まほうつかいのおしごと! 作:未銘
勝負の世界は残酷だ。あるいは、残酷だからこそ勝負なのか。
しかし彼女は、己が才能の不足を自認していた。どれほど研鑽を積もうと、よくて女流止まり。棋士になるほどの器ではないと、小学生の時分に見切りをつけている。だから友人の月夜見坂とは異なり奨励会にも入らず、女流棋士として将棋界に貢献しようと努力してきた。
後悔はない――――――とは言わない。
結局は怖くて逃げただけ。自信がなくて、確かめる事すらできなくて、挑戦する前に逃げ出した臆病者だ。わざわざ口には出さないが、そんな自分を卑しく感じる気持ちが万智にはあった。
見た目だなんだと、将棋以外の部分であれこれ言われる女流棋士だが、それでも求められるのは強さだ。強さを示した後に、初めて付加価値に目を向けられる。誰もが女流棋士は弱いと見るが、その中の序列には拘るのだから面倒だ。
さりとて実力の証である女流タイトルに、如何ほどの価値があるのだろうか。空銀子がその気になれば、あっさり奪われてしまうだろう代物に、どれほどの。
自問してしまうのは、やはり自信のなさの表れで。だが女流タイトルを背負う者として、自負もある。強くならねばならない。強くあらねばならない。勝負師としての矜持は、たしかにある。
だから勝負の世界は残酷だ。たとえ届かぬ光でも、目を逸らすわけにはいかぬから。
「今日はよろしゅうな、『神戸のシンデレラ』サン」
「……あのくだらない記事を書いた記者は
二月二十八日。マイナビ女子オープン本戦、挑戦者決定戦。東京・将棋会館『飛燕の間』にて、万智は女王への挑戦権を争う相手と対峙していた。
夜叉神天衣。もうすぐ小学四年生に上がる少女は、不愉快そうに万智を睨み返している。年齢に見合った可愛らしい見た目だが、その将棋はまるで可愛いくない事を、万智は承知していた。
「こなたは『浪速の白雪姫』も名付けましたからなぁ。夜叉神3級も将来有望そうやし、どちらも名付けたとなったら、記者冥利に尽きますやろ?」
女流棋士の傍らで観戦記者のバイトをしている万智は、少し前に夜叉神天衣の記事を書く機会があった。空銀子を含めた過去の事例と比較し、どれほど抜きん出た存在なのかを示す提灯記事だ。あまり楽しい仕事ではなかったから、ちょっとした遊びのつもりで異名を添えたのだ。
神戸のシンデレラ。まったく無名の状態から、瞬く間に女流棋界の大舞台まで躍り出た経歴と、浪速の白雪姫との対比から考え付いた名だ。これが思いのほか受けたらしく、あっという間に定着してしまった。名付けられた本人は、どうやら不服みたいだが。
「どうでもいいわね。所詮は雑音に過ぎないのだし」
「つれませんなぁ。ちゃんと『先生』サンの事も考えた命名やのに」
ギロリと睨んでくる少女に、ニマリと笑顔を返す万智。
「シンデレラが舞踏会に出れたんは、魔法使いのお陰でおざりましょ? 夜叉神3級は先生サンのお陰とよう言いはるし、ピッタリのモデルどす」
胸の前で手を合わせた万智がにこやかに話すが、少女は警戒心も露わに黙したままだ。
夜叉神天衣について語る時、必ず俎上に載るのが『先生』なる謎の人物である。インタビューをすれば必ずと言っていいほど夜叉神の方から挙げる癖に、詳しい質問には答えてくれないという、なんとも記者泣かせの存在だった。
一時期は実在すら疑われていたが、正式な師匠に当たる月光会長が存在を認めてからは、どこの誰なのかという議論が将棋ファンの間で盛んになっている。
ただ万智個人としては、その正体よりも師弟の実態の方が興味深い。
強い棋士を育てた師は居ても、強い棋士を育てられる師は居ない。結局のところ、本人の才覚に頼るしかない世界だ。万智も師匠から教わった事は多いが、今の地位は自身の研鑽あればこそ、と自負している。どの将棋指しもそうだろう。世話になった人は居ても、将棋の実力は自分のもの。才能も、努力も、何より自身に依って立つと考えるのが当然だ。
翻って夜叉神天衣の奇妙な点は、評価の軸を『先生』とやらに置いていそうなこと。彼女ほどの才能があれば、普通はもっと我を出すものだ。形式張った謙遜にも見えず、おそらく本心。それは幼さゆえの盲信か、あるいは本当に話ほどの指導力があるのか。
「せや、将棋は海に似てると思わん?」
「はぁ? いきなり何を言い出すのよ」
怪訝そうな少女に構わず、万智は話を続けていく。
「どこまでも広ぅて深ぅて、導を見失ぅたら迷い果つる。ほら、海みたいや。遭難しぃひんよう、海の神さんに祈った方がええかな? 航海の安全祈願なら――――――こんぴらさんやろか」
「それって……」
どうやら無事に意図が伝わったらしい。途端に苛立ちを滲ませた少女は、警戒から敵意に顔色を切り替えている。かつての空銀子を思い出す姿に、少しだけ胸がざわついた。
「だったらあなたは人魚姫ね」
吐き捨てられた言葉に、万智が浮かべたのは苦笑か自嘲か。
何事か返そうとして、言葉を見付ける前に時間が来る。対局を前にすると、一転して少女の心は凪いだように見えた。空銀子とは対照的だ。対局相手ではなく将棋そのものに意識を向けている。どちらが勝負師向きかは知らないが、この場では眼前の少女の方が怖いと感じた。
やはり勝負の世界は残酷だ。怪物を前にしようとも、挑まぬわけにはいかぬから。
■
下手の考え休むに似たり。字義通り、ヘボ指しが長考しても無駄に時間を浪費するばかりという将棋の格言だ。戒めではなく、からかいの意図が強い言葉でもある。ただ正論なのは間違いなく、時には見切りをつけるのも将棋では重要だ。
じゃあ今の俺はどうなんだ、と自らを省みた八一は呆れ返った。
とっくに結論の出た局面を並べ直し、未練がましく脳に汗をかかせている。自宅で人を待つ空き時間に少しだけと始めたはずが、すっかりドツボに嵌まっていた。よくない兆候だと自覚しつつも抜け出せず、まだ時間はあるだろうと盤面に目を落として、
「~~~~っ」
小気味よい音と共に八一の頭がはたかれた。言葉にならない声が漏れ、頭を抱えてうずくまる。涙の滲む目で下手人を探せば、すぐに見知った影が見付かった。
「なにすんですか姉弟子!」
「無視するからよ。声、掛けたのに」
「だいたい勝手に入ってこないでくださいよ」
「チャイムは鳴らしたわ。出なかった八一が悪い」
腕を組んで仁王立ち。煌めく銀髪の持ち主が、冷めた目で八一を見下ろしている。一目で機嫌が悪いと見抜いた彼は、即座に反抗を諦めた。棋士には見切りをつけねばならない時がある。
「スンマセン。VSですよね? まぁ座ってください」
痛む頭をさすりながら、八一は対面の座布団を銀子に勧めた。
元から銀子には鍵を渡しているし、訪問は予定通りだ。そこまで腹が立っているわけではない。できれば頭をはたく以外の方法を取ってほしかった、というのも本心だが。
「これ、なんの局面?」
「……指し初め式ですよ」
歯切れ悪く八一が答えると、銀子は怪訝そうに眉根を寄せた。
当然だろう。指し初め式の局面なんて、普通はわざわざ並べない。複数人の指し継ぎかつ気楽に指すものだから、意義のある内容になる事は珍しいのだ。それこそ八一が並べている局面だって、研究資料としての価値は低い。
なのにこうして睨めっこしているのは、気に掛かるものがあるからだ。
「俺の手番なんですけど、相手が間違えなければ詰まされるんですよね」
「見落とした? 天下の竜王が間抜けなものね」
からかうような銀子の反応。一度も詰みを見落とさない棋士なんて居ない。加えて指し初め式は気が緩んでいるのだから、そんな事もあるだろう。八一だって他人事なら笑い話と考える。実際、悩みの種を運んできた鏡洲も、やっちまったなと笑っていた。
しかし詳細を理解している八一としては、安易に笑い飛ばせるものではない。
「三十四手先なんです」
面白いように、銀子の表情が固まった。
「指し継いだ瞬間から読み始めたとしても、せいぜい一分程度。たったそれだけの時間で、相手は三十五手詰を読み切った事になります。この雑多な盤面から」
「……偶然でしょ?」
銀子の気持ちはわかる。八一とてそう思いたい。
三十五手詰は、決して長過ぎる手数ではない。詰将棋ならその何倍も長い問題があるし、たとえ実戦であろうとも、手が限られる終盤なら五十手先すら読めるのが棋士という生き物だ。
ただ詰将棋には出題者の作意があるし、終盤の読みだってそれまでの流れを把握した上で時間を掛ければこそ。他人から引き継いだ将棋で、時間も一分足らずとなると、普通は無理だ。鏡洲から話を聞いた八一も、詰みを見付けるのにいくらか時間を要した。
たまたま気付いて、ろくに検討もせずに結論付けただけ。それで調子に乗って言付けを頼んだと思いたいのだが、数手とはいえ対局した時の感覚が否定する。
つい自分の世界に浸りそうになった八一に、銀子が呆れた様子で嘆息した。
「気にし過ぎ。そんなんだから負けが続くのよ」
「うぐっ。痛いところを突きますね」
言葉の刃に、八一の口端が引き攣った。
竜王位獲得以降の八一は、公式戦での負けが込んでいる。このままだと二桁連敗もあり得そうな状況で、最強のタイトル保持者としては情けない限りだ。同じ関西タイトル保持者の生石は玉将の座をストレートで防衛したため、最近は比べられる事も少なくない。
もちろん、不調の要因は竜王の肩書きだろう。八一はタイトルの重みを背負うし、相手は格上と思って本腰を入れる。一介の四段だった頃と比べ、すっかり対局の空気は変わってしまった。
ただ言い訳がましいが、指し初め式の件を気にしなかったと言えば嘘になるだろう。
「まぁ俺もプロですし、とっくに見切りはつけてますよ。研究資料としても役立ちませんし。今日は姉弟子が来るってんで、ちょっと見直してただけです」
「なんで私が出てくるのよ?」
「この相手、夜叉神3級の『先生』らしいんですよ」
瞠目する銀子に気まずくなった八一は、誤魔化すように頬を掻く。
「負けちゃいましたね、供御飯さん」
「……少し予定が早まっただけでしょ」
辛辣な物言いに苦笑しつつも、八一に反論する気はない。
供御飯山城桜花が、夜叉神3級に負けた。つい先日の出来事だ。とうとう女流タイトル保持者の三人抜きだと世間は沸いているが、小学生の頃から万智を知る八一としては残念な気持ちがある。とはいえ結局は銀子に勝てないと八一も考えているので、銀子の言葉を否定しづらい。
ともあれ挑戦者が夜叉神3級に決まったため、ふと『先生』の存在が思い起こされたのだ。そこで銀子が来るまでの暇つぶしにと棋譜を並べ、ついついのめり込んでしまった。
「挑決の内容、どう見ました?」
「山城桜花じゃ力不足ね」
フンと鼻を鳴らして、銀子は不機嫌そうにそっぽを向く。
「小童の棋風が変わってた……実力も」
「やっぱり姉弟子もそう感じました? 俺は姿焼きの予想だったんですけど」
「そうね。おそらく小童の適性は受け。確実に勝つなら姿焼き狙いでいい」
穴熊の姿焼き。将棋の囲いの中でもひと際堅い穴熊囲いにおいて、攻める手立てを失った状態を指す。堅牢な守りを頼みに攻め掛かる穴熊だが、代償として自玉には逃げ場が存在しない。自身の攻めが途切れれば、あとは囲いを剥がされて詰まされてしまう。
そして万智は穴熊囲いを得意としており、公式戦での採用率が非常に高い。山城桜花を攻略する場合、この穴熊をどうするかというのが争点になるが、八一の予想は受け将棋。雷の捌きすら受けきった夜叉神なら、無理に攻めずとも受けに回れば勝てると睨んでいた。
「攻めるにしても、組ませない方向になると思ってた」
「ですよね。早繰り銀も対策の一つだと読んでたんですが」
穴熊対策の一つは、そもそも相手に穴熊を組ませない事だ。そのためには速攻が有効で、例会で夜叉神が見せたという早繰り銀も、その一つとして考案したのだと推測していた。
しかし実際に夜叉神が選んだ戦法は違う。受けに回るのではなく、速攻を仕掛けるのでもなく、穴熊を組ませた上で崩しに掛かった。真っ向勝負と言ってもいい。
「……正直、彼女を天才だと感じたのは初めてかもしれません」
何言ってんだコイツ、という銀子の視線が痛い。
「いや、年齢と実力を考えたら天才なのは当然ですよ。でもほら、彼女の将棋って秀才タイプじゃないですか。あくまで道理に沿ってるというか、棋譜を見たら指し手の意図はわかりやすい」
真っ当に強い。それが八一の抱く、夜叉神天衣に対するイメージだ。解説するのが楽そうだ、と感じるくらいには理論的で、奨励会で見せる苛烈さや新手も、根底にある考えは理解できた。
「でも昨日の対局は、いまいち説明が難しいんですよね。率直な印象は感覚派。大駒で叩き切りに行った時はタイミングを間違えたと思いました」
振り飛車穴熊の万智に対し、四間飛車の美濃囲いを選択した夜叉神は、飛車角で穴熊を崩そうと試みた。それ自体はオーソドックスな攻略方法の一つで、上手くやれば素早く囲いを崩す事も可能だ。しかし相手に大駒を渡すのでリスクがあり、機を見誤れば自らの劣勢を招く。
これまでの夜叉神なら、少なくともマイナビ女子オープンでは避けていた攻め方だろう。八一も棋譜を見た時は逸り過ぎだと考え、形勢を損ねると予測した。
「攻め駒が上手く捌けてるんですけど、改めて見ても不思議というか、感覚的な判断に思えます。終局図を見れば供御飯さんが一歩及ばなかったようにも見えますが――――――」
その一歩の間には、きっと深い溝がある。
万智が追い縋ったのではなく、自玉には届かないと夜叉神が見切った。八一はそれをセンスだと考える。年齢と実績から測る才能ではなく、指し回しから漂う独自の感性。以前の夜叉神には感じなかったそれが、万智との一局には宿っていた。
本気を出したのか、あるいは磨いたのか。磨いたとすれば、自力か他力か。
八一の脳裏をよぎったのは、指し初め式で対面した少年の姿。インタビューから察するに随分と弟子から慕われているし、指導者としても優れているのかもしれない。関東に所属するライバルもそうだが、上手くやっている同年代と比べて、どうしても己の停滞感が拭えない。
竜王は最高位のタイトルだ。けど今の自分は、それに見合った棋士なのだろうか。
「――――八一ッ」
「あ、はい! すみません!!」
叱責するような銀子の声に、反射的に背筋が伸びた。いつの間にやら盤上の駒が並べ直されて、対局の準備ができている。鋭い眼差しが、正面から八一を貫いた。
「指すわよ。私たちは将棋指しなんだから」
灰の瞳に宿るは闘志。何年も見続けてきた勝負師の顔。それを前にすると、自然と気持ちが奮い立つ。負けていられないと、八一は腹の底に力を入れた。
「そうですね。せっかく姉弟子が来ているんですし」
「よし。あと今日は相掛かりに付き合って。得意でしょ?」
「かまいませんけど、なにかあったんですか?」
一瞬だけ、沈黙。次いで紡がれた声音は、なんとも忌々しげな響きを伴っていた。
「……五番勝負の第一局は、相掛かりになるわ」
「えっ? もしかして夜叉神3級に会ったんですか?」
重ねて問えば、不愉快そうに銀子の眉間に皺が寄る。
「絶対に頓死させてやる」
あ、これアカンやつだ。将来の荒れ模様を予見し、己に被害が及ばぬよう祈る八一だった。
★次回更新予定:8/9(日) 19:00