まほうつかいのおしごと!   作:未銘

10 / 24
#010 背負うもの

 マイナビ女子オープン予備予選、あるいはチャレンジマッチとも呼ばれる大会は、七月の上旬に開催された。アマチュアから四十四人、女流棋士から十二人が参加し、八月に控える一斉予選への切符を奪い合ったこの大会で、天衣は難なく全勝通過を決めた。

 

 これを受けた周囲は史上最年少記録だと騒ぎ立てたが、当の本人は冷めたものだった。

 

 棋士を目指す者たちが鎬を削り合い、日々将棋の腕を磨く奨励会。その下部組織に相当するものとして研修会がある。奨励会に入れるレベルではないものの、将来有望な少年少女を拾い上げるための機関だが、現在はそれに加え、女流棋士の養成機関も兼ねている。

 

 この研修会は奨励会と異なり、段級ではなくアルファベットで会員の棋力を表す。

 

 一番上から『A1』『A2』『B1』『B2』と続いて、一番下が『F2』となる十二段階だ。この内、女性ならC1に昇級すれば女流棋士となる資格を得られる。また十五歳以下なら、A2に昇級するだけで奨励会6級に編入する事も可能だ。

 

 そして小学生名人の棋力は、おおよそ奨励会6級程度と言われている。すなわち研修会基準ならA2程度と見做せるわけであり、並以下の女流棋士と比べれば、格上と言っても相違ない。

 

 つまりは天衣にとって、予備予選突破は既定路線。史上最年少と騒がれようとも、彼女の心には波風一つ立たなかった。愛想が悪いと湊に叱られた時は、多少拗ねてしまったかもしれないが。

 

 そんな彼女が、今、猛烈な緊張を強いられている。

 

 目前に迫った一斉予選の件ではない。その後に控えた、年に一度の奨励会試験に関わる案件だ。小学生名人となって実力を証明した天衣は、今年の試験を受験する事を決意した。6級受験なので不安はないが、奨励会に入るという事は『あの約束』を果たすという事だ。

 

 月光会長との角落ち対局。かつて父が挑み、勝ち取った栄誉に挑戦する。

 

 場所は関西将棋会館の四階にある水無瀬の間。普段は公式戦の対局場として使われる部屋だが、空いている時は貸室として利用できるそこを、わざわざ湊が予約してくれた。

 

 将棋盤、駒台、座布団、対局時計。本格的に道具を揃え、さらには記録係を湊が務める。万全に整えられた対局室そのものであり、それだけで背筋が伸びそうなものだが、何よりも。

 

 対面に座した相手の、肌を刺すような威圧感。張り詰めた空気が、心胆を寒からしめる。

 

 名人は、棋士にとって神にも等しい。将棋界のタイトルは全部で七つあるが、中でも別格なのが名人と竜王だ。タイトル戦の序列こそ竜王に一位を譲るが、伝統や権威で名人に及ぶものはなく、名人こそ最高のタイトルと考える棋士は多い。

 

 月光聖市十七世名人。未だ現役のため襲位こそしていないが、それは名人位を通算五期以上獲得した事を示す称号だ。棋士なら誰もが憧れる偉業の達成者が、天衣と対峙する人物だった。

 

 天上人だ。小学生名人などという肩書きが、吹けば飛ぶほどの。

 

 前に『ことひら』で会った時とは異なる、棋士としての姿なのか。あるいは天衣が、場の空気に呑まれているだけなのか。対面の月光会長が、彼女にはとても大きく感じられた。

 

「時間になりましたので、上手の月光先生からお願いします」

 

 淡々と告げる湊の声が、どこか遠い。喉がひりつくのを意識して、唾を飲み込む。情けないほど緊張していると自覚しつつ、相手と呼吸を合わせて礼を交わす。

 

「「よろしくお願いします」」

 

 絞り出せたのは、かすれた声。上げた視界に映るのは、涼やかな顔。

 

「6二銀」

 

 盲目とは思えないほど滑らかな手付きで駒を指し、月光会長は指し手を口にした。応じて天衣も駒を進め、その指し手を言葉で伝える。

 

「7六歩」

 

 駒落ち戦と平手戦では、当然ながら定跡が違う。駒の差による有利は確かだが、それを踏まえた作戦を立てなければ足を掬われる。だから師匠と一緒に、入念な準備を重ねてきた。

 

「5四歩」

「6八銀」

 

 駒を持つ手が震えるなんて、初めての経験かもしれない。こんなに自分の手が不安になるのも、これまでの記憶にない。序盤も序盤なのに喉が渇き、ミネラルウォーターを手に取った。

 

 無様な将棋はしたくない。そればかりが、天衣の脳裏を巡り続ける。

 

 師匠の弟子として、この対局を申し込んだ。アマ名人の娘として、この手合い割で持ち掛けた。だから証明しなければならない。御影湊の弟子は凄いと、さすがは夜叉神天祐の娘だと、目の前の伝説に。たとえ負けようとも、夜叉神天衣は立派な棋士であったと、絶対に。

 

 貶めたくない。辱めたくない。大切な人たちが期待した、自分の将棋を。

 

「なるほど」

 

 月光会長の呟き一つで、天衣は肩を跳ねさせてしまう。

 

 作戦通りに矢倉は組めた。位負けもしていない。これから急戦を仕掛けるが、現時点でのミスはない――――――そのはずだ。なのに駒を掴む天衣の手は、鉛のように重かった。

 

 気付けばミネラルウォーターが空になり、二本目の蓋を開ける。

 

 中盤に入り、盤面全体を使った捻り合いに発展した。攻守の入れ替わり激しく、押して引いての繰り返し。優勢は手放していないと感じつつも、その判断を天衣は信じきれなかった。

 

 視界が狭い。思考が鈍い。あるいはそう思い込みたいだけで、これが実力通りなのか。ノイズが混じった感覚は、不安ばかりを天衣の心に積もらせる。いつもは見えている手筋が、霧の向こうに隠れていた。首筋が冷えるのは、はたしてただの気の所為か。

 

 迎えた終盤だが形勢判断は難しい。いや、これでさえ出来過ぎか。そう自戒しながら次の一手を指した天衣は、直後に小さく声を漏らす。

 

「あ、いえ……3四金」

「ほう」

 

 指し間違えた。というよりも、考えがまとまる前に指してしまっていた。何故と自問するも既に遅く、盤上には次の一手が指されている。切り替えなければと、天衣は胡乱な頭で盤面を見た。

 

「ッ!?」

 

 ゾワリと天衣は背筋を粟立たせ、食い入るように盤を覗く。

 

(これは、そんな……うそ――――)

 

 見れば見るほどに、読めば読むほどに、自らの勝ち筋が消えている。たった一手。それだけで、あらゆる手筋に楔を打ち込まれた。指し間違えの影響ではない。もっと前から読み切り、指し手を誘導し続けた入念なものだ。

 

 月光(げっこう)流。月光会長の棋風を指して、人々はそう呼んだ。月の光のように細い攻めを繋ぎ、最短手数で詰みを見切る。光よりも速いと称され、気付かぬ内に切り捨てられた棋士は数知れず。

 

 これが月光聖市。これが永世名人。自分など及びもつかない大局観が、空恐ろしくすらあった。しかし、だからこそ天衣は諦められない。弄ばれてばかりでは、師にも父にも面目ない。

 

「夜叉神アマ。持ち時間を使い果たされましたので、一分将棋でお願いします」

 

 宣告に、天衣の心臓が早鐘を打つ。

 

 時間はない。光明も見えない。思考は空回るばかりで、どんな手も断頭台に繋がっているように思えてくる。それでも切れ負けは避けねばと、天衣は持ち駒を掴み取る。

 

 だって、嫌だ。自分の将棋は、大切な人が誇れるものじゃないといけないのに。

 

「6三歩――――――えっ?」

 

 なのに指した筋の下段に、別の歩があった。二歩。つまりは『反則負け』だ。

 

 

 ■

 

 

 室内に満ちた嫌な沈黙。最後の手を指して以降、盤面を見下ろしたまま、呆然と固まった天衣。その対面に座る月光会長は落ち着いたものだが、影となって彼の対局をサポートしていた男鹿は、気の毒そうに天衣を見詰めている。

 

 既に勝敗は決したも同然。だがそれでも、対局は終わっていない。終わらせてはいけない。その権利は将棋盤を挟んだ二人にこそ、委ねられるべきなのだから。

 

「……まけました」

「ありがとうございます」

 

 消え入るような天衣の投了に、月光会長が応じた。それを見届けた湊は、深々と頭を下げる。

 

「ありがとうございました。あとは、どうか二人で」

 

 湊がそう伝えれば、月光会長と男鹿は頷き、静かに退室していった。残されたのは、湊と天衣の二人だけ。未だ将棋盤から目を離さない弟子に歩み寄り、その隣に腰を下ろす。

 

 こうして見ると、やはりまだまだ小さな子供だ。並んで座れば胸元に届くかどうか。未だ十にも満たず、知識も経験も足りなくて、これから色々な事を学ばなければならない。

 

 負けて悔しいと天衣は言う。負けて得るものがあると天衣は言う。なるほど彼女は、敗北を糧にできる子だ。同時に、敗北の恐ろしさを知らない子でもあった。

 

 負ければ失う。それが何かを背負って戦うという意味だ。立場であり名誉であり、時には自分の夢そのものであり。勝負に賭けたものが重いほど、敗北を意識して身が竦む。

 

 これまでの天衣は身軽な立場だった。小学生将棋名人戦も、マイナビ女子オープン予備予選も、いずれも彼女は新顔の挑戦者で、負けて失うほどのものはない。その幼さを騒ぎ立てる外野が居なかったわけではないが、幸いそれに影響される性格でもなく、ちゃんと実力を発揮できた。

 

 本局に籠めた天衣の気持ちを理解できると宣うほど、湊は鈍感な人間ではない。それでも覚悟が並々ならぬと察せる程度には、彼女の師匠をやってきたという自負がある。

 

 今日の天衣は、いつになく敗北に恐れをなしていた。

 

 終始、月光会長にペースを掴まれていた。実力なんて、普段の半分も出せたかどうか。その上、最後は禁じ手だ。はたしてどれほど、彼女は心を痛めた事か。

 

 心が弱れば将棋も弱る。負けてしまえばまた弱る。勝負の世界に身を置くならば、避けて通れぬ壁だろう。それに今回、初めて天衣はぶつかった。

 

 残念ながら湊には、棋士としての背中を見せてやる事はできない。それでも傍に寄り添って、支えてやるくらいはできるだろう。いや、それができねばならぬだろう。

 

「天衣」

 

 努めて優しく呼び掛ければ、彼女は肩を震わせた。しばらく固まっていたが、やがておずおずと湊の方に体を向けた彼女は、俯いたまま何事かを口にする。

 

「――――――さい」

 

 湊が聞き取ろうと身を寄せて、同時に、勢いよく天衣の顔が上げられた。

 

「ごめんなさい! ごめんなさいっ!!」

 

 頬を流れる幾筋もの涙。ひび割れたガラスのような叫び声。

 

「わたし……こんな将棋をっ。先生の弟子、なのに、みっともな――――っ。おとうさま、ごめんなさっ。わたし、バカみた――――――ッ」

 

 堪らず湊は抱き締めていた。抵抗はなく、ただ腕の中でシクシクと泣き濡れる姿は、どこまでも幼い少女でしかなくて。どうにも己の未熟さが嫌になる。

 

「怒ってないし、落胆もしてないよ。君は変わらず、僕の誇れる大事な弟子だ」

 

 弟子の気持ちが、なんでもわかるとは言わない。それでも、何もわからないわけではない。

 

 子供は親の期待に応えようとするものだ。時にその重さで、押し潰されてしまうほどに。天衣は賢く、熱心で、なおかつ聞き分けのいい子だった。だからそれに甘えてしまって、伝えるべき事を忘れていたと、今更ながらに後悔する。

 

「君がどんな思いでこの場に臨んだのか、僕には推し量る事しかできない。どんな言葉を掛ければいいのか、僕にはわからない。ただ師匠として、天祐さんの友として、伝えたい事がある」

 

 肩に顔を埋めてきた天衣の後頭部を、ガラス細工に触れるように湊は撫ぜた。

 

「僕も天祐さんも、君に才能があるから、将棋を教えたわけじゃない。君が大切だから、大好きな将棋を一緒にやりたいんだ。君の成長は嬉しいし、君が勝ったら喜ぶよ。もしも負けたら、一緒に色々悩んでみよう。勝ちも負けも関係ない。君が将棋を指す事そのものが、僕たちの誇りなんだ」

 

 だからどうか、背負い過ぎないでほしい。それは本意ではないのだからと。

 

 湊の言葉を、天衣がどう受け取ったのかはわからない。肩を震わせ嗚咽を漏らしていた彼女は、やがて顔を離すと、泣き腫らした目で湊を見上げた。涙の跡が残る頬は哀れを誘うが、その眼差しには普段の力強さが戻っている。

 

「いつか恩返しするから」

「うん」

「会長にお礼参りして、それを先生への恩返しにするから」

「……うん?」

 

 恩返しは将棋界の文化であり、公式戦で弟子が師匠に勝つ事を指す。仮にも師匠となる月光会長であるから、彼に勝つ事を恩返しと呼んだと湊は解釈したのだが。

 

「いやいや、お礼参りって」

「お礼参りよ。私が棋士になったら、どうせ永世名人の弟子として騒がれるんだから。マイナビの時だってどいつもこいつも、先生が無名のアマチュアだからって馬鹿にしてっ」

「あれは、ほら、天衣が凄い才能の持ち主という趣旨の話だし」

「それが馬鹿にしてるのよ! 何も知らずに天才なんて言葉で片付けてっ!!」

 

 息を荒げて肩を怒らせ、それからくしゃりと、顔を歪めて。

 

「私が強くなれたのは、先生のお陰だから――――――」

 

 湊の胸元を掴んだ天衣は、そっと額を当てて顔を伏せた。

 

「だからこれからも、一緒に将棋を指してください」

「……うん、たくさん指そう。いくらでも」

 

 そう言って湊は、腕の中の宝物を抱き締めた。

 

 

 ■

 

 

 水無瀬の間を後にした月光会長と男鹿は、同じ関西将棋会館の中にある理事室へと戻っていた。対局のために空けた時間は残っていたが、二人はノンビリと執務を再開する。

 

 いつも通り盲目の月光会長に代わって書類に目を通す男鹿は、やや憂いげに呟いた。

 

「夜叉神さん、大丈夫でしょうか?」

「ここは御影さんに任せるしかありませんよ」

「たしかにそうなのですが……」

 

 歯切れの悪い男鹿に向けて、月光会長は涼やかに笑い掛ける。

 

「ともあれ、彼女は将来が楽しみな棋士ですね」

「それは同感です。会長の読みにもついていけてましたし」

「ええ。あの棋譜を作れたのは、彼女の実力があればこそです」

 

 およそ月光会長の狙い通りに推移した対局ではあったが、それは彼が天衣の読みを信頼し、また彼女に応えるだけの実力が備わっていたからこそだ。あまりに実力が離れていれば、互いの読みが噛み合わず、あのように美しい棋譜は生まれない。

 

「なにより最後は、私も読みを誤ったと気付かされましたからね」

「えっ? あれはもう……もしかして、3四金ですか?」

 

 問い掛けに、月光会長は静かに首肯する。

 

「あの一手は私も見落としていました。結果として、まだ完璧には詰んでいなかった」

 

 将棋には『指運』と呼ばれるものがある。切迫した状況で、読み切れないまま直感で指す事だ。結果としていいところに指せた時は指運がよかったなどと言うが、それは決して運がよかったわけではない。積み上げた知識と経験が勘となり、自然と手を導くのだ。

 

「本人に聞いても偶然と答えるでしょうが、私は指運が働いた一手だと感じましたよ」

 

 そう続けた月光会長の口元には、穏やかな微笑が刻まれていた。




★次回更新予定:6/7(日) 19:00

ストックが切れたため、次回以降の更新間隔は週一くらいになります。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。