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慶さんは私の問いにノーと答えた。彼女は後ろからぐいぐいと私の背中を押している。少しの痛みのなかで呼吸を続ける。ウォーミングアップとしてでもなくクールダウンとしての柔軟体操でもなく、体を柔らかくすることを目的とした柔軟。何か月もかけて少しずつ達成されていくそれは、毎日の成果としてではなく、ふとある日に振り返って効果を実感する類のものだ。初めは指先がつま先に届く程度だったものが、いつの間にか指の関節でつかめるようになっている。股関節とはこんなに開くものだっただろうかと思う日が訪れる。もしかしたら小学生のときの身体の成長に似ているのかもしれない。なんとなく、だけど。
「うん、そうですね、自分がステージに立とうと思ったことはやっぱりないです」
「変な話ですけど私たちってすくなくとも最初は誰もが習う立場ですし、そうなると技術的に上の慶さんたちが前に出ないのって不思議な気がするっていうか……」
私を後ろから押してくる力がわずかに弱まる。きっと私を納得させるようにきちんと考えてくれているんだと思う。
「たぶん誤解させちゃうような言い方になるんですけど、泰葉ちゃんたちって例外的存在なんだと思うんですよね」
「例外的存在?」
「誰でも人の前に立つのはできると思うんです。でもその場所に立つべき、あるいは立ってほしいと願われるのってとても特別に見えるんですよね、私からすると」
彼女から伝わる力に呼吸を合わせる。上から押しつぶされるのではなく前へと伸びていく感覚。息を吐く。肺から空気をなくして、そうしてやっと空気を取り込む。順番を間違えてはいけない。肺にある空気とは吐くためにある。そのために深く吸い込む。そしてまた息を吐ききる。仮に普段の人間の生活にとってはそうでないのだとしても、この瞬間の優先順位は決まっている。
私は慶さんの次の言葉を待っている。レッスンルームのすこし離れたところでは、スマホの録画機能でダンスの動きを確認しているアイドルたちがいる。複数人でのダンスは迫力と華があるぶん、きちんと見栄えをさせないと印象がぼやけてしまう。私にとってもそれは努力項目にあたる。
「アイドルなんていったらたぶん多くの女の子は憧れたんじゃないですか? お花屋さんとかケーキ屋さんとか、お姫様とかそういうのとおんなじくらいに」
たしかにそんな感じの話は小さいころによく聞いたかも。
「でもですね、自分がそれを望まれているわけじゃないってどこかでわかっちゃうんですよ。そしてそのことを自然と受け入れている自分を見つけるんです。その瞬間から夢っていう言葉の色合いが変わるんです」
「……私もまだそれほど自信を持っているわけでは」
「あー、違うんです違うんです、やっぱりそう聞こえちゃいますよね。言いたいことはそっちじゃなくて、むしろだからこそ人の前に立っていてほしいってことなんです」
私の背中に加わる力は一定で、つまり予想の範囲内の返答だったということだ。たぶん似たような話を何度かしているんじゃないかな。私が疑問に思ったようなことを他の誰も思いつかないなんてことはあり得ないし、慶さんはふとした疑問を投げかけやすいタイプの方だから。
「それはたとえば、代わりに、とかそういう意味でしょうか」
「あー、そんな感じですかね。かつての自分の夢を乗せてもらうみたいな」
「……考えたこともありませんでした」
これは本音も本音。いままでの人生は勝ち取ってこその世界で、私以外の人は敵とはいかないまでも競争相手とかそういった存在だったから。そんな考え方をしてきた自分がよくもまあ慶さんの言葉の意味を推測できたものだと感心さえする。同時に頭が固かったことを痛感もする。言われてみれば納得の考え方だ。別のたとえをするならプロスポーツ選手を応援する心理に近い、のかな。高校球児だった人が何かの条件、それは出身地とかプレイスタイルなんかに類するものだ、に合った選手に入れ込むように。
なんだか自分の人生経験の狭さが浮き彫りになるようで多少傷つくけれど、人と話をすることの価値がこの事務所に来てからだいぶ上がっている実感がある。誰もが違う道を歩んできて、そして違う考え方や感じ方を手に入れている。だから誰もが私にないものを持っていて、話をするたびに私はそれを学ぶことができる。私はまだまだ未完成ということだ。アイドルどうこうという以前に、人間として。
息を吐いて、少しの痛みとともに体を伸ばす。
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予感にはよくある自分自身にとってさえ半信半疑のものと、確信とそれほど変わらないものの二種類がある。今回の場合は後者だ。そして確信に近い予感というものは、私の経験則によると悪い予感に限られる。
曲がり角の向こうから、その予感が滲んだ。都心のオフィス街にあるそれなりに新しいビルの、ガラス張りの外壁の曲がり角。どの社屋も単純な直方体のかたちをしてはいないから、そのガラスから望める景色も単純な街並みということもない。私がいま差し掛かっているそこは日中にはしっかり日の当たる位置にある。隅には観葉植物が置いてあって、それがビル街の景色の印象をかすかに和らげている。私たちの事務所は大きいから、いつどこに誰がいるかなんてわかりようがない。そのせいで鉢合わせという事態が起きやすいのだ。
距離で考えればするはずのない、というより嗅ぎ取れるはずのない甘い匂いにも似た漠然とした雰囲気。それが届くことで確信めいた予感が100%に変わる。そしてそのことに気付いたときにはもう遅い。不思議なことにそれに包まれると立ち去るという選択肢がなくなってしまう。思い出してみればあの人と初めて出会ったときも同じだった。もちろんそのときは近づいてはいけないなんて思いもしなかったけど。
うつむきがちな姿勢のせいで、彼女の頭と足がほぼ同時に角からのぞく。塗りたくったような黒々とした髪に病院のように白い肌、鼻の半ばまでを覆う前髪の奥に神のいたずらとしか思えない色をした青い瞳が順に姿を見せる。あごが小さいせいで少し長く見える細い首がゆっくりと現れる。それらが形づくる彼女の印象は、どこか、昏い。
走って逃げてしまえばよかったのに。けれど私の身体はぴしりと固まる。青い眸子が私を捉えて角を曲がり、まっすぐこちらへ歩いてくる。そして物理的な力を持って絡みついてくるような、
気が
遠くなる
魔性の
香り。
「泰葉さん、おはようございます」
「……はい、おはようございます」
「実はちょうど打ち合わせが終わったところなのですが、もしお時間に余裕があれば、どこか落ち着ける場所でお話などいかがでしょう」
彼女は私の返答を知っている。私が断らないことを知っている。その証拠に、つぼみがほころぶように控えめな笑みがじんわりと彼女の顔に広がっていった。ストールを揺らしながら歩いていくその後ろを、私は何も言えずについていく。いつもなら誰かしらのアイドルが使っている談話室がたまたま空いていた。
「最近はどのようにお過ごしですか」
「変わりありません。ユニットのみんなとのレッスンもそうですし、個人でも重点的に鍛えるべきところをいくつも抱えてます」
私の言葉が終わる前から文香さんは不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。その表情の意味を私は察することができない。なにか根本的な部分でのずれがありそうな気がするくらいで、そのずれが具体的にどういうものなのかも説明できない。はっきりと口にできることといえば、鷺沢文香という人は、アイドルとしても実体としても
「……文香さんのほうはいかがですか」
「私はいつも通りでしょうか。大学の合間に歌のレッスンを受けて、ときおりシアターのほうに顔を出すといった具合です。……あ」
目が細まり、口角が上がる。
「ひとつ面白いお願いをされていますね、いま」
「面白いお願い?」
「泰葉さん相手ですし話してしまってもいいかと個人的には思いますが、とはいえ秘密裏の依頼に違いありませんので伏せることにします」
「どうして私相手なら、なんておっしゃるんですか?」
たぶん私は本気の怪訝な表情を浮かべているだろう。いちばん慣れた、表情を作るという行為が今の私にはできない。姿勢までは完璧に制御できているのに。
「……あなたが私と違うから、と言えばよいのでしょうか。そうは言っても一部のことではありますから非常に難しいところですが」
「いまひとつ要領を得ませんね」
「泰葉さんが私のように飽きもせず小説ばかり読み漁っていない、と言い換えても構いません」
質問に対する回答になっていない。真面目に答えるつもりなんてないということだろう。いつの間にか戻してあった彼女の表情からは冗談を言いそうな雰囲気なんてとても読み取れないけれど、現実として返ってきたのは空虚な言葉。つまりは誤魔化そうとしているのだ。ここの会話は私たち二人だけのものなのだから、そうすることに何の意味もありはしないのに。
彼女は胸元あたりの高さまで両手を上げて、そうしてそれらを逡巡させてから下ろした。まるで何かを説明しようとして諦めたみたいだ。でも私に言わせれば順番が違う。説明ができないのなら初めからその動作をするべきで、なにかを口にしたあとではちぐはぐな行動になってしまう。彼女は下ろした手をただ見つめている。
「語ることができないことについては、沈黙するしかない」
「……は?」
「ウィトゲンシュタインの言葉です。話題を変えましょうか」
こういうところだ。
「そうですね、……そう、ああ、マリモを飼い始めたんです、私」
「え、あ、はあ、マリモですか」
「癒しなどは私にはよくわかりませんが、ふっと書から目を上げた瞬間にかたちを変えないものがあるというのは落ち着くものがありますよ。錨のように私をつなぎ留めてくれます」
私は文香さんから投げかけられた視線を受けて、ただ頷きを返すことしかできなかった。意外も意外なのだ。たしかに言われればピンとくる。というより、個人的な意見としてはそれより似合うペットはいないとさえ思えるくらいだ。マリモをペットと呼ぶかはまた別の問題として。けれど私の中で、それがたとえマリモを部屋に置くといっただけのことであってさえ、彼女と能動的にアクションを起こすということは一致しない。
ハンドバッグからスマートフォンを出して、先週に撮ったというマリモの写真を見せてくれた。水槽は切り取られた空間のように、いかにも無造作に木製のテーブルに置かれていた。そこには緑色の小さなふんわりした球体が、中の砂利の上に転がっている。見せてもらうまでとくにマリモに対する感情を持ってはいなかったけれど、写真越しとはいえ見てみるとかわいいと素直に思えた。自分の部屋に置きたいとまで思うほどではないけど、わざわざ言うこともないか。
「泰葉さんのお部屋にもいかがでしょう。きっと好みに合うと思いますよ」
「ええ、まあ、今度考えてみます」
この人、小説以外にも勧められるものがあったんだ。ってこれはいくらなんでも失礼か。あまりにも普段の印象が強すぎて、どうやら私の中でイメージの固定化が起きていたらしい。私たちはそういうものを避けていかなければならないのに。その意味ではやはり彼女も私たちと同じなんだ、と奇妙なところで安堵する。
「私は物臭ですし、よく家事の上でもするべきことを忘れてしまうくらいなので、たまに水を換えるだけでいいマリモは相性がよくて」
「それ、私の好みに合いそうって言ったあとに言います?」
「……あ、そういうつもりでは」
そのあとは実りのない雑談を続けて、文香さんのスマートフォンがメッセージを受け取ったところでお開きとなった。