まだまだ万人にネット環境が整備されていないこの時代において、奈瀬さんの家にパソコンがあった事は本当に幸運だった。これで時間さえ合えばいつでも私達は対局が可能だ。彼女に私の碁を教える上での最低条件はひとまずクリアしたと言えるだろう。
奈瀬さんと約束した対局日時は院生手合いを除く月〜土曜日の夜9時から一局きっかり。ほぼ毎日、しかもいわゆるゴールデンタイムに拘束されるのは一般的な中学生からしてみれば不満の声の1つも上がりそうなところだけど……そこはお互いにプロを目指す院生、いわゆるフツーの女子ではない訳で。
――ま、私としては彩さえ良ければもっと打って欲しいくらいなんだけどね。……今の私じゃ、きっとそれでも足りないくらいなんだから。
そんな彼女の意気込みは嬉しいし、私だって可能ならば二局でも三局でも打ってあげたいところだけど、当然ながらお互いにパソコンは私物では無い。特に私の家ではお父さんが仕事でパソコンを使うことも多い訳で、そういった家庭環境を考慮すると、やはりこのくらいを落とし所とするべきなんだろう。
そうして始まった私達の特訓の日々。言うまでもなく対局内容は、奈瀬さんがペシャンコにされて投了する、その繰り返し。残念ながら今まで一度も作り碁になった事はない。まあそれも当然、私だってこの碁を教える以上、指導碁を打つという訳にもいかないんだから。
「まさかワリツギに手抜かれるなんて……」
「まあツイでも悪くないけど、ツケる方がキビシイからね」
「……確かに、打たれてみれば絶妙のタイミングよね」
対局が終われば電話で検討。お互い学生の立場上、毎日長電話するというのは躊躇われるので、あくまでごく簡単に済ませ、要点は院生研修日に時間を掛けてじっくりと。
「……うん、やっぱアンタと打つのって楽しい」
「え……?」
「そりゃ今はやられてばっかりだし、悔しくないって言ったら嘘になるけど……それ以上に楽しいの。私が考えもしない様な手を彩は打ってくる。次はどんな手が出てくるんだろうって、そう考えるだけでワクワクするから」
実は少しだけ不安だった。こんな風に全力で打つ事が、せっかく地道に力をつけてきた奈瀬さんの自信を奪う事に繋がるんじゃないかって。もちろんこの碁を学びたいと言ってきたのは彼女自身、そのくらいの覚悟は持っているとは思っていたけれど。
……そういう意味合いもあって、彼女の真剣にこの碁と向き合おうとする意志が、何より私と打つのが楽しいと言ってくれたその言葉が、本当に嬉しかった。
当然ながらまだまだ先の見通しなんて立っていない。彼女が私に一矢を報いる、その兆候すら見えていない。
それでもこの日々は絶対に無駄にはならない。結果が伴わなくたって弱くなっている訳じゃない。潜在的には確実に棋力は向上しているはずなんだ。私に出来るのは、あと3ヶ月の間にそれが表面化出来る様に全力で応援することだけ。
「ね、まだ時間ある? もう一局だけお願い出来ないかな?」
「……そうだね。やろっか!」
お母さんからお小言を頂いてしまったり、若干睡眠不足になったりと、問題が全く無いわけではないけれど、そんな彼女のお願いに応えて時間が延長してしまうこともしばしば。
最初は奈瀬さんが棋風を変える事に反対していたけれど……何だかんだ言って、私自身もこの時間を楽しんでいるのかもしれなかった。
「それにしても……碁を打ってると忘れそうになるけど、やっぱアンタって子供よね。可愛らしいハンドルネーム付けちゃってさー」
「い、いーじゃん別に! 奈瀬さんこそasumiなんて簡単な名前つけて……ネットで実名出すのは危険なんだからね!」
「アンタいつの時代の人間よ……そんなんで特定される訳ないでしょ」
―――
あれから奈瀬さんの院生手合いの成績は奮わず、一時は2組に降格してしまうんじゃないかという所まで落ち込んでしまっていた。その一因が自分にある以上、予測出来た事とはいえそんな状況は私にとっても気が気ではなかった。
しかし、そんな彼女をギリギリの所で支えたのは、今まで培ってきた基礎の力と、持ち前の負けん気の強さだった。
「わっ、半目負けたァ!」
「何とか届いたわね……危なかったわ」
「うぅ……ヨセで10目くらいひっくり返されちゃった」
「ふっふっふ、甘いわねフク。12目よっ!」
「……はぁ、そんなに勝ってたんだ」
ヨセや目算、死活の判断。読みの力に加え、感性やセンスが要求される中盤の戦いとは違い、これらは時間さえあれば誰にでも正解を導き出すことが出来る。一見地味な様で最も他人と差が付きやすい部分であり、最も修練の成果が反映されやすい部分でもある。それらの精度、速度の向上は、言うまでもなく日々の努力の賜物。奈瀬さんが決して基礎の勉強を怠らなかった結果だ。
「悔しいっ! もうちょっとだったのに! ……次は負けないからね、和谷!」
「お、おう……」
負けが込んでも決して彼女は腐ったりしなかった。
ともすれば自分の碁を見失ったり、信じられなくなったりもしそうなものだけれど、奈瀬さんはそれでも前を向き続けた。
――そうして1ヶ月が過ぎ、いつしか奈瀬さんの連敗も止まり、再び順位が上向き始める頃。彼女の中に息づく変化に他の院生も気付き始めていた。
「次、いいか?」
「あ、本田さん。……うん、もう空くよ」
いつもの様に院生手合いの白星を付けていた私に、後ろから声がかかる。
……午後の奈瀬さんの相手は本田さんだったっけ。って事は……
結果を記入するのは勝った方。この場に彼が居るという事は、すなわち奈瀬さんが負けてしまったという意味だ。
まあ残念な気持ちもあるけれど、流石に今回は相手が相手。院生でもトップクラスの実力者である本田さん相手では分が悪いのは否めない。それに今はまだまだ結果を求める段階じゃないし、大事なのはその内容なんだ。
「……そういえば奈瀬さんとの碁、どうだった?」
「どうだった……か」
何の気なしにそんな質問を投げかける。その言葉に、本田さんは何やら思い詰めたような表情でぽつりと呟く。
「序盤から綱渡りみたいな戦いの碁が続いて、最後は奈瀬が綱から落ちたよ。ただ……」
「……ただ?」
「……形勢ははっきりオレが優勢だった。それは解ってたのに、最後の最後まで全く勝ってる気がしなかったんだ。……アイツの気迫って言うか、碁に対する姿勢みたいなものに押されっぱなしでさ」
勝ったのは間違いなく本田さんだ。にも関わらず、そう呟く彼の姿は決してその勝利に納得している様子ではなかった。
「アイツ、変わったよ。あれは今までの単なる無茶な攻め碁じゃなかった。上手く言えないが……若獅子戦の時のお前に似てるっていうかさ」
「……ふーん」
「なぁ星川、お前奈瀬にどんな事教えてるんだよ?」
「そんな、教えるなんて大層な事してないよ。ただ一緒に打ってるだけだって」
「……やれやれ、只でさえ今年はお前や塔矢アキラが居るっていうのに、こりゃ奈瀬も要注意かもな」
……まさかこんなに早く結果が出るなんて、ね。ヒカルといい奈瀬さんといい、やっぱりこの世界の人って色々と規格外過ぎるよ。
ため息と共に踵を返す本田さんの背中を、驚きと達成感が入り雑じった何とも言えない心境で見送っていると、入れ替わるようにもう一人の当事者である少女、奈瀬さんがこちらに歩み寄ってくる姿が映る。
「さ、今日もお願いね、彩っ!」
彼女自身まだこの碁の本質は理解していないだろう。それでも、本田さんにあそこまで言わせるという事は、私の碁が確実に奈瀬さんの中に息づいている証拠。
「間に合うかも、しれないね……」
「え? 何か言った?」
「……ううん、何でもない。それじゃ、行こっか!」
「何よニヤニヤしちゃって。全くアンタは……」
いつかに似たやりとりを交わしながら、私は密かに確信していた。
――彼女の目覚めは、きっと遠くない未来だ。
―――
「そういえばさ、アンタって私以外とはネット碁やらないの?」
お互いに碁盤の前に座り、さあ検討を始めようかという時、唐突に奈瀬さんがそんな話題を振ってくる。
「私? ……やらないなぁ。ほら、うちのパソコンってお父さんの仕事用だし」
「あ、そういえばそうだったわね。私は最近空いてる時間にネット碁を打つようになったんだけどさ」
「へー、そうなんだ」
「やってみると結構面白いのよね。知ってる? あのサイトって一柳先生も使ってるのよ」
「……うん。まあ聞いたことくらいは、ね」
奈瀬さんに言われるまでもなく、ネット碁の楽しさ、素晴らしさは私もよく知っている。パソコンを自由に使えない立場上、この世界において私は奈瀬さんとの対局以外ではネット碁を使用していないけれど、未来の世界ではむしろやらない日の方が少ないんじゃないかというくらいネット碁を愛用していたのだから。
インターネットが広く普及した未来、私の時代においてネット碁は多くの人々に愛用されるツールとなっている。プロ棋士間でも国内外問わず日々対局が繰り広げられているし、プロアマ混合棋戦のアマチュア予選にネット碁が使われることだってあるくらい。それは最早アマチュアの娯楽の域に止まらず、第一線のプロの修練の場としても一役買っているとさえ言える。
対してこの世界ではネット碁を嗜むプロなんて一握りだろうし、それだって恐らく手慰み程度のもの。それが十数年後には対局地の移動中にネット碁を打つ時代が来るんだから。……科学の力って本当にすごい。
「さすがに恐れ多くてまだ対局を申し込んだ事はないんだけどねー。……って彩、聞いてるの?」
かつての世界に想いを馳せていた私は、奈瀬さんの呼び掛けで現実に引き戻される。
「えっ? う、うん。でも確かにネット碁は良い勉強になると思うよ。他にも強い人はいっぱいいるだろうし」
「そうなのよ! 私、この前凄く強い人に当たっちゃってさぁ。ホント手も足も出なかったの。アレ絶対にプロよ!」
……へぇ、奈瀬さんがそこまでやられちゃう人がいるんだ。
アマチュアの最高峰である院生、その1組に在籍する人間ともなれば、正にプロの卵と言っても過言ではない。そんな彼女に勝てる人なんてそうそうはいないハズだ。
もちろんプロと対等以上に戦うアマは存在する。けれど、奈瀬さんにそこまで言わせるっていうのは並大抵の事じゃない。文字通り高段のプロが参加しているのかもしれないね。
「国籍は? 海外の人?」
「ううん、日本だったわ」
「じゃあ日本のプロかな?」
対局までとは行かなくても、機会があれば観戦くらいしてみたいな。なんて、そんな興味本意で彼女に質問をする。
「でもさ、碁から受ける印象が何となく古かったのよね。別に古碁の定石を使ってたって訳じゃなかったんだけど」
「……え?」
「やっぱりプロじゃないのかな。第一プロならそんな打ち方しないもんね。……うーん、でもあの打ち筋、誰かに似てるような……」
奈瀬さんを軽々と破る棋力。
日本の国籍。
そして……古の碁。
思わず言葉に詰まる。首を傾げながらぶつぶつと呟いている彼女とは裏腹に、私は一人だけその条件に当てはまる人間を知っていたから。
「……名前は?」
「え?」
「その人、何て名前?」
同時にそんなハズは無いという想いもあった。だって夏休みどころか、大会も終わってないというのに。
それを確固たるものに変えるべく、いよいよ核心に迫る質問を奈瀬さんにぶつける。……そして、彼女から返ってきた答えは。
「小文字のアルファベットでs・a・i。saiよ」
そんな私の思惑を見事に裏切るものだった。
「あ、そうだ! 秀策、本因坊秀策よ! 何処かで見た事あるような気がしてたのよね。あースッキリしたっ!」
saiって……佐為?
え、何で? まだ6月だよ?
……早くない?
「ごめん、ずいぶん脱線しちゃったわね。さ、始めよっか?」
――ちょっと彩、聞いてるの? ……ねえ彩、彩ってば!