未来の本因坊   作:ノロchips

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第27話

「何だか凄い碁になってるわね……」

 

 対局も中程、食い入る様に大将戦を見つめていた私に声をかけたのは日高さんだった。先程と同様、2回戦もあっさりと片付けてこちらの見学に来たのだろうか。

 

「何よ、今回は自分の学校の応援に来たんだから文句を言われる筋合いは無いわよ?」

「べ、別に文句なんか……」

「それにしても岸本くん、どうしちゃったのかしら。……らしくないじゃない」

「……らしく、ない?」

「ええ。少なくとも私はこんな碁を打つ岸本くんを見たことがないわ。普段の彼はもっと……」

 

 ――どんな時でも冷静沈着で乱れが無く、そのバランスの良さこそが彼の最大の武器。

 それが彼女の知る本来の岸本さんの碁なのだとしたら、確かに困惑するのも無理はないのかも知れない。今目の前で打たれている碁は、おおよそそういった棋風とはまるっきりかけ離れたものだったのだから。

 

「一体どういう心境の変化かしら? そう言えば対局前、何だかこっちの方が騒がしかったみたいだけど……」

 

 だからこそ日高さんがそんな風に疑問に思うのも至って自然なことで。何より私自身、先程の一件が彼に決して少なくない影響を与えているであろうことは伺い知れていた。

 

「実は……」

 

 そして私はゆっくりと口を開き、先程の顛末を彼女に語り始めた。

 

 

「……そんな事がねぇ。まあ随分と礼儀知らずな坊やじゃない。とにかくそれでこの碁ってわけね」

「その……すみませんでした」

 

 結局いがみ合ったまま対局を迎えてしまったヒカルの代わりに、私は日高さんに頭を下げた。

 院生を辞めてこの場に戻ってきた彼に対し、故意では無いにしてもそれを軽んじるような言葉をヒカルは口にした。憤って当然、ある程度はお互い様とは言え、客観的に見れば明らかにこちらに非があるのだから。

 

「……ねえあなた、何か勘違いしてないかしら?」

 

 そんな風に考えていた私に向かって、呆れた様な表情で日高さんは言い放つ。……勘違いとは一体どういうことだろうか。

 

「仮にも私たちは全国区なのよ? プロになりたいとか院生になりたいとか、実力も弁えずにそんな事を口にする輩なんてごまんと見てきたわ。いくら岸本くんが元院生だからって、そんな言葉に一々腹を立ててたらキリが無いじゃない」

「それは……」

 

 ……言われてみれば、確かに。でもヒカルの発言が原因じゃないとしたら、岸本さんは何故……

 

 口ごもる私に対し、日高さんは更にこう続けたのだ。

 

「まあ強いて言うなら……原因は星川彩、あなたよ」

 

 

 

「……私ね、あなたの事は誰にも言わなかったの。岸本くんはもちろん、部員の誰にも」

「え……言ってないんですか?」

「そうよ。あなただって院生って立場上、不要に目立ったりもしたくないでしょうし。……でも、やっぱり岸本くんは知ってたのね」

 

 少し意外だった。てっきり私の事は既に伝えられているものだと思っていたから。

 院生は修行中の身、それ故にアマの大会に出場する事を禁じられている。だけど学校の部活動にまで制限を受けてはいないのだから、私がこの場に居るのも決して何かに違反している訳じゃない。それでもプロを目指す人間が中学の囲碁部にまで首を突っ込むというのは……やはり人によっては反感を買われかねない事。彼女の言うように、確かに私は少なからず微妙な立場なのだ。

 そんな日高さんの気遣いは本当にありがたかったけれど……それでも岸本さんは私の事を知っていた。とは言え週刊碁という明確なソースが存在している上に、彼自身も元は院生。かつての自分の居場所や仲間を気にするのも至って普通のこと、その過程で私の事を知ったとしても何ら不思議では無い。

 

「あまり言いたくないけどね、今やあなたはアマの誰よりもプロに近い存在なのよ。……そんなあなたを前にして、岸本くんが何も思わないハズがないでしょう?」

「っ……!」

 

 そしてここまで言われて私はようやく気付いたのだ。日高さんの言葉、そしてあの時私に向けられた、岸本さんの視線の意味が。

 プロになるという夢を諦め、新たな居場所を見つけた彼の前に、諦めた夢を掴もうとしている人間が現れたのだ。どう思われるかなんて初めからわかっていた事。……冷やかし、お遊び、プロに勝てるだけの実力を持つ人間が今さら何しに来た。そういった負の感情を持たれてしまっても仕方がなかったのだ。仮に私の真意がどうであれ……いや、むしろ純粋に部活を楽しみたいというその想いすら、彼にとっては侮辱に当たるのかもしれない。

 もちろん今日まで私が過ごしてきた囲碁部での日々を黙って否定されるつもりもない。それでも自分の存在が彼を激情に駆り立ててしまったと自覚した以上……やはり罪悪感は隠し切れなかった。

 

「私の、せいだったんだ……」

「はぁ……だからそれが勘違いだって言ってるのよ」

「……え?」

 

 その言葉に思わず彼女を見上げれば、そこにはうっすらと笑みが浮かんでいて。

 

「まったく自惚れも大概にしなさい。第一ね、前提からして間違ってるのよ。強い人間が上に行くことくらい岸本くんだってわかってる。そんな事で彼は怒ったりなんかしないわ。……あんまりうちの部長を見くびらないでもらえるかしら?」

「怒って、ないんですか?」

「そうよ。見てわからないの? むしろ気合い十分、ヤル気満々って顔してるじゃない」

「え、えーっと……」

 

 見てわからないのと言われても……対局が始まってから一貫して冷静な表情を崩さない岸本さん、残念ながら私にはその心の内は掴めなかった。だけど1年の頃からずっと一緒だった彼女の言葉だ。……もしかしたらそうなのかもしれない。

 

「多分岸本くんはまだ気持ちの整理が着いてないんだと思う。そんな時今まさにプロになろうとしているあなた、そして院生を志す子が現れた」

「じゃあ、岸本さんは……」

「そう。この一局で自分の夢に決着をつけようとしているのよ。……()()()()()()()()、この子達を相手にね」

 

 つまりヒカルを挑発するような口振りも、私に向けたあの視線も……全ては彼の意気込みの表れ。私たちへの挑戦状だったのだ。

 

「だからあなたも、落ち込んでるヒマがあったら仲間の応援でもしたらどう?」

「……そう、ですよね」

 

 そうだ。落ち込んでる場合じゃない。自分の可能性を見極める最後の戦い、その相手に岸本さんはヒカルを、私たち葉瀬中を選んでくれたのだ。

 私に出来るのはみんなの力と今日までの努力を信じることだけ。結局やる事は変わらないんだから。

 

「……ありがとうございます、日高さん」

「あら、珍しく殊勝ね。……ま、出来の悪い後輩の面倒を見るのも先輩の役目なのよ」

「だからこそあなた達海王中に勝ちたい。……いえ、勝って見せます! 岸本さんの想いに応える為にも、情けない戦いは出来ませんから!」

「ふふ、らしくなってきたじゃない。……でもね、今がどういう状況かあなたにもわかっているでしょう?」

 

 そして、日高さんのその言葉で私はようやく思い出したのだ。先程まで憂いていた戦況……私たち葉瀬中にとって、決して芳しくないこの現状を。

 

 

 ―――

 

 

 まず三将戦。……正直最も苦しいのがこの一局。

 序盤から積極的に仕掛けた筒井さんだったけれど、途中のちょっとしたヨミ違いから形勢は一気に向こうに傾いてしまう。その後もマギレを求めてがむしゃらに攻め込んではみたものの、結局ヨセを前にして地合ではハッキリと大差が着いてしまっていた。悔しいけれどここまでの戦いは一枚も二枚も向こうが上手。もちろん私とてこの勝負を諦めた訳では無いけれど、はっきり言って逆転はかなり厳しい形勢だった。

 続いて副将戦、対照的に一番戦えているのが三谷くん。とは言え決してこちらも楽観視出来る訳ではない。これ以上離されてなるものかと必死に三谷くんは食らいついているけれど、ややもすれば一気に押し切られかねない状況。互角……いや、若干不利だろうか。それでも最も有望なのが副将戦である以上、葉瀬中の勝利のためにはこの一局は落とせない。

 

 そして大将戦。先程の件もあり、取り分けギャラリーの注目を集めるこの一局。ヒカルと岸本さんの意地と意地がぶつかり合う熱戦は……現状はやはり黒番、地力で勝る岸本さんが優勢だった。

 

 ……強い。ヒカルも頑張ってるけど、特に岸本さんからは並々ならぬ気迫が伝わってくるよ。

 

 自身のプライドを賭けた負けられない一戦、それにも関わらず彼は全くと言っていい程無難な手を選ばない。それは彼にとって『らしくない』のかもしれないけれど、それでも決して碁が崩れている訳じゃないのだ。今ヒカルを追い込んでいるのも、紛れもなくその独創的な一手一手なのだから。

 

 もちろん劣勢はヒカルも承知の上だろう。先程から続く長考がそれを如実に物語っている。

 現在の焦点は、白地のケシに回った上辺から中央にかけての黒一団への攻撃。白が突破口を開くならここからだ。……そして数分後、意を決して放たれた白の一手に、観戦者全員の視線が釘付けになった。

 

「……失着ね」

 

 同時に隣で戦況を見つめる日高さんがそんな言葉を零す。

 ヒカルが放った手はフクラミ。おおよそこの局面において大多数の人間が真っ先に選択肢から外す一手だ。白は一子をカミ取り朧気に中央へとアタマを出す。しかしその代償として、あろうことか攻撃対象であったハズの黒にポン抜きを許してしまったのだ。……これではもう攻撃が続かない。普通に考えれば悪手も良いところだ。

 

「あらあら、こんな単純なミスをするような子だったのね。やっぱり岸本くんにケンカを売るのはまだ早かったんじゃないかしら?」

 

 得意気な表情の日高さん、そしてその見解はギャラリーも同じの様で、周囲の海王部員達からも何処か弛緩した雰囲気が感じられた。確かにこの一連のワカレは間違いなく白が損をした。彼らからすれば、自分たちの優勢が更に磐石のものになったと思っていることだろう。

 

「何か……あるね」

 

 しかし私の見解だけは違った。余りにも凡庸な一手、だからこそ光って見える。何よりヒカルが長考の末に導き出した答えが、こんな単純なヨミ間違えだなんて私には思えない。そしてその直感を頼りに先々の展開を見通せば、自ずと私にもヒカルの意図が見え始めて来るのだ。

 そう、ヒカルの狙いは……!

 

 

 

 静まり返る会場。張り詰めた空気の中、着々と手数は進み……やがてヒカルの構想が形となって表れ始める。その変化にいち早く気付いたのは、やはりこの場でも抜きん出た棋力を持つ二人、岸本さんと日高さんだった。

 

「う、嘘でしょ……あの時の悪手が、ここに来て絶好の位置に……」

 

 同時にそれまでポーカーフェイスを貫いてきた岸本さんの表情が変わった。唇をきつく噛み締め、握り締めた右拳が小刻みに震え始める。

 ヒカルの狙いは中央じゃなかった。悪手と思えた先程の一手は左上の攻防をニラんでのもの。部分的に損なワカレは承知の上だったんだ。

 堪らず黒は二眼での生きを強要され、その一瞬の隙を付いてヒカルの白石が中央を突き破る。そうして一変した盤面を見て、ようやく他の観戦者の思考も私たちに追い付いたのだ。

 

「コ、コイツまさか、さっきの手を打った時からここまで読んで……」

「そんな事言ってる場合じゃねえ。……これ、ヤバイぞ」

 

 各所の黒が途端にウスくなる。上辺、右辺、そして先程ポン抜き形を与えた中央の黒石ですら今や攻撃対象。死にはしなくとも、ここから白の強烈な攻めを受けることは誰の目にも明らかだ。

 形勢が一気に傾く。彼方に霞んでいた黒の背中は今や目前。……これで、追い付いた!

 

 

 

 ヒカルが見せた鮮やかな打ち回しにギャラリーの興奮が冷めやらぬ中、今度は真逆の方向から歓声が上がる。反射的にそちらへ振り向いた私の目に映ったのは……口元を抑え、溢れる涙と嗚咽を堪え切れずに俯く筒井さんの姿。

 

「あっちは終わったみたいね。まあ流石に青木くんは……」

 

 

『さ、三将戦…………白番、葉瀬中筒井くんの半目勝ちです!』

 

 

 そして私を含めた大方の予想を覆し、勝ち名乗りを受けたのは……何と筒井さんだったのだ。

 

「つ、筒井さん…………よっし!」

「なっ……と、途中まで盤面20目近く青木くんが勝ってたはずよ。あそこから一体何が……」

 

 終盤を迎え、確かにあの時点で筒井さんは圧倒的な大差をつけられていた。私にとってもこの結果は想像以上……それでも私には一つだけ確信があったのだ。少なくともあの一局が、タダでは終わらないだろうという確信が。

 何故なら私は見ていたから。絶望的な形勢の中で、それでも諦めずに前を向く筒井さんの姿を。……そして対照的に安堵の表情を浮かべていた、対戦相手の姿を。

 

 傍目には筒井さんのがむしゃらな攻めは空回りに終始している様に見えたかもしれない。だけど、筒井さんのパンチは効いていなかった訳じゃなかったのだ。盤面には現れていなくても、その気迫は確実に強烈なプレッシャーを相手に与えていた。向こうにしてみれば、耐えて耐えて必死に耐えて、ようやく掴んだ勝利への道。それ故の安堵だったんだろう。

 

 そして囲碁においてはその弛緩こそが毒。

 言うまでもなく優勢と勝利は全くの別物。優勢を自覚すれば無意識に手が緩む、最善とわかっていてもリスクの高い手を選ばなくなる。その油断が逆転を許すなんてままあること、勝っている碁を最後まで勝ち切るのはプロにだって難しいことなんだ。

 もちろん名門海王でレギュラーを務める程の彼ならば、多少緩んだところで並の打ち手相手に逆転を許したりなどしないだろう。だけど目の前にいる相手は……ある一つの分野において、残念ながらその並の打ち手ではなかったのだ。

 

 棋風が変わっても筒井さんの最大の武器は変わらない。

 たった一人で始めた囲碁部。バカにされる事も、後ろ指を指される事もあっただろう。それでも地道に、ただひたすらに磨き続けた(ヨセの力)――葉瀬中が誇るヨセ名人の異名は、伊達じゃない。

 そんな筒井さんの三年間の努力と、諦めない気持ちが……必敗の碁を、最後の最後でひっくり返して見せたんだ!

 

 

 

 最も形勢不利と見込んでいた筒井さんが手にした白星。この1勝の価値は計り知れない。

 これでヒカルか三谷くんが勝てば私たちの勝利、対して海王はもう1敗たりとも許されない状況だ。もはや向こうにも楽観視するだけの余裕など残されていないだろう。

 

「青木先輩だけじゃない……岸本部長と久野先輩も、互角だ」

「コイツら……強ええっ!」

 

 三谷くんもまた、一時の劣勢を跳ね返し形勢を五分にまで戻している。

 気が付けば周囲には対局開始時以上の人だかりが出来ていた。三将戦の観戦者、2回戦を終えた他校の生徒たち、そしてそこには、やはり同様に対局を終えたのであろうあかりの姿もあった。

 

「あかり! ……ごめんね、応援に行けなくて。そっちはどうだった?」

「勝ったよ。金子さんも勝って今は久美子の対局を見てる」

「良かった……お疲れ様、あかり」

「そ、それより男子はどうなってるの? 筒井さんは泣いちゃってるし……ねえヒカルは? 三谷くんは!?」

「……うん、もうすぐ終わるよ」

 

 急き立てるあかりに小さく微笑みながらそう一言返すと、私は彼女と共に改めて盤面に目を戻した。

 どちらも最後の最後まで半目を巡る戦いが続く。そして先んじて終局を迎えたのは、大将戦。

 日高さんが、あかりが、観戦者全てが固唾を飲んで整地を見守る中……私にだけは、その結末が既に見えていた。

 

 

 ―――

 

 

 ……これが今のヒカル、か。

 

 この一局の決め手となったのは、紛れも無く中盤での白の打ち回し。部分的には完全な悪手だったあの一手を、わざと隙を作り、上手く相手を誘って、好手に化けさせた。

 対局相手の岸本さん、そして観戦者の誰もがヒカルの狙いに気付かなかった。ヒカルはあの場に居た人間の誰よりも上を行っていたのだ。

 

 ……気付いていたのは私とあなただけ、だよね。まったく師匠が師匠なら弟子も弟子。……成長なんてもんじゃない、ここまで来ればもはや進化だよ。

 

 岸本さんは一つだけ勘違いをしていた。それはヒカルの師を私だと思っていたこと。

 私とヒカルはそんな間柄じゃない。ヒカルの碁の根本に居るのは私なんかじゃない。ヒカルには私なんかよりずっとずっと素晴らしい師匠がいるんだから。……ほら、ここの打ち方なんか本当にそっくりだもん。

 

 

「おめでとうみんな。おめでとう、ヒカル。本当によく頑張ったね。……あなたもそう思うでしょ?」

 

 

 誰の耳にも届くこと無く掻き消えた呟き。それが向けられた先は、額に汗を浮かべ、肩で息をしながら、今まさにゴールへと辿り着いたヒカルの……その後ろ。

 

 ――最後まで立派に戦い抜いた愛弟子を誇らしげな表情で見つめる、烏帽子を被った幽霊の姿が、私には見えた気がした。

 

 




ヨセ:囲碁における終盤の戦い。お互いの陣地の境界線を巡って、自分の地を増やし、相手の地を減らしていく。序盤から中盤が陣地を作成する段階とすると、ヨセは作った陣地を整形する作業みたいな感じです。

明確な答えが存在する分野とはいえ、限られた時間内で完璧にヨセをこなすのはプロにも至難です。「ヨセだけは間違えない」と加賀に評された筒井さんは、もしかしたら囲碁センスの塊なんじゃないでしょうか。

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