――第4回北区夏期中学囲碁大会
全国の学生達が夏休みを迎えて間もない7月半ば、毎年海王中にて行われる地区大会。
筒井さんにとっては中学校生活の悲願であり集大成。他の部員達にとっても、ひとまず今日が葉瀬中囲碁部における一つの区切りになるのだ。
「わ、すごい人数。大会ってこんなに集まるんだ」
「ホントだ。100人以上いるかもね」
会場入りし、室内に溢れかえらんばかりの人波に驚きの声を上げるあかりと久美子。参加数僅か8校の小規模の大会ながら、もちろん集まるのは選手だけではない。応援の部員、引率の顧問等も含めればやはりこのくらいの人数になるものなんだろうか。
そして、そんな中でも特に目に付くのが開催校である海王中の生徒達だ。ざっと見ただけでもここに居る人達の半数以上を海王の制服が占めている様に思う。
「流石は名門ってとこかしら? この部屋も元々は囲碁部専用のホールみたいだし」
「ちっ、ゼータクな奴等だぜ」
確かにこの設備、部員数だけを見ても海王中学がいかに囲碁に力を入れているかが伺える。囲碁は海王――正にその通り名に恥じない充実っぷりだ。
各校に指定された荷物置き場にも、当然の様に練習用の碁盤が提供されていた。1面の碁盤の用意にすら四苦八苦した私たちからすれば、何とも羨ましい限りだけど……まあ折角なのでありがたく使わせてもらうとしよう。準備運動は大切なのだ。
「あ、じゃあ私は受付を済ませてきますね」
「え? で、でもこういうのは部長が……」
「ダメですよ。筒井さんは選手なんですから、ここで皆と打ってあげててください。……今日の雑用は全部私がやりますからっ!」
上級生としての責任感から私を気遣う筒井さんに、半ば強引にそう宣言すると、私はそのまま会場の人波の中へと飛び込んで行った。
この期に及んで私が細かい事を指導してもたかが知れている。ここまで来れば、出場する人間同士で刺激し合って集中力やモチベーションを高める方がずっと大事。
今日の私の仕事はみんなが悔いのない碁を打てる様に全力で応援すること。そしてみんなの勝率を少しでも上げる為ならば、自分に出来ることは何でもやってやるのだと最初から決めていたのだ。
そうして無事に受付を済ませた後、私は大会パンフレットを片手に会場中を歩き回っていた。
……ふむ、なるほどね。
私が行っているのは言ってしまえば敵情視察、私たち同様に行われている他校の練習対局の様子を見て回っているのだ。もちろん人様の対局にへばりついて観戦をするなんて失礼な事は出来ないため、流し見程度のものではあったけれど。
そうして見る限り、どうやらうちの囲碁部はこの区内において少なからず飛び抜けたレベルにある様だった。男子はもちろんのこと、初心者スタートを二人抱える女子だって、決して他校にひけは取らないはず。もっとも今日までのみんなの成長振りを間近で見てきた私としては、この結果はある程度予想出来た事であり、別段驚くと言うよりは確認に近い部分もあった。
だけど、飛び抜けたと言ってもそれはあくまで平均的なレベルからの話。言うまでもなくこの地区には私達以上に飛び抜けた学校がある。優勝を目指す以上、やはり最大のライバルになるのは……
「あら、星川彩じゃない」
そんな事を考えていた最中、自分を呼ぶ声に振り返ってみれば……そこにはおよそ1ヶ月振りの再会となる、ご存知倉田先生大好き爆弾娘、日高由梨さんの姿が。
「お久し振りです、日高さん」
「何か一人でフラフラしている不審者が居ると思って来てみれば、やっぱりあなただったのね」
「ふ、不審者って……」
「ま、あなたの事なんかどうでもいいわ。それより久美子ちゃんは元気にしてる?」
久し振りに会ったというのに初っぱなからこの言われ様、毎度安定のお嬢様っぷり。……まあ、お変わり無い様で何よりですけどねっ。
「はい。あれから久美子、本当に頑張ってたんですよ。由梨さんにいいとこ見せるんだー、って」
「あ、あら嬉しいわね。……うふふ、私も後で挨拶に行こうかしらっ」
そして久美子の事となるや、打って変わってふにゃんと頬を緩ませるのだ。もっとも日高さんが久美子を猫可愛がりしているのは私も良く知るところ、彼女にとっても可愛い妹分の成長は嬉しいハズだし、その努力が自分の為だったと聞かされれば尚更だろう。
……それにしても、だ。前々から思ってた事だけど、私との扱いに差がありすぎやしませんかね。倉田先生の件、まだ根に持ってるの?
とまあ、そんな風に一言二言と世間話を交わしつつ、いよいよ話題は今日の大会へと移っていく。
「うちと海王、男子は2回戦、女子は決勝で当たりますね」
「あら、もう私達と戦う事を考えてるの? 初出場のくせに随分図々しいじゃない」
「べ、別にいいじゃないですか。日高さんこそうちを舐めてると痛い目見ますよっ!」
「……ふふ、冗談よ。むしろそれくらいじゃないと張り合いもないわ。他の学校にも見習って欲しいくらいよ」
過去の実績を省みても、この地区において海王が圧倒的に突出した存在である事は言うまでもない。彼らにとっては勝って当たり前の大会、負けるなんて微塵も思っていないのだろう。
そしてそれは彼らだけでなく、この地区の学校の共通認識ですらあるようだった。ちょっと見て回った限りでも、海王に対しては何処か諦めムード、準優勝出来れば御の字、そんな空気が感じられるのだ。
日高さんの言葉も、何処か緊張感に欠けたこの大会に対する不満の様な意味合いもあったのかもしれない。
「何だかんだ私も楽しみにしてるのよ? あなた達葉瀬中と戦えるのをね。……ま、奇跡的にとはいえ、私の尊敬する倉田先生に勝ったあなたも居ることだし」
「……あれ、誉めてくれてるんですか?」
「う、うるさいわねっ! 調子に乗るんじゃないのっ!」
うん、だったら是非とも期待に応えてあげようじゃないか。仮にその期待が私という存在に依るものだったとしても、今の葉瀬中には間違いなくそれだけの力がある。私はそう信じているんだから。
「とにかく、精々うちと当たるまで負けない様に頑張ることね」
「お気遣いありがとうございます。……日高さんこそ、私たちに負けてまた泣いたりしないでくださいね?」
「なっ……ば、ばか! 声が大きいわよっ!」
そしてちょっとしたカウンターパンチも交えつつ改めて宣戦布告……のつもりが、顔を真っ赤にしながら予想以上に慌てふためくお嬢様。
……あれ、もしかして結構気にしてた?
「よ、予定変更よっ! 叩き潰してあげるから覚悟しておきなさい!」
「は、はあ……」
「あと、さっきのは絶対に内緒だからね! 誰かに喋ったら許さないんだからっ!」
そんな捨て台詞を残し、涙目で走り去っていく日高さんの背中を見つめながら……何だか悪いことしちゃったな、と私は一人反省するのだった。
―――
さて、そんなこんなで1回戦。とりあえず最初は男子の応援から。
オーダーは大将ヒカル、副将三谷くん、三将に筒井さんだ。
概ね実力通りの並びだけど、取り分けヒカルと三谷くんに関してほぼ実力差は無いと言っていい。最終的な対局成績も五分、大会直前の一発勝負でヒカルが勝ったから大将になった、それだけの話。三谷くん随分悔しそうにしてたっけ。
……ま、この二人は問題ないよね。
対局は未だ序盤ながら、盤面では早くも相手との実力差が表れ始めている。初戦ということで出足が鈍る事も心配したけれど、見る限りそういった事も無いようで。実力、図太さ、諸々込みで、今やうちのエースは紛れもなくこの二人なのだ。
そして三将戦。先を走る後輩二人の影に隠れがちだけど、もちろん筒井さんだって負けてはいない。
型に嵌まりすぎていたかつての打ち筋は今や見る影もなく、むしろそれまで抑圧されていたものを吐き出すかの如く、彼は次々と意欲的な手を繰り出す様になった。
もちろんそういった手はリスクと隣合わせ、まだまだ危なっかしい面もあるけれど……何より彼自身が本当に伸び伸びと打つ様になったのだ。ある意味それが一番の収穫だったのかもしれない。
実戦もそんな筒井さんの勢いに押されてしまったのか、中盤で起こった右辺からの折衝において相手は致命的な失着を犯してしまう。向こうがすぐには気付かなかったその隙を、逃す事なく一気に筒井さんは畳み掛ける。そうして予想に反し、この場の誰よりも早く葉瀬中に1勝目をもたらして見せたのだ。
「そんな、コイツら初出場じゃ……」
「き、気を落とすな! 確かこの子は部長だったハズ。恐らく葉瀬は大将戦を捨てて残りを勝ちに来る作戦なんだろう。この負けは仕方ない、うちにもまだチャンスが……」
投了を宣言してもなお自分の敗北を受け止めきれないのか、呆然と盤面を見つめる対戦相手と、そんな教え子を慰める様に声をかける顧問の先生。
……しかし筒井さんは、彼らの拠り所であった僅かな希望すら、余りにも純粋な笑顔と共に断じてしまう。
「……いえ、違いますよ?」
「な、何?」
「確かにボクは部長です。だけどこのオーダーはれっきとした実力順。……前の二人は、ボクよりずっとずっと強いんですから!」
彼自身に悪気は全く無いのだろうけど、死人にムチとはまさにこの事。反射的に隣の盤面に目を向けた二人は、改めて自分たちに突き付けられた現実を理解し、再び言葉を失うのだった。
「筒井さんって結構えげつないんですね……」
「え……何か変なこと言ったかな?」
私の言葉の意味が理解できずに首を傾げる筒井さん。真実は時として残酷、触れてあげないのも優しさなのに。
とにかくこれで1勝、こっちはもう大丈夫だろう。流石にここから二人揃って負けるとも思えないし。
「何はともあれお疲れさまでした! それじゃ、私は女子の方に行ってきますね」
「わかった。こっちはボクが見ておくから」
改めて筒井さんに労いの言葉。そしてこの場を彼に任せつつ、私は女子の応援へと向かうのだった。
ちなみに対局席には先客が居た。
「落ち着いて久美子ちゃん……簡単な死活よっ……!」
……何でいるのこの人。って言うか声出てるんですけど……
聞けば自分の対局をあっという間に片付けた日高さんは、仲間の応援もほっぽり出して一目散に久美子の元へと駆け付けたのだとか。一体どれだけ久美子の事が好きなんだこの人は。
まあそんな彼女の応援、そして碁会所特訓の甲斐もあってか、久美子も無事に大会初勝利。続くように金子さんとあかりも勝利を納め、めでたく女子の1回戦突破が決まる。
「由梨さん! 見ててくれたんですかっ!?」
「ええ、また一段と強くなったわね。お姉さん嬉しいわっ!」
「わ、私……由梨さんに誉めてもらいたくて頑張ったんですっ……」
「……あーもう! 本当に可愛いんだからこの子はっ!」
いちゃこらいちゃこら、あらあらうふふ。そうして対局が終われば、皆で喜びを分かち合う間もなくそんなやり取りが繰り広げられる始末だ。
「ね、ねえ彩……もしかしてあの人が前に話してた?」
「う、うん。海王の大将だよ」
「アタシの相手……アレ?」
「おう、そっちも勝ったのか! ……で、アイツら何やってんの?」
その後、間もなく合流した男子も含め、私たちはたっぷり二人のゆりゆり空間を見せつけられる羽目になってしまうのだった。
―――
お昼を挟んで午後からは2回戦。いよいよここからが正念場、女子に先んじて男子が海王とぶつかるのだ。
海王部員はもちろんのこと、1回戦で負けてしまった他校の生徒達も一様に対局席に押し掛け、今やこの場は会場内でも一際目立った様相を呈している。流石はチャンピオン、注目度も抜群と言うわけだ。
「進藤くん、三谷。胸を借りるつもりで精一杯頑張ろう。仮に負けても、ボクはみんなとここに来れただけで……」
「……ったく何言ってんだよ筒井さん。わざわざ負けるためにここまで来た訳じゃねーだろ。相手が海王だって関係ねーよ、なァ進藤!」
ようやく叶った大会出場、そして憧れの海王が相手。負けたら即引退となる筒井さんからすれば、取り分けこの一戦には特別な思い入れがあるのだろう。感慨深げにそう口にする筒井さん、三谷くんはそんな彼を鼓舞する様に声を張り上げる。
「お、おう……」
そして話を振られたヒカルはと言うと……何だかいつもの威勢の良さが鳴りを潜めている様で。
……やっぱり緊張してるのかな。
その原因は言うまでもなく対海王中における自分の相手、岸本さんの存在だ。彼がかつて院生であったことも、私から聞かされているヒカルは当然知っているのだから。
単に格上の相手だからという訳ではない。ヒカルの当面の目標である院生、それを知る人物なのだ。私との置き碁という朧気な物差しでしかその距離を測れなかったヒカルからすれば、元院生である彼との対局は今の自分の立ち位置を知る絶好の機会になる。……期待半分、不安半分。そんな心境なんだろう。
私にはそんなヒカルの気持ちは良く理解できるけれど……実際ヒカルに大将を譲った三谷くんからすれば、そんな様子はさぞかし不甲斐なく映ったのだろうか。
「んだよ、オマエビビってんのか? ……何だったら今から大将変わってやってもいいんだぜ?」
そんな風にヒカルを煽るのだ。もちろん今からオーダーを変えるなんて不可能だし、三谷くんにしても張り合いの無いヒカルの尻を叩くような意図があったのかもしれない。
もっともこの二人のこれまでを思えば、そんな事を言われたヒカルがどんな反応を示すかなんて火を見るよりも明らかで。
「ビ、ビビってなんかねーよ! ……オレだって院生になるんだ、元院生なんかに負けてらんねーよ!」
「ちょ、ちょっと進藤くん!」
「え? …………あっ」
元気なのも大変結構だけど、それも時と場所というものを考えてほしい。言うまでもなくここは海王中、向こうのホームグラウンド。周りには多くの海王の生徒達、そして何より……目の前にはその本人が居るというのに。
「なっ……コ、コイツ!」
「初出場のくせに調子に乗りやがって!」
自分たちの部長を軽んじる様な発言に息巻く海王部員。当の岸本さん自身は特に何かを口にするわけではないものの、眼鏡の奥のその視線は明らかにヒカルを睨み付けていた。
自分の招いたこの状況を理解し、しまったという表情で口元を押さえるヒカル。おろおろと狼狽える筒井さん、三谷くんに至っては気の強さそのままに相手を睨み返す始末だ。……そんな中、それまで黙っていた岸本さんが静かに口を開く。
「進藤くん、だったね。……キミは院生になるつもりなのかい?」
「そ、そうだけど……」
「なら先輩として一つ言わせて貰おうか。……院生は、キミが思ってる程甘くない」
「なっ……!」
「仮に――」
そしてヒカルに向けられていた視線が一瞬、それでも確かに私を捉えたのだ。
「……仮にキミにどれだけ優秀な師が居たとしても、だ。それだけで通用する程甘い世界じゃない。覚えておくといいよ」
冷静な表情は崩さず、口調も穏やかなまま、より一層強くヒカルを睨み付ける。
対するヒカルも、自分の失言が発端とはいえ、余りにも一方的な向こうの態度に次第に顔を紅潮させていく。
まさに一触即発。無言の時間が流れる中……割って入るように対局開始のブザーが鳴り響いた。
「……いい試合をしよう。大将戦に恥じない様に、ね」
お互いの健闘を約束するとか、そんな生易しい発言じゃない。火を付けてしまったんだ。彼の瞳に宿る、何かしらの強い想いは隠せていないのだから。
波乱の幕開けとなった2回戦。ニギってヒカルの白番、三谷くんは黒、筒井さんが白。
「お願いします!」
――私たち葉瀬中囲碁部の、運命の一戦が始まった。