まほうつかいのおしごと!   作:未銘

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#020 なんてことない日

 なんてことない日だ。本当に、なんてことのない。

 

 春休みを目前とした日曜日に、湊と出掛ける。天衣にとってはそれだけだ。これまでだって湊に誘われる事はあったし、決して珍しい出来事ではない。一年の終わりに労いたいとか、マイナビで挑戦者に決まった事のお祝いだとか、たぶんその程度の意味合いだろう。

 

 だというのに天衣の世話係は、随分と張り切っていた。ウザいくらいに。

 

「お嬢様、お召し物はいかがなさいますか?」

 

 凛々しい顔付きで両手を突き出す晶は、それぞれの手に天衣の服を持っている。いずれもフリルスカートのワンピースだが、基調とする色が黒と白で対照的だ。普段の天衣が着る服装と比べて、フォーマルさよりも可愛らしさを強調した選択になっている。

 

「なにをそんなに意気込んでるのよ。別にいつもの事じゃない」

 

 呆れを乗せて言い含めれば、晶は得意げに胸を張った。ウザい。

 

「いいえ、初めてです。将棋が関わりませんから」

「そんな事は――――――」

 

 あるかもしれない。湊と関わる事柄は、なにかしら将棋を介するのが常だった。対して今日は、朝から晩まで将棋は無関係。本当にただ遊びに行くだけのお誘いだ。初めてと言うなら、たしかにその通り。だからどうしたのか、と天衣としては思うのだけれど。

 

「納得しましたね? では選んでください」

 

 調子のいい世話係に嘆息し、天衣は黒の衣装を指差した。選ぶまでもない。

 

「……黒ですね。かしこまりました」

「自分で着替えるから、外に出ていなさい」

 

 哀しげな晶の顔に気付かなかった振りをして、手を振って部屋から追い出した。

 

「まったく、気を回しすぎなのよ」

 

 着替えながらぼやく天衣だが、その実、気分を害したわけではない。

 

 二年半前に両親を亡くして以降、天衣は黒い服ばかり着るようになった。喪服のつもりであり、両親を忘れないという誓いでもある。当然身近な者は気付いているし、中でも晶は、その事を気にしている節があった。

 

 天衣を思っての事だとは理解している。それを煩わしいと、以前は感じていた。両親を偲ぶ事の何が悪いのかと、そんな風に反発していた。

 

 今は、少し違う。何故だろうか。自分の心以外にも、両親は居ると知ったからだろうか。

 

「――――――入っていいわよ。髪の方はお願い」

 

 喜び勇んで突入してきた世話係を窘めつつ、鏡台の前に座る天衣。湊に貰ったシュシュと愛用の櫛を携えて、背後に晶が立つ。

 

「今日はツーサイドアップで、お嬢様の愛らしさを強調しましょう」

「まかせるわ。好きにしなさい」

 

 面倒臭くなって投げやりに告げれば、機嫌よく晶が髪を弄りだす。そこに先ほどの哀愁はなく、至っていつも通り。鮮やかな手際を鏡越しに眺めながら、不意に天衣は口を開いた。

 

「……ねえ、晶」

「お呼びでしょうか?」

 

 鏡の中の晶は、括った髪のボリュームに不満があるのか、真剣な顔で調整している。

 

「女王を獲ったら、お父さまたちに報告しようと思うの」

「よろしいかと。きっとお喜びになられますよ」

 

 報告を兼ねた墓参りはいつものこと。小学生名人やマイナビ女子オープンに関しては、勝つ度に報告している。将棋は家族の幸せの象徴だから、そこで得た喜びを共有したかった。

 

 ただ今回の申し出は、少しばかり意味合いが異なる。

 

「タイトルの獲得報告だし、普段と違ってもかまわないわ」

「……お嬢様? それはつまり――――――」

「あなたの好きになさい。色もね」

 

 晶が黙り込み、作業が止まる。それに天衣は気付いたけれど、特に指摘するつもりはない。ただ鏡に映った指先は、かすかに震えているように見えた。

 

 

 ■

 

 

 パーソナルスペース、というものがある。要は他者を不快と感じる距離の事だ。これが広ければ近くに居る他者を不快に感じやすく、逆に狭ければ近くに居ても気にならない。

 

 湊は狭い方なのか、前世から他者との距離を不快に感じた事は少ない。逆につい近付きすぎて、相手の不興を買ってしまう事があるくらいだ。一方で弟子の天衣は、パーソナルスペースが広い。ツンツンと警戒心の強いハリネズミと言うべきか、すぐに他者を威嚇しようとする。

 

 では自分と天衣はどうだろうか。右隣に目を落とせば、すぐ傍に艶やかな黒髪。今ではすっかり見慣れた距離感だが、出会った頃はもっと離れていたはずだ。なんとはなしに見ていると、小さな頭が上を向き、大きな瞳が湊を捉えた。

 

 首を傾げる天衣に向けて、湊は誤魔化すように口を開く。

 

「晶さんには悪い事したかな、まさか仕事があるなんて」

「気にしなくていいわよ。好きでやってるんだから」

「ならいいんだけど」

 

 たまには遊びに行こう。そんな誘い文句を口にしたのが、一週間ほど前のこと。湊としては付き添いで晶も参加すると考えていたのだが、なんでも仕事が入ったらしい。待ち合わせ場所に天衣を連れてきた彼女は、そのまま湊に天衣を預けると、慌ただしく立ち去ってしまった。

 

「あらためて、おはよう。今日はいつも以上にお洒落だね」

 

 普段は右側頭部で小さな房を結ぶ髪型だが、今日は両側頭部から大きめの房を垂らした髪型だ。髪を結んでいる淡いブルーのシュシュは、嬉しい事に湊が贈った物だった。

 

 幼い体躯を包むのは、スカート部分にフリルをあしらった黒いワンピース。その上から、ライトブラウンのカーディガンを羽織っている。

 

 実際のところファッションの良し悪しには疎い湊だが、普段よりちょっとだけ胸を反らして立つ仕草から、装いを見てほしいのだと解釈した。最近になって気付いた天衣の癖だ。

 

「晶が張り切ったのよ。先生は――――いつも通りね」

「残念ながら、そういうのは苦手なんだ」

 

 見咎められなければいいかと、適当に済ませがちなのは前世から。兄弟子の生石には呆れられ、何度か小言を言われた覚えもあるが、生まれ変わっても直らなかった性分だ。

 

「それじゃ行こうか。少し歩くよ」

「平気よ、鍛えてるもの」

「そうだったね」

 

 将棋は体力勝負だからと、自分から体力作りを始めた弟子のストイックさには感心するばかり。師匠として負けていられないと、密かに夜叉神監修のメニューを回してもらっている湊である。

 

 待ち合わせの駅から五分ほど歩けば、本日の目的地が見えてきた。言わずと知れた世界最大級の水族館。将棋から離れた休暇として、ここで天衣と過ごす予定だ。

 

「私はあそこの水族館は初めてだけど、先生は?」

「何度か。うちは海運業で成功したから、家族で出掛ける時は海に関わる場所が多いんだ」

「ああ、それで道場が『ことひら』なのね」

「そうだね。金刀比羅宮(ことひらぐう)、いわゆる『こんぴらさん』にあやかったらしい」

 

 雑談を交わす内に、水族館前の広場に到着した。グルリと辺りを見回した天衣は、感心と呆れを半々に乗せた顔で口を開いた。

 

「さすがに混んでるわね。いくつか人だかりがあるけど、なにかしら?」

「ここの広場ではストリートパフォーマンスをやってるから、それじゃないかな」

 

 一番近い人だかりに歩み寄り、パフォーマーが見えやすい位置を確保する。円周状にスペースを空けた空間の中央で、タキシードの男性が銀色のリングを掲げていた。

 

「あの人はマジックをやってるみたいだね」

「マジックね。ただの子供騙しじゃない」

 

 鼻を鳴らした天衣を見やる。その瞳に宿る好奇に、湊はそっと苦笑した。

 

「興味があるから、少し見ていってもいいかな?」

「……先生が見たいなら付き合うわ」

 

 マジック、ジャグリング、パントマイム。いずれもテレビで見掛ける機会はあるが、生で見るとなれば一味違う。気付けば天衣も、息を詰めて見入っていた。

 

 そのまま三十分ほど広場で過ごし、いい時間だからと本命の前に腹ごしらえ。水族館の隣にあるフードテーマパークに入り、話し合ってオムライスの店に決める。そうして昼を済ませた二人は、午後になってとうとう水族館に足を踏み入れた。

 

 最初に出迎えてくれたのはアクアゲート、トンネル型の水槽だ。床以外の全面を水槽で囲まれた通路で、すぐ傍を様々な魚が泳いでいる。フラリと歩き出した天衣の隣に並び、湊もまた色鮮やかな魚たちを目で追い掛けた。

 

 環太平洋火山帯(リング・オブ・ファイア)環太平洋生命帯(リング・オブ・ライフ)をコンセプトにしたこの水族館は、太平洋を中心とした生命の繋がりを表現している。環太平洋地域をテーマにした水槽があり、それらを通して各地を巡る。

 

「……………………」

「ほら、そろそろ行こうか」

 

 日本の森。カワウソの前から動かない天衣を急かしたり。

 

「あれがハリセンボンなの?」

「今は膨らんでないみたいだね」

 

 パナマ湾。ちょっと期待を裏切られたり。

 

「オジサンって、変な名前ね」

「あのヒゲが名前の由来みたいだよ」

 

 グレート・バリア・リーフ。多種多様な魚に目を奪われたり。

 

「温厚らしいけど、先生でも一口で食べられそうな大きさね」

「まったくだ。尾びれだけでも、僕より大きいんじゃないかな」

 

 太平洋。ジンベエザメの巨大さに圧倒されたり。

 

 普段は将棋の話ばかりしている二人だが、今日はなんてことない雑談に花を咲かせた。悩みなど忘れて、ただ隣に居る人と、目の前の光景に胸を躍らせる。

 

 楽しい時間はあっという間に過ぎるもの。二人が一通り見て回った頃には、太陽の位置もだいぶ下がってきていた。帰途につくにはまだ早く、近場のカフェへ足を運ぶ。

 

 頼んだ紅茶とパンケーキが運ばれて、少し雑談でもというところで、天衣が口を開いた。

 

「――――――ねえ、今日はどうしたの?」

「なんのこと? ひょっとして退屈だったかな?」

「楽しかったけど…………将棋の話をしなかったじゃない」

 

 やっぱり気になるのかと、ついつい湊は苦笑い。たしかに意識して将棋の話題は避けていたし、いつもならどこかで将棋の話に逸れるのが常だった。

 

「息抜きだよ。ここ二ヶ月くらい、ずっとピリピリしてるから」

 

 正確には生石と対局してからだろうか。それまで以上に湊の将棋をモノにしたいと気合を入れ、プライベートの時間もほとんどそちらに費やすほど。湊自身も教え方のイメージを掴めたからと、ついつい熱を入れてしまった面もある。

 

 お陰で五番勝負を前にして、感覚的な面さえも予想以上の仕上がりとなったが、気になったのは精神面。気を張っているというか、余裕がないというか。これでは十分に実力も発揮できまいと、今回のガス抜きを企画した。心身のコンディション管理も、棋士に必要な技能の一つだ。

 

「先生はずっと機嫌がいいわね。私と指す時も前より楽しそう…………玉将と指してから」

 

 あー、と気まずげに湊が声を漏らす。天衣はそっぽを向いて口を尖らせていた。

 

「もしかして、女王とやり合ったのもその関係?」

「あれはどっちもどっちでしょ」

 

 挑戦者決定戦の後、玉将防衛成功の祝辞と天衣の仕上がり確認を兼ね、二人は改めてゴキゲンの湯を訪れた。その際に、生石の研究相手という空銀子と鉢合わせになったのだ。

 

 どうも生石なりの誠意らしく、これからタイトルを巡って戦う相手と繋がりがある、という事をちゃんと伝えておきたかったのだろう。

 

 湊としては面白い縁もあったものだと感心するくらいなのだが、さすがに対局予定の当人たちはそうもいかない。己のテリトリーに入られたと感じたのか、空銀子は刺々しかったし、天衣もまた売り言葉に買い言葉と挑発的だった。

 

 最終的に天衣の挑戦を空銀子が受ける形で終わり、その日は将棋も指さずに解散したが、あれは生石の代理として見ていた面もあったのかもしれない。

 

「ま、五番勝負で白黒つけるわ。それよりも先生と玉将の対局が気になるんだけど」

「うーん、あの日の対局は――――――そうだね、大いに意義があるものだった」

 

 自分の将棋を見失っていたというのは、はてさて笑い話なのか。かつての己が積み上げたものを忘れ、ただ理屈ばかりに目を向けていたのは失態だ。気付いてみれば、なるほど、前世で見ていた景色に近付いた。試しに生石と指してみた対局も、及第点を超えたと言えるだろう。

 

 そうしてようやく納得できた。結局これは、()()()()()の将棋に過ぎないと。

 

 将棋は常に進歩するもの。棋士とは歩みを止めぬもの。しかして湊の将棋は、既に歩みを止めたもの。前世と同じような将棋は指せたし、より洗練された指し方もわかるが、それは進歩でも発展でもない。己の足で開拓した成果ではなく、完成された地図をなぞっているに過ぎないのだ。

 

 所詮は過去に取り残された遺物。その先を見出す権利を、既に湊は失っている。

 

「お陰で今は、天衣に教えるのが一番の幸せだって思えるよ」

 

 口を衝いて出た本心に、パチクリと天衣の瞳が瞬いた。

 

「君と出会って、もうすぐ一年半だ」

「……もうそんなに経ったのね」

 

 戸惑いと、驚きと。対面の天衣が見せる変化は微細だが、湊に伝わるには十分すぎる。一年半。長いようで短い期間を共に過ごし、確かな絆を紡いできたと信じている。

 

 細めた湊の目に映るのは、未だ幼い、成長途上の弟子の姿だ。

 

「少し背が高くなった。柔らかく笑う事が増えた。学校の話をするようになった。自分では細かく気にする性質じゃないと思ってるんだけど、不思議と天衣の成長は目に入る」

 

 他人にとっては、あるいは本人にとっても、些細な変化かもしれない。

 

「ちょっとした事でも嬉しく思うのは、それだけ君を近しく感じているからだ」

 

 それこそ家族のような距離感だろうか。師弟関係は将棋の家族と言うけれど、湊にとっての天衣は、そう呼ぶに相応しい価値がある。とても大切で、掛け替えのない存在だ。

 

「だから改めて、今度は僕から伝えよう」

 

 正面から愛弟子を見詰めれば、なにかを察して背筋を伸ばす。愛らしい顔を引き締めて、薄紅の唇を引き結び、ただ静かに待つ彼女に想いを告げる。

 

「僕の将棋を託したい。他の誰でもない君に」

 

 瞠目、後に口元をわななかせ、そのまま言葉もなく天衣は俯いた。

 

 湊の将棋を教えてほしいと天衣が言い出した時、嬉しかったのは間違いない。込み上げる情動を押さえるのが大変で、気を抜いたら泣きそうで、だからこそ本気で応えようと思った。なのにこれまで、天衣の願いに明確な言葉を返していなかった。たぶん、どこかに未練があったのだろう。

 

「――――――棋士になるから。絶対になるから」

 

 決意を秘めた少女の声音に、あぁこれが責任かと、託したものの重みを自覚する。別に手抜きのつもりはなかったが、この子を強くしようと覚悟を改め、湊はようやく師匠になれた気がした。




★次回更新予定:8/16(日) 19:00

第一部完。次回から原作時間軸の話が始まります。

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