まほうつかいのおしごと! 作:未銘
例会の日の朝は早く、一日は長い。
毎月二回、週末に開かれる奨励会の例会は、午前九時から最初の対局が始まる。当然集合時間はそれよりも早く、八時五十分頃から始まる朝会に出席する必要があるし、将棋盤の準備や駒磨きをする当番になればもっと早い。
朝会で行われるのは、主に出席者の点呼と手合いつけだ。なんらかの事情で例会に出席できない者も出るため、いきなり不戦とならないよう、その日に対局の組み合わせを決めるのである。
新年一回目の例会。4級になって以降、ここまで六勝三敗の天衣は、三連勝しなければ昇級点に届かない。正念場と言えるかもしれないが、彼女自身は落ち着いたものだ。
強くなる。奨励会に入会した時、湊と話し合って決めた目標はそれだけだった。
言ってはなんだが、小学生将棋名人戦やマイナビ女子オープンにおいて、明確に敗北を意識した相手は祭神女流帝位のみ。月夜見坂女流玉将であっても、天衣は余裕を持って勝利を収められた。負けない事に重点を置き、手堅く指した面もあるが、実力差があったのは間違いない。
では奨励会はどうなのかと言えば、やはりアマチュアや女流棋士とは全体の実力が違う。かつて奨励会に入会した月夜見坂女流玉将が、一度は5級へ昇級したものの、最終的に6級で退会したと言えば、その差もわかろうというものだ。
天衣とて級位者の内は勝ち切れる自信はあるが、段位者となったら話は変わるし、三段リーグは言わずもがな。故に棋士を目指すなら、目先の白星よりも棋力の向上が重要だと考えた。その一歩として取り組んだのが、夜叉神天衣の将棋を見直すこと。
受けが上手いとは湊の評だ。もっと鋭い攻めができる、とも。
相手の攻め筋を見切れているのなら、自身の攻めも受けも効率化できるという話だ。また研究を重ねて既存の定跡に独自の工夫を加えられる天衣だが、一方で従来の発想から大きく外れた戦法にならないという面もあり、悪く言えば小さく纏まっていた。
だからこそ多少の黒星なら許容できる奨励会で、殻を破ろうと決意したのだ。結果的に落とした白星もあるかもしれないが、将来に繋がると信じている。
強くなれば結果もついてくると思えばこそ、目先の勝敗に囚われるべきではない。
そうして迎えた本日一局目。相手は3級の男子中学生で、今回が初対局となるはずだ。奨励会の一級差は平香交じり。最初だけは振り駒で平手か香落ちかを決めて、以降は平手と香落ちを交互に繰り返す。今回は平手に決まり、下手である天衣の先手となった。
対局相手の表情は硬い。ピリピリと緊張感が漂い、対局場の空気が引き締まっていく。
「「よろしくお願いします」」
定刻。互いに礼をして対局を開始する。初手で飛車先を突いた天衣に対し、相手は角道を開ける開幕となった。一息。湊に貰った扇子を握り締め、さらに飛車先の歩を進める。そうして3三角を強要したところで、天衣もまた角道を開けていく。
例会での対局において、天衣は自玉の囲いを薄くして攻める事を意識してきた。どれだけ攻めを凌げるのか、逆にどれだけ攻め入れるのか。綱渡りの状況で、自身の読みの限界を探ってきた。
そんな対局を続けている所為か、最近の相手は囲いの堅さを重視しているように感じる。構わず攻め潰せれば天衣の勝ち、途中で読み誤れば天衣の負け、といった具合だ。
今回の相手も同じかどうかは知らないが、天衣は新戦法を携えてきた。
初手から飛車先を伸ばし、早繰り銀で早々に攻め掛かる奇襲戦法。角道を開けた相手に最初から2五歩と形を決めるのは損という考えが一般的だが、主導権を握れるのなら、その限りではない。横歩取りやゴキゲン中飛車など後手の有力戦法を、2五歩で制限してペースを掴むのが狙いだ。
相掛かりの研究中に浮かんだ思い付きだったが、これが意外と悪くない。素人じみた愚直な攻めであろうとも、自玉の囲いすら捨てた圧倒的な速攻は強力だ。考えた天衣自身ですら成立するのか疑わしかったが、研究を進めた結果、十分に通用すると判断した。
「なんだこれ……」
一心に右辺を攻め上がる天衣に、相手は戸惑いの声を上げる。さもありなん。暴走機関車じみた攻めは、知らなければ素人のようにも見えるだろう。
見慣れぬ局面に疑心暗鬼となっているのか、序盤から相手の持ち時間消費が激しい。それでも、事前研究を外れた手はない。ノータイムで指し続ける天衣に、相手の焦りが増していく。
四十手を超える頃には勝勢となり、相手は一分将棋となっていた。目立って悪い手があったとは思わないが、さしたる好手もなかった。初見の戦法に相手が翻弄された形だ。
「…………負けました」
「ありがとうございました」
結局、一度も主導権を放さないまま天衣は勝利した。級位者の対局は持ち時間六十分。おおよそ三時間程度の対局時間が多いが、今回は二時間も経っていない。
「感想戦を頼む。納得したい」
「ええ、もちろんよ」
歯を食い縛って絞り出された言葉を、天衣は頷いて了承した。
級位者の対局は一日三局。正午には次の相手との対局が始まる。だからこそ敗戦後の切り替えは重要で、その方法は人によって様々だが、今回の相手は感想戦で整理をつけるタイプらしい。
そうして長めの感想戦を終えた天衣は、勝者として対局結果の記録に向かう。これで七勝三敗。残る二局も勝てば、九勝三敗で昇級点に届く。
「ま、気にしてもしょうがないわね」
もっと強くなる。今はただ、それだけを考えればいい。
最終的に、この日の天衣は三連勝。入会から四ヶ月での3級昇級と相成った。
■
将棋を教えるのは難しい。そんな当然の事実を改めて実感させられたのは、クリスマスに弟子のお願いを聞いたから。嬉しい申し出ではあったが、湊の頭を悩ませる難題でもあった。
御影湊の将棋を教える。より正確には、前世で培った将棋を。得意戦法に限ったとしても、ただ知識を伝えるだけでは上手くいかない。棋風というのは、それほど単純なものではない。
では見込みがないかと言えば、それも違う。死地にあってなお活路を見出せる受けのセンスは、かつての『彼』も備えていたものだ。活かせれば、望む形に近付けるだろう。
最大の問題点は、湊自身が『彼』の将棋を説明し切れないこと。
棋譜はわかる。理念もわかる。だが当時の自分が、どんな感覚で指していたのかはわからない。あまりに見ている世界が違い過ぎて、繊細な部分を再現し切れないのだ。
かといってそうした細部に目を瞑ってしまうと、天衣の願いから離れてしまう。何より湊自身の欲として、伝えられるなら伝えたい。
散々に悩んだ湊が出した結論は、ある人物に頼ること。『彼』の将棋をよく知る棋士に、天衣の練習相手を務めてもらう。それが可能な存在に、一人だけ心当たりがあった。思い立ったが吉日。これまで避けてきた癖に、弟子のためならあっさり方針転換するのだから、湊もいい加減だ。
「――――――変わらないもんだね」
呟く湊が見上げるのは、古ぼけた二階建ての木造建築。石垣塀の門は開かれ、青い暖簾に白字で『ゴキゲンの湯』と書かれている。懐かしさに目を細めた彼は、慣れた様子で暖簾を潜った。
生まれ変わる前の『彼』には、随分と世話になった兄弟子が居た。一匹狼で、あまり慣れ合いを好まない人だったが、その実、面倒見のいい優しい人だ。
だから悪いと思いつつも、つい甘えて頼る事が多かった。研究会もその一つだ。上京して関東に籍を移し、やがて現名人の研究会に参加するようになった後も、得意の相掛かりだけは兄弟子との研究会でしか本当の成果を披露しなかった。
理由はいくつかある。兄弟子は独特のセンスの持ち主で、いい刺激になったこと。振り飛車党の兄弟子なら、相居飛車戦法である相掛かりを見せても、自分では使わないこと。何より打倒名人を目標としていたから、名人に知られるわけにはいかなかったこと。
俺に居飛車を指させるなと、いつも兄弟子は愚痴を零していたが、なんだかんだと付き合ってくれる人だった。そしてだからこそ、誰よりも『彼』の相掛かりを理解しているはずだ。
「大人一人でお願いします」
番台に立っていた大人しそうな少女に料金を払い、二階の将棋道場に足を向ける。漏れ聞こえるピアノのジャズ演奏に、自然と湊の頬は緩んでいた。
将棋道場に踏み入れば、懐かしさを覚える光景。ところどころ内装は変わっているが、それでも記憶と変わらないこの場所は、色々と胸に込み上げるものがある。
チラホラと好奇心を乗せた視線が向けられるが、すべて無視して奥へと向かう。不在なら常連と指して顔を繋ごうかと考えていたが、幸い目当ての人物は定位置でピアノを弾いていた。数日前に玉将戦の第一局を終えたばかりのはずだが、昔と変わらずマイペースだ。
生石充。タイトル保持者となったかつての兄弟子は、湊が近付いても気にした風はない。
「玉将、僕と一局どうですか?」
若造の不遜な申し出に、道場の客がざわついた。一方で対局を持ち掛けられた当人は、チラリと視線を寄越しただけで、そのまま演奏を続けている。つれない態度だが、タイトル保持者なのだ。相手にされなくて当然だろう。だが湊とて、無策で訪ねてきたわけではない。
口を開く。用意してきた言葉は、思いのほかスルリと舌の上を滑っていった。
「風呂掃除、手伝いますよ。手間賃は弾んでくださいね」
その言葉に、周りは疑問符を浮かべるばかり。しかし生石だけは片眉を跳ね上げ、湊を睨んだ。沈黙。やがて痺れを切らしたのか、演奏を止めた生石が面倒そうに立ち上がる。
「どこで聞いたか知らねえが、いいぜ、相手してやる。半端な将棋を指したら承知しねえぞ」
苛立ちを滲ませた声音に、むしろ喜びが胸を満たし、湊は笑顔で頷いた。
■
指し初め式の二日後には会場入りというスケジュールに辟易としながらも、無事玉将戦第一局で勝利を収めたのは、新年の滑り出しとして上々だろう。三週間後の第二局に向けて研究をしつつ、時折、気晴らしがてら将棋道場に顔を出す。
そんな日常に割り込んできた異物に応じたのは、もちろん理由がある。
生石充には、かつて手の掛かる弟弟子が居た。生石よりも年上で、生石よりも後に弟子入りした癖に、生石よりも先にプロ入りした生意気な弟だ。
才能という名のこん棒で殴りつけてくるような、荒っぽい将棋を指す棋士だった。手厚く勝つ、という発想がなく、激しい駒の奪い合いを好む粗削りの棋風。なのに強い。特に終盤はズバ抜けたものがあり、信じられない勝負手を繰り出す事が多かった。
だからだろうか、名人に憧れたのは。削り出したままの原石みたいな弟弟子の目には、あらゆる面で磨き抜かれた名人の将棋が、眩しく映ったのかもしれない。兄弟子としては複雑な感情もあるのだが、名人ほどの傑物でなければ憧れ足り得ないと言われれば、納得してしまうのも確かだ。
天才だった。将棋を始めたのが遅かった所為かチグハグで、調子の波が激しいタイプだったが、その才能を疑った事はない。四段に昇段した年齢なら生石の方が若かったが、奨励会の在籍期間は弟弟子の方が短かったほどだ。
現名人と同年代であったから、将棋を始める時期が早ければ、名人世代の一人として名が売れていたかもしれない。そのくらいには、生石は弟弟子の事を評価していた。
もっとも、今となっては詮無い話だ。もうずっと前に、交通事故などというつまらない理由で、弟弟子はこの世を去ってしまったのだから。
さておき生石が覚えている弟弟子との思い出として、プロ入り後も続けた研究会がある。さほどキッチリしたものではなく、ひょっこり顔を出した弟弟子が、突発的に申し出てくるものだ。
その時の弟弟子は、いつも同じ誘い文句を使っていた。
――――――風呂掃除、手伝いますよ。手間賃は弾んでくださいね。
風呂場のタイルを磨くモップの捌き方が、振り飛車の捌きに通じる。いつだかに聞かせた持論がツボにハマったらしい。それ以来、弟弟子は、生石と相振り飛車で指す事を風呂掃除と呼ぶようになった。つまり振り飛車に付き合ってやるから、後で居飛車に付き合えという図々しい要求だ。
そんな弟弟子の定番口上を、見も知らない小僧が引っ提げてきた。さして吹聴した覚えはなく、身内繋がりで知ったのだろうが、得意げに使われれば腹も立つ。
ニヤけた面に一発叩き込むつもりで対局を引き受けた生石だが――――――、
「チッ、可愛くねえガキだ」
「誉め言葉として受け取っておきます」
得意のゴキゲン中飛車を繰り出した先手の生石に対して、後手の少年は三間飛車。相振り飛車の選択としては可笑しなものではないが、生石は喧嘩を売られたと判断した。
昔と比べて相振り飛車の定跡化が進んでいるのは確かだが、力勝負になりやすいのは否めない。いかにして相手の囲いを崩すか。その構想力が物を言う世界で、生石が得意とする領域である。
中盤、生石は自身の優勢を疑っていなかった。駒損を厭わない軽快な捌き。自身の囲いを犠牲にしてでも、相手の囲いを喰い破って玉を寄せる。それこそが捌きの神髄で、この対局でもイメージ通りに進められていた。そのはずだ。
だが終盤に入り、現在、未だ相手玉に届く気配がない。すぐ傍にあるはずなのに、手を伸ばせば届く距離に見えるのに、最後の一歩が詰められない。むしろ気付けば、喉元に刃を突き付けられているのは生石の方だった。
一瞬、弟弟子が頭をよぎったが、すぐに鼻で笑う。弟弟子の将棋は、こんなスマートなものではない。派手な勝負手を繰り出して、叩き切るようにねじ伏せてくる将棋だった。
何より情熱が足りない。淡々と指す少年の将棋には、なんの気持ちも乗っていなかった。なのに生石が指す手を見詰める目だけは熱心で、感情的で、どうにも調子を狂わされる。
「……ダメだな」
さらに何手か進めたところで、生石は結論を下す。
「俺の負けだ」
生石が投了を宣言すれば、観戦していた道場の常連たちがどよめいた。けれど盤上に嘘はない。早指しとはいえ、たしかに生石は少年に負けたのだ。
不思議と悪い気分がしないのは、年を取り丸くなったからか。弟弟子が同じように強襲してきた時は、延々と愚痴を零したものだが。それでも付き合った自分は、いい兄弟子だったに違いない。
「で、用件はこれだけか? 俺に勝ったんだ、話くらいは聞いてやるよ」
半ばヤケになって問い掛ければ、少年は懐かしむように目を細めた。
「僕の弟子と対局してほしいんです。もちろん相掛かりで」
「はっ、こいつはまた――――――」
最も重要な玉将戦の第二局まで二週間。ついそんな思考がよぎった自分が嫌になる。随分面倒な相手に絡まれたもんだと、生石は眉間を押さえて嘆息した。
★次回更新予定:7/26(日) 19:00