まほうつかいのおしごと!   作:未銘

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2017年
#016 指し初め式


 将棋界の一年は『指し初め式』で始まる。一年間の幸福や健闘を祈念し、棋士や関係者を招いて行われる伝統行事だ。とはいえ堅苦しいものではなく、和気藹々とした和やかな式である。

 

 関東と関西で様々な違いが見られる将棋界だが、この指し初め式でも同様だ。

 

 名前通り参加者で将棋を指すのが指し初め式であるが、もちろん普通の対局ではなく、指し手が手を指し継いでいくリレー将棋となっている。そして、将棋盤を一面だけ用意して一手で交代する関東に対し、関西は六面も用意する上に数手指してからの交代だ。

 

 一説によると、さっさと終わらせて新年会に移るために関西は六面でやっていると言われているが、真偽のほどは定かではない。少なくとも関東以上に緩い空気なのは間違いないが。

 

 また指し初め式は、決着まで指さずに『指し掛け』とするのが恒例だ。これもまた明確な由来は不明だが、年始から『負けました』と口にするのは縁起が悪いから、といった話がある。とはいえ誤って玉が詰んでしまう事もあるし、白熱して最後まで指してしまう事もあるのが関西だ。中にはちゃっかり何回も指す人も居たりして、実にアットホーム。

 

 さて、ほんの十日ほど前に史上最年少竜王となり、現在の将棋界で最も注目を浴びている九頭竜八一もまた、関西の指し初め式に参加していた。師匠の清滝に連れられて、幼少期から将棋会館に入り浸っていた彼にとっては慣れたもの。とはいえ注目度に関しては、中学生棋士になった昨年度さえも上回る。タイトルの重みもあり、流石に緊張を禁じ得ない。

 

 関西将棋会館五階。江戸城本丸御黒書院を模したそこで、最も格の高い部屋となる御上段の間。他の間よりも一段高く作られたその部屋には、例年通り六面の盤が並べられている。隣の御下段の間には指し初め式の参加者が並んで座り、通路にも人が溢れていた。

 

 入れ替わり立ち代わり、テンポよく指し初め式が進められていく。好き勝手に相手を決めるのも関西流で、みんな思い思いの場所に座っては、いくらか手を進めて立ち上がる。

 

 参加者の顔ぶれは様々だ。棋士や女流棋士はもちろんとして、奨励会や研修会の会員も居れば、関西将棋会館の道場に通う子供も居る。他にも記者といった何かしらの形で将棋と関わる人たちが呼ばれており、本当に将棋関係者と呼ぶしかない面子が集まっていた。

 

 やがて順番が回ってきた八一は、上座の中央に置かれた将棋盤の前に座る。竜王なんだしトリを頼む、なんて口車に乗せられた所為で、随分と待たされてしまった。

 

 すぐに相手がやってくるのは、さすがは竜王と言うべきか。新年の挨拶を交わして、数手指して相手が去る。自分はどうするかと考えた八一だが、竜王と指したい人も居るだろうと次を待つ。

 

 そのままさらに三人の相手をして、とうとう五人目。状況を見るに、これが最後になるだろう。現在の局面は八一側のやや有利か。相手によってはうっかり詰まさないように注意が必要だ。

 

「新年あけましておめでとうございます、竜王」

「あけましておめでとうございます」

 

 八一の対面に座ったのは、同年代の少年だった。場慣れした様子から奨励会員かとも思ったが、それにしては見覚えのない顔だ。ひょっとすると関東から移ってきたのかもしれない。

 

「「よろしくお願いします」」

 

 さておき将棋だ。相手の指す手によっては、うまく引き伸ばす必要が出てくるのだが。

 

 どうなるかと八一が見守っていると、少年は迷いなく駒を動かした。悪くない、というよりも、普通に好手だ。やはり奨励会員かと思いつつ、気を遣わなくてよさそうだと安堵する。

 

 八一も一手進めれば、すぐさま応手が返ってくる。

 

 速いし、上手い。八一が指すとしても、これ以上の手はすぐには思い付かない。勝敗を気にする必要がないとはいえ、自分は竜王だ。恥ずかしい手は指せないなと、少々気合いを入れ直す。

 

 数秒だけ悩んで次の手を指せば、少年が意味深な視線を送ってきた。何か問題でもあったのかと盤面を見直すが、特に可笑しなところはない。一体なんなのか。八一が内心で首を傾げていると、素知らぬ様子で少年は駒を動かした。

 

「――――――えっ?」

 

 世界から音が遠ざかる。キュッと視界が狭まって、将棋盤だけが浮かび上がった。首筋が冷えて仕方ない。心臓を鷲掴みにされたような感覚に、知らず唾を飲み込んだ。

 

 問題のある局面には見えない。何より今日は指し初め式だ。適当に指して適当に終わる。それが許されるし当たり前。変に悩まずに指すのが、この場での正しい対応だろう。

 

 だけど、何故だろうか。駒を持とうとする右手が、鉛のように重かった。

 

「さすがは竜王ですね」

 

 朗らかな声音が鼓膜を打ち、意識を引き戻された。見れば対面の少年が楽しそうに笑っている。ついつい考え込んでしまったが、何か変なやらかしでもあっただろうか。

 

 八一が不思議に思っていると、おもむろに少年が頭を下げた。

 

「今後のご活躍を応援しています。ありがとうございました」

 

 つられて八一も礼を返す。正確に何手と決まっているわけでもなく、これで終わりという事だ。どうにも消化不良のまま立ち上がる少年を見送り、八一もまた将棋盤を離れる。

 

 ほどなくして指し初め式は終わったが、タイトル保持者という事で生石玉将と一緒に軽い取材を受けさせられた。無難に今年の抱負を語りながらも、頭に浮かぶのは先ほどの局面。何も可笑しなところなどなかったはずなのに、どうしてか、最後の一手が気になってしょうがなかった。

 

 

 ■

 

 

 懐かしい。素直にそう思えた自分に、湊は密かに安堵した。

 

 関西将棋会館の四階で開かれた新年会の会場で、壁にもたれながらウーロン茶を口にする。瞳に映る人々は、随分と知らない顔ぶれが増えていたが、かつて親しんだ関西棋界だと感じられた。

 

 今となっては合わせる顔もないが、御影湊になる前の『彼』が師匠と呼んだ人も居る。少し前に引退した時は寂しく思ったものだが、今でも将棋連盟の役員として将棋界に貢献しているらしい。弟子煩悩な人で、四段昇段後に『彼』が関東へ移ってからも、随分と気に掛けてくれていた。

 

 近くには記者の取材から逃れてきた兄弟子の姿も見える。かつてはこちらの方が年上だったが、今となっては向こうの方が年上だ。なんとも奇妙で、懐かしさと寂しさがない交ぜになる。

 

 詮無い事に囚われているなと、湊は心中で自嘲した。

 

 九頭竜竜王に興味があり、月光会長の厚意に甘えて参加してみたものの、どうにも手持ち無沙汰で困ってしまう。気を遣ったらしい弟子は離れているし、かといって誰かと絡む気にもなれない。

 

 適当なところで抜けるかと湊が考えていると、爽やかな声が耳を揺らした。

 

「君が噂の『先生』かな?」

 

 声を掛けてきたのは、二十代と思われる年上の男性だ。記憶から検索した該当人物の名は、鏡洲飛馬。天衣が奨励会でお世話になっている相手である。

 

 壁から背中を離した湊は、姿勢を正して会釈した。

 

「はい、夜叉神に将棋を教えている御影湊です。鏡洲三段ですよね?」

「合ってるよ。せっかくだし、少し話でもしないか?」

「喜んで。けど、よく僕が『先生』だってわかりましたね」

 

 天衣だろうかと考えたが、みだりに教えるような性格でもない。月光会長にしても、その辺りの一線は守る人だし、今日は関東の指し初め式に出席しているはずだ。

 

「夜叉神ちゃんがチラチラ気にしてたからな――――――ほら、今も俺を睨んでる」

 

 可笑しそうに鏡洲が指差す方に目を向ければ、愛弟子がフイと顔を背けるところが見えた。今は空銀子と一緒にインタビュー中みたいだが、どちらも不機嫌そうなのは気の所為だろうか。

 

「にしても若いな。いくつか聞いても?」

「数日前に十七歳になりました」

「竜王の一つ上だな。となると高校二年か」

「ですね。ただ高校生じゃなくて、翻訳家なんですよ」

 

 答えれば、鏡洲は驚きで目を瞬いた後、納得した様子で頷いた。

 

「そういや夜叉神ちゃんが英語を勉強してるって言ってたな。君の影響か」

「ええ。覚えて損はないと思って、将棋のついでに教えています」

「いいんじゃないか。俺みたいな将棋馬鹿より、よっぽど健全だ」

 

 探り探りの会話が、にわかに途切れる。どちともなく、手にしたコップを口に運んだ。

 

「……夜叉神ちゃんの父親について、君は知ってるか?」

「友人です。随分と歳は離れてましたけど」

「そうか。実は俺も縁があって、将棋を鍛えてもらったんだ。あの人は家庭の事情で棋士を目指せなかったし、夢を託してもらったように感じてる」

 

 それは湊の知らない情報だった。棋界に関わろうとしない湊を慮ってか、将棋に関わる交友関係について、天祐はあまり話そうとしなかったからだ。あくまで『ことひら』に限った関係で、それでも二人は、誰に憚る事もない友人だった。

 

 自然と物思いに耽りそうになったところで、おずおずと鏡洲が問い掛けてきた。

 

「気を悪くしたらすまないが、棋士になろうと思った事はないのか?」

「ないと言えば嘘になりますね。でも結局は、自分の性に合わないと思いまして」

「そうなのか。たしかに楽な道じゃないからな」

「もしかして三段リーグ絡みでお悩みでも?」

「あぁ、いや……そうだな、君はあの子を託されたんだよな」

 

 鏡洲はビールで満たされたコップに視線を落とし、口元を真一文字に結んだ。優しげな面立ちに浮かぶ表情は硬い。そのまま、しばし。急に顔を上げた彼は、グッとビールを飲み干した。

 

「――――――酔っ払いの戯言と思って聞き流してくれ」

 

 アルコール混じりに吐き出された言葉は、どこか弱々しい響きを伴っていた。

 

「今でもプロを目指してる。それは胸を張って言えるし、本気で三段リーグを戦ってる。けどな、意識しないわけじゃないんだ。ここらが俺の限界なんじゃないかって」

 

 おそらくそれは、奨励会員の多くが感じる苦悩だ。首にロープを掛けられた状態で将棋を指す、と奨励会を表現する者も居る。どれほど実力があって、どれほど白星を重ねようと、三段リーグを抜けるその瞬間まで、本当の意味で安心できる事はない。

 

 だからこそ、考えずにはいられない。自分が歩いている道は、本当に目指した場所に続いているのかと。ひょっとして、どこかで途切れているんじゃないのかと。

 

 自分を超える才能に出会った時に、昇段を逃した時に、そんな疑心が顔を出す。

 

「若い天才なんて見飽きたくらいだし、そいつらも素直に応援してる。ただ俺も聖人君子じゃないから、魔が差す事もあってな。つい自分の器を疑っちまう。あいつらには言えないけどな」

 

 鏡洲について、湊は詳しく知らない。天衣が奨励会員として仕事や礼節を学ぶに当たり、頼れる人物は居ないかと月光会長に尋ねたところ、第一候補に挙げられたのが彼なのだ。

 

 ただそれでも、いつ四段になっても可笑しくないほどの実力を備えている事と、その上で何年も三段リーグで足踏みしている事は伝え聞いている。将棋界における不条理の一つだ。十分な実力があろうとも、必ず棋士になれるわけではない。

 

「……諦めようとは思わなかったんですか?」

「夢があるからな。ギリギリまで足掻くさ」

「よければ夢について伺っても?」

「んっ、そうだな……」

 

 しばらく目を彷徨わせた鏡洲は、やがて諦めたように嘆息した。

 

「四段昇段の記ってあるだろ?」

「将棋世界のやつですね。いつも読んでますよ」

「あれを書きたいんだ。最後の一文だけは決めてあって、それが夢だな」

 

 照れ臭そうな鏡洲は、同時にどこか誇らしそうで、子供のような純粋さを感じさせた。その姿に応援したいと思わされるのは、彼の人徳が為せる業だろうか。

 

「なるほど。最後の一文にはなんと?」

「あー、他の奴には内緒な? 夜叉神ちゃんの先生だから特別だ」

 

 鏡洲は辺りをキョロキョロ見回して、その一文を湊に告げた。

 

 ――――――いつまでも将棋を好きでいたい。

 

 心臓が跳ねたのは、無理からぬこと。思わず息を詰めて鏡洲を見詰めれば、そこにはどこまでも澄んだ目をした青年が居た。それだけで、この人が慕われる理由がわかった気がした。

 

「どんなに辛い事があっても、いつまでも、誰よりも、将棋を好きでいたい。それが俺の夢だから諦めずに頑張れるんだ。他の夢を掲げてたら、今頃は退会してただろうな」

「…………いい夢だと思います。とても、とてもいい夢だと」

 

 本心からの称賛だった。ともすれば、それだけで鏡洲の成功を祈りたくなるほどに。だからか、つい口を挟んでしまいたくなった。無責任な助言というものを。

 

「限界を感じたのなら、壊すのもアリだと思います」

「壊す? 何を壊すって言うんだ?」

「積み上げてきた自分の将棋を」

 

 疑問符を浮かべる鏡洲に、構わず湊は話を続けた。

 

「将棋の強さに関わる大きな要因として『読み』と『大局観』があります。そして大げさに言えば若い頃は『読み』が優れ、年を取ると『大局観』が優れるようになります」

 

 人間の脳は年齢によって得意とする能力が変わっていくが、総合的な情報処理能力は十代後半にピークを迎えるとされている。つまり単純な読みの速さや深さでは若い棋士の方が有利と言えるのだが、だからと言って年長の棋士の方が弱いとは限らない。

 

「年長の棋士でも若手と張り合える一因として、長年培ってきた大局観があります。若手が時間を掛けて読む手であっても、大局観に基づいて短時間で読める。それは間違いなく強みなのですが、一方で大局観に頼る事に慣れ、読みが疎かになる場合もあります。そして若手は若手で、大局観が未熟であるがゆえに、自分で読んだ手でなければ決断できない場合があります」

 

 いずれも経験から来る判断ミスだ。過去の成功体験が邪魔をして、入手した情報を十分に客観視できなくなってしまう。

 

「つまり将棋においては、必ずしも経験が利するとは限りません」

「だから壊すっていうのか? これまでの将棋を」

「はい。凝り固まった価値観を破棄して、再構築するんです」

 

 将棋の世界は発展目覚ましく、過去の常識がひっくり返る事など日常茶飯事だ。だが一方では、過去の常識に囚われた世界でもある。だからこそ時には積み上げてきたものを崩し、必要なものを取捨選択して、積み上げ直す。そうする事で、新たに見えてくるものもある。

 

「もちろん調子を落とすだけになる危険性は否めません。ですが自分に限界を感じているのなら、殻を破りたいと思うのなら、これまで通りの努力では怠惰が過ぎると言えませんか?」

「……耳が痛いな。けどまぁ、一理あるか」

 

 何度か頷く鏡洲の表情は、真剣に今の話を検討しているようだった。

 

「ちょうどいい知り合いも居るし考えてみるよ。ありがとう」

「いえ。自分でも余計なお世話だった気がします」

「んなこたないさ。おっと、呼ばれたみたいだから、もう行くよ」

 

 離れていく背中を見て、湊は一つ忘れていたと慌てた。

 

「――――鏡洲さんっ」

「ん? まだ何かあったか?」

「鏡洲さんは九頭竜竜王とお知り合いですか?」

「ああ。昔は面倒を見てたし、今もちょくちょく会ってるよ」

「では伝言をお願いします。指し初め式で指したのですが、その件で」

 

 九頭竜八一を直接見てみたい。そんな興味本位から、湊は指し初め式に参加した。すると運よく指し初め式の相手を務められた上に、引き継いだ盤面が面白い事になっていた。だから魔が差したと言うべきか、指し掛けで終わるからと、悪戯心が顔を出したのだ。

 

 立ち止まった鏡洲に向けて、湊はその言葉を伝えた。竜王が感付いた、その仕掛けを。

 

 ――――――最後の局面、何手詰だと思いますか?




★次回更新予定:7/19(日) 19:00

六巻を読む限り原作世界の指し初め式はもっと好き勝手に指しているようですが、本作では作劇の都合によって現実に寄せた形式にしました。

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