まほうつかいのおしごと!   作:未銘

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2015年
#002 初めての対局


 夜叉神 天衣(あい)の人生は、常に将棋と共にあった。

 

 大学の将棋部で出会ったという両親は、結婚を経ても変わらず将棋を愛し、生まれた娘にもその素晴らしさを教え込んだ。人形代わりに将棋の駒を握らせるような教育は、幸か不幸か成果を結び、棋譜並べを遊びと捉えるような子供が出来上がった。

 

 天衣が覚えている最古の記憶は、将棋盤を挟んだ父の顔。まだルールも知らず、ただ父の真似で将棋を指していたころ。隣には優しく見守る母が居て、時折、天衣の手を握り駒を動かしてくれる。つまりはそれが、彼女が知る幸福の原点で。故に幸福は、将棋と家族に帰結する。

 

 幼稚園でも小学校でも友達を作らない天衣を両親は心配していたが、彼女にしてみれば、家族や将棋に触れる時間と比べたら、どうしても物足りなく感じてしまうのだ。父が居て、母が居て、一緒に将棋を指す時間は幸せだった。それだけで、夜叉神天衣は満たされていた。

 

 そんな時間は、もう二度と訪れないのだけれど。

 

 交通事故というありふれた理由で、天衣が両親を失ってから一年余り。祖父に引き取られた彼女は大切に扱われているけれど、胸の奥に空いた穴は塞がらない。むしろ日に日に両親との思い出が薄れていくようで、一層心が冷たくなるようで、悲しみだけが忘れられなかった。

 

 だから天衣は、今日も今日とて将棋を指す。両親との思い出は、常に将棋と一緒にあったから。少しでも時の流れに抗おうと、彼女は盤面と向き合っていた。

 

 手にしているのは、父が自ら編纂した棋譜集だ。天衣の小学校入学記念に贈られたそれは、父が友人と指した棋譜をまとめたものであるらしい。対局相手の友人の事は、天衣もよく知っている。アマ名人として三連覇を果たした事もある父が、ただの一度も勝てなかったという強者。彼の話をする父は楽しげで、天衣が羨むほどに仲がよさそうだった。

 

 ――――――彼は僕の先生なんだ。もし天衣が棋士を目指すなら、親子で一緒に教わろう。

 

 ありし日の約束。この棋譜集を渡された時、そう告げられた天衣は、ただ無邪気に喜んだ。父と一緒という言葉が嬉しくて、何度となく話に聞いた『彼』に教わるのが楽しみで、いつか来るかもしれない未来に想いを馳せた。

 

 けれど、今、天衣の目は過去にばかり向いている。時系列に沿って並べられた棋譜集は、成長の軌跡そのものだった。何を誤り、何を学び、どこへ繋がったのか。添えられた注釈と併せて読み解けば、父の将棋と、その歴史が現れる。だからいつまで経っても、手放せない。

 

 驚嘆すべきは、この棋譜集から『彼の将棋』が読み取れないこと。誰しも将棋には人となりが現れ、局数を重ねるほど癖や嗜好が詳らかになる。しかし『彼』にはそれがない。どれだけ棋譜を読み込もうと特徴らしきものはなく、ただ常に、何かしらの課題を仕掛けている。

 

 父の成長を試すように、また次の成長へ繋がるように、『彼』は盤面を操っていた。父の将棋に合わせるからこそ、自分の将棋が現れない。それ故に無駄がなく、残された棋譜は美しい。

 

「……っ」

 

 つんと鼻の奥が痛くなり、零れた涙が盤を濡らす。

 

 棋譜を並べると、穏やかな父の笑顔が浮かぶ。月に何度か『彼』と指し、帰ってきて楽しそうに報告する父の姿が、天衣は大好きだった。父が語る友人の事も尊敬していて、棋譜集を辿る度に、二人がよき友人であったのだと再確認させられる。

 

 けど、なら、どうして――――――――父に会いに来てくれないのか。

 

 葬儀でも一周忌でも、姿を見せなかった父の友人。手配は祖父任せなので、天衣に詳しい事情はわからないが、それでも思わずにはいられない。父の友だと言うならば、父の愛した将棋が結んだ縁ならば、どうして未だに顔も見せに来ないのかと。

 

 孫に甘い祖父に頼めば、一週間と待たずに連れてくるだろう。それをしないのは、無理やりでは意味がないという考えと、向こうは大切な縁と思っていなかったのでは、という恐れがあるからだ。あり得ないだろうが、もし忘れたなんて言われたら、自分がどうなってしまうかわからない。

 

「……はぁ。(あきら)、悪いけどお水を――――」

 

 込み上げる感情を吐き出し、涙を拭う。次いで部屋の外に立っているはずの世話係に声を掛けてから、今日は居ないのだと思い出す。普段は天衣の傍を離れる事のない世話係だが、今日は祖父が客人の応対を任せていたはずだ。天衣も、客人に会ったら失礼のないよう言い含められていた。

 

 客人に興味はないが、乾いた喉を潤したいなら、天衣が動く必要があるという事だ。追加の溜め息を零し、座布団から立ち上がる。障子を開けて廊下に出た天衣は、黙って台所を目指した。

 

 見慣れた家中で気付いた違和感は、一室の襖がわずかに開いていたこと。祖父にしろ雇っている者たちにしろ、このように中途半端な事はしない。覗き見でもしたのだろうかといった隙間だが、少なくとも廊下に人影は見えなかった。

 

 無視して素通りできなかったのは、その部屋に両親の仏壇が置かれているからだ。ひょっとして両親の知り合いが来たのかと、周りに人影がない事を確認した天衣は、こっそり中を覗き込んだ。

 

 はたしてそこには、一人の少年が居た。見える横顔は年若く、おそらく高校生に届くかどうか。綺麗に切り揃えられた黒髪。真っ直ぐ伸ばされた背筋。涼やかな印象を与える顔立ちも相まって、育ちのよいお坊ちゃんという雰囲気を漂わせている。

 

 息を呑み、目を見開く。天衣が知る限り、両親の関係者で該当する人物は一人だけだ。

 

 一瞬だけ少年の奥に座る祖父と目が合ったが、特に注意される事はなかった。一方で少年はただ静かに手を合わせ、目を瞑って仏壇に向かっている。そこに言葉はないけれど、だからこそ真摯な態度がものを言う。思わず泣きそうになって、天衣は唇をキツく結んだ。

 

 やがて黙祷を終えた少年が祖父と向き合ったところで、天衣は部屋の中へ入っていく。はしたなく襖を開けると音が響き、振り返った少年と目が合った。

 

 胸が詰まる。言いたい事はたくさんあったはずなのに、グルグルと思考が巡ってまとまらない。口を開いて、閉じて、震える奥歯を噛み締めて。

 

「――――――ねえ、将棋の相手をしてくれない?」

 

 絞り出せたのはそんな言葉で、たぶんそこには、天衣のすべてが詰まっていた。

 

 

 ■

 

 

 天祐が一年以上も前に亡くなっていた。将棋道場の常連客から始まり、何人かの将棋関係者を経由して手に入れた報せは、久しくなかったほどの衝撃を湊に与えた。生まれ変わったと認識している彼ではあるが、前世の記憶では祖父母も両親も健在だったし、死に際の出来事は覚えていない。だから身近な人間との死別は馴染みが薄く、危うく仕事を落としそうになったほどである。

 

 わざわざ高校進学ではなく翻訳家の道を選んだというのに、これでは紹介してくれた父に面目が立たない。将棋に時間を使うための在宅仕事だが、だからこそ真面目に取り組むべきだろう。

 

 とはいえ天祐の件も重要だ。急ぎ仕事を進める傍ら、せめて線香をあげるだけでもと、どうにか遺族に渡りをつけたのが一週間前のこと。幸い年が離れた将棋仲間の存在は知られていたらしく、トントン拍子に訪問の日取りが決められた。電話越しでもわかるほどの歓迎の雰囲気に、連絡先を交換していなかった自分が情けないやら悔しいやら。就職を機に買ったスマホを睨んだものだ。

 

 そして本日、教えられた夜叉神邸まで足を運んだ湊は、まず屋敷の威容に圧倒された。彼の生家も資産家で、同じ神戸市内に居を構える身だが、広大な和風建築と比べれば見劣りする。加えて出迎えたのが威圧感のある黒服集団であったから、思わず踵を返したくなったのもむべなるかな。

 

 幸い屋敷の主人であり、天祐の父でもある夜叉神 弘天(こうてん)は精悍ながらも穏やかそうで、優しく湊を迎え入れてくれた。彼ともう一人、晶と呼ばれた若い黒服の女性に連れられて、湊は一年振りに天祐と対面した。見慣れた顔が、見慣れぬ黒縁に飾られている。

 

 ようやく腑に落ちたというか、渋滞を起こしていた感情が、本来の流れに沿って動き始める。泣かなかっただけでも上出来だろう。上手い言葉も出てこず、ただ促されるままに座り、線香をあげる。黙祷の間に考えたのは、なんだったか。色々と頭をよぎったはずだが、言語化するのは難しい。ただ黙祷が終わった時には、幾分か晴れやかな気持ちになっていた。

 

 さて時間が許すなら故人の話でも、と湊が弘天と向き合ったところで、襖が開かれた大きな音。自然と彼が振り向くと、そこには少女が立っていた。

 

 未だ十歳に満たないであろう幼い彼女は、毛先が跳ねた黒髪を腰まで伸ばし、同じく黒の衣装を纏っている。湊が目を引かれたのは、可憐な容貌に浮かんだ大きな瞳。普段であれば意志の強さを表すであろうそれが、今は不安げに揺れていた。

 

「――――――ねえ、将棋の相手をしてくれない?」

 

 沈黙の後に絞り出された提案を、湊は反射的に了承する。

 

 夜叉神天衣。それが少女の名前だと気付いていたし、友人の忘れ形見である事も気付いていた。けど受けた理由はそれらじゃなくて、ただ縋るような双眸から、逃れられなかったのだ。

 

 特に弘天から注意される事もなく、速やかに対局の準備が進められた。場所は天衣の希望により仏間のまま。二人は将棋盤を挟んで向かい合い、横合いから弘天と晶が見守っている。

 

「駒落ちなしの平手戦。先手は私がもらう」

「かまわない。君の将棋を見せてくれ」

「……これ、あなたとの初めての対局だから」

 

 にわかに天衣の表情が歪む。その理由を問うより早く、小さな頭が下げられる。

 

「だから、よろしくお願いします」

「……よろしくお願いします」

 

 始まる対局。盤上に意識を向けた次の瞬間には、あらゆる道筋が湊の脳裏を埋め尽くす。相手がどこに指そうとしているのか、その後の手順をどう読んでいるのか。見落とされた読み筋も、幾多とある湊の勝ち筋も、余す事なく見通せてしまう。

 

 湊にとってはいつもの事だ。いつもの事なのに、奇妙な点があった。

 

 天衣の初手は7六歩。一手目に迷いがない指し手はよく居るが、彼女の場合はその先に見ている手順がおかしい。湊には相手の読み筋がわかる。幾筋とある読みの中で、どれを重視し、どれを軽視しているのかも、感覚的にわかってしまう。その感覚に従うと、天衣は初手を指した段階で、たった一つの手順しか意識していない事になる。

 

 未だ湊の初手もなく、あらゆる可能性を考慮すべき局面だというのに、天衣の読み筋は頑なに過ぎた。まるで湊がそう指す事を祈るようなそれは、単純に勝利を望むものではないだろう。

 

 たっぷり一分は悩んだ後、湊は望まれた通りに8四歩を指した。

 

 居飛車の相矢倉。それが天衣の望む戦型で、驚くべき事に、彼女は終局の手順まで考えている。いや、どちらかと言うとそれは、湊と同じく『知っている』ように感じられた。

 

「――――あぁ、そうか。()()()()()()なのか」

 

 呟きを漏らせば、次の手を指した天衣の瞳が向けられる。指し手に迷いはないのに、湊を見る目は迷子のそれだ。少しでも安心させられればと、湊は柔らかく微笑み返した。

 

 次も、次も、その次も。逆らう事なく、天衣が望む盤面を組み上げていく。もはや互いの手には淀みなく、交わす言葉もそこになく、ただ駒を指す音だけが積み重なる。

 

 激しい叩き合いの中盤を越えて終盤となり、最後に指したのは湊だった。天衣は動かない。ただジッと、潤んだ瞳に湊を映す。今の一手で終わりなのだ。今の一手で、湊は『負けた』のだ。

 

 だってこれは、初めて()()()()()指した対局で、あの時の天祐に代わり、湊が指したのだから。負けるとわかっていても、この棋譜は崩せなかった。天祐は見ていただろうか。見ていたのなら、気付いただろうか。初めて会ったあの日から、自分がどれだけ強くなったのか。

 

「この手じゃ届かないね。負けました」

 

 万感の思いを込めて頭を下げる。御影湊として生まれてから、初めて負けた対局で、初めて満足できた対局だった。自分の将棋にも意味はあったと、ようやく実感できた。

 

 夜叉神天祐。プロにも勝るとすら謳われた彼の将棋は、二人で築き上げたのだから。

 

 やがて頭を上げた湊の視界に入ってきたのは、静かに涙を流す少女の姿。そこに悲しみも怒りもなく、あるいは自分が泣いている事に、気付いてすらいないのかもしれない。

 

「――――――とう」

 

 震える声音。濡れた顔が伏せられる。

 

「――――ありがとう。お父さまを覚えていてくれて」

「こちらこそ、ありがとうと言わせてほしい」

 

 溢れる涙を袖で拭うと、天衣は目線を湊に向けた。その瞳には、強い意志が宿っている。

 

「私の名前は夜叉神天衣。元アマ名人の娘で、いつか棋士になる女よ」

「僕の名前は御影湊。元アマ名人の友達で、将棋が得意なだけの男だよ」

 

 どちらともなく笑みを零し、頷き合う。

 

「私に将棋を教えてくれる?」

「……君が望むなら、いくらでも」

 

 湊が右手を差し出せば、天衣は黙って握り返す。その手の小ささを、湊は可能性だと思った。どこにでも行ける、なんにでもなれる可能性。それを全力で芽吹かせようと、亡き友に誓った。




百合は好きだし、シンデレラと言えば魔女のイメージが定番です。
でも天衣ちゃんと組むなら年上男性だよね、という理由で女主人公はやめました。
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