☆
私は目を閉じて、ゆっくりと深く呼吸する。いつも体を支配するのは倦怠感と熱。滲む汗と強い脈動を連れてくるのはサーキットトレーニングだ。私たちに要求されるのは持久力と回復力。それらを鍛え上げるのはとても地味で面白くない積み重ねで、きっと、外面的な華やかさからは想像以上に離れている。通ぶった人たちが、彼女たちも努力を重ねているんだよ、と言うかもしれない。でもその人たちはステージ上で一時間を過ごすということがどういうことなのかを知らない。私たちに要求されるのは、まずもって持久力と回復力であることの意味をあの人たちは知らない。
落ち着いてきた息を、さらに意識して遠くに届けるように吐いて吸う。血流の熱さがいつの間にか鳴りを潜めて、そうして初めて私の目を開ける準備が整う。タオルを取って肌を拭う。あらためて意識にあがる空気の温度に段階を踏んで慣れていく。私の感覚でいえば、運動というのは別の世界にアクセスすることだ。意識の何割かを手放す行為。だからこの世界に戻ってくるのにも手順が必要になる。とはいえその手順にミスがあったところで意識を取りこぼすみたいなことがあるわけではないけれど。
顔に押し当てていたタオルを離して気になっていたほうに目をやると、そこではまだ彼女がランニングマシンの上で走っていた。というか私のトレーニング中に泣き言は始まっていたはずなのに、まだそれを続けながら走っている。体力とか根性がすごくあるのかな……、それとも早くからサボろうとしていただけ?
「りあむちゃん、気になりますか?」
「慶さん。ええ、まあ……」
トレーニングパートナーがにこにこしながら隣に立っている。夢見りあむというアイドルが気になるかと聞かれたらそれは頷くしかない。彼女本人にも言ったように、その存在はすでに異例の存在だから。奇抜な髪色に二通りの意味で目が離せないスタイル、人目を引く要素はたしかにじゅうぶんだけど、それだけじゃこの事務所では戦い切れない。つまり何かが彼女には備わっている。実際に私もほんの少しだけ話をして、それの片鱗のようなものに触れた気がしていた。なんとなく、面白い。
どう説明すればいいのかわからないから、慶さんの問いにぼんやりと答える。きっと慶さんはこちらがそういう困り方をしていることに気付いている。だって彼女はそれほど鈍くないし、さっきの笑顔に意地悪なものがわずかに差してきている。そのいたずらっぽさがふっと消えて慶さんは助け舟を出すように口を開いた。
「まあ、不思議な子ですよね」
「噂には聞いてましたけど、実際には今日初めてお会いしました」
「同い年にこう言ってしまうのもあれですけど、いろいろと未完成なのでそこが逆に期待させるというか、トレーナーとしてもわくわくするというか」
「えっ、りあむさんと同い年なんですか」
「19歳なんていちばんふわっとした年代じゃないですかぁ」
自然なため息とセットになって慶さんはつぶやいた。もしかしたら似たような話を何度もしているのかもしれない。何せここはアイドルが毎日絶えることなくやってくる空間だ。大人っぽい女の子もいれば、その逆の子ももちろんいる。
「りあむさんって体力に自信があるタイプなんですか?」
「ああ、あれはですね、姉が本気でプログラム組んだんです。手の抜けない体力測定をやって、そこから事細かに計算して。なんでもメンタルに問題があるからって彼女のプロデューサーさんから依頼されたそうですよ」
「それは、なんというか」
「ふふ、私から見ても絶対にやりたくないですよ。それに不定期に視察に来ることにもなっているので、まあサボれませんね」
不定期、ね。視線を斜め上に持っていくと天井があった。当然だ。
慶さんと話しているあいだも彼女は助けを求める声を上げ続けていて、それはむしろ余計な体力の消費になりそうに思えた。メンタルに問題があるという評価らしいけど、自分から勝手に走るのをやめていないところを見ると、サボれない理由があるとはいえ真面目ではあるんじゃないだろうか。もしもそうなら、それは好感が持てるポイントだと思う。
とりあえず私はこの偶然を幸運だと捉えることにした。具合のいいことに今日はこのあとに用事があるわけでもない。もしりあむさんの都合が合うなら話を聞いてみたい。なにか面白いことが聞けるような気がする。きっと。慶さんの言い方だとすぐに終わりそうには思えないし、それじゃあ先にシャワー浴びて待ってみようかな。
☆
事務所のビルから出て五分ほど歩いたところに私がよくお世話になる喫茶店がある。この仕事を始める前から利用していて、移籍することでむしろ通いやすくなったお店。私のお気に入りはカプチーノで、日によっては甘いものをプラスすることもある。職業柄そんなに好き勝手にできないのが残念だけど。
目の前の彼女はどうにも落ち着かないようで、メニューを見たり内装に目をやったりと忙しく顔を動かしている。単にこういう雰囲気が苦手なのかもしれないし、あるいは会ったばかりの私と静かな空間でコーヒーを楽しむといった状況に追い付けてないのかもしれない。考えてみればそこで余裕を持って対応できるひとのほうが少ないはずで、そんな当たり前のことに気を回せなかったのは反省点だ。でももうすでに私とりあむさんがテーブルを挟んで向かい合っているのは完成された事実で、まさかなかったことにはできない。だから話を始めてみよう。
「あ、あの、ち、違くて、ぼくのそれは研究熱心とかじゃなくて、ただのアイドルオタクで、それも地下アイドルがメインで……」
怖い話を聞いたかのようにぶるぶると首を横に振って彼女は否定した。ピンク色の髪が揺れてインナーカラーのビビッドな水色が強くその存在を主張してくる。対照的に言葉は次第にごにょごにょと濁っていく。そんなにノーを表明したくなるような質問だっただろうかと自分で振り返ってみて、そうでもないだろうと結論する。そしてもう一度、このひとは真面目な性格をしているんだと確認する。適当に話に合わせて、勉強のためにいろんなアイドルを調べたりしているとか言っておけば無難な話題だったのに。
彼女は目を泳がせながら場を乗り切るための笑顔を顔に貼り付けている。誘ってみたときもそうだし、来る途中で話してもそうだったからもう確信があるのだけど、りあむさんは緊張しいだ。それもかなりの。
「あの、りあむさん、そんなに緊張しなくて大丈夫ですよ。わたし年下ですし」
「ひえっ、やややっぱぼくのしゃべり方キモいよね、ですよね……」
「そういうことじゃなくて、りあむさんと友達になりたいわけですから、私は」
「へ? トモダチ?」
私は頷く。
「ぼくと、泰葉ちゃんが?」
もう一度。
「……えっ、こんな光栄に浴していいの? ぼくだよ?」
あまり日常では聞かないワードチョイスだなあ。それに私はまだ成功しているとはとても言えないから、そこもちょっと違和感だ。
りあむさんの顔はさっきと違って今度は嬉しさが隠し切れないものになっている。わかりやすいことこの上ないけど、でも嘘をついていないのだとしたらどこに喜ぶところがあるんだろう。まあ、わからないなら聞くしかないか。
「別に私、まだそんなに有名じゃないと思いますけど」
「そっ、そんなことない! ぼく泰葉ちゃんが役者さんのころからのファンで!」
なるほど、そっちから。とはいえそれでも岡崎泰葉の名前を知ってる人は多くないはず。
「……出演してたの映画に限ってたのによく知ってましたね」
「ぼくね、高一の夏まで映画観るのが趣味だったんだ」
本当に表情がころころ変わる。さっきは嬉しそうにしてたかと思えば今は懐かしむような儚い笑顔が浮かんでいて、思わず息を呑みそうになる。もちろんこれは私の感じ方だから実際の彼女の心情は違うのかもしれない。けれどまあ、控えめに言って綺麗だというのは共通するんじゃないかと思う。ほとんど特権的なものだ。
そんな彼女に前からファンだったと言われるのは悪くない気分だった。
「その年代にしては割と大人な趣味ですよね」
「あー……、そうかも。周りには一人しか同じ趣味の子いなかったよ」
「どんな系統の観てたんですか?」
「雑食だったよ。とりあえず週末は映画館行って目についたもの観て、って感じ。昔のやつは借りてお家で」
「けっこう気合入ってますね」
「うん、そうなのかな。受験勉強のときに制限かけたくらいで、あとは没頭してたから」
緊張が解けるとこういう話し方になるんだ。ちょっと意外かもしれない。失礼な話だけど、もっとぶっ飛んだタイプかと思っていた。社内、というより私たちのあいだで流れる噂からはどうやらちょっと外れるらしい。私個人の印象では年齢に比べて多少は幼い感じはするけど、それは個性の範囲に問題なく収まる程度のものでしかない。むしろ彼女のルックスから考えればプラスに働くに違いない。
懐かしむような目がもう一度メニューに落ちた。ニット帽にメガネと顔の印象を潰すような格好だけど、やはり妙に人目を引くのは消しきれないらしい。メニュー、と頭のなかで繰り返して思い出す。そういえばまだ注文をしていなかった。私はいつものようにカプチーノを、りあむさんはブレンドを頼むことにした。
「ところで、どうして映画観るのやめちゃったんですか?」
「あ、ちょ、ちょっとあって……。あはは……」
もしかしたらおかわりを注文することになるかもしれない。