まほうつかいのおしごと! 作:未銘
天衣と月光会長を引き合わせてから一週間が経ち、いよいよ年の瀬も迫った土曜日の昼下がり。湊はすっかり通い慣れた夜叉神邸を訪れていた。
ただし今日は、いつものように将棋を教えに来たわけではない。用事があるらしい天衣の代わりというわけでもなかろうが、屋敷の主である弘天に招かれての訪問だ。
体格のいい黒服サングラスの男衆に迎えられた湊は、そのまま応接間へと通された。
「本日は急な招待にも関わらず応じていただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、お招きありがとうございます。一度ゆっくり話したいと思っていたんです」
紫檀の座卓を挟み、向かい合った湊と弘天。互いに正座を崩していないが、流れる空気は緩やかだ。表情にも硬さはなく、どちらともなく卓上の湯呑みに手を伸ばす。
天衣を介した関係ではあるが、それでも二ヶ月間、毎日のように顔を合わせてきた。気心が知れたとまでは言えないが、それなりに気安い間柄になった二人だ。
「察しはついておられるでしょうが、天衣の話を伺いたいのです」
「もちろんです。僕に答えられる話であれば、いくらでも」
「…………あの子は、天衣は、棋士になれる器ですか?」
躊躇いがちに尋ねる弘天の顔には、色濃い心配が滲んでいる。
祖父の顔だと、湊は思った。かつては名の知れた博徒であり、今では手広い実業家であるという話は、屋敷に通い始めて三日目には教えられていた。実際、屋敷に詰めている男衆はその筋の者と言われても違和感ないし、彼らに指示を出す弘天からは威厳が感じられた。
それでも湊と対する彼は、孫が可愛くて仕方ない老爺に過ぎないのだ。
「将棋界との関わりは長い身です。随分と気が早い話をしている自覚はあるのですが、それでも逸ってしょうがない。愚かな年寄りを諫めると思って、率直な意見をお聞かせください」
将棋は才能の世界だと言う者は多い。プロ棋士の登竜門たる奨励会に集まる者たちは、それぞれの地元で天才と呼ばれたような凄腕ばかり。その中でも限られた者だけが至れるプロ棋士は、才能と努力を兼ね備えた天才たちの上澄みと言っても過言ではない。
また才能も努力も備えているのに、環境や運に恵まれず、プロになれない者もいる。最後の関門である三段リーグで何年も燻り続けて、ついには諦めざるを得ない者もいる。
将棋の世界で生きていくという事は、長く苦しい戦いの世界に身を置くという事だ。
故に心配なのだろう。孫の好きにさせたいと思うと同時に、将棋の世界に理解があるからこそ、この先に待ち受けるであろう苦難を憂いてしまう。
ならばこそ、湊が口にすべきは偽りなき事実だ。
「世の人々が語る才能であれば、優れたものはありますが、天衣に勝る人も少なくないでしょう。ですが僕の弟子として見るのであれば、彼女は最高の逸材だと断言します」
笑みすら浮かべて宣言すれば、にわかに弘天の頬が緩む。
「指導に当たり、僕は色々と制限を強いています。それを唯々諾々と従うわけでもなく、ちゃんと意義を理解した上で、天衣は自らを律して熱心に努めてくれています」
年齢に反して天衣の自制心が優れていた事は、湊にとって嬉しい誤算だった。
何故か対局相手の読み筋が把握できてしまう湊は、将棋道場の客や天祐との対局を重ねる事で、相手の成長やコンディションを測れるようになっていた。
科学が発展した現代でも、頭の中というのは未解明の部分が多い。いわんや将棋の上達方法ともなれば、プロであっても明確な答えなど持ち合わせていない。誰もが先人に倣ったり、経験則から独自の方法を模索する業界であり、だからこそ湊の力は破格もいいところだ。
本人さえ把握できない微細な変化すら見通し、それを元に指導内容を調整していく。おそらくは誰よりも効率的な指導が可能であり、反面、効率に寄り過ぎて窮屈でもある。幸いにも天衣はよく期待に応えてくれているが、場合によっては喧嘩別れもあっただろう。
「才能や熱意があればこそ、僕の指導方法に不満や不安を覚える子供は多いでしょう。もちろんその時は対応を変えるつもりですが、天衣ほどの成長は期待できません」
言い終えた湊は、湯呑みを手に取り口を付けた。対面の弘天を窺うと、皺の刻まれた顔に、柔らかな笑みを湛えている。ただ、何故だろうか。そこには一抹の寂しさが混ざっていた。
「あれは貴方に懐いておりますから。甘やかす事しかできない、この老爺よりもずっと」
「…………それは僕が、天祐さんと将棋で繋がっていたからでしょう。彼女が将棋を通して両親の影を追っているのは、初めて対局した日に感じました」
だから父親の将棋を知り、また将棋の師として認められた自分を信頼しているのだ。そう続ける湊の対面で、弘天は気まずそうに目線を落とした。
「正直に白状すると、息子夫婦が亡くなった時に、将棋と関わる遺品は処分しようとしたのです。それらを見る度に哀しそうな顔をする天衣が、どうしても見ていられなくて。将棋界ではいくらか名の知れた息子でしたが、騒ぎ立てられぬよう、月光会長にもお願いしました」
湯呑みを手に取り、一口。弘天は唇を湿らせる。
「ただ遺品の処分については、貴方の話を思い出して取りやめたのです。処分すれば二度と戻ってきませんが、信頼できる方に預けたなら、と。連絡がつかぬ内にあの子は将棋に没頭し始め、その案も立ち消えとなってしまったわけですが」
「その、葬儀には顔も出せず、申し訳ありませんでした」
湊が頭を下げると、いいえと弘天は否定した。
「本当は怖かったのかもしれません。何もしてやれぬ私に代わり、あの子が誰かに心を開くのが。だから貴方の事も碌に調べず、あの子に孤独を強いてしまった。そんな不出来な祖父なのです」
心なしか肩を落とした様子の弘天に、今度は湊が首を振って否と示す。
「貴方が優しく見守ってくれるから、天衣は好きな事に打ち込めるんです。僕自身、両親や祖父に甘えて好きにやらせてもらっている身なので、そのありがたさはわかります。今はまだ足元を見る余裕はないかもしれませんが、いずれ気付いてくれますよ」
本心だ。前世も十分に幸福だったと考えている湊だが、将棋に関して妙な力が働く点を除けば、今世は理想的に過ぎる。裕福な家庭も、理解のある家族も、好きなだけ将棋が指せる環境も、前世の自分が戯れに夢想したような状況だ。そのように余裕のある環境であればこそ、妙な力の事で存分に悩めたし、前を向く切っ掛けも掴めたのである。
弘天と視線を交わす。凪いだ大海を思わせる彼の瞳は、刻んだ歴史の深さを感じさせる。しばし二人を包んだ静寂は、どこか力の抜けた弘天の声によって破られた。
「そうですね。今はただ、孫の活躍を楽しみに待ちましょう」
「ええ。年明けには初めての大会が控えていますから、応援してあげてください」
その後は天衣の日常を交えた雑談に移行し、日が暮れるまで湊の滞在は続いた。
■
「おや、天衣くんじゃないか。いらっしゃい」
目が合った席主の気安い出迎えに、天衣はどう反応すべきか迷った。
場所は将棋道場『ことひら』。時間は初来訪から一週間が経った土曜日の昼下がり。ニコニコと微笑む席主は、これが二度目の対面とは思えないほど親しげだ。
たしかに前回は月光会長が帰った後も滞在し、常連客に夜叉神天祐の娘として紹介された。その効果は抜群で、随分と歓迎されたわけだが、どうにも天衣には慣れない距離感だ。
「若先生なら来てないよ」
「知ってるわ。今日は個人的な用事よ」
そもそも鉢合わせないよう、祖父に頼んで湊を家に招かせたのだ。天衣としてはここに居た方が困ってしまう。もちろん、そんな裏事情は口に出さないが。
「晶、代金をお願い」
「了解しました。席主、子供と大人一人ずつだ」
「毎度。手合いカードは先週作ったけど、相手の希望はあるかな?」
ふむと思案し、天衣は隣の晶を指差した。
「こっちの晶だけど、将棋のルールも知らないの。せっかくだし覚えさせたいんだけど」
「まかせてくれ。教えるのが好きな常連が居るから頼んでみよう」
席主が呼び寄せた客に連れられて、晶は一足先に奥へ進む。少々離れる事を渋ったが、見通しのいい店内だからと納得させた。着席した晶を確認し、天衣は席主の方に向き直る。
次は天衣の番だし、要求も決まっている。けれど彼女は少しだけ、その目を彷徨わせた。
「私は…………先生をよく知ってる人で」
「わかった。それと、今日の事は秘密にしておくよ」
何も聞かれないのが、逆に気恥ずかしい。別にやましい事があるわけではないが、なんとなしに居心地の悪さを覚えた天衣は、ふいと視線を逸らして黙った。
ほどなく、席主の呼び掛けで一人の客がやってくる。とうに還暦を超えていそうな皺くちゃ顔の男は、この前来た時、天衣に父の話をしてくれた一人だ。
席主に事情を説明された彼は快く引き受け、天衣を先導して奥へ向かう。案内されたのは、前も座った最奥の席。そこが湊の指定席と教えられ、なんとも面映ゆい気持ちにさせられた。
「せっかくやし、一局指しながら話そか」
断る理由もない天衣は、常連の男と平手戦を開始した。
「初めて若先生が来たんは、小学校に上がったばかりの頃やった。えらい小さい子を大将が連れてきたもんやから、その日は大騒ぎでな。あぁ、大将っちゅうんは若先生の祖父さんの事や」
後手になった男が、いくつか手を進めたところで話の口火を切る。顔を窺えば、懐かしげに目を細め、ここではないどこかを見ているようだった。
「で、えらい小さいのにえらい強い! 若い頃は奨励会におった席主でも歯が立たん! こりゃあ末は名人か、なんて大将もわしらも大盛り上がりよ」
「でも先生は、棋士になるつもりはないんでしょ?」
「……勝負師やなかったっちゅう事やな」
天衣の応手に盤面を睨みながらも、男は寂しげに零す。
「将棋は好きや言うのに、勝ち負けはどうでもええっちゅう変わり者なんよ」
「なんでよ。将棋は相手に勝ってこそでしょう」
「嬢ちゃんは見込みあるなぁ」
感心した風に呟いた男が銀を上げる。銀対抗の形となり、天衣は次の手を思案した。
ゴキゲン中飛車を指す男に対し、天衣は超速3七銀だ。名前通り速攻で銀を上げて牽制するのが超速3七銀戦法だが、これにゴキゲン中飛車側も銀を上げて対抗してきた形である。
ここまではよくある展開だ。問題となるのは、ここからどう膠着を崩すか。穴熊からの持久戦も脳裏をよぎったが、実際に指したのは7八銀。二枚銀による急戦だ。
「嬢ちゃんの言う通り、勝った負けたが将棋の華よ。そこにこだわれん奴が棋士になっても、ただ辛いばかりや。せやからわしらも、若先生が棋士を目指さんのは納得しとる」
玉を動かしながら、何度か男は頷いた。
「そんかわり若先生は将棋を教えるのが大好きでな。わしらを相手に指導対局の真似事を始めて、ここがようなった、つよなったと話す時が一番楽しそうやった」
穏やかな語り口調とは裏腹に、男の指し手は速く鋭い。難解な変化であっても迷いなく、明確な悪手も未だなく、知識と経験の深さを窺わせる。いつの間にやら早指しになっているが、それでも勝ち切れないのだから、天衣としては侮っていたと言うほかない。
「お父さまにも色々と教えていたのよね?」
「記念対局で勝てたんは、若先生のお陰やって言うとったわ」
したり顔で語る男だが、盤面には油断も隙もない。攻めあぐねる現状に、天衣は唇を結ぶ。
「ここ何年かは目的を変えて、将棋指しの育て方ばっか、二人で研究しとったけどな」
「それって――――」
男は天衣と目を合わせ、意味深に頬を吊り上げた。
「わしらも練習台として付き合わされてな、ヘボ指しもマシになったっちゅうわけや」
「……そうみたいね。正直、もっと楽に勝てると思ってたわ」
中盤も終わろうかという頃、相手の一手で天衣は手を止めた。妙手とは感じないが、構想にない一手に、読み筋の組み立て直しを余儀なくされる。それでも長考は負けたような気がした天衣は、半ば感覚に任せて早指しを続けた。
終盤に入っても形勢は複雑だ。どちらの勝勢とも言い難く、どちらが読み誤るかで決まる局面。互いに早指しでミスはあるはずだが、それでも致命に至る事なく、綱渡りが続く。
「――――ここまでやな。参ったわ」
「え? ……あっ」
決着は唐突に。投了を受けた天衣は盤面を睨み、遅れて即詰みに気付く。
十二手先。一直線ではなく、やや難解な詰み筋だ。ともすれば見落としたかもしれないそれに、勝ちを譲られたようで悔しさが湧く。唇を噛み締めて、飄々とした男を睨み付けた。
「次は圧勝してやるから」
「わしはここじゃ中堅や。そんくらいしてもらわな困るわ」
カラカラ笑う男の返しに、天衣はむうと頬を膨らせる。
「嬢ちゃん、大会には出んのか? 十分強いやろ」
「次の小学生将棋名人戦に出る予定よ」
「ああ、夜叉神はアマ名人やったしな」
天衣は黙って首肯した。湊から大会出場の打診があった時、小学生名人を希望したのは天衣だ。アマ名人と違う事は重々承知だが、それでも名人という呼び名は、彼女にとって特別だった。
湊も反対はしなかったし、十分に勝ち抜ける見込みがあると言ってくれている。天衣としても自信はあったのだが、今日の対局を経て、慢心はするまいと気を引き締めた。
「今は二年生やったな? 優勝すりゃ三年生の小学生名人か。こないだ四人目の中学生棋士とかでテレビに出とった
「みたいね。一年で塗り替えられたけど、元史上最年少記録らしいわ」
「そら夢が膨らむなぁ。期待しとるで、嬢ちゃん」
天衣と目を合わせた男は、穏やかな色を瞳に浮かべている。
「若先生を、小学生名人の師匠にしたってや」
「…………史上初の女性棋士の師匠にしてあげるわよ」
楽しみにしとるわ、と男が笑う。嘲りのない、ただ嬉しげな声だった。
★次回更新予定:5/22(金) 19:00