まほうつかいのおしごと!   作:未銘

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#012 将棋に必要な数

 奨励会試験は三日に渡って行われ、最初の二日間が一次試験、三日目が二次試験だ。

 

 一次試験は筆記試験と受験者同士の対局試験だが、将棋連盟が主催する指定の全国大会優勝者は免除となる。小学生将棋名人戦もその一つで、つまり天衣は一次試験を受ける必要がない。

 

 二次試験は対局試験と面接試験を行う。対局試験の相手は受験級位を基準に現役の奨励会員から選ばれ、三局中一局でも勝てば合格となる。その後は面接試験だが、よほどの問題がなければ面接を理由に落とされる事はなく、対局に勝った時点で合格と考えていい。

 

 女流玉将を降すというジャイアントキリングを果たし、無事マイナビ女子オープンの一斉予選を通過した天衣は、その四日後に奨励会試験の二次試験を受験した。

 

 対局試験の初戦は4級の奨励会員で、手合いは香落ち。特に問題なく勝利した彼女は、その後の二局も勝って全勝通過。面接も卒なくこなして受験を終えた。

 

 まず間違いなく合格。それでも通知が届くまでは不安もあったが、昨夜、湊は電話越しに合格の報告を受けた。天衣が電話を掛けてくる事は珍しく、普段通りを装っていたが、やはり嬉しかったのだろう。そう思えば、師匠としては何かしらのお祝いを用意したくなるものだ。

 

 あれこれ考えた湊が選んだのは、とある私物。仕舞っていたそれを手に、夜叉神邸を訪れた。

 

「奨励会入会おめでとう。棋士としての一歩を踏み出した君に、これを譲りたい」

 

 あとひと月もすれば、湊が天衣と出会って一年が経つ。指導室として馴染みとなった夜叉神邸の一室で、弟子と向き合った湊は、おもむろに細長い桐箱を差し出した。

 

「ありがとう、先生――――――開けてみても?」

 

 小さな手でおずおずと受け取った天衣が、窺うように湊を見上げてくる。頷いて返せば、早速とばかりに蓋を外す。中身を確認して一度だけ瞬いた彼女は、ポツリと呟いた。

 

「扇子ね。それも二つ」

 

 桐箱の中に並べられた二つの扇子。天衣が片方を手に取って広げれば、白地に大きく『天衣』と揮毫(きごう)されている。それを目にした彼女は、怪訝そうに眉根を寄せた。

 

「私の名前? 書いたのは……ッ」

「天祐さんだよ。読みは『テンイ』だけどね」

 

 ほら、と湊がもう一つの扇子を広げて天衣に見せる。

 

「『無縫』……こっちは先生が書いたのね」

「そう。二つ合わせて『天衣無縫』だ」

 

 天衣の大きな瞳が、二つの扇子を行ったり来たり。要領を得ないと主張していた。

 

「棋士が座右の銘を揮毫した扇子は、将棋の定番グッズだろう? 誰の座右の銘が好きかっていう話題になった時、僕たちも作ろうと天祐さんが言い出してさ」

 

 提案された直後は湊も面食らったが、すぐに乗り気になって準備を進めたものだ。扇子は天祐の伝手で信頼できる店があり、資金面でも問題はなく、お互い書には覚えがあった。作ろうと思えばすぐにでも作れたが、難航したのは揮毫する文字だ。

 

 アレがいいコレがいいと好き勝手に意見を出し合って、もう別々に書けばいいじゃないかと湊が言えば、せっかくだから合わせようと天祐がゴネる。最終的に天祐の押しに湊が折れる形となり、彼が希望する形で揮毫の文字が決められた。

 

「なんで『天衣無縫』なのよ? しかも二つに分けて」

「天の衣には縫い目が無く、なんとも自然な様であり、完全無欠で美しい。天の衣を棋譜に例えた天祐さんは、あらゆる変化を自然に指しこなす事がそうだと考えた。定跡であれ、定跡から外れた手であれ、奔放に指して勝利を掴む。そんな棋士が理想だと」

 

 目指した棋風を、天祐はその言葉に籠めた。本当は娘の名前を入れたかっただけじゃないかとも思うのだが、語られた理想に、湊も共感してしまったのだ。研究者気質のある彼にとっては、ただ強いだけの将棋よりも、あらゆる可能性を模索する将棋の方が好ましい。

 

 天衣の指導でも注意している部分であり、知識として強い戦法やその対策を授けるのではなく、それらの根本にある理論を理解させる方向で育ててきた。

 

「二つに分けたのは――――――」

 

 一瞬だけ、言い淀み。苦笑を浮かべて、湊は続けた。

 

「将棋は一人じゃ指せないからだ。どんなに才能があっても、どれだけ努力を重ねても、一人じゃ将棋の道は歩けない。誰かと一緒に歩いてきた事を、決して忘れないようにってさ」

 

 いつか正式に弟子ができたら、好きな方を渡せばいい。そう言って天祐は、出来上がった扇子を二つとも湊に託したのだ。あるいは自分の娘がそうなると、期待していたのかもしれないが。

 

「なら私はそっちをもらうわね」

 

 物思いに耽る湊の手から扇子を奪い、天衣は自分が持っていた方を渡してきた。すなわち湊が『天衣』の扇子を、天衣が『無縫』の扇子を持つ形になる。

 

 呆気に取られる湊の様子を見た天衣は、逆に不思議そうに首を傾げた。

 

「そういう意味じゃないの?」

「あぁ、いや――――」

 

 違わないと、首を振って湊は答えた。

 

 迷いなく湊と分け合うものだと認識した天衣に、少々驚かされただけだ。心から、彼女の師匠と認められたようで。己の将棋に、意味があったと感じられて。どうにもこうにも、面映ゆい。

 

「かなわないなぁ」

 

 しみじみとした呟きが、和室の空気に溶けて消えた。

 

 

 ■

 

 

「珠代さんの件、改めてありがとうございました」

 

 呟いて、湊は網の上で焼き目のついた牛タンを箸で掴んだ。ちょっとだけ塩をつけて食べれば、コリコリした食感と共に、肉汁が口の中に広がっていく。

 

「ようやくお弟子さんと引き合わせたらしいね」

「はい。思った通り仲良くなれたみたいです。口では素直じゃないんですけど」

「みたいだね。珠代くんもあれこれ言ってたけど、内心ではちゃんと認めてるよ、アレは」

「一斉予選でも感じましたけど、気骨のある方ですよね。さすがは山刀伐さんの紹介というか」

 

 湊は次の牛タンを網に載せながら、対面に座る相手に視線を送る。

 

 中性的な顔立ちの成人男性だ。二十代でも通用しそうな若々しい見た目だが、そろそろ四十路が見えてくる歳だと湊は知っている。名前は山刀伐 (じん)。今期からA級に昇級したプロ棋士であり、湊とは数年来の付き合いだ。

 

 山刀伐は関東棋士だが、しばしば対局のために関西まで来ており、その際は湊と会う事が恒例になっていた。今回も対局の翌日に誘われて、お高い焼肉屋の個室で顔を突き合わせているわけだ。

 

 もっとも山刀伐との出会いは、湊が覚えている限り、およそ最悪の部類だったが。

 

「初めて会ったプロが貴方でよかったと、今でも思いますよ」

「おや、嬉しいなー。ボクもたまに、湊クンとの出会いを夢に見るんだ」

「それ悪夢ですよね? 自分で言うのもなんですけど」

 

 問い掛けるが、ニコニコと笑う山刀伐の真意は読めない。

 

 山刀伐が初めて湊の前に現れたのは、アマ名人戦で三連覇を果たした天祐が、記念対局で名人を相手に二度目の勝利を飾った直後の事だ。以前から天祐に興味があったという山刀伐は、連絡先が掴めなかった代わりに、『ことひら』の常連である事を突き止めてやってきたのである。

 

 その日は生憎と天祐が不在だったのだが、席主から湊と天祐の話を聞いた山刀伐は、興味本位で湊に対局を持ち掛けたのだ。そして湊もまた、深く考えずにそれを受けてしまった。

 

 湊にとって失敗だったのは、将棋道場の常連や天祐とばかり将棋を指していて、勝負師の感覚が薄れていたこと。本物の勝負師が対局に籠める情熱を、忘れていたこと。

 

 最初の一戦に湊が勝った時の山刀伐は、その実力に驚きつつも褒めるだけだった。早指しだった事もあり、自らのミスとして受け止められる部分もあったのだろう。

 

 しかし十局を数える頃には表情が強張り、二十局を超えたら完全に沈黙した。鬼気迫る、と表現するしかない面持ちで、山刀伐は繰り返し湊に再戦を申し込んだ。その勢いに押されてズルズルと対局を重ねてしまったのは、湊の過ちと言ってもいいだろう。

 

 一局ごとに山刀伐は顔色を失い、将棋も精細を欠いていく。続けるべきではないと感じつつも、勝負への執念を感じさせる彼の姿が、湊の口を凍らせた。敬意か、羨望か、あるいは嫉妬だったのかもしれない。閉店間際まで指し続け、なお挑もうとする山刀伐に、湊は初めて本気で指した。

 

 十七手。公式戦であれば棋史に残ったであろう超短手数で、最後の一局は幕を閉じた。

 

「正直、もう二度と会う事はないと思ったんですけどね」

「せっかく強い人に出会えたんだから、自分の糧にしないともったいないじゃないか。それにボクより才能ある棋士はたくさんいるし、いちいち落ち込んでなんていられないよ」

 

 朗らかに話す山刀伐だが、出会った日の彼は、顔面蒼白のまま『ことひら』を後にした。電車に飛び込みやしないかと席主が心配したほどで、翌日、何食わぬ顔で訪れた山刀伐には、湊も随分と驚かされたものだ。

 

「まぁ勝負すらしてもらえなかった相手は、湊クンが初めてだったけどね」

 

 山刀伐の言葉を聞いた湊は、決まりの悪さを誤魔化そうとウーロン茶に口をつける。

 

 今の湊にとって、対局が勝負という感覚は薄い。勝ちも負けも賭けない彼が気にするのは、己がどう勝つかではなく、相手がどう指すかだ。同じ将棋盤を挟んでいるのに、見ているものはまるで違う。そういう部分が山刀伐にも伝わり、湊に本気を出させようと躍起になったらしい。

 

「あの日の最終局は、今でも棋譜を見返すんだ。研究資料としては参考にならないけどね」

 

 それはそうだろうと、湊は思う。あれは優れた戦法というよりも、相手の読み筋を元に徹底してハメただけだ。あの時の山刀伐だからこそ意味がある手で、他の対局にも活かせるものではない。今生で唯一と言ってもいい、勝利のみを目的とした一局であり、湊にとっては苦い思い出だ。

 

 ただ山刀伐の中では何かしらの整理がついたらしく、以降の関係は良好と言ってもいい。

 

「前にも誘ったけど、名人との研究会に参加してみない?」

「前にも言いましたけど、お断りします。名人と一緒なんて恐れ多いですよ」

「そんな事ないさ。湊クンなら、きっと名人にとってもいい刺激になると思うんだ」

 

 注文用の端末を操作しながら、山刀伐がニヤリと笑う。

 

「それに、名人も君に興味を持ってる」

「山刀伐さん、なに吹き込んだんですか?」

「ボクの研究相手として、君の話をしただけだよ。あ、でも、あの話は受けがよかったね。ほら、名人の『マジック』は――――――」

「『魔術』ではなく『手品』である」

 

 言葉を継いだ湊に、したり顔で山刀伐は頷いた。

 

 名人が対局の中終盤で繰り出す妙手を指して、人々は『魔術(マジック)』と呼ぶ。さながら魔法のような信じられない手で大逆転を演出するその姿に、数多の将棋関係者が魅せられてきた。

 

 天才の閃きだと、多くの人は言う。山刀伐も同じく。だが湊は、その意見に異を唱える。湊から見た名人は天才である以上に研究者だ。眩いばかりの閃きも、気が遠くなるほどの研鑽を重ねればこそ。故に『魔術(マジック)』ではなく『手品(マジック)』。華やかさの裏にある努力を、湊は何より尊んだ。

 

「そうそう。懐かしいってさ」

「……懐かしい?」

 

 わずかに跳ねた心臓に、湊は気付かぬフリをする。

 

「昔、名人の研究相手だった棋士も同じ事を言ったらしいよ」

「…………名人の研究相手となると、有名な棋士ですか?」

「ボクと名人の間の世代だけど、湊クンは知らないんじゃないかな」

 

 網の上に肉を載せながら、山刀伐は軽い調子で話を進めていく。無論、ただの雑談だ。ただの雑談ではあるが、喉を鳴らして唾を飲み込んだ湊は、ウーロン茶に手を伸ばした。

 

 心臓が五月蠅い。どうにも落ち着かず、雑にコップを傾ける。

 

「ちょうど湊クンが生まれた頃に、亡くなったみたいだから」

 

 すぐには、湊は言葉が見付からなかった。黙ってウーロン茶を飲み干したところで店員が訪れ、追加の肉を置いていく。退室する店員にウーロン茶を注文した後に、湊は小さく息を吐いた。

 

「――――それだけ昔の棋士だと、たしかに知らなそうですね」

「順位戦は調子よかったみたいだけど、タイトルは獲ってないしねぇ」

 

 まるでボクみたいだ、と山刀伐が苦笑する。

 

「ま、故人の話は切り上げようか。それよりボクは名人の考えが気になるな。君は言ったよね? 結局のところ、名人はボクの上位互換に過ぎないと」

「はい。貴方よりも長く、深く、熱心に研究を重ねたのが名人です」

「それはまた、随分と高い壁に感じるなぁ」

 

 おどけた様子で零す山刀伐だが、その実力は確かなものだ。

 

 居飛車も振り飛車も問わず、攻めも受けも指しこなす。圧倒的な研究量に裏打ちされた、どんな局面にも対応できる柔軟な棋風。それこそが山刀伐の将棋であり、ついた異名が『両刀使い(オールラウンダー)』。タイトル挑戦の経験もあり、A級順位戦でも白星を重ねる彼は、間違いなくトッププロの一人だ。

 

「けど湊クンから見た名人は、ボクたちが歩く先に居る。だからタネも仕掛けもある『手品』なんだね。それさえ理解すれば、手に入ってしまうものだから」

 

 そうだ、と湊は頷きを返す。

 

 名人は間違いなく天才であるし、現状、並び立つと言えるほどの棋士は居ないだろう。ただ湊の感覚として、それは誰よりも才能があるからではなく、誰よりも才能を引き出せているからだ。

 

 将棋の世界は誰もが手探りで、何度も躓きながら進んでいく。名人は他の人よりも少しだけ歩くコツを知っていて、わずかな差が重なる内に、手の届かない場所まで行ってしまった。

 

 眠れる才能のすべてを引き出せるほど、人類は将棋を理解できていない。それは名人であっても変わらず、だからこそ湊は、才能の多寡よりも努力が重要だと考える。どこまで効率を高められるのか、どれだけ情熱を維持できるのか、それを突き詰めれば、名人にも届き得ると。

 

「ええ。()()()()から、僕はそう考えています」

「もし名人も似たような考えだとすれば、ボクたちの事をどう思ってるんだろうね」

「それはわかりませんが、僕なら寂しいでしょうね。将棋は二人で指すものですから」

「湊クン、やっぱり研究会に参加しない? 君なら名人も喜びそうなんだけど」

 

 意外と本気の誘いである事は、その声音から窺える。それでも湊は首を振った。

 

「何度でも言いますけど、()()()には恐れ多いですよ」

「残念。もしも気が変わったら、いつでも連絡していいからね」

 

 苦笑だけ返し、湊は焼けたロースを箸で掴む。タレを付けて食べ、続けてご飯も口にする。その気がないと態度で示す湊に対し、山刀伐は静かに問い掛けた。

 

「ひとつ、聞いてもいいかな?」

「なんでしょうか」

「君は寂しくないのかい?」

 

 山刀伐の顔を見るが、真意は読めない。故に深く考えず、湊は正直に答えた。

 

「弟子が居ますから」

 

 何を疑うべくもない、彼にとっての真実を。




★次回更新予定:6/21(日) 19:00

気になる方が多いようなので、今回の話で主人公が十七手で勝った件について補足します。

まず大前提として、この手数で決着した場合、どちらかが対局の続行を諦めて投了した状況です。八百長でもなければ詰みになる事はないと考えていいでしょう。

今回の話でも、早指し対局かつ山刀伐さんの精神状態が著しく悪かったため、早々に大駒を死なせる局面に誘導され、構想が崩壊して諦めた、という想定です。

その上で短手数のラインは公式記録を参考に決めました。

反則負けを除いた最短記録は昭和四十九年の棋聖戦での十手投了と思われますが、投了理由の逸話はあるものの定かではない事と、投了した挑戦者が後日処分を受けている事から例外としました。

次点の記録は十八手の後手勝ちで、昭和六十一年の順位戦B級における芹沢九段と鈴木六段の対局となります。今回の話では、この十八手を棋士の状態によっては起こり得る最短手数と考えて、そこから一手短くした十七手としています。
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