りあリズむ   作:箱女

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 あまり人の寄らないいつもの自販機に幸子ちゃんがいることが増えた。増えたというより初めてそこで会って以降、彼女の選択肢に入ったというくらいが正確だろう。不思議と幸子ちゃんと話をする機会はほとんど自販機の前に限られた。もちろん電話で親しく話すような間柄ではないことを考えると、撮影を見学させてもらったあの日は本当に特別だったのだ。たまにLINEでのやり取りをするようにはなったけれど、どちらかといえば儀礼的な面の強いものでしかなくて、人にとっての必要なコミュニケーションは、それは幸子ちゃんと仲良しの子の領分だ。おそらく私は、広い意味ではコミュニケーションと呼べるけれども友人間のものとは異なる微妙な領域に置かれているのだと思う。同じような年齢で仕事の話をできる相手はたしかに多くはないだろう。

 そこに置かれることに何かを思わないでもないけれど。

 私が飲んでいるのをきっかけに試してみたら意外と悪くなかったというスポーツドリンクを片手にその少女が立っている。実に実に奇妙な感覚だ。この日本で一番有名な十四歳に私が影響を与える。その現実が誰にも知られることなく、ただ私の目の前でだけかたちをとっている。霧深い森の奥で、一か所だけぽつんと光の当たる野原を見つけたみたいに。

 

「うーん、偏見でしたね。やはり偏見は大事です」

 

「え、偏見はよくないって話の流れでは?」

 

 スポーツドリンクは不当に否定されていたはずなのに。

 

「そんなこともないと思いますよ。誰だって第一印象は独断と偏見なわけですし」

 

「そうですけど、偏見が大事っていうのとつながるんですか?」

 

「ああ、そのこと。偏見はですねえ、修正できるから偏見なんです。もちろん頑固なのはいけません。うーん、あるものにある印象を持っていたとして、たとえばそれに直接触れたり誰かから話を聞いたりして、思ってたよりいいな、っていう風に意見が変わったりすることってあるじゃないですか。逆もですけど。それは文字通り偏っていた見方が修正されただけだってボクは思ってるんです。“こうなんじゃないか” って自分できちっと考えてないと見方を変えることすらできませんからね。その意味で偏見ってむしろ大事だとボクは思うんですよ」

 

 言葉の誤用というか順序に前後がある気はするけれど、その考え方は独特に成立しているように思えた。すくなくとも私には。

 すらすらとこんなセリフが出てくるほどに彼女にこのロジックを叩き込んだのは誰なんだろう。自然に考えれば幸子ちゃんのプロデューサーさんで間違いないはずだ。けれどもしそうだとしたら彼女をあまりにプロとして扱いすぎのように思える。この子は既に感情を捨てろと言えるまでに徹底してしまっている。戻れるのだろうか。

 

「幸子ちゃんのプロデューサーさんも指導に力が入ってるというか、すごいですね」

 

「おや、話に出したつもりはありませんでしたが……」

 

「今の偏見の考え方ってプロデューサーさんから教わったんじゃないんですか?」

 

「まさか。そんなタイプの人じゃありませんよ」

 

 初めて見るような、年齢相応の素直な笑顔が見える。

 “まさか” の言葉の温度が気にかかる。

 

「じゃあ自分ひとりでその考えに?」

 

「ええ、まあ、はい」

 

 なにかが微妙にかみ合っていない。話題の認識はお互いに一致しているけれど、ちいさな歯車がたぶんひとつずれている。私に見えていないそれが私を不安にする。彼女にはそれがただの不思議な言葉に聞こえている。偏見が大事だなんて言い切れる人はそういないことを幸子ちゃんも知っているだろう。小学校や中学校なら偏見はよくないことだと教えるに決まっている。高校では、まあそんな話はもうしない。だからなおさら不安が募る。常識をそのまま常識として理解した上で別の見地に立ち、そうして自分と同じ立場にいないことを彼女は咎めている。一言だって口に出してはいないけれど、確実に彼女は私を咎めている。

 特徴的なたれ目の奥で、脳が高速回転しているように見えた。

 

「……なるほど、前は役者さんでしたね、泰葉さん」

 

「あ、え?」

 

「どちらかといえば順番が違うんですよ。ボクたちって偏見に晒され続ける立場じゃないですか。イメージで語られるわけですから。それを修正できるということを知っておかなきゃダメってことなんです。だから大事、ね? 偏見は修正できるから大事だな、なんてそれだけじゃさすがに考えつきませんよ」

 

 圧倒されて、どれであっても口から出る言葉は情けないものになりそうだった。だから口を開かない。開けない。けれど代わりに何をすればいいのかもわからない。圧倒されたままの表情を残して幸子ちゃんの顔を見続ける。まさに芝居の言葉のとおりだ。客席も何もなく、ただ演じている。

 

「……ま、おっしゃりたいこともわかります。客観なんて本当は存在しませんしね。相手は把握しきれないほどの主観。難しい話です、本当に」

 

 どうして私を買いかぶる人がこれだけいるのだろう。私は何もわかっていないのに。そんな私を差し置いて話は進んでばっかりだ。幸子ちゃんも文香さんも、考えてみれば事務所も同じか。

 少し離れたガラスの向こうに見える外でさえも梅雨の時期に似つかわしい程度の色合いでしかなくて、それが私の気分をもうひとつ落ち込ませる。理解の及ばない空間をそう呼ぶことが許されるなら自販機の前はもはや異世界だ。想像だにしたことのない異形の深海魚が辺りを這うように泳いでいる。知らない圧の中で同じように生きていくことを要求してくる。岡崎泰葉にならそれが可能だとささやきながら。

 どうにかして息を吐いて、吸う。軽々に同調してはいけない議論だ。それこそ彼女の言葉を借りるなら、私への偏見を修正する必要がある。

 

「幸子ちゃんはどうしてこんなお話までしてくれるんですか?」

 

「泰葉さんはボクと似た部分があるような気がしたんですよ、なんとなくなんですが」

 

「……似てる?」

 

「あ、見た目とかタイプとかの話じゃないですよ? なんと言えばいいんでしょうか、やれることというか。えっと、耐えられる酸素濃度というか。伝わるかどうか正直微妙ですが」

 

 短い付き合いと言い切ってしまっていいけれど、彼女について学んだことがある。この子が比喩的に表現する事柄は、そうでなければ伝えることのできない種類のものなのだ。比喩的。ほんの一瞬、頭に痛みが走る。

 これほど私が答えを導けずに頭を悩ませていても、目の前の表情に悪意のようなものは見当たらない。考え込ませるためでも追い込むためでもなく、岡崎泰葉との会話にふさわしいと判断して話題にしているに過ぎない。ただ純粋に。

 けれど、と考える自分もいる。

 けれど、もしこの思考に追いつくことができたなら、私は輿水幸子の領域に足を踏み入れる条件を揃えることになるのではないか。

 いつか憧れた絶対的な個、それを思うさま受け入れさせることができるのではないか、と。

 

「たとえば幸子ちゃんが、アイドルとして気を付けているのはどんなことでしょうか」

 

「簡単ですよ。街中で声をかけられたら輿水幸子が応対するんです」

 

「……えっ」

 

「もちろん変装はします。ボクが素顔でお出かけなんてしたらそれこそ大変、大行列ですからね。でもそれはそれとして見つけてくれた人の目の前にいてあげるべきなんですよ、ボクは。まあ、握手とかそういうのはプロデューサーさんから厳しく言われているのでできませんけど」

 

「それは、なんというか、とても」

 

「はい! 喜んでくれますよ! なんといってもボクがカワイイですからね!」

 

 異世界では私の持っている常識は通用しないらしい。そういう空間に立っていることがわかった瞬間が、これほど怖いものだとは思ってもみなかった。私がどうにか作り上げてきた小さな秩序が世界の隅に追いやられていく。力の差は歴然だ。何度も何度も叩きつけられてきた現実が、私には本当に持ち物がないという動かせない現実が大きな顔をして座っている。そしてそのことを保証しているのは、この絶対的にカワイイ少女だった。

 膝が震える。でも引き下がれない。この世界から何かを持ち帰ると決めたのだ。たとえそれが大きなものではなかったとしても、それが私の持ち物になる。あるのとないのとじゃ、あるのがいいのに決まっている。すると幸子ちゃんが心底から嬉しそうに、まるで歌うように黒い塊を吐いた。

 

「泰葉さんもできますよ! 100%なればいいんです、アイドルに!」

 

 

 メモには冷蔵庫からなくなりかけていた野菜類と生活用品が書かれている。いつもの喫茶店のいつものカフェオレとはマッチしないけれど、出しておかないとならない。帰りにスーパーで買うものを確認しないといけないから。

 そういう建前の役割をメモは成していて、実際にはそんなことに頭は向かっていない。認めたくないと思っているということは、既にその何かにかたちを与えていることを意味している。それが次から次へ押し寄せてくるのを徒労と理解しつつ私は遠ざけようとしている。こんなことがあっていいのだろうか。テーブルに備え付けられている紙ナプキンを意味なく握り潰す。手から離れると同時に、それは不満げに広がろうとする。同じ言葉が頭の中で反響する。彼女はこう言ったのだ。岡崎泰葉は人間でなくなることができる、と。

 こんなことが、あっていいのだろうか。

 私がなんでもいいから持ち帰りたいと願ったものは、はたしてこれだったのだろうか。そうじゃなかったはずだ。それとも瞬間でさえ夢を見ることは許されないから?

 何かに火をつけたいような気分だった。できもしないことだけれど。

 

 

 

 

 

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