甲斐なさに。見損なうとすれば、もう少しで手が届くなんて勘違いしていた自分の認識の甘さにだ。
何がライバル、彼女もまた遥か雲の上の打ち手だったというのに。彼女と肩を並べるには、父を越える程の覚悟が必要だったのに……!
同時に悟った。父の言葉の意味、そして何故今この一局を自分に見せたのかを。
父は見抜いていたのだ。先程のボクの緩み、3子局にも関わらずどこか満足してしまったその心の内を。
そんなボクに問いかけているのだ。これ程までの彼女の実力を知って、尚も追いかける覚悟がお前にはあるのかと。
……確かに彼女は自分の想像以上の打ち手だった。彼女に追い付く、それが並大抵の事じゃないのも改めて痛感させられた。だけど……!
「……ボクの想いは変わりません。たとえ星川さんがお父さんと同格だったとしても、それすら望むところです。……ボクの目標は、お父さんを越えていく事なんですから!」
父を、そして彼女を越える。それは囲碁界の頂点に立つ事と同義。
……それでも構わない。同年代にこれ程までの打ち手がいる、そんな人を追いかけて行ける。それこそが今までボクが望んで止まなかったものなんだから。
「……そうか。それが聞けただけでも、この一局を見せた甲斐があったな」
そう言って微笑む父。それは父が滅多に見せる事のない、自分を認めてくれた時の表情そのものだった。
―――
「おや、その一局は……どうやらアキラ君もようやく教えてもらえたみたいだな」
「緒方さん……」
碁会所の片隅で父と星川さんとの一局を並べていたボクは、不意にかけられた緒方さんの声で意識を盤外に戻した。
「魅力的な一局だろう? 俺も幾度と無く並べ返したものさ。……先生に聞いたのかい?」
「ええ。……そういえば緒方さんはこの一局を知っているんでしたね」
自分が知っている事を自慢するような、そして今まで知らなかったボクをバカにしているような、そんな表情が気に触り無意識にトゲのある返事になってしまう。
この人はいつもそうだ。余裕ありげにボクを子供扱いし、何処かからかう様な態度を取る。
付き合いももう随分長いし、恐らく打ってもらった回数も父の次に多い。棋士としては尊敬できる人だけど、彼のそういった人柄だけは未だにどうしても好きになれなかった。
「そう睨むなよ。彼女から聞いていなかったのは意外だが、まあとりあえず良かったじゃないか。それに今日はそんな事を言いに来た訳じゃないんだ」
「……別に睨んでなんかいませんよ。それで用件は何です?」
相変わらずの態度にやれやれといった様子で緒方さんは肩を竦める。
「今日と明日、棋院での若獅子戦に彼女が出場しているんだが、アキラ君は知っているかい?」
「っ……それくらい知ってますよ」
バカにするなという気持ちを必死に抑えながら努めて冷静にそう返した。
ボクだって彼女から聞いている。今週若獅子戦がある事を、そして彼女がそれを本当に楽しみにしている事を知っているんだ。
「何だ知っているのか。……それで、キミは気にならないのかい?」
「……若獅子戦は一般公開されていないハズですが」
叶うならば是非とも見に行きたかった。学校を休んででも、プロと彼女の対局をこの目で見届けたかった。しかし若獅子戦は関係者以外には公開されていない。一般の人間であるボクは会場には入れないのだ。
「俺は今日少しだけ覗いてきたんだが、順調に勝ち上がっているみたいだぞ」
「……何が言いたいんです?」
「だから睨むなよ。……見たくないか? 彼女の本当の力」
「……えっ?」
緒方さんのその言葉にボクは勢いよく顔を上げた。今までの不貞腐れた態度とは一変しての興味津々な様子に、緒方さんは大層愉快そうな表情を見せる。ボクにとっては何とも不愉快な話だけれど、今はそれ以上にその言葉の意味が気になって仕方なかった。
「彼女の準決勝の相手が倉田らしいんだ。倉田が相手ならば彼女は打つんじゃないか? ……この一局の様な、本気の碁を」
「……見れるんですか?」
「まあ余り褒められた事ではないが、特別に俺の知り合いって事で会場に入れてやっても……」
「行きます! お願いします緒方さん!」
その言葉が終わらない内に食い気味に声を上げた。面食らった様子の緒方さん、そして何があったのかと周りのお客さんがこちらに視線を集めるも、今はそんな事を気にしている場合では無かった。
今朝、父にこの一局を見せられてから気持ちが昂って仕方なかったのだ。聞きたかった、彼女が語るこの対局、その一手一手の意味を。頭を下げてでもお願いしたかった、全力を以ての自分との対局を。……そして、どうしても彼女に伝えたい事があったから。
もはや次に彼女と打てる日まで我慢できるか解らない。そんな中での緒方さんからの提案はまさに渡りに舟……ちっぽけなプライドなんて一瞬にして吹き飛んでしまった。
「そ、そうか。まあ俺もそれなりに無理を通さなければいけない訳で、そこの所をしっかり……」
「ありがとうございます! 本当に感謝しています!」
「……いや、わかっていればいいんだ」
またも食い気味に感謝の言葉を返す。何やら期待外れな表情を見せる緒方さんの姿も、もはや今のボクにとってはどうでもいい事だった。
―――
若獅子戦2日目。私は順調に3回戦も勝利し、準決勝にコマを進めていた。若獅子戦において院生が入賞圏内まで勝ち上がる事はやはり稀らしく、院生のみならずプロ棋士の私への注目度も少なからず上がっているように思う。
あと1つ勝てば院生最高記録の準優勝。しかし、やはりそこに立ち塞がったのは今大会の優勝候補最右翼、3回戦で伊角さんの健闘を跳ね退けてきたこの人だ。
「フーン、やるじゃんキミ。よくここまで勝ち上がってきたねー」
「ど、どうも……」
倉田厚四段。ふくよかな体型に、子供の様なおおらかな雰囲気。おおよそトップ棋士ならではの威圧感など微塵も感じないものの、その振る舞いも自信の現れなのだろうか。実績は既に若手の中では頭1つ2つ飛び抜けており、今最も注目されている棋士の一人だ。
「でも悪いけどここまでかな。キミが勝っちゃったらオレの持ってる院生記録に並ばれちゃうもんな」
実際私が目指してるのは優勝の一点のみであり、言うならばその先の優勝賞金で碁盤を手に入れる事なのだ。正直院生記録も通過点の1つに過ぎないと言うか、むしろ記録自体には全く興味が無いんだけどね。
「……いや、違うか。オレに勝つ様なヤツだったら絶対に優勝するだろうし、記録塗り替えられちゃうって事か。ハハハ!」
……それにしてもすごい自信だなぁ。いやまあ確かに周りと比べてそれくらいの実力差はあるんだろうけど……そんな大声で言わなくても。
すぐ隣ではもう1つの準決勝の対局者が苦笑いを浮かべている。そんな事も気にせずに大っぴらに発言してしまう辺り、どこか抜けてると言うか……子供と言うか。
「それにオレには優勝しなきゃいけない理由があるんだからな!」
「理由、ですか?」
それまで愛想笑いを返し続けていた私だったけれど、その言葉に思わず聞き返してしまう。倉田先生程の人が若獅子戦なんかにどんな思い入れがあるのか、素直に興味を持ったからだ。
「ふふーん、聞きたい?」
「……え、ええ。差し支えなければ」
「全くしょうがないなー」
よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりの倉田先生にそう返すと、彼はその体を遺憾なくふんぞり返しながら、またもや声高らかに宣言した。
「若獅子戦の優勝賞金でその日の晩メシを奮発する! オレは毎年そう決めてるんだ!」
……あ、いました。私以外に賞金目当ての人が。
―――
院生で唯一勝ち残った私の応援の為に、ほとんどの院生がこちらの試合に集まってくれていた。
「彩、頑張ってよ! 伊角くんのカタキ取ってあげてね!」
真後ろに陣取る奈瀬さんの激励の言葉に私は小さく頷くと、一つ息を吐いた後、小声で彼女に語りかける。
「奈瀬さん、今回の私の一局なんだけどさ……あんまり参考にしないで欲しいんだ」
「え? それってどういう……」
「約束……ね?」
「ちょ、ちょっと……」
何か言いたげな奈瀬さんに小さく微笑むと、私は改めて盤面に振り返り静かに目を閉じた。
思い返すのは最後に全力で戦った記憶。塔矢先生との一局。
あの時の敗着はわかっている。最後に打ち込んだ手じゃない。そうせざるを得なくなってしまった原因、先生のボウシに対して受けてしまったあの手だ。
本来の私の碁はあそこで守りに入るような碁じゃなかった。もっと強気に戦う碁のはずだった。
未来の布石を使って、降って湧いたアドバンテージ。それを守ろうとするあまり、思わず目先の利に飛びついてしまった。……そうすることが最善なのだと、錯覚してしまっていた。
それ以前に、あの場で未来の布石を使ってしまった事自体が既に呑まれていた証拠なのかもしれない。あんな形で得たアドバンテージに何の意味も無い事なんてわかっていたはずなのに。そんな小細工なんかせずに五分の勝負を選べば結果は変わっていたかもしれないのに。
悔やんでも悔やみ切れなかった。せっかくの塔矢先生との一局が、私の下らない欲のせいで台無しになってしまったのだから。
だからこそ私は決めていた。この一局において私はあの布石は使わない。正々堂々、正面から倉田先生にぶつかってやるんだと。
勝利だけを求めるなら使うべきなのかもしれない。塔矢先生すら出し抜いたあの布石ならば、きっと倉田先生にも効果があるはず。それでも私は……もう後悔したくなかったから。
……ごめんね囲碁部のみんな。でも、私は絶対に勝って見せるから。
心の中で謝罪の言葉を呟きながら倉田先生とニギリを行う。
――黒を持ちたいな。
そんな考えに呼応するように、回ってきたのは先番。私の棋風におあつらえ向き。
意識がどんどん盤面に沈んでいく。周囲の喧騒も、何も聞こえなくなっていく。
……うん、いい感じだ。何だか良い碁が打てそうな気がする。
行くよ倉田先生。これが私の全力の碁。
これが……世界の碁だ!