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目を覚ますと窓の外には雨が降っていた。昨日の晴れを疑いたくなるくらいの滝のような雨だ。ベランダの雨だれの音の間隔を凄まじい音が埋めている。うんざりしてため息が出てしまう。まだ高校は夏休みじゃないのに。これほど降るなら長靴を考えてもいいかもしれない。幸いなかなかいいデザインのものを先日見つけてはいる。……ただまあ、それでも替えの靴下の用意はしたほうがよさそうかな。
普段よりもけっこう時間を取って家を出ることにした。この雨だと何が起こるかわからないし、それにただでさえ湿気が鬱陶しい。誰だってそう考えるように、私だってこの時期のひどい雨の朝に混み合う車両に乗りたくはない。それに比べればちょっと遠いだけの端っこの車両に乗るだけで頭に来るような事態を避けることができるのだ。これはライフハック。時間に余裕を持てばそんな選択肢が生まれてくる。
雨音は電車の窓をも貫いている。奇妙な光景に映るのは雨滴が窓にないからだ。風がないのだ。でも雨に包まれている。私には不条理に見える。けれど現実に起きている以上、これは起こり得ることとしか言いようがない。シャワーなんかよりもよほど高密度の水滴が都心の空気を洗い流していく。
まだ小さなころ、 “雨の中、傘を差さずに踊る人間がいてもいい。自由とは、そういうことだ” という言葉を何かで聞いて、なるほどと納得したことがある。そうして雨の日を待った。できれば小雨ではなくしっかりと降ってほしいと思った記憶がある。小さな私の小さな願いは聞き届けられて、あまり日を待たずにそれなりの雨の日がやってきた。私は合羽も傘も持たずに庭に出て、ただむちゃくちゃに手と足を動かした。それまで体験したことのなかった雨粒は予想を超えて大きく、新鮮な感動を肌に与えた。くすぐったくて、それが止まない。そのときの私にはそれが際限なく面白かった。あまりにも不確かな自由というものの体感の興奮と合わさって、それの終わりは考えられなくなっていた。折悪しくどころか狙って親が出かけているときを選んだせいで、誰からも止められることもなく私の無茶は続いた。
それがどう終わったのかを憶えてはいないけれど、そのあとで酷い風邪を引いた。熱も四十度を少し超えて、年齢を考えれば死んでいても不思議はなかったとしばらくしてから聞いた。まあ、当たり前だ。小さな子供がずっと雨に打たれていたのならそうなるに決まっている。熱が下がって物事をきちんと考えられるようになったそのとき、私は初めて自分におかしなものを感じた。
こういうことを思い出すから、私はあまり雨が好きじゃない。
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私の勝手なイメージが世間のそれと同じものだとは思わないけれど、意外と鷺沢文香という人は事務所に用事があるらしい。用事がなければ事務所に来ない私と鉢合わせすることが多いことがその根拠。自分で言っててため息をつきたくもなるけど、これもまあ、現実だ。
「どうされたのですか」
「いえ、文香さんと事務所でよくお会いするな、と」
小さくまるく口を開けて、絵に書いたようなきょとんとした顔をしている。彼女の表情パターンはたぶん一般の想像を超えて多いと思う。アイドルとして人前に出るときにそれを極端に見せないというだけで。
ついで口元を手で隠して、実に奥ゆかしい仕草だ、笑っている。細まる目と軽く揺れる肩でそれとわかる。私からすると面白い要素はなかったけれど、まあ、彼女を理解しようと思っても詮無い話だ。ゆっくりと目が開き、ゆっくりと腕が下りる。なんだかスローモーションの動画を見ているような気がしてくる。やさしく首を傾げて微笑む。
「私は泰葉さんを探していますから。事務所に来たときはいつも」
「なんでまた。そういうのは私相手じゃないでしょう」
「ご存じかとは思いますが、私には、あまり、いえ、友達と呼べる人がいません」
たしかに想像には難くない。そもそも売り出し方の段階で人前に出てこないのだから、アイドルたちも接点を持ちにくいに違いない。おそらくそのままで成果が上がってしまっているから余計に近づけなくなったといったところもあるのだろう。とはいえそれを気にするような人物には思えない。失礼だけど。
視線を私から外して焦点を遠くに当てて、また視線を私に戻す。こういったことを自然な動作に組み込んでいるから彼女は会話のペースを自分のものとして扱う。これを誰かに話しても、何をバカな、と言われるかもしれないけど、実際に体験しないと理解はできないと思う。そういう簡単には言語化できないものが世界には意外とある。それは自覚的かどうかでさえ問題にしないタイプの事柄なのだ。
「……私を除いて、ですか?」
「会話が進めやすくて助かります。頭の回転の早さとは本当に貴重な財産ですね」
「はあ。私はあなたにアイドルとしてのあなたが嫌いだと言ったんですよ? 初対面で」
「だからですよ。それはとても大事な意味を持っています」
よほどの大物か、そうでないなら論理の破綻だ。どちらにせよまともじゃない。頭の奥のほうが鈍く痛んでいる気がする。
文香さんは冗談を言う。真面目な話もする。それだけ見ればたしかに友人同士の会話で間違いはない。でも私には彼女がそのどちらを選択したかを見抜くことができない。条件が不利すぎる。
「私が他人に誇れるものなど書とともに過ごした時間くらいしかありません。ですが、そういった時間に浸かっているとわかってくることがあります。この世のほとんどは偽物の煌きによって構成されているということが。そして本当にいいものを見抜く力を持っている人間は驚くほど少ないということが。プロデューサーさんも、もちろん私も多数派です。誰しもが騙されます。少数派の意見は封殺されます。私は私を偽物だろうと思っていますがそれすら推測でしかありません。ですが泰葉さんはそうではありませんでした、確信をもって私のことを否定してくれた人ですから。私はあなたと出会ったあの日から、あなたと仲良くなれると本気で思っているんです」
苛立たしいのは言葉にしていないものを読ませようとしてくるところだ。水族館のときもそう。あのときは読み取れなかったけれど。そしてさらに私の感情の揺らぎに拍車をかけているのはその内容だ。その不安は私たちならみんなが持っているはずのもの。たとえ脳裏をかすめても見ないように蓋をしているもの。私たちが必死にレッスンを重ね、トレーニングを積む理由。
「……私にあるのは目だけ、ですか」
「私は先の文脈で言う本物ではありません。泰葉さんも同じです。根本的なものが欠けています」
「っ、それは?」
「100万人を愛せないことです。私はそれを隠していないだけで」
不特定多数に愛を注げないから、好き勝手に振舞う。シアターの出演予定に名前を出さず、顔を出しても歌わないことだって珍しくない。やりすぎじゃないのか。何がどうなってそれが許されているのかはわからないけど、私はそれを間違っていると思う。的外れなのかもしれないけど、でもそれじゃあファンが報われない。
「どうして、そんなことがあなたに」
「映画俳優が役に没入することと私たちを念頭に置くことは、同時に成立しないからです」
自分の弱点を隠そうともしない人がよく知っているものだ。あの世界にいたときに何度も何度も違う言い方で教わってきたことを思い出す。スクリーンは境界線であり、一方通行の別世界の覗き窓なのだと。
「エンターテインメントでもない限り、役に入っている映画俳優はこちらの世界にコネクトできません。それは言い方を変えれば観客という存在を意識に置けないということです。ほら、誰も愛せません。私と瓜二つです」
流麗に紡ぐ言葉は彼女のイメージをはるか遠くに置き去りにしていた。本当は普段からこれくらい口数が多いのかもしれないけど、それを確かめることはできない。彼女が自分で言ったように友人が一人もいないのなら。
でも、彼女は何が言いたいのだろう。私を偽物と断じてどうするのだろう。ただ否定したいだけというのも筋が通らない。何せまだ成果らしい成果はひとつもないし、そもそも鷺沢文香の嫉妬する対象が私というのは冗談としても出来が悪い。
「それなら映画俳優はみんなが似ていると言ってもいいような気がしますが」
「そうかもしれませんが、そこからアイドルになったのは泰葉さんひとりです」
この人は私と喧嘩がしたいのだろうか。正直なところ私は鷺沢文香という人物がまだよくわからないけれど、そういったことを楽しむタイプだとは思えない。もしかしたら想像を超えて破綻した人格を抱えている可能性もあるのかもしれない。でもそれよりはこの話の運び方の末に別の意図を見ようとするほうが建設的だと思う。
たぶんいま大事なことは映画俳優の世界からアイドルの世界に飛び込んできたのは私だけ、ということだ。それがアイドルとしての致命的な欠点につながっているということだ。あえてそのことに触れているなら、もしかしてその欠点の修正について教えたいのではないだろうか?
「まあ、たしかにそうですけど。でもそれならその確認にどんな意味が?」
「お誘いしているのです。ファンと向かい合おうとするのを諦めましょうと」
「……は?」
「同じ目線に立てる、と言い換えたほうがよいでしょうか。彼らのことを愛せないなら無理やりに愛そうとしてはいけません。いっそ愚かなものとして見てはいかがでしょうか。途端に愛らしく見えてきますよ」
破綻していた。そうだ、何を勘違いしていたんだろう。この人がそんなものを知っているわけがない。知っていても教えてくれるわけがない。自身で実行していないんだから。
「さっき文香さんは本物なんてほとんどいないとおっしゃっていましたが、今のアイドルはみんなファンを愛せないと?」
「……度合い、いえ自己催眠の強度の問題でしょう。その中で泰葉さんが特異だという話です。先ほど私は私に見る目がないと言っているので眉唾物の話になってしまうのが残念ですが」
「じゃあ、幸子ちゃんはどう説明するんですか。私にはあの子が偽物だとはとても思えない。あの子ほどファンを見ているアイドルはいないと言い切ってもいいじゃないですか」
私は、いま、たぶん混乱している。どうして幸子ちゃんの話を出したのか、そこからどのように話を運んでいくつもりなのかを自分で理解できていない。けれど、この瞬間に何かが潰されようとしているのだ。そのことについてだけ頭が追い付いて、無意識下の防衛本能のようなものが勝手に働いているのだと思う。
「幸子さん、素晴らしい方です。ファン心理というものを本当によく心得ていらっしゃる。彼女に人気が出るのは理由のないことではありません」
「…………っ」
「世界中が多数派なのですからそこに照準を合わせればいい。論理的で合理的です。おそらくではありますが、幸子さんも私たちと同じなのでしょうね。選択が違ったというだけで」
ぎちぎちと何かが軋むような音が聞こえる。ここはどこだろう。ここは何かがおかしい。そうだ、今の話はただ聞いただけのものに過ぎないのだから聞き流せばいい。信じなければいい。文香さんは違うモノなのだ。信じないとならない理由はどこにもない。変えろ、話を。
「……本物は、いないんですか」
「そうですね、……夢見りあむさんという方をご存じでしょうか」
「え、ええまあ、知っています」
「とても、とても面白い方です。ファンへの愛という地平に立っていません。私たちとは根本的な物の見え方が違っているはずです。どのような道を歩まれてきたのか想像もつきません」
それはまるで恋するような恍惚とした表情で、あまりにも場にそぐわないもので、私は吐き気を催した。この人は、本当に破綻している。あらゆる基準が自身に依拠しすぎている。そんなことが現実にあり得るのかを考えてはいけない。そこにあるものを現実と呼ばないのは逃避でしかないのだから。慶さんが対面での接触を禁じられていると言っていた理由はきっとこれだ。私がたまたまめぐり合わせで今日までこの状態の文香さんと話したことがなかっただけで、彼女と二人で話をしていたらおかしくなる人は出るだろう。過去にはいたのかもしれない。
ふと、この人はりあむさんと知り合いなのだろうかという考えが浮かんだ。発言としてはどちらとも取れるものだけど、名前が挙がるという点を見れば知り合いであっても不自然はない。りあむさんが文香さんのファンであることは知っている。そこで止まるならそれでいい。けれど、もしも個人的な付き合いがあるのだとしたら。
とりあえずその確認はりあむさんにしたほうがよさそうだ。この人にしてはいけない気がする。
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「あ、もしもしりあむさんですか」
「ええと、ちょっとお聞きしたいことがありまして」
「あっ、そんな重たい話じゃなくて。単に文香さんとお知り合いなのかな、って」
「……あー、そうなんですか。いえ今日たまたま文香さんと話す機会があって、それでりあむさんの名前が出てきたので」
「はい。それだけですよ」
「あはは、いいですよ。レッスンの愚痴くらい」
どうやらイヤな予感は当たってしまったらしい。さて、でも参ったな。できることがない。