まほうつかいのおしごと!   作:未銘

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#009 女流棋士

 強くなるという事は、己の弱さを知るという事だ。

 

 湊への弟子入りから八ヶ月、毎日のように指導を受け続けた天衣の持論である。将棋は勝たねば強くなれないと言われるが、彼女が出した結論はその真逆。将棋は負けねば強くなれない。

 

 負けず嫌いな天衣にとっては、文字通り天地の逆転にも等しい価値観の変容だった。

 

 勝ちに拘らない、という意味ではない。勝たなければ学べない事もある、とも考えている。ただ自らの成長という点では、負けた時こそが重要という結論に至ったのだ。

 

 人間は間違える。どこまで行っても、どれほど強くても、間違えない人間は居ない。湊でさえも指導に当たっては試行錯誤の毎日だと気付いた時に、天衣はその事実を受け入れられた。

 

 間違えるから、それを正そうとする。正せれば、その分だけ進歩する。成長とは、そういうものだろう。足りないものを補って、補い続けて、前へ前へと歩いていくのだ。

 

 勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。その言葉が示す通り、負けた対局は理由がある。何かを間違えた、何かが足りなかった、そんな理由が必ずある。裏を返せば、それは自分の伸びしろだ。だから敗北と向き合う事は、自分の可能性と向き合う事なのだ。

 

 故に敗北は悔しくとも、怖くはない。そこから強くなれると、確信しているから。

 

 そうした持論を、この日の天衣は滔々と湊に話して聞かせていた。彼に連れられて晶と共に大阪まで出て、用事を終えた帰りの事だ。電車に揺られる彼女の顔には、不満の色が滲んでいる。

 

「たしかに将棋に無駄な負けはないとも言うけどね…………」

 

 顎に手を当てた湊は、眉尻を下げて小さく唸ると、そっと息を吐き出した。

 

「ま、ひとまず置いておくとして。いきなりどうしたの?」

「もったいないと思ったのよ、どいつもこいつも」

「……さっき道場で指した子たち?」

 

 天衣はこくりと頷いて、湊の言葉を肯定した。

 

 日本将棋連盟の関西本部となる関西将棋会館には、一般にも開放された将棋道場がある。今日の用事はこの将棋道場で対局する事で、天衣は同年代の少年少女の相手をした。

 

 いずれも棋士に弟子入りしているような本気で将棋に取り組む子供たちで、年齢を考えれば高い棋力を誇っていたが、流石に天衣の敵ではない。駒落ちを含めて全戦全勝を飾った彼女は、小学生名人という肩書きも相俟って、子供たちの間では一種のヒーロー扱いだった。

 

「騒がしいのはうざかったけど、将棋に対して真摯に取り組んでいるのはわかったわ。感想戦でも悪かったところを真面目に探そうとしてたし、強くなろうと必死だった」

 

 実力も努力も才能も、自分の方が上だという自負が天衣にはある。それでも今日の彼らを見下すような気持ちは湧かない。純粋に将棋の上達を願う彼らは、棋士として敬意を払うに値した。

 

「でも、無意識に妥協してる」

 

 だからこその不満。だからこその、もどかしさ。

 

「線引きは人それぞれだけど、ここまでやったら十分っていう、妥協のラインがあるのよ。原因が不明確でも、検討が不十分でも、これだけ頑張ったんだから、と満足してしまうラインが」

 

 口を尖らせた天衣に返ってきたのは、優しげな湊の声音。

 

「あの子たちなら、もっと伸びると信じてるんだね」

「私だって、先生に教わる前は同じだったもの」

 

 時間を掛ければ努力だと思っていた。苦労すれば努力だと思っていた。そんな努力を重ねれば、成果を得られると思っていた。だがそれは甘えに過ぎないと、天衣は考えを改めている。

 

「常に正しさを疑うべきだって、先生は教えてくれたわ。正しいと感じた手が、なぜそうなのかをよく考えろって。もちろん考えていたつもりだったんだけど、つもりなだけだった」

 

 将棋の局面数は無量大数を優に超える。あらゆる手筋を考慮するなどコンピューターでも不可能であり、知識と経験から候補を絞る必要がある。しかし、ならばこそ疑うべきだ。積み上げた知識も経験も、当然を当然と流すのではなく、その合理を解明し、己が血肉としなければならない。

 

「すべてを読み切るのは無理。みんなそれがわかってるから、甘えが出るの。ここまでやらなきゃダメだっていうゴールがないから、全力を出し切る前に足を止めてしまう」

 

 湊の指導を通して、天衣はそれを自覚した。自分が探求をやめた、ほんの少し先。そこに潜んだ落とし穴を、湊はしばしば突き付ける。あとちょっと、一手先でもいいから考えろと叱られる。

 

 だから天衣は、ちょっとだけ頑張るのだ。思考の歩みを止めそうになったところから、あと一歩だけ踏み込む。そうして少しずつ、少しずつ、彼女は歩ける距離を伸ばしてきた。

 

 やっぱりもったいないと、天衣は思う。

 

 今日の対局相手は、いくら負けても立ち上がり、もっと強くなりたいと意気込む者たちばかりだった。故に、わずかな心の甘えを自覚するだけでも、大きく成長できると感じたのだ。

 

「……なによ、子供扱いして」

「いや、僕はいい弟子を持ったなと」

 

 頭を撫で始めた湊を睨んでも、彼は静かに微笑むばかり。

 

「相手の悪いところを非難するわけじゃなく、伸びしろと捉えるのは美点だよ」

「当然でしょ。私だって、自分だけで強くなったわけじゃないもの」

 

 天衣は才能があると自負しているが、その才能を伸ばしたのは湊だと認識している。将棋は才能の世界かもしれないが、才能だけでは強くなれない。だから相手を未熟と評価はすれど、それだけで才能がないとか、努力をしていないとか、安易に決めつけるつもりにはなれなかった。

 

「これなら明日も大丈夫そうだね」

「なによ。またどこかへ出掛けるの?」

「うん。知り合いの女流棋士と会ってほしいんだ」

 

 とりあえず、湊の手は叩き落としておいた。

 

 

 ■

 

 

 翌日、珍しく湊と二人きりで大阪へ出た天衣は、梅田にある将棋道場へ案内された。どこにでもありそうな雑居ビルに入っているそこは、時間帯の所為か、他の客が見当たらない。一人だけ奥の席に座っている女性がおり、それが待ち合わせ相手の女流棋士らしかった。

 

「というわけで、こちら鹿路庭(ろくろば) 珠代(たまよ)女流二段。関東所属の人だから普段はこっちにいないけど、今回は仕事で関西に来たついでに時間を取ってもらったんだ」

「湊くんには色々とお世話になってます。今日はよろしくね」

 

 にこやかに微笑む女性を、白けた目付きで観察する天衣。マイナビ女子オープン出場にあたり、あらゆる女流棋士の情報を収集した彼女は、当然この女の存在も知っていた。

 

 鹿路庭珠代。今年で大学二年生。女流棋士に多い振り飛車党であり、棋力は肩書き相応。ただ、一年前と比べればいくらか上達は見て取れた。女流棋士の仕事である聞き手としては評価が高く、優れたルックスと抜群のプロポーションも相俟って、人気二番手の女流棋士だ。

 

 要は見栄えのいい看板だろう、と天衣は解釈している。今日も無駄に実った胸元が開いた格好をしており、どうにも客寄せパンダの類にしか見えなかった。

 

「珠代さん。この子がお伝えしていた、弟子の夜叉神天衣です」

「…………よろしくお願いします」

 

 渋々ながらも天衣が頭を下げれば、湊はよしと頷いた。

 

「天衣を弟子にした後、女流棋士について調べようと思ってね。知り合いの棋士に信頼できる人は居ないかと聞いたら、珠代さんを紹介してくれたんだ」

「私の夢は『棋士』になる事なんだけど」

「もちろん僕もそうだ。でも将棋の世界では男と女に差があって、それが常識として根付いてる。だから実際に、将棋の世界で戦っている女性の考えを知りたかったんだ」

 

 湊の話は理解できる。天衣が女流棋士の情報を集めた際も、下世話な話や心無い声は否が応でも目に入ってきた。なんともくだらないと思うのだが、将棋界にそういった風潮があるのは事実だ。ならば内情を調べて備えた方がいいし、その相手が女流棋士となるのも道理だろう。

 

 とはいえ、目の前の女に好感を持てるかどうかは、また別の話なのだが。

 

「思うところはあるかもしれない。けど僕は彼女の女流棋士としての活動を調べて、実際に会って話してみて、尊敬に値すると感じたんだ。だから君に紹介した、という事はわかってほしい」

「……わかってるわよ。将棋関係で適当な事はしないって、信じてるもの」

 

 気まずくなって目を逸らした天衣に、湊は優しく笑い掛ける。

 

「よかった。じゃ、あとは女性のお二人でどうぞ。僕は棋譜並べでもしてるよ」

「はぁっ!? なんでこの女と二人きりで話さないといけないのよ!」

「言葉遣い。理由としては、僕が居たら遠慮しそうだからだよ」

 

 また後で、と遠ざかる背中を追い掛けるように、小さな手が彷徨った。

 

 残されたのは、今日が初対面の二人だけ。仕方なく女の方を天衣が見遣れば、ニコニコと笑って佇んでいる。子供番組の司会でも務まりそうな柔和な容貌だが、天衣は隠しきれていない苛立ちを見て取った。もちろん天衣も、決して機嫌がいいわけではない。

 

 互いに相手の出方を窺う微妙な空気。それを破ったのは、女の方だった。先ほど座っていた席に座り直した彼女は、パチパチと将棋盤に駒を並べていく。

 

「指しましょうか。その方が手っ取り早いでしょ」

「乗ってあげる。でもいいのかしら? 私の方が強いけど」

「かもね。だからって、そんなの戦わない理由にはならないのよ」

 

 天衣を侮っている風ではない。おそらく本心から、自分が劣る可能性を認めている。だが腐った様子も自棄になった様子も見せず、双眸に宿すのは純粋な戦意のみ。

 

「――――ごめんなさい。振り駒は任せるわ」

 

 振り駒は上位者の役目だ。相手を侮った己の非を認め、天衣は素直に席に着く。

 

 対局は珠代の先手で始まった。ノーマル四間飛車で定跡通りにまとめようとする彼女に対して、天衣はあえて定跡を崩した力戦へと誘導していく。

 

 角道を止めるノーマル四間飛車は、古くから指されてきた戦法だ。角交換がないため安全に玉を囲いやすく、豊富な定跡によって選択肢も多い。バランスよく安定して戦いやすい戦法なのだが、後手居飛車なら定跡に変化を加え、力戦形へ誘導する事は難しくない。

 

 定跡を外れた力戦は、互いの地力が物を言う。目論み通り、天衣は実力勝負に持ち込んだ。

 

「――――――女流棋士がどういうものか、ちょっと話そうか」

 

 そろそろ大駒が飛び交いそうな盤面を睨みながら、珠代が静かに口を開く。

 

「強くなければいけないのが棋士なら、強くなくてもいいのが女流棋士だよ。見た目がいいとか、聞き上手だとか、色々と求められるものは多いけど、強さだけは求められないの」

 

 ウェーブ掛かったふわふわのロングヘアーに、垂れ目がちで優しげな顔立ち。声質は柔らかく、体付きは母性的。その見た目から来る受け身な印象とは裏腹に、珠代の指し筋は攻撃的だ。自身の構想が崩れたと見るや攻めに転じ、天衣の陣形を崩しに来た。

 

「女は弱くてもいい。ううん、弱くなくちゃいけないって考える棋士も多いわ。女流がプロに勝っても難癖つけられる事があるし、アマチュアにだって女流を舐めてる奴は少なくない」

 

 息もつかせぬ猛攻撃は、しかして天衣の脅威となり得ない。

 

「だからかな。腐っちゃうのよね、強くなれない女流って。勝てないのは仕方ない。自分に合った役割は別にあるから、そっちで頑張ろうって。で、対局の場なのに仲良くお喋りしたり、感想戦で負かした相手に遠慮したり、勝負師としての牙を腐らせていくのよ」

 

 珠代が弱いとは、天衣は感じなかった。想定よりもずっと読みが深く、定跡に頼らずとも天衣と勝負できている。だがそれでも、残酷かもしれないが、彼女の勝利はないだろう。

 

 どれだけ攻め立てようと、こちらの玉には届かない。温いとまでは言わないが、天衣にとっては余裕を持って凌げるレベルだ。攻める側もそれは自覚しているはずで、だからこそ悔しそうに唇を噛み締めているはずで――――――――なのに諦めの色はどこにもない。

 

 嫌いじゃないなと、天衣は思った。一人の棋士と、受け入れられる程度には。

 

「湊くんに会えなかったら、私も腐ってたかもね」

「……先生とは、どういう関係なのよ?」

 

 ようやく天衣が口を開くと、珠代は可笑しそうに笑った。

 

山刀伐(なたぎり)八段は知ってるわよね? A級棋士だし」

「九頭竜四段をデビュー戦でボコボコにした棋士ね。そいつの紹介ってわけ?」

「ええ、前から湊くんと交流があったみたい。私もお世話になってる人で、紹介ついでに研究会の約束も取り付けてくれたの。お陰でネット越しだけど、時間が合えば湊くんに教わってるわ」

 

 得意げに、という印象は天衣の偏見だろうか。なんとなく面白くなかった彼女は、舌打ち一つ、相手玉を詰まそうと反撃を開始した。察した珠代が防ぎに掛かるが、その動きは鈍過ぎる。

 

「女流棋士がアマチュアに教わるのね」

「その価値は、あんたが一番よく知ってるでしょ」

 

 まったくだ。瞬く間に勝勢となった盤面を見下ろし、天衣は頷いた。

 

 女の棋士は弱い。そういう認識は、天衣もまた持ち合わせている。次のマイナビ女子オープンにしたって、奨励会で実績を残す空銀子と、あと一人を除けば、女性棋士を舐めている部分があった事は否めない。そしてその認識は、これから周囲が天衣に向けるものでもあるのだろう。

 

 成すべきは、示すこと。この場で珠代がそうしたように、あるいはそれ以上に徹底的に、天衣の実力を示すこと。でなければ、己と関わる者まで軽く見られてしまう。

 

 対面の珠代を窺えば、意外にも晴れやかな表情をしている。形作りを始めた彼女に応じて何手か進めていけば、綺麗な発声で投了が告げられた。

 

「負けました」

「ありがとうございました」

 

 頭を上げた珠代は、すぐさま感想戦を持ち掛けてくる。互いの意見を交わしてみれば、大局観や読みが思いのほか噛み合った。すなわちレベルの違いはあれど、同じ方向を見て将棋を指せていたということ。同時にそれは、両者の格差を決定付けるものでもある。

 

「あんたは強いね。これからもっと、強くなっていくんだろうね」

 

 スッキリした様子で珠代が零す。その口元には、悔しさが滲んでいたけれど。

 

「湊くんと研究会を始めて気付いたのは、いつの間にか自分に見切りを付けてたってこと。努力は続けてきたし、気持ちは負けてないつもりだったのに、どこかで諦めてたみたい」

「少しでも甘えがあると、すぐに先生は見抜くものね」

「いい先生だよ。色んな棋士と研究会をしてきた私が、保証してあげる」

 

 羨望の眼差しは、勘違いではないのだろう。それに気付かない振りをして、天衣は黙って続きを促す。同情や慰めなんて、こいつは望んでいないと感じたから。

 

「もっと早く会えていたら、なんて女々しいからね。私はこれから強くなるよ。まだまだやる事はあるって教えてもらえたもの、落ち込んでる暇なんてないわ。マイナビ女子オープンには私も出るから、そこで今日の借りは返してあげる」

「ハッ! 返り討ちに決まってるでしょ」

 

 天衣が鼻を鳴らして腕を組む。それからちょっとだけ、対面の相手から目を逸らす。

 

「……ま、私と当たるまでは頑張りなさい。あんたが弱いと、先生まで舐められるもの」

 

 吹き出すような笑い声は、聞こえなかった事にした。




★次回更新予定:5/29(金) 19:00

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