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「さて、お話しましょうか、って言ってもそれほど心配はしてないんですけど」
立場を考えても、あるいはそうでなくても慶さんが声をかけるのも当然だ。今日のダンスレッスンはどう考えても集中を欠いていた。ステップを踏み外すのは一度や二度じゃなかったし、そもそも振付が頭からすこんと抜けてしまっては話にならない。ユニットのメンバーにもこれまでにないほど心配されてしまったくらいだ。叱られるのもやむなし。周囲に視線を配る技術を手に入れたと思ったらこうだ、なるほど世の中は複雑にできている。
他のアイドルより入念なクールダウンを終えて、私は慶さんの前にいる。レッスンルームのある棟は立ち入りの制限が厳しいにもかかわらずサイズが大きく、面談用の部屋なんかもまず困らないくらいにはある。
普段通りの、すぐに笑顔に移行しそうな顔つきがあるのに違和感を覚える。状況を考えれば険しいものがそこにはあるはずなのだ。なんだかこちらの気も抜けてしまいそうになる。実際には何を言えるわけでもないのだけれど。
「誰にだって調子の悪いときはありますし、それに冷静なままっていうのも難しいですよね」
励ましの言葉がもらえるのも自然なことだと思い至ってそれに少し傷ついた。私はまだ駆け出しでしかない。そしてそれを思った瞬間に自分のプライドの高さに気付いて今度は呆れる。私はまだうまく行かないときに名指しで苦言を呈される段階ですらないのだ。芝居の経験があるだけで、本当の意味でアイドル一年生。この意識を徹底していかないと、いつかどこかでケガをしそうな気がする。心に刻め、ここは別世界だ。
それとは別に慶さんの言葉を聞いて別の思考も並行して働いていた。まるで私に何かが起きたかのような口ぶりだ。ここ最近で私に何か特別なことがあっただろうか。今ひとつ思い当たらない。輿水幸子というアイドルの化身に出会ったことはたしかにそうかもしれないけれど、これはあくまで個人的なことで彼女に知られているとは思えない。そうなると本当に答えが導けない。
「聞きましたよ、年末の2DAYS。ニューヒロイン枠だって」
「へ?」
情けなくなるほど間抜けな声を出してしまった。寝耳に水、なんて言葉が脳裏に浮かぶ。
「姉が先日の会議で決まったって……、あれ、もしかして私やっちゃいました……?」
私の目が見開きっぱなしになっているのを見て、なにか行き違いが発生していることに慶さんが気付き始めた。年末なんて言葉がでてきたけど、今日はカレンダーに大きく書いてある数字がやっと5から6になろうとしているくらいだ。まさか予定をもう押さえなくてはならないほど私が人気者なんてこともない。そういうのは、おそらく幸子ちゃんのようなクラスになって初めて成立するのだと思う。まあ、役者とは具合がいくらか違うだろうから詳しいことはわからないけど。
慶さんが固まりかけているのはつまりそういうことだ。私の知らない私のスケジュールをこの場で明らかにしてしまった。いずれ知れるとはいえ、それはまだダメなことだ。それはある種の機密事項であって、実は私たちも誓約書を書かされるくらいには重たい話だ。どんなに仲のいい友達であっても業界の情報は外に出してはいけない。それどころか同じ業界内においてさえ情報が漏洩となればけっこうな騒ぎになる。今回の慶さんは当人である私が相手とはいえおそらくルール違反にあたる。いや別に告げ口したりはしないけど。
わざとらしいくらいの取り繕う笑顔から力のない声が、あはは、と漏れてくる。慶さんも正式な社員ではないにせよ私たちとは違う立場の方だ、線を引かなければならないことがわかっているのだろう。どんどん視線が斜め下を向いていく。レッスンがうまくいかなかったから私はここにいるはずなのにどうしてこうなったのか。
「あー、えーっと、構いませんよ。私がここで留めちゃえば済む話です」
「ホンットに助かります……。姉に本気のお説教もらうところでした……」
「まあほら、そうとわかればレッスンに気合も入りますし」
「そう言ってもらえると救われます。リーダーの泰葉ちゃんの頑張りがあればユニットのみなさんもきっとそれに合わせて頑張ってくれますよね」
最近はなじんできたのか悪ノリすることも増えてきたけれど基本的には真面目でいい子たちだ、そこについては心配はいらないように思う。それよりは出演のことが正式に伝わったときのほうが気にかかる。大きな舞台なんて経験していないのだからかなり驚くだろう。そのあたりのメンタルケアを考えておいたほうがいいかもしれない。
話すことがなくなって、本当なら居続ける必要のないこの部屋に残っているのは彼女の人徳のせいだろうか。せっかくなのだからもう少しくらい話していたいと思ってしまう。立ち上がろうとするそぶりすら見せずに部屋の観葉植物なんかに目をやる。そういえば観葉植物って匂いはないのかな。いや花が咲いてないなら当然か。
気が付けば椅子に背を預けていた。
「ひとつ気になったんですけど、りあむさんが選ばれてもよかったような」
「うーん、私は会議に出てませんから断言はできないんですけど、やっぱりプロデューサーさんの意向だと思いますよ。王道でないことに意味がある、みたいなこと言ってるそうです」
「……りあむさんを売り出すならわからなくもないですけど」
「とはいえちょっと歪んでると思いますよ、普通なら大チャンスなのに」
明らかにお仕事モードから雑談モードに入った慶さんは思い切り机に頬杖をついている。手のひらが遠慮なく頬の肉を押しつぶして、それを彼女はちっとも気にかけていない。心なしかトーンもレッスンルームで聞くものより一段下がって聞こえる。それは夕方に差し掛かるこの時間にマッチしているようにも思えた。あまり私の記憶にはない、放課後の教室でのひそひそ話みたいだ。
空気はもう一段落ち着いて、この流れだときっと帰るのも一緒になるだろう。駅までの短い間。下校と呼ぶにはまわりの風景が一般的なものより都会過ぎる、というよりはビル街と言ったほうが適切か、けれどこの際そんなことは気にしない。楽しめるのならちいさなことを気にしちゃいけない。
「そうそう、姉からの話ついでですけど、文香ちゃんの話も聞きましたよ、そのとき」
「なんか文香さんの話って誰かから聞くの貴重な気がしますね」
「いやー、見かけたこともないんで私はちょっと感覚あれですけど」
「え、慶さんレッスン受け持たれたことないんですか」
「ないですね。というかたぶんストップかけられてます」
意外な人物の名前が出てきたかと思えば展開も意外なものになってきた。たしかにこの棟で文香さんと出会ったことはないけど、それは全然あり得る範囲のことだ。セクションの壁というものはそれくらい厚い。だけど今の言い方を聞くにそういうレベルの話ではなさそうに思える。
「ストップ、ですか」
「もしかしたら私だけじゃないかもしれませんね、下手したら戒厳令みたいの出てますよ」
物騒に過ぎる。
「『あれは難しい。生きる姿勢として自分の感情にあまりに素直すぎる。私に言わせれば甘い毒のようなものだ』って言わせたんです、うちの姉にですよ?」
甘い毒。奇妙な言い回しだ。なにか微妙なものを含んだ表現なんだろうけど、それがわからないのでは私にとっては有用とは言えない。毒という言葉を使うのなら、きっと何かを蝕むのだろう。文香さんの生きる姿勢が影響を及ぼす範囲はどこ? それは私に対して進行している? いつかの幸子ちゃんからのLINE通知がふっと頭をかすめる。
慶さんが文香さんと接触を持っていないとすれば、そのイメージはおそらくファンの方々と近いはずだ。神出鬼没のシアターだけの歌姫。メディアへの露出は一切ないのに二枚のアルバムダウンロード数を伸ばし続ける怪物。試聴から口コミのループの中で育つ像に神性さえ見ている人もいるだろう。そしてその実態は水族館で見せたようなあの姿。シンプルに言えることは、ファンからの印象と私からの印象は、違う。
私はあの人をアイドルとして否定している。本人にそうと告げてさえいる。とはいえ会うことにストップをかけられるような人物かと聞かれればそこには疑問が残る。そこから可能性の高そうな答えを導くなら、まだ私に見せていない一面があるということだろうか。それにしても、毒?
「なんだかとんでもない話に聞こえますけど」
「ですよねぇ、でも真面目な顔で出てきた名前が冗談で使うものではないですから」
そう。それがいけない。真実味が増すというよりも真実になってしまう。だから考えなければならない。その毒が私に何らかの影響を、それが良いものか悪いものかは別にしても、及ぼすのなら対策を講じておく必要があるから。変わることは生きていくうえで避けられないし重要なことが多い。けれどそれが急だとなれば誰だって怖いものだ。だって自分が作り替えられていくなんて。
慶さんは口を閉じた。私も黙った。ぽんぽん弾ませる話題でもない。別に暗くなるとか空気が悪くなるとかそういうことではなくて、内容について考えながら話す必要があるのだ。
「ところで、そんなセリフが出てきたってことは麗さんも毒されかけたってことなんですか?」
「気が抜けなくなった、って言ってたんで一度はやられかけたんでしょうね」
「もし毒されるとどうなるんでしょうか」
「さあ? 言ってたことを総合すると感情に歯止めがきかなくなるのかもしれません」
慶さんから話を聞いているぶんにはその通りだろうという感想だ。でも、それじゃあ私はどうなるのだろう。私は一人であの人と会っている。それも一度や二度じゃない。もしかして、私はもう感情に歯止めをかけられなくなっているのだろうか。
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目が覚めてカーテンを開けると曇り空が広がっていた。雨はまだ降っていないけど、その予感のはらみ方は時間の問題だとでも言いたげだった。ちょっとでも雲をつつけば途端に振り出しそうなくらいだ。洗濯物は干せそうにない。
おなかが鳴った。昨日の夜に何も食べなかったから当然だ。食事を抜くのはよくないけれども、そうせざるを得なかった。私のメンタルはそんなに頑丈ではないのだ。
トーストを焼いてブルーベリージャムを塗る。淹れておいたカフェオレを一口すすってからトーストに歯を立てる。サクッと軽い音が立って誇張されているのかと思うくらいに小麦が香り立つ。冷えたジャムがおいしい。
今日は鏡の前で表情を作る練習をすると昨日の夜から決めていた。時間をかけて、ゆっくりと確認しながら。すこし懐かしくもある。役者を始めて、というよりは劇団に入ってからしばらくはそんな練習をしていたから。過去の積み重ねの影響は大きいもので、身に付けた能力もそうだけど精神のよりどころにもできる。練習始めたてのころはまさかこんな使い方ができるとは思いもしなかった。
練習を始めて、すぐに愕然とした。あんなに毎日のルーティンワークとしてこなしていたものがこんなにもうまくできなくなっているなんて。ちょっと想像を超えている。なにか歯車が狂っているような気がする。これが文香さんの影響だとでも?
言い訳になりそうにない適当な思い付きを頭から追い払ってため息をつく。なんとなく感覚から言ってこれを取り戻すには相当の努力が要りそうだ。
ピーチソーダが飲みたいな、とふと思った。