まほうつかいのおしごと! 作:未銘
将棋を教えると、そう口にするのは簡単だ。相手が幼い子供であれば、実際に上達の助けとなるケースも多いだろう。だがその子が棋士を目指すと言うのなら、言葉の意味を吟味すべきだ。
将棋の世界における『棋士』とは、すなわち将棋を生業とする者たちの事であり、一般にプロと呼ばれる存在を指す。たとえば日本将棋連盟はアマチュア大会の参加者を『選手』と呼んでおり、プロと呼称を分けている。とはいえ将棋指し全般を棋士と呼ぶケースも多く、プロである事を強調するために『プロ棋士』という単語が使われる事も少なくない。
さらに話を掘り下げるならば、将棋には『女流棋士』と呼ばれる者たちも存在する。元来の棋士制度から分離して、新たに女性限定の制度として設けられたのが『女流』だ。参加可能な公式戦も棋士とは異なり、明確に別の存在として扱われている。
制度上は棋士となる条件に男女の違いはない。それでも女性用の枠組みが新たに作られたのは、そうしなければ十分な女性のプロを確保できなかったからだ。
「将棋を教えるのはいいとして、棋士になる、という意味は理解してる?」
「当然でしょ。だったらプロになる、と言い直しましょうか」
「女流プロ棋士、という道もあるわけだけど」
「私は『棋士』になる、と言ったはずよ」
芯の通った天衣の声音に、湊は腕を組んで頷いた。
将棋盤の向こうに座る少女は、大きな瞳を挑戦的に光らせて、睨むように見上げてくる。熱意は見て取れるが、その熱に浮かされた様子はないし、物を知らぬわけでもないだろう。
それでも、と彼は先の話に言葉を継いだ。
「今の将棋連盟が出来て七十年くらいになるけど、未だに『女性棋士』は一人も誕生していない。最も強い女流棋士が、最も弱い棋士にも劣るのが現状だ」
「……お父さまが言ったの。あなたが教えてくれるなら、棋士になるのも夢じゃないって」
薄紅の唇を尖らせて、プイと天衣が横を向く。
「信じさせてよ。がんばるから」
呟きが耳を打つ。その言葉が胸を打つ。熱情を、湊は呼気と共に吐き出した。
かつて考えた事がある。前世で、幼い頃から将棋を学ぶべきだったと。今世で、自分なら最強の棋士を育てられるのではないかと。そんな子供染みた願望を、胸に抱いた事がある。
だから
「もちろん無理だとは思ってないよ。それに僕なら、他の誰よりも君が強くなる手助けをできる、という自負もある。けど、あくまで僕の役目は手助けなんだ」
幼い顔はそっぽのままで、目線だけが湊に移る。
「君の気持ちを大事にしたい、という意味だよ。目指すのも――――――諦めるのも」
「…………あなたは将棋を教えればいいの。心配しなくても、大丈夫なんだから」
拗ねた口調でそう告げて、天衣は口元をへの字に結ぶ。膨らんだ白いほっぺには、不機嫌ですと書いてあった。さすがに据わりが悪くなった湊は、苦笑いで頬を掻く。
「ごめん、回りくどかったね。どんな道を進んだとしても、君が望む限り将棋を教えるよ。でも、だからこそ、目的を見失わないでほしいんだ。道を選ぶのも、歩くのも、君自身なんだから」
湊が噛んで含めるように伝えれば、ゆっくりと天衣の顔が向けられる。
ジッと探るような視線。どこか子猫を思わせる様子の彼女は、やがて小さく「バカ」と呟くと、横合いで見守っていた弘天に話し掛けた。
「おじいちゃま、そういう事だから」
「うむ、天衣の好きにするといい」
鷹揚に頷いた弘天は、次いで湊の方へと向き直る。
「御影さん。息子のためにお越しくださったばかりでなく、孫の我が侭まで聞いてくださり、本当にありがとうございました。重ねてのお願いとなり心苦しくはありますが、孫に将棋を教える家庭教師として、ぜひ貴方を雇わせていただきたい」
「将棋の世界で、弟子からお金を取る師匠なんていませんよ。まぁ僕はプロではないので、師匠を名乗れる立場ではないのですが」
将棋界において、すべての棋士には師匠が居る。規則として、棋士の弟子でなければ、棋士にはなれないのだ。ここでの棋士とはプロ棋士の事を指すので、制度上、湊に師匠となる資格はない。それを理由にプロを目指そうとは思わないが、幾ばくかの寂しさを覚えるのも確かだった。
「書類だけの師弟関係もあるんだし、大事なのは私が師匠と認めるかどうかでしょ」
呆れが声に乗っていた。振り向けば、天衣が盤上に駒を並べている。
「そんな事より指すわよ、
吊り上がる口元は攻撃的で、澄んだ大きな瞳には、子供らしい勇ましさが満ちていた。どうにも自分がちっぽけな奴に感じられて、敵わないなと湊は笑った。
■
「あーもう! どうして勝てないのよっ!!」
苛立ちのままに叫んだところで、駒が動いてくれるはずもない。変わらず盤上で主張する詰みの道筋が、天衣にスカートの皺を作らせた。白魚の指を握り締め、アーモンドの瞳で相手を睨む。
怜悧さを漂わせる切れ長の目が、穏やかに天衣を見下ろしている。そこに勝利の高揚感は欠片もなく、さりとて子供と侮る色もなく、だからこそ悔しかった。ただ純粋に、己が未熟なのだ。
「……わかってるわよ。私が見落としただけだって」
天衣は呟き、盤上の駒へ手を伸ばす。互いの駒を何手か戻すと、銀の王手に代わり、竜を進めて歩を払う。勇み足を踏む前に、頓死の形を消すべきだった。そうすれば勝てていた。
これで天衣の三連敗。改めて湊と指し始めてから、三戦全敗だ。
先手を譲られた第一局は、角対抗型の片矢倉で手得を稼いだ天衣が、右辺から攻め込み主導権を握った。途中、こちらの弱みを突こうとした端攻めも受け切り、終盤までイメージ通りの駒運びができたと言えるだろう。なのに詰めで読み落とし、逆に詰められて負けてしまった。
先後を入れ替えての第二局。気分を変えようと振り飛車を選ぶ。三間飛車から4二銀と上がり、角交換を経て向かい飛車の形を作るところまでは定跡通り。遊び駒のない駒組みにも成功したし、中盤では上手く湊の手を誘導できたはずだ。けれど、やはり、最後で読み違えてしまった。
再びの先手となった第三局。攻めに集中した前二局とは異なり、今度は受けを意識した。通常、矢倉は先手が形を決めて後手に対応を問うものだが、飛車先や銀の活用を後に回し、後手の動きを窺う戦法を選んだ。戦法の弱点である雀刺しは受けれたが、結局は見落としからの頓死だ。
いずれの対局でも、天衣はノビノビと指せていた。頭の中にあった構想を形にでき、湊の応手も受け切って、逆に敵陣の囲いを崩してみせた。両親とネット将棋しか対局経験のない天衣にとっては、ある意味で初の実戦だったわけだが、その内容は上出来だったと言えるだろう。
無論、天衣とて理解している。自分の実力だけで、生み出せた棋譜ではないのだと。
湊は手加減していた。というよりも、観察していたと言うべきか。あえて天衣が望む展開に持ち込み、全力を引き出そうとしているように感じられた。
故に力不足。天衣の勝ち筋は用意されていたのに、それを掴み取れなかったのだから。
「よく定跡を学んでいるし、研究もしているね。特に二局目の指し回しは面白かった。あの序盤は天祐さんを思い出したよ。
俯く天衣に向けられた称賛。思わず緩みそうになった頬を引き締める。
「フン、当たり前でしょ。それより次はどうするのよ? 私はまだやれるわよ」
「そうだね…………早指しで済ませるとしても、さすがにいい時間だ。次で最後にしよう」
言われてみれば、障子越しに西日が射し込んでいる。天衣が仏間に乱入してから二時間は経っていそうなのに、まるでそんな気がしないのは、楽しい時間を過ごせたからだろうか。
一度だけ深呼吸し、天衣は居住まいを正した。これから師と呼ぶ相手に、頭を下げる。
「――――よろしくお願いします」
「うん。よろしくお願いします」
そうして始まった第四局。順番通り後手となった天衣は、二十手目を指す頃には呻き声を上げていた。湊が選んだのは角換わりからの早繰り銀。天衣の認識では先手が採用するのは珍しい戦法で、故に対応が遅れてしまった。慌てて腰掛け銀で受けに行ったが、明らかな手損だ。
見慣れない変化が続き、自然と手の進みが遅くなる。遊び駒も生まれて、いよいよ形勢の傾きは無視できない。苦しいと、天衣は思った。光明が見えないと。
「…………くっ」
気付けば天衣の玉は丸裸で、長考に入らざるを得なかった。持ち時間は決めていないが、それに甘えて待たせたくはない。しかし募るのは苛立ちばかりで、握り締めた手の平に汗が浮かぶ。
「僕にとって、将棋は自由なものだった」
盤面を睨んでいた天衣の耳を、柔らかな声音が撫でていく。顔を上げれば湊と視線がぶつかった。真っ黒な瞳は、不思議と澄んだ色に感じられ、見詰められるとくすぐったくなりそうだ。
「定跡を指すのが将棋なら、定跡を外すのも将棋だよ。縛られる事なく好きに指す。そうして考えてもみなかった一手から、妙手を見付ける瞬間が堪らなかった。何人もの棋士が生涯を捧げて研究しても、将棋の深淵には届かない。その果てしなさに胸が躍ったんだ」
優しく語る湊の言葉を、天衣は訓戒と受け取った。
この対局、馴染みの薄い戦法に浮足立たなければ、これほど追い込まれる事はなかっただろう。自分が定跡を指すからといって、相手もそうとは限らない。本にまとめられた知識だけではないのだと、この対局で教えたかったのだろう。それはありがたい事だと、素直に天衣は感謝した。
だが敗北を受け入れるかどうかは、また別だ。
無防備に過ぎるこの局面、相手からすればいくらでも勝ち筋が見えるに違いない。でも、まだ、相手の負け筋だって残っているはずだ。勝敗が決していないなら、蜘蛛の糸であろうとも、勝利の可能性を手繰り寄せる。それが天衣の勝負に臨む姿勢だった。
今は雌伏の時。猶予を稼ぐため持ち駒を掴んだ天衣は――――――、
(……違う。そうじゃない)
盤面に指す直前で思い留まった。
先ほどの湊の言葉を思い返す。考えてもみなかった一手から、妙手を見付けると。あるいはこの局面において、その発想を活かせという意味ではなかろうか。
持ち駒を駆使して、自玉に続く湊の手を阻む。それが天衣の着想だ。必至にはならない。反撃の可能性だって残っている。だがもし、まったく別の手を考えるならば――――――そこから三分。散々に悩んだ末に駒を動かした天衣は、恐る恐る対面の湊を窺った。
はたしてそこにあったのは、呆気に取られた間抜け面。
「…………ははっ。そうか、君はそこに指せるのか」
沈黙の後に湊が笑う。小さな声で、でも晴れやかで、あるいは初めて、年相応で。その胸の内はわからないが、不思議と天衣は高揚した。
「いい手だ。そこに指すとは
盤面を見下ろしたまま、朗らかに湊が告げる。
天衣が指したのは6二歩。自玉の守りを固める一手ではなく、敵陣に橋頭堡を築くための一手。無視すれば湊の玉が危うくなり、取りに行けば天衣が飛車を打ち込む隙が出来る。楔を打ち込んだ勝負手だと天衣は思ったし、湊の様子から思い上がりでもないだろう。
以降の湊は機嫌がよかった。機嫌よく、ミスもなく、儚い抵抗を一蹴した。天衣は泣いた。