…や……あや……彩! 起きなさい! 着いたわよ!
私を呼ぶ声がする。聞き慣れた、懐かしい声。その声に呼ばれるがままに私は目を開けた。
「おかあ、さん……?」
目の前には母の姿があった。……久しぶりだなあ。最後に会ったのは今年のお正月だったかな。
あれ……? 何でお母さんがいるの? 昨日は自分のアパートで寝たはずなんだけど。
というかここは何処? 私の家じゃない。これは……車? お父さんの? なんで?
「お母さん、なんでいるの?」
未だはっきりしない意識の中、私は率直に尋ねた。
「あらあらまだ寝ぼけてるの? 着いたわよ、引っ越し先に」
引っ越し先? ますます意味がわからない。混乱する中、後部座席のドアが開けられ、お母さんに手を引かれて私は車外に降り立った。
「ここが私達の新しい家よ」
目の前にはまだ真新しい、けれど何処にでもあるような二階建ての住宅。もちろんこんな家に見覚えはない。
本当にどういう事なんだろう。だんだん不安になってくる。そんな私に母が微笑みながら
「急に新しい所に引っ越して来て不安でしょうけど、彩ならすぐに友達もたくさんできるわ」
そう言って私の頭を撫でてくれた。
ああ懐かしいな、この感じ。小さい頃によくこうやってお母さんが撫でてくれたな。
そういえば、お母さん何て言うか……若返ってる? お父さんも。顔のしわが少ないし、白髪も無い。それに目線が低いような……
「明日から新しい小学校に行くんだから、今日はゆっくり休んで早起きしないとね?」
え……? 小……学校……?
お母さんの言葉の中に聞き逃せない単語があったような……
恐る恐る私は振り返り、車の窓ガラスを覗き込んだ。
……そこには6年生の時に買ってもらった、お気に入りのワンピースを着た子供の自分が映っていた。
「これは一体……」
未だ現状が把握できず、私は自分の部屋で立ち尽くしていた。
とりあえず、状況を整理してみよう。
私の名前、星川彩。
年齢、この前24歳になったばかり。
職業、囲碁の棋士。先日女性初の本因坊位を獲得。
現在地、東京都。私の新しい引っ越し先らしい。
さっき改めて鏡で確認したけれど、私の容姿は見慣れた大人のそれではなく、小学生の頃のものになっていた。
頬をつねっても目が覚める気配は無い。どうやら本当に夢ではないようだった。
夢じゃ……ない。そう実感した瞬間急に立ちくらみがし、そのまま私はベッドに倒れこんだ。
子供に戻った? 小学校6年生の私に? でも私はこの時期に引っ越しなんかしていない。高校を卒業して初めて東京に住むようになったんだ。それまではずっと地元に住んでいたのに。
「意味わかんないよ……」
何でこんなことに。せっかく本因坊になれたのに。やっと私の夢が叶ったのに。まだまだこれからだったのに。
神様がいるとしたら、なんで私にこんな仕打ちをするんだろう。こんなのあんまりだよ。
私は枕に顔を押し付けながら、声を殺して泣いた。いつしか私はそのまま再び眠りに落ちていった。
目が覚めると部屋は既に薄暗くなっていた。部屋の電気を点けて辺りを見渡す。ベッドや机などの私物こそ昔使っていた物だったけれど、部屋の構造に全く見覚えはない。やっぱり夢ではなかったようだった。
改めて突きつけられた現実に半ば諦めにも似たため息がこぼれる。そんな中、ふと部屋の隅を見るとそこには使い古された折り畳みの碁盤が立て掛けてあった。
「私の碁盤だ……懐かしいな。確か9歳の誕生日に買ってもらったんだよね」
見慣れた傷跡、毎日のように使っていた大切な私の宝物。慈しむように碁盤に触れる。そうしたらなんだか少し元気が出たような気がした。
……うん、そうだ。うじうじしててもしょうがない。私には囲碁がある。プロにはまたなれるし、本因坊にだってきっとまたなれるはず。こっちの世界で女性の力を見せつけてやればいいじゃないか!
それによく考えれば若返るなんて普通は出来ることじゃないし、せっかくだから昔出来なかった事をやり直すっていうのも悪くないかもしれない。……前向きに考えてみよう!
現実をすぐに受け入れる事は難しかったけれど、私はこの世界と向き合ってみようと思った。
一階に降りると台所からお母さんの声がした。
「彩、起きたの? ごめんね、ご飯もうちょっと時間かかるんだけど」
「うん、大丈夫だよ」
お母さんに返事をすると、私は居間でテレビを見ているお父さんのもとに向かった。
「お父さん、ご飯まで一局打たない? 早碁で」
「ん? ああ、いいぞ。彩も大分強くなったからな。そろそろ2子にしてみるか?」
そっか、この頃の私はお父さんと2子くらいの実力だったんだ。でも、
「互先で打とうよ」
今の私は曲がりなりにも本因坊なんだよね。流石にお父さんに石を置けなんて言えないけど。
「互先か、まあ石を置かずに打つのも勉強になるからな。じゃあそれで打つか」
そう言うとお父さんは自分の足付き碁盤を引っ張り出してきて、私との間に置いた。
「……彩が黒か。それじゃ、お願いします」
「うん、お願いします」
お父さんとの久しぶりの対局はほぼ互角の形勢で進行していった。全力で打つと流石に怪しまれるだろうから、所々緩めたりしているけれど。
だけどお父さんは決して弱くない。実力はアマ七段格。そこらの人には負けないだけの棋力がある。
私は小さい頃からお父さんに囲碁を教わって育ってきた。プロになって私が負けることはなくなったけれど、それでも尊敬する師匠の一人である事は変わらない。
黒と白、双方譲らず終局。結果は、
「黒の半目勝ち、か。まさか負けるとは思わなかったよ。いつの間にこんなに強くなってたとはなぁ」
……あ、あれ? 白の半目勝ちにしたつもりだったんだけど。計算、間違ってないよね?
「お父さん、これ白の半目勝ちじゃない?」
「ん? ……黒53目。白47目、コミを5目半入れて52目半。黒の半目勝ちで合ってるぞ?」
……あっ、しまった! そういえばこの時はまだコミは5目半だったんだ。いつもの癖で6目半で計算してたよ。
「あ、あはは……ホントだ。今日は冴えてたのかな。いつもより上手く打てた気がするよ、うん」
「……ああ、いい碁だったぞ彩」
何とか怪しまれずに済んだかな。コミが変わっている事をすっかり忘れてた。次からは気を付けないと。
でも、打ってみてわかった。すごく楽しかった。やっぱり私は囲碁が大好きなんだ。他に誰も知っている人がいない世界でも、お父さんとお母さん、そして囲碁があれば私はきっと頑張っていけるんじゃないかな。
「それに早碁だったからお父さんにもミスがあったしね。ほら、ここ。ここはオサエるよりも、我慢してノビたほうが……」
「しかしこの変化は……いや、無いか。そうだったかもしれないな……」
「二人ともいつまでやってるの! ご飯冷めちゃうわよ!」
二人で熱中して検討していたら、さっきからずっと呼んでいるお母さんに叱られてしまった。
「彩、そろそろ時間よ。準備出来たの?」
階下からお母さんの声が聞こえる。今日から私は新しい小学校に通うことになるのだ。
子供服を着てランドセルを背負う、鏡に映る自分の姿はどこからどう見ても小学生だ。うーん、それでもこの歳でランドセルはさすがに抵抗があるなぁ。
……いや、ダメだ! 昨日この世界で頑張るって決めたじゃないか。私は子供! 小学6年生!
大人としてのプライドを振り切って、私は母のもとへと向かった。
「さ、着いたわよ。ここからは一人で行けるわね?」
「うん。行ってきます、お母さん」
お母さんに見送られて私は校門を潜り、職員室に向かった。そこで先生方に挨拶し、担任の先生に連れられて自分のクラスに向かう。
ここまで見た感じは過去に私が通っていた小学校とほとんど大差ない、ありふれた学校という印象だった。
だけど一つだけ気になる事があった。それはこの学校の名前。
――葉瀬小学校
私が大好きだった囲碁の漫画に同じような名前があった。もっともそこでは中学校の名前だったと思うけれど。
まさか実在する地名だったとは。魚の名前から付けられたものだとばかり思ってたよ。じゃあこの辺には岩名とか浜地とか海王なんかもあったりするのかな? ……はは、さすがにそれは無理があるか。
程なくして教室に辿り着いた。先生に言われた通りにドアの前で待機をする。中にいるのは私より一回りも小さな子供達。それでも、少なからず自分が緊張しているのがわかった。
……外見は子供でも、私の精神年齢は24歳。ボロが出ないように上手く対応しないと。
そんな事を考えている内に先生に呼ばれ、私は教室へと足を踏み入れた。
「星川彩です。短い間ですが、皆さんよろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げ、挨拶をする。教室のみんなの拍手の中、私は先生に指定された自分の席に着いた。
やっぱりこの時期の転校生が珍しいのか、色んな所から視線を感じる。……特に男子からの。
自分で言うのもなんだけど、私は容姿に関しては悪くないんじゃないかなって思ってる。実際に結構な数の男性に告白された事もあるし、プロになってからも……まあいわゆる美人棋士として一般雑誌に取り上げられた経験がある。
もっとも恋愛に関しては私の中の優先順位が、囲碁>>>>>恋愛なのでほとんどが恋愛対象外だったし、付き合い初めても3ヶ月と持たずに別れてしまうのだったが。
そして、そんな私に何時しか不名誉なあだ名が付けられた。……囲碁馬鹿女、残念美人、と。
べ、別に悔しくないもん。いつか私の事を理解してくれる人が現れるんだから。
「……さん……星川さん」
「……はっ!」
自分を呼ぶ声でようやく我に帰った。どうやら隣の席の女の子が私に話しかけているようだった。
「ご、ごめんね。ちょっと考え事してて。えっと……」
「こ、こっちこそごめんね。急に話しかけたりして」
顔を赤らめて私に謝る、その子はとても可愛らしい女の子だった。癒されるっていうか。
……性格も良さそうだし、いい子が隣の席でよかったなぁ。何処かで見たことあるような気がするけど。
女の子は改めて向き直って、まだクラスの子の名前を知らない私の為に自己紹介をしてくれた。
「私は藤崎あかり。あかりって呼んでください。お隣同士だし、これからよろしくね」
藤崎……あかり?
葉瀬小学校……藤崎あかり……? いや、さすがに偶然でしょ? 確かに見た目もそっくりだけど、別に珍しい名前って訳でもないし。
……はっ! また意識が飛んでいた。あかりが不安そうな顔で私を見つめている。いけないいけない!
「改めまして星川彩です。私の事も彩って呼んでください。よろしくね、あかり」
あわてて私が返事をすると、あかりはほっとしたような顔で私の手を取り、
「うん! よろしくね、彩!」
そう言って微笑んだ。
びっくりした……一瞬本当に漫画の中に来たのかと思ったよ。偶然って怖い。
私がこれを偶然と決めつけられるには理由がある。ここが漫画の中の世界なら、この教室にいるはず。この漫画の主人公である彼が。
しかし教室中を見渡してもそれらしき人物は見当たらない。あれだけ特徴的な容姿だ。居たらまず見間違うはずがない。
だからこそ偶然なんだ。同じ名前の小学校に、同姓同名のそっくりさんがたまたま居た。それだけなんだ。
そうして私の紹介もそこそこに、朝のホームルームが終わろうとしていた。
その時、廊下からけたたましい足音が聞こえた。誰かがものすごい勢いで廊下を走っているんだろう。その音は段々と大きくなり、教室の前で止まり……扉が開かれた。
「お、遅れてすいません!!」
先生が呆れた声で言う。
「進藤くん、また遅刻ですか?」
進藤……?
隣の席からため息と共に呟きが聞こえる。
「もう……ヒカルったら」
ヒカル……?
あかりより少しだけ小さな身長。
中性的な顔立ち。
そして金髪メッシュの前髪。
私が知っているがままの進藤ヒカルがそこにいた。
互先(たがいせん):ハンデ無し。双方五分のガチンコ勝負。
コミ:囲碁は先攻が有利なので、公平を期すために互先で先攻(黒)が後攻(白)に与えるアドバンテージ。日本の棋戦において、ヒカ碁連載当時は5目半。現在は6目半。便宜上設定された仮想の半目により引き分けが発生しない。今作では5目半で統一。
現在のルールだったら~とか言い出すと、今回のように勝ち負けがひっくり返ってしまう事もあり得るので、その辺は余り触れたくないです。