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事務所のディスカッションスペース、背の高いカフェテーブルが置いてある場所だ、がいくつもあって助かった。もしも難しい顔をした私がそこを占領していたとしたら文句が出ただろう。名前も顔も知らない新人がいい気なものだと言われたかもしれない。実際にそうなるかどうかは別にして、今の私はそう思いたくなるほどに酷い顔をしているはずだ。壁をにらむように背中を思い切り見せるのはちょっと不自然だからできないけれど、できるだけ顔を見せないほうを向く。何食わぬ顔で悩める人はいるのかもしれないけれど、私はそうではないということだ。私が内心をきっちり隠せるのはスクリーンの向こうに限られていたから。
右の手のひらが右頬を思い切り押しつぶす。歯の並びがあることが感じ取れる。肘にテーブルの固い感触が残る。今はこの立って頬杖をついた姿勢からすこしも動きたくない。ストローがあったら行儀悪く使ってしまいそうだ。
家にいたらたぶん後悔するようなことをしてたと思うし、たとえば街に出かけても落ち着かないに違いない。だから事務所は最後の選択肢なのだ。そう、言葉としては避難に近い。
どうしたものか。文香さんと幸子ちゃん。無視できる相手とは思えない。けれど選べと言われて選べるものじゃないのが頭の痛いところ。一方はファンをファンとして見るなと言えばもう片方はアイドルの岡崎泰葉のために私人としての岡崎泰葉を捨てろと言う。言葉にしてみるとなおさら酷い。私の見たところ、共通しているのはアイドルになることに意味を見出していない点だ。馬鹿げてる。ため息だって出るというものだ。
こつ、こつ。知らず頬杖をついていない左手の指がテーブルを叩く。苛立っている。ただそれを認識したところで解決がつかない。だから余計に苛立ちが募る。鼻息が妙に熱いような気がする。
「お、どうしたっスか泰葉ちゃん。あんまりご機嫌には見えないっスけど」
「比奈さん」
にゅっと音が聞こえる感じの登場に私は驚いた。気だるくテーブルにかけていた体重が一気にふつうに立っている状態の体重のかけ方まで戻される。実際のポーズは別にして。
そのまま猫みたいにするするテーブルの向こうに回り込んだかと思えば、あの特徴的なふにゃっとした笑顔が私を迎える。私が先にいたはずなのに迎えられるとはこれいかに、という感じもするけどそう思ってしまうのは止めようがない。
「ささ、こういうときには話しちゃったほうがラクってね。アタシじゃ頼りないかもっスけど」
「え、私そんなに顔に出てましたか?」
「ある程度の推測に基づいた勘っス。よほど腹に据えかねる事情があるなら知り合いのいる可能性の高い事務所は避けるでしょうし、ここにはいるけどでも顔は見られたくない、そんな気分なら、ね?」
慕う人が多いのにあらためて納得する。ただ優しいというよりは力のある優しさなのだ。ちょっとだけ強引であってもそれに手を引かれることに心地よさがある。ぎゅっと抱きしめられるのに近い感覚。
「参りました。ええとですね、まあ、アイドル論みたいなものを聞く機会がありまして……」
言ってて歯切れの悪さにびっくりする。比奈さんはちっとも急かさずにただ聞いてくれている。頷いたり、それで、みたいなことを言ったりもしない。
「それが私に合っている、っておっしゃってるんですけど私にはわからなくて」
「注目株でスねえ、泰葉ちゃん」
笑顔の質が変わらなくてがっかりしかけるけど、比奈さんは私が投げられた地獄なんか知らないのだから当然だと踏みとどまる。善意に対して常に正しく返すべきだとまでは言わないけれど、今に限っては礼を失してはいけない。美しいまでの比率の思いやり。そこにこそ私たちは安心するのだから。
自分をなだめるためにひとつ呼吸をおいて初めて表情に気が回った。やっと眉間のしわを取る。笑うまではいかなくても人と話をするときに適した表情までもっていかないと。
「あれ、思ったより重めな話題っスか」
「お恥ずかしながら。何が正解かわからなくなってしまって」
「……あ、もしかして泰葉ちゃんって人から影響受けやすいタイプだったり?」
短いあいだ顎に手をやって、はじけるように顔が上がる。大正解だ。ちいさな頃からの悪癖で、子役として活動できた一因でもある。元気よく肯定はしたくないけれど、ここで嘘をついては前に進めない。控えめに首を縦に振る。
「なるほど。泰葉ちゃん真面目っスもんね」
どう答えていいかわからない。流れとしてはあまり褒められたものではないのだろう。でも私はそれ以外の生き方をほとんど知らない。業界にはスタイルというものがあるし、そういうものは将来を決定づけることが多い。いくつも例を見てきた。極端な例さえ。
意識しないうちに後頭部に手をやっていたことに気付いてやりきれなさを自覚する。テーブルの上には何も置いていない。そんなところにじっと視線を落としているのだからよっぽどだ。
「どんな話を聞いたかわからないっスけど、泰葉ちゃんはもうちょっとテキトーでもいいんじゃないかなって思うっス。価値がありそうなら聞いたそれを試してみて、やってダメなら別のやり方に変えてみるくらいでちょうどいいのかもって」
「でも」
「アイドル論ってことだから、……まあ、信念みたいなものと仮定しましょうか。たしかに信念を持つのは大事なことかもしれません。でも変な話、泰葉ちゃんがそれを身につけるのはまだ早いっス」
言われてみれば、あの二人のそれは信念と呼んでもおかしくないものだ。
「成功も失敗も、もちろん成功が多いほうがいいに決まってまスけど、どっちも経験が足りない。そういうのを積み重ねてちょっとずつ自分の中で形成していくものを信念と呼ぶとアタシは思ってまス。だって積み重ねがなかったら、泰葉ちゃん?」
「……根拠がないから、簡単に崩れる」
「アタシもそう思いまス。どんなヘンテコな信念でもバックボーンが存在してさえいれば説得力を持つっていうのは、まあ創作の論理でもありまスけど」
「私はまだ、何も決めなくていい」
ほとんど機械的に、少なくとも私自身は何らかの思考を経た自覚もなく言葉をこぼしていた。まるで言い聞かせるように。それは言葉にすることであらためて私に浸透していく。
たしかに私は他人の言葉に影響を受けやすいのかもしれない。そうでなければこんなにすぐに安心したりはしないはずだ。そして私は、やっとテーブルから目を上げて比奈さんの顔を見る。
「そりゃもう」
こういった内容を、時には考え込む仕草を挟んだりはしたけれど、やわらかい表情のままで話し通してくれたことに感謝しないとならない。実際に新しい不安を与えることなく私を救い出すことに成功しているのだから。
頭にかかっていた霧が完全に晴れたとはまだ思わないけれど、深海の匂いはしない。耳鳴りみたいな呼び声も聞こえない。自分の手に決定権があると自信をもって言えるのはいつぶりだろう。まさかアイドルになろうと決めた日以来?
「どうして私はこのことに気付けなかったんでしょうか」
「真面目で責任感が強すぎたからっスね」
ため息が出る。なんという自意識過剰か。ここが事務所でなかったらテーブルに突っ伏しているところだ。額に手をやることが控えめな感情表現になるとは思ってもみなかった。言われれば思い当たる節なんかいくらでも出てくる。たしかになんだって自分ひとりでやろうとしてきた。
「……恥ずかしいです」
「まあこれも失敗のひとつってことで。でも覚えておいてほしいっス。泰葉ちゃんのそばにはいつだって誰かがいるっス。まず第一にプロデューサーさんがいまスし、アタシでもいい。なんならりあむちゃんだって。大変なときは頼りましょう。泰葉ちゃんに頼られたとなったらみんな黙ってらんないっス」
額に当てた手が下ろせない。視界が滲んでいる。このまま顔を上げるなんて、とても。
何分そのままでいただろう。比奈さんは私の肩を軽く叩いて行ってしまった。額の手をキープするために腕に力が入りっぱなしで、前腕がガチガチになっている。ほとんど悪い夢から醒めたような気分だ。そこから抜け出すために通った道は私には強烈だった。自分の行動のひとつひとつを撮った写真を一枚ずつ眺めさせられているような心持がした。比奈さんは知らず知らずのうちにその写真館で私の手を引いていたのだ。あるいは私の腕はその影響を受けた結果ガチガチになっているのかもしれない。
その腕の凝りをほぐすためにあくせくしている私の姿はおそらく奇妙に映っただろう。でもそんなことは今はどうでもいい。とにかくあの悪い夢たちから私は醒めたのだ。
そうした安心感のせいでできた心の隙間にふわっと疑問が滑り込んできた。
どうしてあの悪い夢はあれだけ私を魅了したのだろう?