私が転校してきてから数日が経っていた。
二度目の小学校生活は、私がクラスに溶け込める様にあかりが積極的に他のクラスメイトとの橋渡しをしてくれたおかげで、とても順調だった。
転入当初は小学生としてやっていけるか不安だったけれど、多分私はこのクラスに受け入れてもらえたんじゃないかと思う。本当に彼女には頭が上がらない。
11月も終わろうとしていたそんなある日、ヒカルが救急車に運ばれたというニュースが飛び込んできた。
いよいよ来た。佐為がヒカルに憑いたんだ……!
進藤ヒカルももちろん打ってみたい相手ではあるけれど、それは今の彼じゃない。佐為の教えを吸収し、塔矢くんと共に強くなった未来の彼だ。プロになればヒカルとはこれからたくさん打てる。
でも佐為は……消えてしまう。遅くともヒカルの中3の春、今から2年とちょっとで。
それまでには何としてでも佐為と対局をしなければ。この世界に来た以上、佐為と打たないなんて考えられない。
だけどこれは言う程簡単な事じゃない。何しろ佐為はヒカルにしか見えないんだ。あなたに憑いている幽霊と打ちたいです、なんて言えるはずもない。
加えて、ヒカルが囲碁にのめり込んでしまった後は、打つのは基本的にヒカルだ。佐為はヒカルを見守る立ち位置になり、滅多な事では打つことがなくなる。
でもそれは、逆にまだ囲碁に興味を持ってない今のヒカルなら、対局する機会さえ作ることができれば、佐為と打つことも可能という事だ。
問題はどういう方法で彼と打つかだ。さすがに転校してきたばかりの私がいきなり、それも囲碁の誘いをするなんて不自然すぎる。
出来ればごく自然に彼と対局する状況が欲しい。この時期に何かそういうイベントが無かったかな……
私は必死で原作の内容を遡った。大好きな漫画とはいえ、最後に読んだのはずいぶん前。中々思い出すことができなかったけれど、
「あった……! これだ。ここなら違和感なく打てる!」
私はすぐさまパソコンを立ち上げ、キーボードを叩き、(囲碁教室、白川プロ)と検索した。
ほとんどがお年寄りの中で、金色の前髪の少年の存在感は大きく、すぐに彼を見つけることができた。偶然にも私の隣の席みたいだった。きっと年齢が同じという事もあって隣同士にしてくれたんだろう。
「あれ? 星川じゃん」
「ヒカル? 何してるのこんなところで」
白々しく私は返事をする。ちなみにあかりと仲良くなった私は、ヒカルともそれなりに接する機会が多くなり、名前を呼び捨てにできるくらいには親しくなっていた。
「何ってここは囲碁教室だろ? って言うか、お前囲碁なんかやるんだ?」
囲碁なんかとは何だ。囲碁は楽しいんだぞ。ヒカルだってすぐにハマっちゃうんだから。
「私からしたらヒカルが囲碁をやってることの方が驚きだよ」
「まあオレは……成り行きで? そんな事よりよかったよ知り合いがいて。周りは年寄りばっかりなんだもん」
「うん、私も安心した」
ヒカルがここにちゃんといてくれて、本当に安心したよ。
教室の内容は初心者向けの基礎講座だった。基本ルールに始まり、ハネ・ノビなどの石の動き、そして簡単な詰碁など。ヒカルは退屈そうに講義を聞いていた。
まあ、しょうがないよね。ヒカルは囲碁にまだ興味がないし、今は佐為のために仕方なく来てるだけなんだから。好きじゃない事に関心を持てって言う方が無理な話だ。
やがて講義が終わり、いよいよ待ちに待った対局の時間がやって来た。
「ヒカル、私と打とうよ」
「対局かあ。オレ疲れちゃったしそろそろ帰りた……」
言いかけてヒカルの口が止まった。何やら耳を押さえながらうんざりした様子で後ろを見ている。佐為にごねられてるんだろうな。
「あーわかったわかった。一局だけな?」
私に言ったのか、佐為に言ったのか。どちらにしろ、結果的に私はヒカルと対局をする運びとなった。
さて、ここまでは順調だ。後は確実に佐為に出てきてもらうために、もう一押し。
「ヒカル、私と賭けしない?」
「賭けぇ?」
「うん。ヒカルが勝ったら、明日から一週間の宿題を私がやってあげる。私が勝ったら……そうだなぁ、給食のデザート一週間分ってのはどう?」
ヒカルは少し驚いたような表情を見せたが、やがて口元を緩ませて、
「ああいいぜ。宿題一週間分だからな。忘れるなよ!」
私の提案を受け入れた。
「私、白でいいかな?」
「ん?いーよどっちでも。それより早くやろうぜ」
私が白を申し出たのには理由がある。
黒を持ったら負けたことがない。原作で佐為が言った台詞だ。もちろんコミの無い時代の話なので、黒がはっきり有利なのは間違いないのだけど、それでも物凄い話だ。
だからこそ私は白を持った。佐為を相手に白番でコミ無し、つまり盤面勝ちを目指す。それが私の今回の目標だ。
「じゃあ始めよっか。お願いします」
「おう、お願いします」
ヒカルが覚束ない手つきで黒石を置く。
右上スミ小目……か。
――この瞬間に私は確信していた。この威圧感、迫力。とても囲碁を知らない小学生が出せるものではない。
佐為が、本因坊秀策が、私の目の前にいる。
『歴史上最強の棋士は?』 その質問に対し、多くの人が答える。本因坊秀策、と。
私はそうは思わない。歴史上最も強いのは、いつだって今を生きる人達だ。
確かに本因坊秀策は偉大な人物。数多くの名局を作り上げ、彼が囲碁界に残した功績は計り知れない。
けれど、彼の時代から150年の時が経ち、その間も囲碁は絶えず進化を続けてきた。より最善の、最強の一手を求めて、多くの布石や定石が研究されてきた。
歴代最強に過去の人物の名前を挙げる事は、現代の棋士、そしてこれまでに囲碁に人生を捧げてきた全ての人々を冒涜する行為だ。
そして今、私は現代の棋士を代表してここにいる。少なくともこの時点の佐為に負けることは絶対に許されない。
絶対に、勝って見せる。
私は力強く星に石を放った。
佐為が指導碁を打つんじゃないかと心配していたけど、私の打ち筋や気合いから感じるものがあったのか、緩めている様子はない。
既にヨセに差し掛かっている。ここまでは白がはっきり良い。このペースで行けば、コミ無しでも十分残りそうな感じだ。
ただ、ここからも全く油断は出来ない。序盤の布石の段階で、私はスピードで勝る現代風の打ち筋でかなり優勢に立ったけれど、その時のリードは徐々に詰められてきている。
でも私もヨセは得意だ。ここからはそう簡単に詰めさせない。
佐為が長考しているのか、しばらくヒカルの手が止まっていたが、やがて再び黒石が盤面に放たれた。
「っ……!」
その一手に思わず息を呑む。考えてなかった手だ。
今度は私が長考する番だった。一見深入りしすぎの様な黒石。しかし白の勢力を紙一重ですり抜けて切り込んできたその一手を咎める術を、私はどうしても見つけることができなかった。
ダメだ……取れない。こんな手があったなんて。……この抉られは痛い。白地がかなり減ってしまった。
……でも、まだやれる。ここまで来たんだ。負けてたまるか!
私は負けじと必死に黒石に向かっていき……そして終局を迎えた。
結果は盤面で、持碁。
「勝てなかった……か」
私は大きなため息と共に呟いた。
「なあ、これって引き分け?」
ヒカルが私に尋ねてくる。
「えっと……」
コミがあれば白の5目半勝ち。仮にコミ無しの手合であったとしても、持碁は白勝ちとされている。現行のルールで考えれば、白の勝利と言って何ら差し支えない結果なのかもしれない。
「……うん、そうだね。引き分け」
でも、私にはとてもそんな事言えなかった。中盤以降はこちらがはっきり押されていた上に、勝勢の碁を持碁にまでされてしまったのだから。
やっぱり佐為は強かった。もし佐為が現代の囲碁を学んだら、悔しいけれど今の私では敵わないだろう。
……ま、しょうがないか。いつかもう一度佐為と打った時は、今度こそ勝ったって言えるような碁を打てるように頑張ろう。佐為と同じように、私だってまだ成長できるんだから。
私が決意を新たに顔を上げるとそこには、
「君たちは、一体……」
驚きを隠せないといった表情の白川先生が立っていた。
やばっ……見られた!? まずいよ、こんなの初心者囲碁教室に通っている子供の打つ碁じゃないもん!
「き、棋譜ですよ。棋譜並べ! 上達するには強い人の棋譜を並べるのが良いって聞いたんで、二人で覚えてきたんですよ!」
「ほ、本当に? いや、初心者が丸々一局の棋譜を暗記するってだけでも十分すごいんだけどね。それにしても……黒と白、両者の棋風が違いすぎる。黒は秀策流、白は現代囲碁のお手本……いや、それよりもっと……」
……うん、これヤバイよね。だって秀策流と現代碁の棋譜なんて普通ありえないもの。やっぱり棋譜並べは無理があったかな。
「とにかくこんな棋譜は見たことがない。よかったら誰の手合いなのか教えてくれないかい?」
……はい! 本因坊秀策と、12年後の本因坊の棋譜です! ……って言えるか!!
横ではヒカルがポカンとした表情をしているし、ここで更に余計なこと言われたら一巻の終わりだ。これ以上詮索される前に……かくなる上は!
「ヒカル、帰ろう! 先生、ありがとうございました!」
「お、おい引っ張んなよ星川!」
「あ、ちょっと……」
白川先生の返事を待たずに、私たちは勢いよく教室を飛び出していった。
「もー何なんだよ急に」
「あはは、ごめんね。そんなことより今日は楽しかったよヒカル」
ヒカルの愚痴を私ははぐらかすように笑った。
「じゃあ私そろそろ帰るね。また明日学校で」
「あ、待てよ星川!」
ヒカルに背を向けようとした私に声がかかる。
「お前って……囲碁強いの?」
それは単なるヒカルの疑問なのか、それとも彼の後ろにいる佐為が言わせたものなのか。
「……まあ、強いんじゃない?」
「強いって、どのくらいだよ」
私はヒカルに向かって笑顔で答えた。
「本因坊秀策くらいかな!」
黒を持ったら負けたことが無い。
こんな逸話があるそうです。
「秀策先生、本日の碁はいかがでしたか?」
「ああ、黒番でした」
黒番=勝ちが最早常識だったみたいです。どんだけだよ。