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今日は妙に喉の渇く日だった。そんなのがレッスンが始まると同時に解消されるなんてことはなくて、スポーツドリンクの消費ペースはもちろん早かった。一連の行程が終わるよりもっと前にペットボトルは空になっていた。たしかに我慢できないってほどではなかったけれど、なかなかの強度の運動のあとで喉も渇いているのにわざわざ我慢する意味も必要もない。幸いこの大きな事務所には意外なところにも自販機が設置されている。
さて、どうしようか。私の指は目線よりも上にいったかと思えば一度引っ込んでゆらゆらと迷子になる。正直に言って、候補のうちにあるのはどれもいいものだ。どれでもいいのではなく。それぞれのいいところが私の中でケンカして、そのことが私の決断を鈍らせているのが現状ということだ。だって周りに誰もいない自販機の前なんていう環境で思い切り悩むことができるのなら、それくらいの贅沢はいいじゃない。
素直にスポーツドリンクもいい。ここに置いてあるリンゴジュースはさらっとしているからそういうのも悪くない。いっそのことミルクティーで気分を完全に切り替えちゃってもいい。シンプルに水だって捨てがたい。うーん。
「ここはピーチソーダなんていかがでしょう? カワイイですよ?」
「わっ!」
咄嗟に声のしたほうへ振り向くと、思っていたより近くに見たことのある横顔がそこにあった。いや、見たことがあるどころの騒ぎじゃない。ふつうにテレビを観る生活をしていれば見かけない日のほうが少ない気がするくらいだ。特徴的でありながら浮いたり周囲の邪魔をしない外見は、なんというか、特別製だ。
「これは失礼しました。そこまで集中して悩んでいらっしゃるとは思わなかったもので」
これがたとえば他の誰かの発言だったとしたならきっと多少の嫌味が混じっているように感じられたに違いない。けれど彼女だけは例外。そのませた部分を含めてみんなが好意かそれに近い感情を抱くのだ。
自分自身にもそんな心の動きがあることに感心して、一拍置く。思いもしなかったけれど、言われてみればたしかに声をかけられるまで気付かないほどに集中していたらしい。自販機の前で何を飲むかを選ぶだけのことに? なんともくだらなくてやさぐれた笑いが出そうになる。まあ、いまここでは適切じゃないからそんなことはしないけど。
「ええと、輿水幸子さんですよね?」
「はい!」
「どうしてこんな外れというか目立たない自販機に?」
「実はさっきも言ったピーチソーダがここにしかないんですよ、たまに飲みたくなるんですけど」
意外といえば意外。そんなものかなといえばそんなものかな、という感じ。この業界の性質上、名を馳せたり上へ行けば行くほど妙なこだわりを持っていたりなかなか珍しい趣味を持っていたりする人の割合は高くなる。なぜならテレビの向こうから見ての “フツウ” は人々の記憶に残らないからだ。たとえば極端な話、学校の友達と話しているほうが面白いのなら娯楽としてのテレビもネットも必要がなくなったっておかしくない。
十四歳の平均身長を大きく下回っている彼女が腕組みから片手をあごにあてて自販機をじっと見つめている。ピーチソーダを買うつもりだった彼女は他に何が売られているのかを確認しているのだろう。私が自販機の前で突っ立っていたせいかもしれない。その姿はサマになっているというよりは、彼女の雰囲気がそれをいわゆる “カワイイ” ものに仕立てている。
「ちなみに岡崎さんはどれでお悩みになっていたのでしょう?」
「あ、その、それほど絞ってさえなく……」
……ん?
「なるほど、岡崎さんがここへいらしてからそれほど経ってなかったわけですね」
「あの……、どうして私の名前を?」
自販機から私のほうへ視線を移してきょとんとした表情を浮かべている。どこに疑問をもって尋ねられているのかわからないと思っていることがありありと伝わってくる。いっそ本当に私が筋違いな質問をしているかのような気分さえしてくるのだから大したものだ。
「同じ事務所じゃないですか」
「え、あ、そうですか」
そういうことじゃないけどつっかかってしまえば面倒なことになりそうな気がした。とりあえず私は自販機を彼女に譲った。何を飲むかを決めていないのは本当だったから。
ちいさな彼女は缶を傾けながら、こういうこっそりやるワルがたまりませんね、とにこにこしながら得意そうに話した。正直言ってどこがワルなのかわかったものじゃない。まさかジュースを飲むことすら禁じられているわけでもあるまいに。どこか間の抜けたようにさえ思える所作も彼女にかかればチャーミングに変わるんだからため息が出そうになる。天性天賦とはこのことを指すのだろうか。
結局私はスポーツドリンクを飲むことに決めてお金を入れた。気を抜いていたら驚いてしまうほど冷えた缶はほどなくして汗をかき始めた。彼女はまだ私のそばにいてピーチソーダを楽しむように味わっている。同世代に比べてひときわ体格の小さい彼女は飲むペースも遅いのかもしれない。……まあ、自分も人のことを言えた義理じゃないけれど。
そこにあったのは私のこれまでの生涯のなかでもかなり奇妙な時間だった。世界のすみっこみたいな場所で、あの輿水幸子とふたりでただアルミ缶を傾けている。きっと人に言ったって信じてもらえない。
お互いに喉を潤しながらあまり記憶に残らない世間話をして十分ちかくが経過した。急いで飲む必要はなかったし、どころかそんなことをすれば失礼にだってなりかねない。それまでの会話でひとつだけ覚えているのは、彼女は炭酸がそれほど得意ではないということだった。だからピーチソーダはたまに飲むのがいいのだと言う。なるほど人の好みは様々だ。よくわからない。
近くのごみ箱に缶を捨ててカバンを背負い直そうとしたところでもう一度声をかけられた。多くの学生が、いまやもう学生に限らない気もするけど、そうするようにスマホを出して指を滑らせている。そうして彼女はすいと手の中のものを私のほうへ差し出した。
「せっかくですし連絡先の交換はいかがでしょう?」
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一日を挟んでスマホに通知が来ていることに気が付いた。私は一時間に何度もスマホを見るようなタイプではないから、というよりはそういうものに縛られるのが好きではないから即座に反応をすることはそうそうない。例外を挙げるなら家にいて手を伸ばせば届く距離に置いてあるときくらいだろうか。スマホにタッチして確かめてみると連絡があってから優に三時間が経っていた。ついでにバッテリーの残りが50%になっていた。
仕事の連絡だろうか。りあむさんだろうか。機械的とも言っていいくらいにそんなことを思い浮かべてアプリを起動すると、ついおとといに登録したばかりのあまり見慣れないアイコンにマークがついている。自分のことを卑下するわけじゃないけど、まさか、というのが正直な感想だった。社交辞令でも儀礼的な対応でもなかったということだ。あの輿水幸子が? 同じ事務所に所属していながら “幸子ちゃん” ではなく “輿水幸子” として客体化してしまう存在。間違っても身近なんて言えない。私の位置からすればむしろファンたちよりも彼女を遠くに感じるほどだ。それは畏怖に近い感情。私は彼女の積み重ねた実績のような外面しか知らないけれど、その意味するところはわかるのだ。
とはいえ彼女からの連絡は動かせない事実なので、とりあえず内容を見てみることにした。そこには彼女が出演する番組の見学へのお誘いがあった。それと可愛いスタンプだ。はて、と私は首をかしげる。まったく理由が思いつかない。百歩ゆずって連絡先の交換はまだわかるにしてもそんなお誘いは義理とかそういったものをはるかに超えている。恥を承知で言ってしまえば、私に興味を持っているとしか思えない。
この種のアプリのいいところは、ある程度まではすぐに返事がなくてもおかしくないと暗黙のうちに誰もが理解しているところだ。つまりこうして頭を冷やすために洗い物をして時間を稼ぐことが許される。……まあ、正直言って断る理由はない、と思う。業界トップの現場を直に見学できることの価値がわからないほど経験が浅いわけじゃないし。というか仮にほかの用事があってもよほどでなければ見学を優先するべきだと思う。はあ、ロジカルシンキングは優柔不断をやっつけるのに本当に役に立つなあ。
文面を確認して返信する。 “ご迷惑でなければ、よろしくお願いします”
私に対する返事は意外に早かった。 “モチロンです!”
……私もスタンプ増やそうかな。
意外なほど近くに設定された見学の日は、当然ながらすぐにやってきた。週をまたいでさえいなかったから急いで差し入れを探しに行かなければならなかったほどだ。たぶん私からの差し入れが求められることはないだろうけれど、それがなければ輿水幸子の名前に、ひいては事務所の看板に泥を塗ることになるかもしれない。子役をやっていたころの経験から学んだことがいくつかある。そのうちのひとつが芸能界では面子なるものをまるでご本尊のように扱っているということだ。建前として互いに尊重して、攻撃されれば本当に傷を負わされたかのごとく真剣に怒る。実体なんてありはしないのに。バカみたい。
それらの荷物を準備して、私は事務所に向かうことにした。まさか私がテレビ局に向かってそのまま通されるわけもなく、私たちは事務所から車で送ってもらうことになっていた。約束の時間の十五分前にエントランスの隅に陣取って待っていると、それほど待たずに彼女が姿を見せた。
「すみません、お待たせしてしまいましたね」
「いえ、それほどは。それに誘っていただいた私が待つのは筋ですし」
「……もしかして岡崎さんのその義理堅い感じは素だったり?」
言うほど義理堅くないですよ、と否定をしたけれど、どうも私に対する違和感はぬぐい切れていないらしい。隠そうともしていない表情を見れば誰だってわかる。そんなにおかしな振る舞いだろうか。実力社会のこの芸能界で輿水幸子という存在は確実に目上にあたるのだから当然のような気がするのだけど。
まじまじと私の顔を見つめていた視線が下にさがって、今度はその表情がなんとも渋いものに変わった。
「それ、まさかご自分で?」
「え、はい」
「もう完全に大人の、それも真面目に育った真人間の渡世じゃないですか。恋人のご実家に挨拶にでも向かうんですか、まったく……」
彼女は自分の持っている紙袋を指さして、こういうのは事務所で用意してもらえるんですよ、と教えてくれた。なるほど、考えてみればこれ以上の解決策はないかもしれない。受け取る側だって私個人が選んだものより事務所の太鼓判が押してあるほうが安心に決まってる。
でも彼女は私の差し入れを自然に受け取った。なんというか、ふと気づくとその小さな手に渡っていた感じだった。本当なら番組スタッフに渡すべきところのものなのに。ただどこか満足そうなところを見ると岡崎泰葉チョイスも採用ということなのだろうか。それは認められたような気がしてうれしいけれど、先の話を聞いていると照れくさくもある。なんとも人の喜ばせ方を知っていることだ。テクニカル。
車の後部座席なんて二人が座った程度では、それも私たちのちいさい体格だと余計にスペースが空いている。荷物を座席に置いたって何にも困らないくらい。芸能人を乗せるなら普通は窓をしっかり閉めるんだろうと思うけど、どうしてか彼女は前の窓を開けるよう指示を出した。まあ隣を走る車の中をまじまじと覗く人もそういないか。
「さて、ここ最近でなにかつらいことか悲しいことがあったんですね? ああ、そのままで。きっと話したいことではないでしょうし」
車が動き出すとそれを待っていたと言わんばかりにすぐ彼女は口を開いた。目線はまっすぐ前のままの落ち着いた表情をしている。でもそれは同時にお茶の間の人気者なのにも違いなかった。そこに私はうまく言葉にすることができないねじれのようなものを感じたけれど、それはただの思い違いなのだろうか。ついついそれが気になって彼女のほうを見てしまう。近くでまじまじと眺めてみると彼女はつるりとした陶器のような肌をしていた。ここまで来ると現実感がこの場から奪い去られているような気さえしてくる。
どうしてだろう?
「こういう世界にいますからね、人格的な雰囲気と感情的なそれの見分けがつくようになるんです。このあいだお会いしたときはたまたまそういう気分だったのかなとも思ったんですが、今日も変わらないならまあそういうことなんでしょう」
たしかにその通りだ。車内の空間で静かに踊るその言葉に間違いはひとつもない。けれどそれはどう考えたって単純には呑み込めない。たとえば大工を仕事にしている人が一見どこにも問題のない高層マンションに一日や二日住んだからといってその建造物の全体のバランスの異変や基礎地盤について完全に理解できるだろうか。できるわけがない、と私は思う。その道のプロを下に見るなんて意味ではなくて、原理的に不可能であるはずだ。言い方が違うかもしれない。不可能であるべきなのだ。
ここで私に言えることなんて何もなかった。現場に向かう輿水幸子に個人的に過ぎる話をする? まさか。否定も状況に即してない。開いた前の窓から吹き込んでくる風音を聞いているのが精いっぱいだ。
「でも岡崎さん、それは隠しましょう。ボクたちはアイドルです」
「え?」
「言葉のままですよ。ボクたちにそんな雰囲気は、もっと言えばそんな感情は要りません。そしてあなたにはそれができる。すくなくともボクはそう思っています」
喉から出かかった言葉をすんでのところで飲み込んだ。目の前にいる先輩はまだたったの十四歳でしかないのに、どんな過程を踏めばこの思考に至るというのだろう。
だから、と言葉を区切って私に向けた最上級の笑顔は、私には違った意味をもって届いた。
「だから、明るくいきましょう。みんながためらいなく憧れることのできるように」
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下世話かもしれないけれど、共演者へのあいさつに同行させてもらってわずかなりとも顔を売ることができた。どこからチャンスが降ってくるかわからない世界だからこれはとても大切なことだ。おそらく大半は私の名前も顔も覚えていないだろうけど。
それに引き換え彼女のあいさつはすごかった。というか見方によっては輿水幸子についていったから覚えてもらえないと言ってもおかしくないほど、……さすがに失礼か。でもドアノックの第一声からみんなが求めている輿水幸子だった。楽屋を訪ねてあいさつをするのに “お待たせしました、ボクですよ!” なんて言える人間を私は彼女以外に思いつけない。そして誰もがそれを温かく受け入れる。彼女が礼儀正しい人物であることを理解しているからだ。
印象の力。いや、実際にそうなのだから積み重ねてきたものだ。
スタジオの照明の下で輿水幸子は光り輝いていた。ほかにも出演者がいるのに彼女だけがくっきりと浮かび上がる。そこにあるすべての視線は彼女のほうを向くためにあった。いつも視界の邪魔をする空中に舞っているはずのチリさえ意識に上ってこなかった。そうかと思えば共演者を立たせるために存在感を抑えているシーンもあった。当たり前だけどそんなものの出し入れが簡単なわけがない。そんなの映画の撮影現場でだって数えるほどしか見たことがない。その技術が高等なのは自分の線を明瞭に残したまま、という点にある。これは実際に、そして意識して見ないとわからない。もちろん私には何をどうすればそんなものが成立するかなんて見当もつかない。
技術的な話を横に置いての感想なら、彼女は求められているものを完璧に出力していたように私は思う。番組サイドが求めているものもそうだし、視聴者サイドが求めているものについても同じように。彼女が私を現場に誘った理由はまだわからないけれど、それでもそこには想像していた以上の価値があった。私は知らず知らずのうちに手をかたく握っていた。でも途中でそこにいるのが十四歳の少女なのだと思うと、なんだかそれが不思議なことに思えてきた。言葉にすれば、それは細部まで鮮やかにナチュラルな幻想だった。
収録が終わってから家につくまでの過程をあまり覚えていないことに私は自分で納得していた。映画の撮影現場とは違うという意味で興奮していたのもあると思う。でも一番大きいのはやっぱり輿水幸子を直に見られたことだ。ただそれで生まれたのはシンプルな感情じゃない。もちろん憧れもある。その一方で恐怖のようなものもある。完璧というものを目の当たりにしてまっすぐそれに向かっていけるなら、それは一種の天才だと思う。そして私はそうじゃないのだ。
温かいお茶を淹れて一息をつく。現実なのにどこかふわふわしている。テレビをつけて気を紛らわそうとするとテーブルの上のスマホが短く震えた。この具合だとLINEに通知が来たのかもしれない。ビンゴだ。そこには言い忘れてましたが、と前置きがあった。
どういうことだろう? “鷺沢文香さんには気を付けてくださいね”
画面から目を引きはがすのにかなり時間がかかり、もう一度飲もうとするころにはお茶はすっかり冷めてしまっていた。