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走れば、酸素を脳に回す余裕をなくせば何かを考えなくて済む。答えの出ない問題に頭を悩ませるよりも体を動かしたほうが今の私には有用なのだ。だから走る。ダンスの振付やステップの復習は頭も働かせる必要があるから、その隙間から考えたくないものが忍び込んでくることがある。歌の練習は考える余裕をなくせるけど場所の問題があるのが惜しい。年末のステージに出ると聞いてしまってからは余計にその思いは強い。でもそんなに簡単にはいかない。当然ではあるけれど、人気のあるアイドルが収録や練習のためにその部屋を使うから。私たちのユニットが出るというのが公開情報になっていれば事情は違うのかもしれないけど、そうでないのだから実にならない話だ。
レッスン用の棟にルームランナー専用の部屋があって本当に助かっている。一人になれる。きっとストイックなアイドルが要望を出したか、そうじゃなかったら設計段階で私みたいな人間が出ることを想定した変な人がいたんだろう。………この事務所ってことを考えると意外じゃないと思えるのは私も染まってきているからだろうか。
息が上がって何かがせり上がってくるような危機感の中をそれでも走り続けると、仄白い世界に出たような気分がしてくる。目に映る景色はそれまで見えていたものとまったく変わりはないし、肉体的にまずい状態に陥っているわけでもない。ただ気分が変わるだけ。もちろんこういう感覚を誰かに話したりはしない。どのみち言わないほうがいいのに決まっている。そうすれば変な誤解は生まれない。
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事務所から帰るときにはいくつかルートがあって、私はよく中庭を通って帰る。実物を見たことがない人は東京都心の会社の中庭なんて狭そうだと思うだろう。だけど実際は散策ができるしカフェテーブルでお茶もできる。ちょっとした規模の公園くらいはあるのだ。日なたで読書をしていたり走り回ったりしているアイドルはよく見るし、聞いた話だとガーデニングをしているアイドルもいるらしい。
いつものように今日もとくに何も考えずに中庭を通って帰ろうとして、その途中のベンチに人が座っているのに気が付いた。私も休むことがあるベンチだ。とても姿勢がいいとは言えない、だらっとした感じで座って遠くを見ている。何かあったのだろうか。失礼と思う前に目がいって、それが慶さんだとすぐにわかった。自然と足が向いていた。
「どうされたんですか?」
「ああ、泰葉ちゃん。いやあ、まあその、ヘコんでると言いますか」
ばつが悪いのと照れくさいのが混じったような反応のせいで本当っぽさが増す。さて、話を聞いたほうがいいものか。人によっては放っておいてほしいだろうし、聞いてもらったほうが落ち着くパターンもある。難しいところだけど、慶さんならそっとしてほしいのならそう言うだろう。だから私は隣に座ることを選択した。
「どうして、っておそらくお仕事の関係とは思いますけど」
「あのー、今日ですね、見学ってことで姉が担当してるレッスンを見に行ったんです」
「どなたのレッスンだったんですか?」
何の気もない質問だ。儀礼的どころかそんな意識さえ浮かばないほどのもの。ドアが開いたら通れるようになるでしょう、なんてわざわざ誰も言わないのと同じことだ。
「輿水幸子ちゃんですよ」
ただドアの向こうに怪物がいただけのことだ。
「本当に凄かった。だって幸子ちゃんなんて私なんかよりずっとギチギチのスケジュールで頑張ってるのに、その合間にしか入れられないレッスンの集中力とは思えませんでした」
「でも幸子ちゃんはアイドルですし、言い方はよくないですけど慶さんはあまり気にしなくても」
「あ、そこは大丈夫ですよ、私もそこまで勘違いしてません。ショックを受けたのは姉のやり方というか立ち振る舞いというか、………信頼のかたちというか」
だんだんと力がなくなっていくのを見ると最後が想像以上に衝撃的だったんだろう。名前は出ていないけれど、幸子ちゃんのレッスンを担当していたらしい話の流れからして麗さんのことなんだと思う。そうは言っても私と面識のある人じゃない。ハイクラスのアイドルをさらに指導できる数少ない人であり、またハイクラスのアイドルでなければその指導についていくことができないと聞いている。つまりりあむさんが指導ではないにせよ特別メニューを組んでもらっているのはものすごく異例なことだ。
「その信頼のかたちというのは?」
「えっと、せいぜいが振付の細かい修正とか通しでの動きの確認かなって思ってたんです。ほら、年末のライブの。でもいざ時間になってみると振付師の方まで来てて、曲ごとのバランス考えて振付の変更まで三人で相談しながら進めてたんです。もちろん幸子ちゃんも意見を出しながら」
そんな姿をイメージするのに難しいことは何もない。まあ、やりそうだな、くらいに思う。
「修正入れて、軽く踊ってみて、向きを考えたら違うんじゃないかとか別の提案とかがずっと止まらなくて、正直キツいこと言ってるシーンもけっこうあったんですけど、それがおかしくなくて。完璧でした。顔つきはすごく真剣なんですけど、シルエットはすっごくかわいいんです」
「100%、ってやつですね」
「それです。全力でぶつかればいいものが生まれるっていう確信があっちにはあったんです」
言うのは簡単だけど、のいい例だと思う。能力と人格のどちらにも全幅の信頼を置くのは簡単なことじゃない。恥ずかしい話、私にそんな相手はいない。友達とはまた違う領分なのだ。そういう人物がそばにいることもそうだし、自分がその対象になれるということが、どれだけ。
トレーナーという立場を思うとき、慶さんが歯嚙みをするのは当然だ。私の想像力では、その信頼のかたちは最後の到達点だ。そんなものが身近にあるなら憧れないはずがない。真面目であればあるほどに。
「私、甘いんでしょうかね」
「………麗さんと比べてしまうとほとんどの人はそれを否定できません。でも、その甘さが必要になるときが必ずあります。幸子ちゃんにはいらないかもしれません。私もどうだかわかりません。でもミスしたときに次頑張りましょうって慶さんに言ってもらって立ち直るアイドルは絶対にいると思います」
私は人生経験が豊かなわけじゃないから、場面に応じた適切な言葉なんて出てくることのほうが少ない。だから少なくとも嘘は言わないようにしている。私は人間をバカにしていない。こういうときの間に合わせの言葉は意外なほど見抜かれるものだ。正直が一番だと断言はできないけれど、思ってもいないことを今ここで口にするのはきっと間違っている。
私の言葉がちょっとでもクッションになればいいと思う。
「ありがとうございます。ヘコんでる場合じゃないだろう、一足飛びどころか数段飛ばしの憧れだぞってわかってるつもりなんですけどね、でも、いいなあ。うらやましい」
これ以上言えることなんて何もない。似たような気持ちは私にもわかるから。
それから十分くらいのあいだ、私はただ慶さんの隣にいた。やけに中庭の若い緑色が強調されているような感じがした。これからどんどん色を濃くしていくんだろう。もしかしたらすでに出来上がった色なのかもしれないけれど、おしゃれに刈り込まれた生垣だから事情はよくわからない。
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自販機前の異世界に足を向けたのは、諦めの混じった確信に近い読みからだ。幸子ちゃんは私と顔を合わせるときのいつもの感じであそこに立っているだろう。さすがに何を飲んでいるかまでは当てられないけど。この敷地内の建物にしては妙に光の少ない、私たち以外の人の姿を見たことのない自販機前。
はたして彼女はそこにいた。壁に背を預けた立ち姿が様になっている。輿水幸子の場合、様になるという言葉にはカワイイという意味が常に含まれている。常識に照らし合わせて考えれば、そのポーズと性質はあまり両立しそうには思えないけど、自分の目に映るものを否定してはいけない。そうするとまた別の、それももっと根本的なものを否定しなければいけなくなる。
「おや、泰葉さん。こんにちは」
「こんにちは、幸子ちゃん。今日は事務所に用事ですか?」
「いえ、大事なレッスンでした。やはりこういう日がないといけませんね」
「どういうことでしょう?」
「いくらボクがカワイイと言ったって人間ですからね、きちっと締めるところは締めないと油断がどうしたって出るってことです。パーフェクトに詰めないとファンの方に失礼ですから」
幸子ちゃんにおける標準的な表情からは誇張表現は読み取れない。真剣にそう思っている。そしてそれを実行する。それがどれだけ難しいことか。ただ彼女はそれを難しいことと捉えていない。なぜなら輿水幸子は100%のアイドルだから。そんな感情は捨ててしまったのだ。
「さすが、というかいっそ怖いくらいです」
「そうでしょうか? 普通だと思いますけど」
くぴり、とペットボトルを傾ける。いつかのピーチソーダだ。
「口にはできても、みたいな感じじゃないかと」
「そこはボクにはわかりませんね。まあ、タイプが違うということなんでしょう」
機械かと毒づきたくなるほど模範的で、徹底的で、疑いの余地がない。私たちはステージの上の彼女を見てきているし、その姿に完璧な輿水幸子というアイドルをいつだって一致させている。
そうでなければ “100%、アイドルになればいい” なんて間違っても出てこない。
場所そのものの意味を思い出して私はようやく財布を手に取った。何を買おうかと考えるのさえ面倒に思えて、ミネラルウォーターをさっさと選ぶ。考えてみれば走ったあとにスポーツドリンクを飲んでいたからこの選択は正解だ。糖の取りすぎはいけない。
相も変わらず幸子ちゃんはちびちびとしかピーチソーダを飲まなかった。どれくらいここにいるのだろう? そのペースだと炭酸が抜けてしまいそうに思えた。
「………レッスン。やっぱりレッスンですよねえ」
「幸子ちゃん?」
「いえ、泰葉さんとお話をしてあらためて振り返ると、基盤がそこにあるんだなって」
「………積み重ね」
「まさにそれです。望む姿を手に入れるのは大変ですね」
彼女には彼女なりの苦労があるのだと思うと、途端に幸子ちゃんに人間味を感じた。私はいつも失礼なことばかりを思う。誰もが同じくらいに失礼なことばかり考えているなら気が楽になるけれど、まさか他人の頭の中を覗いてみるわけにもいかない。
私から視線を外して遠くを見つめる目は、絵になるけれどアイドル輿水幸子のものではなかった。それを見せてくれているのは私も同じ仕事をしているからかもしれないし、あるいは友達と思ってくれているからかもしれない。
「幸子ちゃんにとって、アイドルって何ですか?」
つい、口をついて出てしまった。
「求められることそのものです」
「求められること?」
「ボクたちはファンの方々がいてくれることで存在しています。デビュー直後の時期を除けばファンのいないアイドルはあり得ません。厳しい話だとは思いますが」
きっぱりと言い切る。この年下の先輩はどれだけ多くのものを見てきたのだろう。
「でも、そういう関係であるからこそボクたちはファンを大事にしますし、それを受けてみなさんはボクたちを求めてくれるんです。相互補完の関係と言えるかはちょっと疑問ですけどね」
「………相互、補完」
「思い切り夢のない言い方をしてしまえば、ファンとボクとで成立する状況です。環境と言い換えてもいい。見方によっては観客参加型の演劇とさえ呼べるかもしれません。この考え方を極端だと言う人を否定はしません。ただボクにとって、アイドルとはそういうものです」
ぞっとするのは、その内容が文香さんの考えと通ずる部分があることだった。血の通わぬ論理。そこにはまだ議論の余地があるように思えるけれど、私の中にそのためのスペースはない。見る行為と見られる行為のシステム化。水族館。
魚は、いつ死ぬ?
「あ、あの、幸子ちゃんがいつも言ってる100%っていうのは」
「そうです。どうせなら、っていうと言葉が軽すぎますけど、見てもらうなら完璧なボクでないといけない理由はそこにあるんです。99%じゃダメなんです。たとえファンの方々がそれでいいって言ってもダメです。なぜならボクはアイドルで、輿水幸子という状況だからです」
この先を私はもう聞きたくない。あの人の言っていたとおりだ。幸子ちゃんも文香さんと同じ壊れ方をしている。取った手段が違うだけだ。
薄暗い辺りを自販機の明かりがわずかに照らしている。ぶううん、と日常では聞こえないはずの作動音がよく聞こえる。異世界の底をグロテスクな深海魚がまた低く低く泳いでいる。
「ボクはですね、泰葉さん。お尻のお肉が垂れたら死ぬつもりでいるんです」