まほうつかいのおしごと!   作:未銘

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2000年~2014年
#001 将棋が結ぶ縁


 もしも生まれ変わったら。なんて益体もない妄想に囚われた経験が、誰しも一度や二度はあるだろう。子供の頃、もっと頑張っていれば。あの時、別の選択をしていれば。無意味と理解はしていても、そうした願望を捨てきれないのが人間だ。

 

 彼もまた、昔に戻れたら、と後ろ髪を引かれる事が度々あった。

 

 その時に思い浮かべるのは、いつだって将棋の事だ。小学六年から始めた将棋は、幸い才能があったらしく、大学卒業を前にプロ棋士の肩書きを与えられるほど。しかし、だからこそ、もっと早くに将棋と出会えたならばと、後悔の澱が胸の奥に溜まっていた。とはいえ所詮は戯言に過ぎず、己の未練がましさを鼻で笑うしかなかった。

 

 ――――――実際に生まれ変わってみるまでは。

 

 いつ死んだのか、なぜ死んだのか。そんな事は記憶の片隅にすら残っていなかったけれど、ベビーベッドから母親を見上げる赤子は、当然のように自身の前世というものを認識していた。そこに混乱がなかったと言えば嘘になるが、現状を受け入れてしまえば、彼の興味はあっさりと将棋に移ってしまった。彼は将棋バカと呼ばれる人種なのだ。

 

 今生では御影(みかげ) (みなと)と名付けられた彼の将棋人生は、少なくとも初めて将棋を指すところまでは順調だったと言えるだろう。前世で培った将棋知識はなんら欠ける事なく残っていたし、自分が指した棋譜だって細部に到るまで思い出せた。脳内将棋盤でかつての将棋人生をなぞってみれば、これが同じ人間かと驚くほどに新たな妙手が思い浮かび、何手先でも見通せそうなほど読みが冴える。未だ両親と自宅の中しか知らぬ身であっても、その目に映る未来は明るく感じられた。

 

 初めて実物の将棋に触れられたのは、三歳の誕生日でもある元旦のこと。新年の挨拶に赴いた祖父の家には、随分と立派な将棋盤が置いてあった。無邪気を装って興味を示せば、祖父は嬉しげに反応する。話の流れでルールを教わり、今生での初対局に臨んだ彼は――――――、

 

 その日の夜に、プロ棋士の道を諦めた。

 

 昼の対局は勝利を収めたし、祖父には才能があると喜ばれた。そこだけを切り取れば想定通りの結果であったが、問題は対局内容で、それを指した彼自身だ。どうにも自分の頭が可笑しくなっていると、何度か繰り返した対局の末に、彼は認めざるを得なかった。

 

 端的に言ってしまえば、異常としか言えない能力が備わっている。

 

 一つは将棋の棋譜がわかる能力。自分が望む条件に見合ったあらゆる棋譜が、瞬時に頭に浮かぶのだ。対局中なら勝利に繋がる無数の手順が思い浮かぶし、より優勢で勝ちやすい手順がどれかも把握できてしまう。およそ人間では処理しきれない情報のはずだが、何故か理解できるのだ。

 

 一つは相手の読みがわかる能力。現在の盤面に対して、相手の考えている読み筋が読めるというもの。無意識レベルすら読めてしまう上に、それらのどれを重視し、どれを軽視しているのかまで伝わってくるのだから、将棋限定の読心能力と呼んでも差し支えないだろう。

 

 およそ神の戯れとしか思えない超能力の類で、どちらか一つでも強力に過ぎるのに、合わされば無敵と言っても過言ではない。相手の構想に合わせて、最も勝ちやすい手順を選ぶだけ。自分では何も考えずとも、異能に従って棋譜を並べれば、それだけで勝利は約束される。

 

 思索も探求もないそれは、はたして将棋と呼べるのか。違うだろうと、彼は否定する。これが幼子の妄想であればよかったのだが、検証を重ねるほどに、ただ確信が深まるばかり。

 

 故にプロ棋士の道は諦めた。勝負の世界に、楽しい未来を見出せなかったから。

 

 

 ■

 

 

 御影湊として生を受け、八年。肉体的には健やかに成長し、地元の小学校にも通い始めた彼は、将棋の対局が日課となっていた。将棋道場『ことひら』。資産家の祖父が道楽で経営するそこが、放課後の彼の居場所だった。

 

 プロ棋士になるつもりはないが、だからといって将棋をやめるつもりもない。半ば意地で将棋を指し、連勝記録を伸ばす度に、己の将棋を嫌悪する。対局を意識するだけで頭の中に浮かぶ必勝の道筋は、なんとも余計なお世話だが、わざと勝ちを譲るのも違うだろう。

 

 懊悩する湊に道を示したのは、何気ない祖父の一言だった。

 

 ――――――最近強くなったと言われたが、お前と指しとるお陰かな。

 

 誇らしげな呟きに、ふと気付く。自分の将棋にばかり気を取られていたが、思い返してみれば、たしかに祖父は棋力を上げていた。もちろん昨日今日の話ではなく、対局を重ねる度に、徐々に。将棋指しとしては至って普通の事なのだが、この時の湊にとっては目から鱗の事実だった。

 

 己の将棋は退屈で、そこに価値を見出せない。だが相手の将棋は違うのだと、そんな当たり前の事を見落としていた。自分との対局を経て、相手の将棋が成長するのなら、そこには価値も意義もあるだろう。であれば、己が目指すべき道となり得るのではなかろうか。

 

 想像してみると、それはとても楽しい事のように感じられた。

 

 相手が見落とした手はわかる。読み間違えた手もわかる。勝利に必要な手も、わかってしまう。だがどうすればその人が成長できるのかは、わからない。自分が指した手に、伝える言葉に、何を見出すのかは相手次第だ。

 

 だからこそ、好奇心を掻き立てられる。普通の人には見えない世界が見えるなら、普通とは違う事を教えられるだろう。その先に相手が辿るのは、はたして如何なる道なのか。霧の彼方に潜んだ数多の可能性が、沈んでいた湊の心を湧き立たせる。

 

 それからの対局は新鮮だった。道場の常連に対局をねだっては、相手の棋力や棋風を読み解き、課題や伸びしろを考える。時に助言し、時に対局し、相手の成長を促した。けれど人間は複雑で、まるで思い通りにいってくれない。それでも手探りながらに経験を重ねれば、徐々に辿るべき道が見えてくるから面白い。

 

 若先生と呼ばれ始めたのは、いつからか。道場内で負け知らずという事もあったが、指導対局と思ってあれこれ口を出す内に、常連の間では若先生の呼び名が定着していた。やたらと強い子供の噂を聞いて訪ねてくる客も現れ始め、その日の出会いも、そういう手合いの一つだった。

 

「こんにちは。君が噂の『若先生』でいいのかな?」

「はい、こんにちは。たしかに常連の皆さんにはそう呼ばれています」

 

 将棋道場『ことひら』には、日中、誰も座らない席がある。広い空間の中で入り口の対角に位置するその席は、放課後になると訪れる湊の指定席だ。かつては彼を座敷童と呼び、ひっきりなしに対局を挑んできた常連客たちも、最近は様子を窺うようになっている。それは何か将棋の研究を始めたらしい彼への気遣いでもあったし、強過ぎる彼の相手を席主が選別し始めたためでもある。

 

 だからこそ、自分に話し掛けても横槍がない目の前の人物は、それなりに名の知られた存在だと湊は判断した。性別は男性で、学生ではないだろうが、三十を超えているとも思えない。柔和で端正な顔立ちは印象に残りそうなものだが、生憎と湊に心当たりはなかった。

 

「一局いいかな? 前に指した人から話を聞いて、ずっと気になっていたんだ」

「かまいませんよ。今日は他に約束している方も居ませんから」

 

 駒落ちなしの平手戦。持ち時間は十分。振り駒で先後を決め、どちらともなく頭を下げる。

 

「それじゃ、よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

 

 湊の7六歩から始まった一局は、二十手を数える頃には居飛車の相矢倉が形を成し始めていた。居飛車の矢倉は人気の戦法で、この道場でも好んで指す者は少なくない。つまり湊にとっても対局経験の多い盤面であり、故にこそ相手の際立った実力を感じ取れた。

 

 相手が盤面に向ける読みの幅、深さ、速さ。いずれも今生で対局した相手の中では飛び抜けている事を、湊の能力は正確に読み取っていた。プロか、あるいはアマのタイトル保持者か。どちらの可能性もあり得る程度には優れた指し手だ。事実として激しい叩き合いに移った局面においても、未だ目立ったミスは見られない。

 

 とはいえ結果は決まっている。いかに優れた指し手であろうと、あらゆる盤面を読み切る湊の優位は崩れない。終盤を迎えてほどなく、男は自らの金を動かした直後に唸った。

 

「……この手じゃ届かないか。負けました」

 

 悔しげに頭を下げた男だったが、再び上げられた顔は晴れやかだった。

 

「凄いな君は。正直に言うと勝つ自信はあったんだが、うまく凌がれてしまったよ。あ、自己紹介がまだだったね。僕の名前は夜叉神(やしゃじん) 天祐(たかひろ)。よろしくね」

「僕は御影湊です。夜叉神さんも見事な腕前でした。今までで一番強かったと思います」

「そう言ってもらえると助かるよ。この前のアマ名人戦では準優勝だったからね」

 

 やはり、と得心する湊の前で、天祐は時計を見て嘆息した。

 

「じっくり感想戦といきたいところだけど、これ以上は奥さんに怒られそうだ。今日はありがとう。また明日も来ていいかな? もっと君と対局したいんだ」

「こちらこそありがとうございました。もちろんいいですよ。同じ時間に待っています」

 

 天祐は嬉しそうに礼を告げ、将棋道場を去っていった。すぐに常連たちが湊の傍に寄ってきて、口々に祝福の言葉を掛けてくる。それらに応対する一方で、湊が考えるのは天祐のこと。彼ほどの実力者は初めてで、対局を通してどのような成長を見せるのか興味が尽きなかった。

 

 

 ■

 

 

 約束通り翌日にやってきて二敗目を喫した天祐だが、その後も週に一度は『ことひら』を訪れ、湊と将棋を指すようになっていた。彼は実直かつ穏やかな性格で、一回り以上も年下の少年に負け続きというのに、不貞腐れる事なく、むしろ湊の強さを称賛するほどだ。

 

 だからか、二人の対局が研究会の様相を呈するのに時間は掛からなかった。次こそはアマ名人にと意気込む天祐と、実力者がどのような成長を見せるのか興味があった湊。利害の一致もあれば性格の相性もよく、彼らは年の離れた友人関係を築いていた。

 

 出会ってから一年、もはや『ことひら』の常連として数えられている天祐は、この日も夕暮れ時にやってきた。応対した席主が小さく声を上げると、興味を引かれた客が目をやり、同じように反応する。チラチラと視線を向けられる天祐は照れ臭そうで、けれど誇らしげでもあった。

 

 やや足早に近付いてくる友人に向け、湊は笑って話し掛けた。

 

「記念対局での勝利、おめでとうございます」

「ありがとう。角落ちとはいえ名人に勝てたのは、湊くんのお陰だよ」

 

 個人で出られるアマチュア将棋大会には大小様々なものが存在しており、中でも有力な六大会の一つが、一年前、天祐が決勝で敗れた『全日本アマチュア将棋名人戦』だ。この大会の優勝者は通称『アマ名人』と呼ばれる他、プロの名人との記念対局が行われる。

 

 先月、前回大会の雪辱を果たしてアマ名人となった天祐は、数日前にあった記念対局でも勝利を収めたのだ。常連として天祐を知る『ことひら』は大いに盛り上がり、今もワクワクと二人の様子を窺っている。ただ湊と話があるからと天祐が頼めば、周囲の客は離れてくれた。そうして対面に座った天祐の畏まった様子に、湊は首を傾げる。この一年で、初めて見る顔だ。

 

「プロ棋士になるつもりはないかと、前に尋ねた事があっただろう?」

「ええ、はい。興味がないというのは、今でも変わりませんよ」

「それでいいと思うよ。君の道は、君自身で選ぶべきだ」

 

 息継ぎ。天祐の目線は、珍しく辺りを彷徨っている。

 

「ただ正直に言うと、あの時の僕は残念だった。君ほどの才能がプロの世界で磨かれれば、どこまで強くなるのかと期待していたんだ」

「すみません。どうにも真剣勝負の空気が肌に合わなくて」

「いや、責めたいわけじゃなくて――――ようやく、君の答えに納得できたんだ」

 

 戸惑いがちに告げる天祐の態度が、どうにも湊の居心地を悪くする。彼としては今更に過ぎるというか、掘り下げても楽しくない話題なのだが、天祐の様子を見ると話を遮るのも憚られた。

 

「記念対局で戦った月光(つきみつ)名人は、角落ちでも強かった。これがトッププロかと納得させられるほど強くて、勝てたのは少なからず運が味方してくれたからだ。だからこそ、わかる。湊くんは名人よりも強い。角落ちでも二枚落ちでも、運が味方しようとも、本気で勝ちにきた君には勝てない。君が勝ち負けにこだわらないのは、その必要がないからだろう?」

 

 一息に言い切った天祐に、湊は嘆息で応えた。

 

「っと、勝手に盛り上がってすまない。僕の推測に過ぎないのに」

「かまいませんよ、的外れというわけでないですし」

「……それでも、君は将棋が好きなんだね」

 

 零れた声音は穏やかだ。そこで会話の空気が変わり、互いの口元に笑みが浮かぶ。

 

 湊の将棋好きを疑わないのは、一年の付き合いがあればこそ。幾度となく重ねた対局に嘘はなく、出し合った意見も本物だ。

 

「人に教えるのが好き――――というより、どうやればその人の棋力が成長するのか、考えるのが好きなんですよ。将来の夢は最強の棋士を育てる事、なんてどうでしょう?」

「それはいいね。娘が棋士になりたいと言ったら、君に任せるのも面白そうだ」

「もうすぐ二歳でしたっけ。随分と気が早くないですか」

「将棋を学ぶのに早過ぎる事はないさ。もうすぐ駒の動かし方を覚えそうなんだ」

 

 親馬鹿という言葉がピッタリな天祐の表情に、これは長くなるなと察した湊。周りに助けを求めてみても、近くに他の客は居ない。肩を落とした彼は、留まる事のない娘自慢に耳を傾けた。

 

 

 ■

 

 

 湊と天祐の関係は途切れる事なく、気付けば出会って七年目。当初は小学三年生だった湊も、今では中学三年生だ。天祐の方は仕事や家庭で時間を取られる事柄が多くなり、近頃は月に一度だけ『ことひら』を訪れるくらいの頻度に落ち着いている。

 

 だから湊がその事実に気付いたのは、馴染み客の呟きを聞いてからだった。

 

 ――――――そういや最近、夜叉神の奴を見ねえな。

 

 思い返してみれば、最後に天祐が訪れたのは三ヶ月ほど前の事だ。とはいえ娘が小学校に入学したばかりと聞いていたし、忙しいのだろうかと大して気にしなかった。

 

 流石に無視できぬと焦燥感を覚えたのは、更に三ヶ月が過ぎた頃のこと。とはいえ困ったのは、湊と天祐の間に確実な連絡手段がない事だ。定期的に『ことひら』で会えるからと、お互い気にしていなかった事が仇となった。必要ないと、湊が携帯を持たなかったのも一因だろう。

 

 とはいえ緊急事態かどうかもわからないし、言ってしまえば将棋を指すだけの間柄だ。情報が手に入ったら教えてくれと、知り合いに頼む以上の事はできなかった。それも天祐の生活圏が離れていた所為か、なかなか進展しない状況だ。

 

 結局、湊まで情報が伝わったのは、更に半年後のこと。天祐が『交通事故で亡くなって』から、一年余りの時間が過ぎていた。


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