まほうつかいのおしごと!   作:未銘

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#023 研修会試験

 あいに研修会試験を受けさせると決めたのは、弟子入りを認めてすぐの事だ。奨励会の下部組織と言える研修会は、アマチュア二段以上が入会の目安と言われている。普通なら将棋歴三ヶ月では厳しい壁だが、あいにはそれを越えられるだけの才能があった。

 

 奨励会とは異なり、研修会の入会試験は例会ごとに実施される。幸い春休み終盤に四月一回目の例会があったため、そこをターゲットとして八一はあいに指導してきた。

 

 試験内容は三度の対局。基本は研修会員が相手だが、場合によっては幹事のプロ棋士が出てくる可能性もある。とはいえ必ずしも勝つ必要はなく、対局内容から実力を認められれば合格だ。あいなら合格は確実で、入会時のクラスがどこになるかが焦点だと八一は考えていた。

 

 しかし世の中、そう簡単にはいかない。現在、二人の前には問題が立ちはだかっていた。

 

 事の起こりは、急にあいの両親がやってきたこと。娘が家出したのだから心配するのは当然だと思うが、将棋に関する意見対立が厄介だった。要はあいが将棋を続ける事に反対なのだ。

 

 八一とあいが目標としている女流棋士は、たとえプロになれたとしても安定した職業ではない。棋士と比べて対局数が少なく、勝ち上がれなければ暇になる。対局料も低めだし、聞き手といった『普及』の仕事でも棋士ほどは稼げない。確かな実力や人気がなければ厳しい世界である。

 

 親として子供を不安定な道に進ませたくない、という彼らの意見はもっともだ。けれど八一も、考えなしにあいを弟子に取ったわけではない。彼女ほどの才能ならば、必ずタイトルを争うほどの女流棋士になれる、と信じたからだ。

 

 話し合いの末になんとか引き出せた条件は、研修会試験の全勝合格。実力差があっても、時には負けてしまう将棋という競技では、なんとも厳しい条件である。父親の方はいくらか理解も示してくれたのだが、母親の方が頑として譲ってくれず、あいも意固地になって約束してしまった。

 

 そうして迎えた試験当日、試験の滑り出しは順調だった。

 

 初戦の相手はあいの友達であり、研修会員でもある貞任綾乃。あいをよく知る彼女は過剰に警戒してしまい、一気呵成に攻め込んだあいが早々に勝利をもぎ取った。

 

 二人目は研修会の幹事を務める久留野(くるの)七段。実力十分のプロ棋士だ。あいの才能を認めたらしい彼は本気の勝負将棋を挑んできたが、駒落ちの有利を手放さなかったあいが勝利した。

 

 この時点で試験は合格確実だが、必要なのは全勝。最後の相手は――――――、

 

「マジかよ……」

 

 久留野に呼ばれて入室してきた人物に、八一は呻かずにはいられなかった。

 

 長い黒髪、小さな体躯。真っ直ぐにあいを捉える瞳は、意志の強さを感じさせる。夜叉神天衣。近頃の将棋界を賑わせている少女が、三人目の対局相手だった。

 

 三段未満の奨励会員は、研修会で指導対局を行う時がある。だからあり得ないわけではないが、いくらなんでも予想外だ。あいも驚きで固まって、ちゃんと反応できていない。

 

「久留野先生、なぜ彼女が? タイトル戦も間近なのに」

「もう耳にされたかもしれませんが、雛鶴さんには注目が集まっています」

「……ええ、知人に教えてもらいました。それと関係が?」

 

 久留野は静かに頷き、将棋盤を挟んだ二人の少女に目を向ける。

 

「どうせ実力を測るなら、世代を代表する夜叉神さんとの差を知りたい、という声がありまして。将来雛鶴さんが大成した時に、ちょっとした話のネタにもなりそうですしね。夜叉神さんの予定を気にする声もありましたが、意外にも本人が乗り気だったので決まりました」

 

 八一が唸る。まさかこんなところにまで影響が出るとは思わなかった。

 

 手合割さえ問題なければ、たしかに試験の公平性は保たれる。しかし負けられない身としては、やはり研修会員の方が望ましい。知識が少なく、まだまだ定跡も覚束ないあいだが、読みの深さは八一も目を瞠るほど。特に終盤力は凄まじく、奨励会でも通用するレベルだ。

 

 序盤で差をつけられても、あいなら終盤で引っ繰り返せる。それを八一は知っている。とはいえ読みで勝ればこそであり、相手が奨励会員となればいささか厳しい。

 

「夜叉神さんの話が決まっていたので断りましたが、実は空二冠から試験官の申し出があったんですよ。彼女も雛鶴さんを気に掛けているみたいですね。さすがは竜王の弟子だ」

 

 なにやってんですか姉弟子。久留野は感心しているが、八一は乾いた笑いしか出てこなかった。子供の頃からずっと一緒に居る相手だが、たまに本気で考えが読めない時がある。

 

「……九頭竜先生、よろしいですか」

「あ、はい。なんでしょうか」

 

 話し掛けてきたのは、落ち着いた雰囲気の男性だ。名前は雛鶴 (たかし)といい、あいの父親だ。娘の試験の見学に来ており、隣には母親の雛鶴 亜希奈(あきな)も居る。

 

「彼女は『神戸のシンデレラ』ですよね? たしか奨励会員というもので、女流棋士でも研修会員でもないと聞いた覚えがあるのですが」

 

 女流棋士について調べてきたという話であるから、夜叉神の情報も目にしたのだろう。研修会と奨励会、女流棋士と棋士の違いはややこしいので、混乱するのもやむなしか。

 

 八一が将棋界の組織事情や実力差を説明している間に、二人のアイによる対局が始まった。

 

 手合割は飛車落ち。できれば香車も落としてほしかったが、久留野に勝った点を踏まえての評価だろう。ここまでの成績から、あいは研修会Dクラス以上と考えていい。ただ夜叉神に飛車落ちで勝つなら、Cクラス相当の実力は欲しいところだ。

 

 前向きな要素としては、通常の奨励会では飛車落ち手合いがない事だろうか。いつも湊と二人で指してばかりだと聞いたから、夜叉神は飛車落ちの上手で指した経験が少ないはずだ。

 

「とはいえ、これはマズいか……」

「先生、状況はどうなのでしょうか?」

 

 隣の隆が不安そうに尋ねてくる。あいが女流棋士を目指す事に反対している両親だが、やはり父親と言うべきか、彼の方は娘に甘い。娘が褒められれば喜ぶし、こうして心配もするのだから。一方の亜希奈はずっと厳しい表情で、今も対局する娘に鋭い眼差しを向けている。

 

「攻め切れていませんね。下手の利点を活かせていません」

「やはりタイトルに挑戦する方となると厳しいですか」

 

 いや、と八一は胸中で否定する。久留野と対局していた時のあいなら、もっと果敢に攻めていたはずだ。今の彼女は飛車落ちの下手らしく攻めに出ているものの、どこか臆している風に見える。その所為で上手に余裕を与え、このままでは位を取られそうだ。

 

 おそらくは以前の対局が不利に働いている。将棋道場で夜叉神に負けた話を、あいは楽しそうに聞かせてくれた。その実力に随分と感心した様子で、自分よりも強いと認めていた。

 

 つまりあいにとっては、よく知らないプロの棋士よりも、夜叉神の方がリアリティのある強者となるのだろう。直近で負けた記憶も鮮明なはずで、だからこそ警戒で手が鈍っている。

 

 あいは強い。それこそ十全に実力を発揮できれば、大いに勝ち目もあったほどに。しかし現実はそうならず、着実に形勢は傾いている。無論、夜叉神の有利へと。

 

「弟子の方もワルないんやけどなー」

「夜叉神は崩れんからイヤになるわ」

 

 竜王の弟子を見に来たらしい職員や奨励会員がコソコソ話しているが、共通しているのはあいが不利というところ。その判断は八一も否定できず、盤上の流れは止まらない。

 

「おっ、夜叉神が長考に入ったな」

「そんな難しい局面か?」

 

 若干の戸惑いを見せる観衆とは裏腹に、八一は苦虫を噛み潰した気分だった。

 

 詰みだ。長手数だが、たぶん夜叉神も読んでいる。そしてあいの表情から察するに、彼女もまた気付いているだろう。口にこそ出さないが、観衆の何人かも理解したようだ。

 

 周囲が固唾を呑んで見守る中、夜叉神が指した一手は――――――、

 

「…………っ」

 

 そんな表情もできるのか、と弟子の顔を見て思う。あるいはこちらこそが夜叉と呼べるような、怒りを押し殺した荒々しいそれ。彼女の両親も、娘の様子に驚きを隠せていない。

 

 夜叉神の一手は、最短の詰みを目指すものではない。それを舐められたと感じたのだろう。

 

 だが違うのだ。ずっと詰将棋を解いてきたあいにはわからない感覚かもしれないが、詰みがあるからといって、すぐに詰ませに掛かる必要はない。長い詰みより短い必至。寄せを間違えて詰ませ損ね、そこから逆転を許すというのはよくある話だ。

 

 夜叉神はあいを評価した。隙を見せれば引っ繰り返されると考えた。ゆえに確実な手順を選んだのだ。決して侮ったわけではなく、嬲り殺しにしたいわけでもない。

 

「あぁ、くそっ」

 

 一手ずつ一手ずつ、油断も隙もなく追い詰められながら、なおもあいの闘争心は消えていない。淡い桃色の唇を引き結び、闘志の炎を瞳に宿し、負けて堪るかと全身で訴えている。

 

 こんなにも、才能に溢れているのに。勝負師として大成できると、太鼓判を押せるのに。それを後押ししてやれない自分が、八一は心底恨めしかった。

 

 綺麗に指さなくてもいいと伝えてやりたい。どこまでも生き汚く勝利を求める、奨励会の粘りを教えたかった。その知識も時間もあったというのに、お行儀よく指導した事が悔やまれる。

 

 既に形勢は絶望的。どこで投げるかという段階だ。誰よりも読みに優れるあいは、誰よりも逆転の目がない事実を承知のはずで、それでも諦めるには、賭けたものが重すぎる。

 

 大粒の涙が零れ落ち、あいの膝を濡らした。直後に夜叉神が、八一たちの方へ目を向けた。

 

 なにか意図があったのか、それとも白熱する観衆が気になっただけなのか。すぐに盤上へ目線を戻した彼女は、駒台へと手を伸ばす。さながら機械の如く、淡々と盤上へ歩を打った。

 

「…………えっ?」

 

 その声を漏らしたのは、はたして誰だったのか。八一か久留野か、あるいは他の誰かだったかもしれない。この場に集った将棋を知る誰もが、呆気に取られてしまっていた。

 

 あいもまた、その一手に大きく目を見開いている。そして周囲の反応に気付いた夜叉神も、そう駒を指した本人さえも、信じられないとばかりに盤面を凝視した。

 

 悪手だ。おそらく想定より一段低い位置への打ち損じ。たった一つ隣にズレただけだが、たったそれだけの違いで、駒の役割は死にかねない。現に燻っていたあいの角が、一気に躍動し始めた。

 

 万に一つもなかったはずの勝ち筋が、今はたしかに見えている。思わぬミスから焦りを覗かせる夜叉神へ、あいは必死に喰らいつく。最後まで諦めようとしないその姿は、連敗を脱した一局で、八一が見せたものに似ていた。

 

 腹の底から熱が生まれ、自然と八一は拳を握る。隣では、隆が真剣に娘を応援していた。

 

「――――――参りました」

 

 ついには百五十四手という長手数に及んだ対局は、夜叉神の投了によって幕を閉じた。終局後、感想戦もせずに立ち上がり、夜叉神は部屋を後にする。九分九厘の勝利を、己のつまらないミスで逃したのだ。心中は察するに余りあり、呼び止める声はない。

 

 周囲の微妙な空気を察してか、不安そうに隆が問い掛けてきた。

 

「九頭竜先生。その、あいが勝ったんですよね?」

「はい、あいさんの勝ちです。ただ――――」

 

 わずかに言い淀んだのは、提示された条件が頭をよぎったから。試験に全勝して実力を示せと、亜希奈は言った。たしかに全勝したが、最後は綺麗な勝利とは言い難い。

 

「相手が終盤でミスしなければ、とっくに負けている対局でした」

「つまり実力で掴み取った勝利ではない、という事ですか」

 

 鋭い声の横槍は、厳しい表情の亜希奈のもの。キツい眼差しに、八一は正面から睨み返す。

 

「将棋は最後に悪手を指した方が負ける、と言われています。現役最強の棋士であっても、かつて一手詰――――――プロなら数秒で読める手を見落として、勝ちを逃した事さえあるんです」

 

 最後まで勝ち切る事の難しさ。最後まで勝ちを諦めない事の難しさ。不意に射し込んだ光明を、自らの勝利へと繋げたのは、紛れもなくあいの実力だ。それは絶対に否定させない。

 

「……まぁ、約束は約束です。あの子が条件を満たした事は認めましょう」

 

 しばらく睨み合った後、渋々と亜希奈はそう告げた。空気が弛緩して、八一は胸を撫で下ろす。隣で同じようにしていた隆と顔を合わせ、どちらともなく笑い合う。

 

 教えて安心させてやろうと、あいの方を振り返った八一だったが、

 

「あれっ?」

 

 愛弟子の姿は、部屋のどこにも見当たらなかった。

 

 

 ■

 

 

 馬鹿だ、馬鹿だ、馬鹿だ。繰り返す罵倒は、情けない己に向けたもの。誰も来ない階段室に逃げ込んだ天衣は、ただひたすらに自分を責めていた。

 

 あいに負けた、それはいい。ミスをした、それもいい。将棋を指していれば、そんな事もある。許せないのは、そこに至るまでの過程。対局に集中し切れなかった、自身の未熟さ。

 

 対局場に入ってすぐに、あいの両親らしき存在には気付いていた。母親の顔立ちはあいに通じるものがあったし、父親の方は視線と態度で一目瞭然だ。傍には竜王も居たし、研修会の試験なら、そういう事もあるのだろう。だから最初は気にしなかった。

 

 けれど将棋盤を介せば、伝わるものもあるわけで。単純な試験の合否以上に重いものを背負っていると、察せずにはいられなかった。将棋道場の時とは、一手に籠められた想いが違う。

 

 だからといって手は抜かず、天衣は本気であいを迎え撃った。そのつもりだった。

 

 涙を零すほどに追い詰められた娘を、懸命に応援する父と。冷めた目を向けながらも、わずかに心配も滲んだ母と。娘を見守る両親の姿に、天衣の胸を騒がせたのはなんだったか。それは明確な形を持つ前に霧散したけれど、明らかな悪手となって盤上に現れた。

 

 なんと情けない。あいは全身全霊で立ち向かってきたというのに、それに応えるべき自分の心は浮ついていた。これでは勝負に負けて当然だろう。

 

 合わせる顔がない。あいにも、湊にも。だけどできるなら、今すぐ湊の顔が見たかった。なにも言わなくていいから、なにもしなくていいから、ただ傍に居てほしかった。

 

「あぁ、もう――――」

 

 階段に腰掛けたまま、天衣はボンヤリと天井を仰ぎ見る。大一番を前にした息抜き程度のつもりだったのに、とんだ読み違えだ。どう整理をつけたものかと悩むが、思考がまとまらない。

 

 嘆息。もはや数えきれなくなった自責の言葉が頭を埋め尽くしたところで、階段室の扉が開く。誰かが来たらしい。邪魔にならないように立ち上がり、天衣は入口へと目を向けた。

 

「あなた……」

 

 そこに居たのは、先ほどまで対局していた同い年の少女。天衣の存在を認めた彼女は、涙の跡が残る顔を引き締めて、立ち竦む天衣と正対する。

 

 なにか話でもあるのか。黙って出方を窺う天衣に向けて、少女は勢いよく頭を下げた。

 

「負けましたっ!」

 

 思考が飛んだ。言葉の意味が、理解できなかったから。呆然とする天衣を置いてきぼりにして、向こうは勝手に自らの思いを吐き出していく。

 

「天ちゃん、すごく強くて! 勝てないって、わかってて! ずっと、ずっと…………負けたって思ってた。でも負けたくなくてっ。そしたら――――ッ」

 

 ボロボロと涙を流し、細い肩を震わせて、あいは全身から感情を溢れさせていた。

 

「勝ったけど、そうじゃなくて。だって、こんなの――――――」

「私の負けに決まってるでしょ!」

 

 遮ったのは、最後まで聞いたら手が出ると思ったから。この甘っちょろい素人を、許せなくなりそうだったから。さっきまでの憂鬱なんて吹き飛んで、代わりに怒りが湧き上がる。

 

「あなたが勝って、私が負けた。勝手に人の負けを取っていこうとするんじゃないわよ! どんな気持ちで投了したと思ってるの! どんなに重い言葉かわからないの!」

 

 まくし立てれば目を丸くして、あいは涙を引っ込める。その反応で、天衣も少しは落ち着いた。大きく息を吐き出して、感情の波を制御する。

 

「勝った負けたを、将棋盤の外に持ち出すのはやめなさい。限られた時間で最善の一手を目指す。指した手は覆らない。だからこそ私たちは、一つ一つの手に想いを籠めるのよ」

 

 真っ赤になった目を、真っ直ぐ見据えて天衣が説く。

 

「さっきの一局に不満があるのなら、将棋盤の前で聞いてあげる。それと――――」

 

 聞き入るあいに、人差し指を突き付ける。紡ぐ言葉に、気持ちを乗せる。

 

「次は私が勝つ。首を洗って待ってなさい」

 

 まず驚きが顔を出し、次いで理解が広がって、最後に喜びが芽吹いた。こくこく何度も頷いて、あいは朗らかに口を開き、弾む声音で答えを返す。

 

「うんっ。絶対にまた指そうね!」

 

 能天気に笑う少女は、本当に理解しているのかどうか。ただ晴れやかな彼女の顔を見ていると、天衣も悩むのが馬鹿らしくなるというものだ。

 

 駄目な一局だった。でも、悪くない一日だった。それが天衣の結論だった。




★次回更新予定:9/6(日) 19:00

本作の研修会試験は原作と同じく計三局の対局としていますが、現実の試験では二度の例会に参加して計八局を指す事になります。おそらく春休み中という日程の問題と話の盛り上がりから、原作では一度の例会で三局という試験にしたのだと思われます。

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